その19 Unbelievable
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問題の青果店に向かう途中、交差点の赤信号に引っ掛かって立ち止まる。矢も盾もたまらず飛び出して全力疾走した結果、体力が欠如しているキキは早くも力尽きそうだったので、ちょうどいいタイミングである。
「おぉい、何なんだ、一体……」遅れて走り出した功輔が追いついた。「俺にも分かるように説明してくれよ」
そういえば功輔は柴宮に関して何も知らされていなかったな。柴宮を捕らえる作戦を上手く運ぶために、この事はあまり広めたくなかったのだ。
「さっきテレビに映ってた柴宮って子だけど、彼は……あ、信号青になった」
「待てぃ! そこまで言っておいて話をぶち切るな」
「ああ、大丈夫よ。冷静に考えたらそこまで急ぐ事態じゃないし。何より、キキがこれ以上走れそうにないし……」
体力がないキキは回復も遅い。まだ信号機のポールに手を突いて、俯いてぜいぜいと息を切らしていた。
キキが回復するまでの間に、あさひの事件の顛末をあらかた説明した。唐沢菜穂へのストーカーの件は、当事者にとっては他言されたくない事だろうから、あえてそこだけは話さなかったが。
「なるほど……」功輔は顎に手を当てながら言った。「その話の通りなら、確かにおじさんが柴宮を目撃した話とは食い違うな。でも、おじさんがその事で嘘を言うとも思えないし……どういう事なんだ?」
「まだ確証があるわけじゃないけど、あさひの事件に関して、わたし達に見えていなかった何かがあるのかもしれない……」
そして、その“何か”があるなら、犯人の正体は最初からわたし達の手の中にあった事になる。ただ気づかなかっただけで……それはそれで信じがたい事だけど。
「その“何か”が何なのか、今は教えないわけか」
「……悪いけど」
「ふうん。実は、俺もさっきのおじさんの話で、引っ掛かってる事があるんだ」
唐突に疑問を差し挟んできたぞ、こいつ。とはいえ、現段階でこっちの事情に踏み込まないのはありがたいが。
「さっき、おじさんの所に聡史の担任の先生だった人が来たって、言ってただろ」
「うん。女の先生だって……」
「俺も聡史の担任がどういう人なのかは知らないが、聡史が通っていた燦環東小には調査の過程で何度も足を運んでいる。でも、聡史の学年の先生の中に、女性は一人もいない」
「…………」
「その事は、おじさんも知っているはずなんだ。授業参観は主におばさんが来ていたと思うけど、それで担任の事をおじさんに話さないとは思えないし……」
疑惑が膨らんでいく。その事にわたしは恐ろしささえ覚えていた。
油断していたか……話は少し逸れたと思ったのに、それもまた核心に迫るものだった。功輔がその事で疑念を抱いたのなら、いずれ気づくだろう。わたしが心の底から否定したくてたまらない、唯一の可能性に……。
「正体不明の女の先生、か」すでに回復したキキが言った。「ちょっと怪しいけど、正体が分からないんじゃ話の聞きようがないね」
「でも、その人こそ犯人だって可能性も……っ」
口がすべった、そう思った時には遅かった。キキと功輔が、何かを感じ取ったように神妙な表情でわたしを見ている。
「……どうして? 共犯者とか、利用されただけという可能性はないの?」
分かっている。これは無意識のうちに口を突いてしまった事だ。もうとっくに見透かしているだろうに、キキはそれ以上尋ねることもなく、ただじっと、心の行き場を失いかけている友人の姿を見つめている。
キキがさっと顔の向きを変えた。再び信号が青になったのだ。
「早く行こう」
そう言ってキキはわたしの手を取った。わたしはただ引っ張られるだけだ。
「百パーセントの確信を得るまでは、余計な事を考えちゃ駄目だよ。どんな結果が待っているか、まだ何も分からないんだから」
……本当に、わたしはこの親友が羨ましい。こんな状況でも、前を見て迷わず進めるなんて。手を握ってくれなきゃ、わたしは自力で動けない。そんな時の情けない表情など見られたくなかったから、キキが前を向いてくれるのは救いになる。いろんな意味で。
青果店の前に到着すると、今度は来た道を歩いて戻ることになる。聡史の父親が柴宮を目撃したのは、青果店から自宅に帰る途中だった。つまり今来た道を逆にたどれば、当日に柴宮がいた場所を特定できる。本当はどこで目撃したか覚えていればよかったのだが、柴宮の事件と無関係である聡史の父親に、そこまでは期待できなかった。
山田家に戻るルートに沿って、中学生がたむろしそうな店に重点を置いて聞き込みを始める。コンビニとかゲーセンとか……選択肢に若干の偏見がありそうだが気にしない。こっちの方が高い確率でヒットするのだ。
結果、ヒットしたのはゲーセンだった。不良の行動は本当に決まりきっている。
「ああ、そういえば三日前に来てたね」
事件調査の過程で描いてもらった柴宮の似顔絵を、キキは携帯で撮影していた。それをゲーセンの若い男性店員に見せたところ、期待通りの反応が返ってきた。
「覚えてたんですか?」と、キキ。
「日中ずっとその辺に、三人ほど引き連れて遊んでいたからね。まあ、夕方あたりにその少年だけ出ていったけど」
「夕方あたり……何時ごろか分かります?」
「時刻までは……日没を少し過ぎたあたりだと思うけど」
確か、東京の十二月だと日没の時刻は午後四時半あたりだ。ということは、柴宮が出て行ったのもそのくらいだろう。
「どうして一人だけで帰ったか分かりますか?」
「さあ……俺が見た感じだと、出ていく直前にあの子の携帯に電話がかかって、少し話した後、険しい表情で出ていったよ。連れの三人には目もくれずに」
……楽観視できなくなってきた。徐々に、受け入れがたい疑念が確信に変わっていく。そんな感触があった。
質問は終わったので男性店員はその場を離れた。ようやくこちらの話ができる。
「キキ、やっぱりこれって……」
「可能性は高くなったけど、まだ結論を出すのは早いよ。噂を聞きつけた別の誰かがかけてきたかもしれないし」
普段はおおらかなくせに、こういう時は細かいことまで気にするのか。でも、それが今は一縷の希望になっている。嫌な意味での希望ではあるが。
ゲーセンを出て、次はどこに探りを入れるかという話になった。
「とりあえず柴宮くんの自殺のことについて、もう少し詳しいことが知りたいかな。テレビのニュースじゃ、能登田区の商業用ビルとしか言ってなかったし」
「そんなのたくさんありますよ」と、功輔。「範囲も広いですし、しらみつぶしに探すのは厳しくないですか」
「でも子供が飛び降り自殺をしたとなれば、かなりの騒ぎになっているはずだよ。噂も広まっているだろうし、ちょっと聞き込みをすれば分かるんじゃない? 今ちょうど能登田区にいるわけだし」
その激烈なバイタリティはどこから来ているんだ……たまに、暴走が過ぎて本来の目的を忘れているのでは、と不安になることがある。
さてキキはいかな行動に出るのかな、などと思っていた時、一台の車がわたし達の前で突然止まった。急ブレーキでもかけたように。助手席のウィンドウが下がり、よく知った顔が現れた。
「君たち、こんなところにいたのか」
「あ、友永刑事」
「刑事?」
キキがさらりと言ったワードに、功輔は激しく反応した。
「お二人だけですか?」
「ああ、まあそうだけど……」
その言葉どおり、運転している紀伊刑事以外に同乗者はいなかった。
「それより、そこにいる男の子はもしかして……」
「はい、事件の重要参考人にしてもっちゃんの幼馴染みの、外山功輔くんです」
「なんでばらすんですか!」
功輔は泣きそうな顔で訴えるが、キキが何も考えず軽はずみな行動に出ることはない。というか、この二人が相手だから迷わず打ち明けたのだ。
「ちなみにお二人はどうしてこちらに?」
「ニュースを見てないのかい? ネット上でも報じられていると思うけど……」
「ああ、柴宮酪人くんの自殺の件ですか」
「知ってたんだね……」
「ええ、ちょうどそれに関して気になることがあったので、調べていたんです。お二人も同じですか?」
「現場のビルの管理者に話を聞きに行って、その帰りだよ。まさか君たちがまだ星奴町内に残っているとは思わなかったけど」
「いえ、弾丸ツアー並みの速さで都内某所に行って戻ってきたんです」
その言い方はシャレにならないな……銃撃事件の最中だというのに。
「本当に、度胸があるのか無謀なのか……その少年を捕まえようとしている同僚はまだ至る所に散っているんだよ?」
「あれ、もう監察官による抑止効果は切れましたか」
「やっぱり君たちの差し金か……監察が睨みを利かせている間は大人しくしていたけど、本庁に戻っていったらまた外山功輔の捜索を指示してきたよ」
「懲りませんね、あの脳内単細胞」
まったくだ。放置しておくと木嶋を貶す言葉が微生物のごとく増殖するぞ。
「で、友永刑事たちはその指示に忠実に従って、この場で功輔くんを捕まえますか」
「警察組織の一員としてはそうしたいところだけど、キキちゃんが未だに外山功輔と行動を共にしているなら、たぶん手を出さない方が賢明なんだろうな。僕も正直、そちらの少年が連続銃撃事件の主犯だとは思えなくなっている」
「それなら安心ですが、わたしが一緒にいたら捕まえない方が賢明ってどういう……」
「あなた達が外山少年の無実を確信しているのは明らかだから、その意思を無視すれば何をされるか分からないってことよ」
紀伊刑事がにべもなく答えた。たかが中学生の報復を恐れるとは、情けない話だ。
「皆さんはわたしを何だと思ってるんですか……」キキは膨れ面で言う。「それより、どうして柴宮くんが釈放されているんですか。彼の罪はほぼ確定してるのに」
「罪状は裁判の判決が出るまで確定しないけどね……それが、昨日の夕方に、中学生を長時間拘束するのは問題があるという上層部の判断が出て、署員による監視をつけた上で一時的に釈放していたんだ。もちろん、送検のタイミングになれば呼び戻す手筈になっていたけど」
「じゃあ、柴宮は監視の手を逃れたんですか?」と、わたし。
「どうもそうらしい。逃亡する直前にスマホで何か見ていたようだから、いま城崎がスマホの通信履歴を調べているところだよ」
その時に見ていたものが、柴宮を自殺に追い込んだという事か。でも、そこに別の第三者が介入していれば、また話は違ってくる。キキも同じことを考えたようだ。
「報いを受けてしまったという事かな……」
「え?」友永刑事は眉を上げた。
「あれから取り調べは続けていたんですよね。何か、新たに分かった事などは?」
あからさまに話を逸らされたが、友永刑事は特に質そうとしなかった。
「新たに分かった事といっても……そういえば、取り調べの最中に、あさひちゃんを銃撃する計画は自分が練ったと言ったそうだよ。どこか自慢げに」
「改悛の情は微塵もなしですか」と、わたし。
「こうなるともはや更生の余地もないよ。とはいえ、岩塩の銃弾を扱える銃が彼に作れるはずもないし、誇張だとは思うけどね」
「でも本人が力説しているなら、そう解釈できるだけのことをしたのでは?」キキが言った。「少なくとも、全く計画立案に関与していないわけではないと思いますよ」
「それはありうるな……銃弾消失トリック以外は、柴宮が考えたのかもしれない。というか、水溶性の手紙はあさひちゃんの性格を知っている彼だから考えつきそうだし、鍵のトリックも保管状況を知っている人でなければ思いつかないだろう」
「友永さん、また彼女たちの掌の上で踊らされていますよ」
「あっ」
自覚しないうちにキキのペースに乗せられている事に、友永刑事はやっと気づいた。懲りないのはこの人も同様である……。
「もしかしたら、他にもあるかもしれませんね」
「他にも?」友永刑事が訊き返す。
「うん、そう考えたらすべての状況に辻褄が合いそう。となると……もっちゃん、四中のことでちょっと訊きたい事があるんだけど」
「え、なんで突然そっちの話に飛ぶわけ?」
謎が絡めばキキの頭脳は目まぐるしく回るから、他人の目には飛躍したようにしか見えないのだ。ちなみに四中は四ツ橋学園中の略称である。
キキは友永刑事を無視して話を続けた。
「四中って私立だから、独自に教職員を採用してるよね。その基準って分かる?」
「詳しいことは分からないけど、話を聞く限りだと……」わたしは必死に思い出す。「中学校の教員免許を所持している人が、学園独自の試験に合格すれば採用されるとか。それ以外で特に制約はなかったはずだよ。採用されたら一年ごとに、実務成績によって学園の理事が更新を決定する事になってるの」
「つまり、免許があれば外部からでも配属される事はあるんだね」
「というか私立だから外部から呼び寄せるしか方法がないんだけど……って、キキ、まさかそんな事を?」
キキの考えが分かった気がした。ここまでの流れで、キキは九分九厘ほどの確信を得ていたのだ。そして、駄目押しの確認に及んだのだ。考えてみれば、今回の事件の発端は四年前にあると見られている。ならば、準備を整える期間は十分にあったはずだ。一見して偶然に思える要素のすべてが、犯人による計画の一部だとしたら……。
「あの、いったい何が?」
まだついて来られていない功輔が尋ねた。キキは語りかけるように答える。
「被害者四人の通っている学校がすべて異なるのは、状況的に必然だった。繋がりがないと思わせる必要があったからね」
「まあ、それが『ボット』のやり方ですからね」
「もし犯人が、その必然に乗っかったとすれば? 殺害対象である四人と、繋がりを持たないと思わせるために、この状況を利用したとしたら、どう?」
「…………!」
功輔もようやく、キキのいわんとしている事に気づいたようだ。「そうなのか?」とでも尋ねてくるように、わたしを見る。
……何も答えられなかった。
キキは口元を押さえながら言った。思いつめたような表情で。
「なんだか雲行きが怪しくなってきたなぁ……」
「あのさ」友永刑事が口を挟んだ。「いったい何の話をしているのかな」
「すみません、最後に一つ訊きたい事があるんですけど」
「無視しないでよ」
それでも無視してキキは尋ねた。「取り調べの間に、柴宮くんの携帯の通信履歴は調べましたよね?」
「それはまあ、主犯に繋がる手掛かりがあるかもしれないしね」
「結果はどうでしたか。通話だけでも分かればいいんですが」
「個人の特定までは至ってないけど、ここ一週間、ずっと同じ番号だけだったよ」
その瞬間、九分九厘だった確信は百パーセントに変わった。キキは両目を見開き、小さな顎を震わせた。わたしは……。
もう、愕然とするしかない。確定するだけの根拠が揃ったこの状況でも、未だに受け入れることができない。あの人が、犯人だなんて……。
「どうしよう……どうすればいいんだろ」
顔を上げると、キキが胸の前で手を握りしめながら、つらそうな表情で、かき消されそうな声で呟いていた。
「わたしは、わたしの大切な人たちが、誰も悲しまないように解決するって、そう決めていたのに……」
「…………」かける言葉が出てこない。
「一体、どうしたらいいの……?」
それはまるで、出口のない迷路で袋小路に突き当たったような感覚だった。キキは大切な人のためにどこまでも親身になれる。だけど、そのために深く悩むことになる姿を、わたしは一度も見たことがなかったのだ。
次回、答え合わせが始まります。