その13 プログラマー
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中谷雪奈が住んでいるマンションは星奴町の璃織区にあった。彼女は恋人の谷中の行方不明者届を警察署に提出しているが、それはどうやら星奴署であるらしい。どうも星奴署を中心にきな臭い雰囲気が漂っている。金沢都知事の次男夫婦と孫の怜弥が、星奴町内のどこかに住んでいるらしいから、いちばん影響力が及ぶ所なのだろう。
マンションは十階建てで、築数十年はありそうな古い建物だ。出入り口は手動で開閉するガラス戸だし、最近主流のオートロックでもない。セキュリティ面で不安のある所に居を構えることに、抵抗はなかったのだろうか……まあ、七階に住んでいるらしいので、意外と空き巣に入られる危険は低そうだが。最上階に近いと、屋上から泥棒が入ってくる事例もあると聞いたことがある。
キキとわたし、そしてあさひとで、中谷が住む部屋の前にやってくる。守秘義務のせいで、あまり詳細な情報をくれない舛岡の代わりに、当事者であり被害者である中谷から、有力な手掛かりを引き出そうという考えだ。
キキが代表して呼び鈴を鳴らす。一回目でなかなか出てこなかった。もう一度ボタンを押そうとキキが指を伸ばした時、ようやくドアの向こうから物音が聞こえてきた。きしむ音を立てながらドアが開き、眼鏡に乱れたセミロングの女性が現れた。セーターの上にハーフケットを肩の上からまとっている。……女子力低いな。
「……どちら様?」
女性は目を細めながら、喉に絡まる声で尋ねた。
「初めまして、燦環中学校二年生のキキです」キキが頭を下げる。「中谷雪奈さん、ですよね?」
「そうだけど……?」
「少しお話を聞きたいんです。四年前、あなたの恋人が行方をくらませた事件と、あなた自身の身に起きた不思議な出来事について」
細めていた目が次第に開かれていく。中谷の表情が強張る。
「あなた……どこでそれを?」
「その出来事を調べていた人から、又聞きで」
「……悪いけど、赤の他人に話すことなんてないから」
そう言って中谷はドアを閉めようとしたが、寸前でキキがドアの隙間に足を入れて止めた。ドアに足を挟んだまま、キキは中谷をじっと見返す。
「四年前の事件は、終わっていないどころか今でも尾を引いています。その一件は四年経った今になって新たな事件を引き起こし、わたし達も巻き込まれた」
「え?」
「ここにいるあっちゃんと、もっちゃんの幼馴染みが巻き込まれて、大怪我をしました」
せめて初対面の人の前ではあだ名を使うなよ。相手はすぐに理解できないし、わたしもツッコミがやりにくい。
「あなたにとっては赤の他人でも、わたし達には、事件の真相を知る権利があります。あなたがそれに協力する謂れはないでしょうが、無関係ではいられませんよ」
キキは眉根を寄せて、睨みつけるように中谷に視線を送る。しつこいと思われただろうか……中谷は訝る態度を隠そうとしない。
しばらく無言で睨みあっていたが、やがて中谷がふっと嘆息をついた。まだ煙たがっている様子だが。
「分かったわよ。とりあえず中に入って。入り口を塞がれると迷惑」
その恰好は外出の意思がないようにしか見えない。出るわけでもないのに迷惑に思うだろうか。もしくは狭い廊下に留まって通行人の邪魔をしてほしくないという意味か。どちらにしても、玄関先で話を聞き続けるには限界がある。何より、寒いし。
しかし、中谷はさっさと部屋の奥に引っ込んだが、キキがなかなか入ろうとしない。どうしたのかと思って声をかけようとすると、突然キキはその場にしゃがみ込んだ。さっきドアに挟んだ足を押さえている。
「痛かった……」
まさか睨みつけるような表情は痛みを我慢していたからか。本当にこいつは……調子を狂わせる言動はいつものことである。
部屋の中に入り、短い廊下を通ってリビングへ。厨房スペースが隣接しているが、それを加えても非常に殺風景な部屋だ。ソファーとテーブル、小さなテレビなどの最低限の家具・家電以外は、大きい本棚と二台のパソコンがあるのみ。フローリングの床にはカーペットさえ敷いていない。これが、女性の一人暮らしの部屋……?
「何というか……シンプルさを極めたお部屋ですね」
わたしは部屋の中を見回しながら言った。中谷はさっそく椅子に座ってパソコンと対峙している。こちらを見ることなく答えた。
「無駄なものはいらない。仕事に支障をきたすから」
美衣と同じ感覚ですか……もしかしたら気が合うかも。
「フリーのプログラマーと聞きましたけど、今はどんな仕事を?」と、キキ。
「中堅の保険会社からシステム設計を依頼されている。それ以上は言ってもたぶん理解できないから言わない」
なるほど、確かに気難しい。谷中という都庁職員は、よくこの人と対等に付き合うことができたな。あるいは中谷が気を許したのか……。
「女性の一人暮らしって大変じゃないですか?」
「その大変さがあなたに関係ある?」
「ただの社交辞令的なものです。あくまで聞きたいのは四年前の出来事ですから」
突き放すような中谷の物言いにも、やはりキキは動じない。
「そう……言っておくけど」中谷はキーボード上に指を走らせながら語る。「あの時のことは私、忘れようと思っているから……ろくな話は聞けないと思って」
「谷中さんとの思い出の品とかは?」
「もちろん処分したわよ。彼のご両親も亡くなって、実家にあった彼の遺品もこちらに押しつけられたけど、それもことごとく」
「そうですか……」
キキはどこか残念そうな、不満そうな表情を浮かべた。谷中との思い出の品から、何か手掛かりが得られると考えていたのか。
「あなた達がどんな形で巻き込まれたか知らないけど、私ではご希望に沿えそうにないから。悪いわね」
「はあ……では、ここ二週間で中学生が続けざまに銃撃されている事件をご存じで?」
「……いいえ」
特に驚いている素振りは見られない。この人は本当に知らないのか? 知っていたらそれだけで怪しむべきことだが。
「あなた達が巻き込まれたのって、その銃撃事件なの?」
「そうです。これには、あなたもご存じの、例のハッカー集団が関わっています」
「ああ、あれか……勝手にわたしのアカウントに侵入して、私が書いたコメントやツイートを勝手に消した奴らね。やり方が姑息もいいとこ。ネットによる発信を妨害したところで、人の口に戸は立てられないのに」
中谷は冷笑を浮かべた。本当に、美衣を引き写したような人物だ。
「でも、いつかは戸を立ててくるかもしれないから、途中でやめたのでは?」
「何のことかしら。私はイタチごっこに嫌気が差しただけよ」
「でしたら、意地を張ってネットへの書き込みを続行しなかったのは正解でしたね」
「二階から目薬ってことわざを知らないの? 言いたい事があるならはっきり言って。もっとも、例のハッカー集団の事については、私だって何も知らないけど」
「ええ、あなたの口から『ボット』の情報を引き出せるとは、考えていませんから」
キーボードを叩く手が止まる。中谷は、おもむろに振り向いてキキを見た。
「……それがハッカー集団の名前なの? 十分に情報を掴んでいるじゃない」
「名前までは知らなかったみたいですね」
どうやらキキは、彼女がどこまで事件の核心に近づいているか知るために、カマをかけたらしい。わざと『ボット』の名前を出したのだ。
「今でも許せないですか。『ボット』のことを」
「この四年間、許したことなんて一度もないわよ。とはいえ、連中が本当に彼の失踪に関与しているのか、証拠は何もないけど」
証拠がなくても心証として確信が持てたらいいのだが、中谷の場合は確信さえ持てていないらしい。谷中のことを忘れようとしているのは、恨みを向けるべき相手が定まらない事へのもどかしさに、耐え切れなかったからではないか。
「というか、そんなことを聞いてどうするの」
「何度も言うように、わたし達が巻き込まれた銃撃事件は、『ボット』が関わった四年前の事件に端を発しています。つまり、四年前の事件に関係している人物が、何らかの形で今回の事件に関わっている可能性はあるんです。犯人、あるいは被害者として」
「それで私の現況を知りたいと思ったわけ……期待値が低すぎるわ」
「では質問を変えましょう」
手掛かりが得られそうな分野に、キキはシフトチェンジを試みた。
「中谷さん……エイトコインを運営する会社で、何をしていたんですか」
キキの質問に、中谷は即座には答えなかった。再びディスプレイに向き直り、キーボードに指を走らせる。
「……誰から聞いたのか知らないけど、私の前の職場を知っているなら、どんな立場の仕事をしていたのかも聞いているでしょ」
「ええ。技術コンサルタントをしていたと伺いました」
わたしは二人のやり取りを、はらはらしながら見ていた。そんなわたしに、あさひが近づいて耳打ちしてくる。
「この人、自分のことを誰から聞いたのか、あまり気にしていないみたいだな」
確かにそれは不可解だ。自分のプライバシーを他人に漏らされて、気分のいい人なんてまずいない。赤の他人であるわたし達に、自分の身の上を話したのが誰か、普通は気になって尋ねそうなものだ。知られても平気だと思っているのか。でもわたし達を部屋に入れることに、最初は抵抗する様子を見せていたのに……。
この事にキキは気づいているのかいないのか、そのまま話を続ける。
「でもどうしても気になるんです。あなたが技術コンサルタントをやめたのが先々月……つまり十月という中途半端な時期であることと、それから間もなくエイトコインが経営破綻したことが」
「私が何かしたとでもいうの?」
中谷はキーボードを叩く手を止めずに言った。
「こんなタイミングの一致を見れば、誰でも疑いたくなりますよ」
「だとしても、それがあなた達のいう事件と関係あるのかしら?」
「さあ、それはどうでしょう」キキは肩を竦めた。「ですが、会社から技術面での仕事を任されていたあなたが、技術的欠陥を見逃していたとなれば、経営破綻による火の粉はあなたにも飛ぶのではないですか? 会社はあなたを訴えるかもしれませんよ」
キキは一体何をしようとしているのだろう……中谷の心をこじ開けて、何か証言を引き出そうとしているのか。
「余計な同情や憐れみはいらない。あなた達には関わりのないことよ」
「強気ですね」
キキが短く放った言葉に、中谷は再び指を止めた。
「よほど自信があるんですか。会社からの訴えを跳ね返せる自信が……それとも、訴えられて破滅する覚悟でもあるんですか」
中谷がキキをじっと見返してくる。キキの表情は変わらない。
ここまであからさまな挑発に及ぶキキを、わたしはついぞ見たことがない。焦っているような素振りはないが、何が何でも手掛かりを拾おうと、強引な手段に打って出ているようにも見える。どうしたのだろうか。
「キキ、どういうつもりだ」
「わたしは……」キキはあさひの呼びかけを無視した。「同情なんかしませんし、憐れんだりもしません。ただ、本当の事が知りたいんです」
「……知ってどうするのよ」
中谷は薄目でキキを睨み返すが、一方のキキは晴れやかな顔で言った。
「知って何かしなければ、知る意味はありませんか?」
そのセリフが予想外だったのか、中谷は初めて両目を大きく見開いた。キキの泰然とした佇まいを見るうちに、次第に中谷の表情も緩んでいく。
「……あなた、容赦なく人の心に踏み込んでくるわね」
「中谷さんが奴らの敵でいるうちは、わたし達にも心を開いてほしいですから」
そうか、これも戦略か……挑発して中谷の興味や思考を自分に向けて、その上で予想もつかない言葉を放つ。価値観が壊されたと感じれば、人はその相手の言動から目が離せなくなる。古今東西に数多と見られる、洗脳の手段のひとつだ。
恐らくキキはそこまで深く考えて戦略を練ってはいない。ただ直感で、こうすれば話を聞くようになってくれると思った、それだけのことだ。
「……不思議ね。どういうわけか、あなたにはどう足掻いても敵いそうに思えない」
「そうですか?」
キキはどうも自覚が薄いけど、わたしも中谷と同感である。一見すると赤子の手をひねるようなものに思えるが、言葉を交わすうちになぜか勝てないと感じてしまう。
「ちょっと試してみようかな……」
そう言って中谷は、パソコンを置いている机の引き出しを開けて、中にあった小さな何かを指先につまんで取り出した。百円玉だった。
「あなた、確か名前はキキだったわね。コインを投げて十回連続で表が出たとして、次に裏が出る確率は何パーセントかしら」
「えっ……」キキの笑顔が固まる。
「おっと、慣れていないから分からないかしら?」
「困りましたねぇ、あはは」
キキは笑ってごまかした。確率は数学の授業でまだ習っていないけど、せめてこのくらいは一般常識として知っておいてほしいものだ。……なんて、キキにはそもそも一般常識という概念がないのだけど。
「五十パーセントです」代わりにあさひが答えた。「何回投げたところで、フェアなコインなら表と裏は同様に確からしい割合で出現するので、表が出る確率は永遠に五十パーセントのままです」
「あなたは“あっちゃん”ね? きちんと勉強しているじゃない」
「本名はあさひですけどね……」
しまった、わたしとあさひはまだ自分の名前を教えていない。中谷の口からあのあだ名が発せられる前に、どこかで訂正しておかねば。
「じゃあもう一つ質問。コインを投げて十回連続で表が出た。次に裏が出ると予想する人はどのくらいの割合になると思う?」
「えっ……」
これは明らかに数学の問題じゃない。さすがのあさひも答えに詰まる。中谷は何のつもりでこんな質問を……?
「分かる? これが経営者に与えられている問題なのよ。次にコインがどっちの面を出すか、それを予想して一方に決める。常にそうした判断が要求されるのよ。でも、次にどっちの面が出るかなんて、誰にも分かるはずがない。未来を確定できないから、人は必ず読みを間違える……エイトコインの凋落もそれと同じよ」
「だから、自分に責任はないとおっしゃるのですか」と、わたし。
「それはどうかしら……ただ、日本では仮想通貨の研究者がまだ少なくて、あの会社も技術コンサルにふさわしい人を選ぶ余裕はなかったはずよ。私みたいな駆け出しのプログラマーに、頼らざるを得ないくらいに。本来なら、システムの欠陥が見つかった時点で、会社側がしかるべき対処をしていれば最悪の事態にはならなかった。だけど、いかんせん技術面で弱い人たちばかりで、私が離脱したために適切な対処が取れなかったのね。私に責任がないとは言わない。でも株主や投資家はどうかしら。技術コンサルを受け持っていた私の過失だと会社が説明したところで、果たして納得するかどうか……」
「刑事罰に問われることはないんですか」
「その辺は警察が調べることだから何とも言えないけど……私がまだ会社にいたら背任罪に問われるところだけど、私が正式にやめた後の出来事だからね。現状だと、対策を怠っていた会社側に非があると捉えられても、反論の余地はないんじゃないかな」
どちらにしても訴えられる可能性は低いとみているようだ。道理で綽々としていると思ったが、まるでこうなることを分かっていたかのような口ぶりだ。あるいは森羅万象をありのままに受け入れられるほど、懐の大きい人物なのか。
「要するにそれだけの話よ。個人の力でどうにもならないのが経済というもの。踏み込めるのは、覚悟を持った者だけよ」
中谷は親指で百円玉を真上に弾いた。天井にぶつかる前に速度を失い、真っすぐ落下してきた百円玉を、中谷は右手の甲で受け止めて左手で押さえた。
左手を離すと、百円玉は表を上に向けていた。
「ねえ、キキ」
そう言ったのはわたしでもあさひでもない。中谷だった。会って間もない大人の女性に呼び捨てされて、さすがのキキも面食らっていた。
「な、何でしょう……」
「このコインを投げたら、十回連続で表が出ました。あなたなら、次に投げたときにどっちの面が出ると予想する?」
キキはじっと考え出した。しかし次にどちらが出るかは半々の確率のはずだ。考えたところでどうなるものでもないはずだが……。
「…………じゃあ、表で」
「ふうん。十一回連続で表が出ることになるけど」
「確率はゼロじゃありません」
中谷はじっとキキを見返してから、無言で再び百円玉を上に弾き、右手の甲で受け止めた。コインを押さえていた左手を離すと……表だった。
「うわ、まじか……」静かに驚くあさひ。
「あなた、しばらく考えて表が出ると断定したみたいだけど、根拠でもあるの?」
するとキキは言い放った。
「勘です」
「へえ、勘だけで表が出ると予想したのね」
「正確に言うと、必ず表が出る事を勘で予想したんです」
……えーと。それは何がどう違うという事なのかな。
「その百円玉……必ず表が出るようになっているのでは? 例えば、両面とも表側の模様になっているとか」
中谷は微笑を浮かべながらキキを見返すと、手元の百円玉をキキに向かって放り投げてきた。受け取ったキキが両面を確認すると、確かにどちらも桜が描かれている。キキの考えた通り、両面とも表の模様だった。
「エラーコインか……」キキの手元を覗き込んだあさひが言う。「製造の段階で失敗した硬貨はそのまま破棄されるけど、まれに出回ることがある。これはそのエラーコインの中でもとびきりレアな代物だ」
「どこで手に入れたんですか、こんなコイン……」わたしは中谷に尋ねる。
「どこかでね」
答えるつもりはないらしい。この人が協力的な姿勢を見せるとも思えなかった。
「なるほど、確かに勘が鋭いわね……キキ、あなたはその銃撃事件とやらを調べているみたいだけど、本気で解決したいと思ってる?」
「もちろんです」キキは即答した。「わたしのやり方に限りますが」
「ふうん……どんなふうに解決したいの」
「わたしにとって大切な人たちが、誰ひとりとして悲しまないように」
そう、これがキキの行動の根本だ。彼女にとって真実を追い求めるのは、解決のための方法の一つに過ぎない。事件を調べる理由がそもそも友人のためだから、友人を悲しませるような解決は断じて認めないのだ。そのためには、警察のやり方と一線を画すことだって辞さないだろう。
「そっか……」中谷は目を細めた。「だったら、いいことを教えてあげようか」
「いいこと?」
「みんなは、『エイトコイン』の名前の由来って、知ってる?」
知らない……ニュースやワイドショーで説明されたかもしれないけど、少なくともわたしの興味の範疇ではなかった。興味に関係なく何でも知識を吸収するあさひは別だが。
「確か、8が末広がりの数字で縁起が良く、横倒しにした∞から無限の可能性を秘めている、ということで名付けられたと聞きましたが」
「そうね、表向きはそうなっているわ」
「表向きは……?」あさひが眉をひそめる。
「その名前はね、仮想通貨を運用するための資金を集めるべく、会社が設立されるより前から、完成したプログラムにつけられていたそうよ。世に出すには適切じゃないという理由で、発表する前に若干の変更を加えたのよ」
「じゃあ、本当の意味は違ったんですか?」と、わたし。
「ええ。技術面に関わった人間以外は、誰も知らない事実だけどね。エイトコインという名前に隠された意味……何だか分かるかしら」
謎を与えるだけで説明まではしてくれないのか。気難しいというのか、基本的に他人と同調できない性格のようだ。それはある意味でぶれないということだけど。
「エイトコインの隠された意味って……何なんだろう」
キキもあさひも考え込んでいるが、わたしはそれ以前に、この謎を与えた真意がまず気になる。協力的ではないものの、敵対していることは明言していない。この謎が事件解決に寄与するのか、それとも実は何の関係もないのか……結局のところ、解いてみなければ何も分からないのだが。まったく、さっきから禅問答ばかりで埒が明かない。
理屈屋で偏屈なプログラマーの出題では、わたしは到底敵いそうにない。キキとあさひの二人に任せることにして、わたしは壁際の本棚をぼうっと眺める。もっとも、理解できる類いの本は一冊もないのだけど。
おや……コンピュータ関係の本が大半を占める中で、何冊か株式に関する本が置かれている。プログラマーとして働く一方で、株で稼いだりしているのだろうか。ただの中学生であるわたしは、その方面も詳しくないのだけど……。
「感心しないわね、もっちゃん」
背後から中谷の声が聞こえてきて、わたしは肩をびくっと揺らした。興味を惹かれて株の本を手に取ろうと指先を伸ばしたところで、呼び止められたのだ。
「人の本棚に勝手に触ろうとするなんて」
「す、すみません……それと、わたしの名前はもみじなので」
「そう」
これ以上は関心がないと言わんばかりに、中谷はパソコンに向き直る。ちゃんと脳内メモリにわたしの本名を登録してくれただろうな。不安になる。
……って、あれ?
中谷の手元に注意が喚起される。その、手に持っているものは……。
「駄目だよ、もっちゃん。人の家のものに勝手に触っちゃ」
「中谷さん、そのチョコ……!」
「あれー、もっちゃんが無視したー」
悪いが今はキキの相手をしている余裕がない。中谷が食べようとしていたチョコに、わたしは見覚えがあった。というか忘れるはずもなかった。
「ん、これ?」中谷は手元のチョコを見る。
「そのチョコ、どうしたんですか」
わたしは机の甲板に手を突いて問いかけるが、中谷は眉根を寄せてきた。
「質問の意図が読めない。食べる目的? 入手経路? それとも状態がおかしい?」
「あぁ……入手経路です」細かいことを気にする人だな。
「妹からもらったのよ。見たことのない商品だけど、思いのほか美味よ。食べる?」
「いえ、別に食べたいわけでは……あの、つかぬ事を訊きますけど」
「何?」
「中谷雪奈って、本名ですか?」
真横にいるせいで見えないが、キキもあさひも「え?」とでも言いたそうな顔をしている。唐突におかしな質問をしたようにしか思えないだろう。わたしも、不躾である事は承知の上で訊いているのだ。
ところが……中谷は無表情のまま見返すばかりだった。
「本名じゃなかったら、何だっていうの?」
「え、いや……」
「契約などの法的行為以外の場面なら、本名でない名前を使っても問題はない。この部屋だって、書面できちんと本名を書いていれば、表札に何を掲げてもいいもの。私の場合は一文字しか変えていないし、それほど影響はないから」
そうだろうか。家族とか友人は困るのではないか。……あるいは、あえてこの部屋を訪ねてくるような家族も友人もいないとか。妹はいるみたいだけど。
「でも、なんで偽名なんか……」
「サブネームって言ってほしいな。作家とか芸能人だって普通に使っているでしょ。私は単純に、本名を添えて作品を世に出すのが嫌だっただけ」
作品というのは何かのプログラムの事だろうか。いやそれよりも、わたしは嫌な想像を抱き始めていた。嫌というか、慄然とするほどの偶然というか……。
なんだか、ここに来るのが恐くなってきた。だがそういうわけにもいかない。調査の過程で再び中谷から話を聞く機会が、ないとも限らないからだ。