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EVIL TARGET~標的の宿命~  作者: 深井陽介
第二章 断ち切られた禍根の鎖
31/53

その8 敵対の予兆

 <8>


 監察官は同じ警察官を相手に捜査するため、張り込みや尾行を行なうならほぼ完全に気配を消すくらいでなければならない。しかし、犯罪捜査の最前線である所轄の刑事課は元から殺気に満ちていて、多少は気配を出していても気づかれないと思ったのだろう。

 それが仇になった。人並み以上に五感に優れるわたしは、記憶にインプットされている人間の気配をすぐに感知できる。その気配が自分に向けられていて、しかもその人の来ている可能性が高いと知っていればなおさらである。キキはその可能性を考えていたので、わたしに確認してきたのだ。

 舛岡の存在に気づいても黙っている事はできたが、キキは、警察が功輔を疑っている事情を知る事ができたので、次のステップに進もうと考えたようだ。監察の舛岡をこの場に呼び寄せることで、星奴署の捜査の流れに別の波をぶつけようとしている。見た目上は木嶋によって堅牢(けんろう)に作られた統率を崩し、功輔への追及を弱めようという腹積もりだ。

「きみ、ばらすなよ」

 もっともそんな事は、舛岡の知るところではなかったのだが。

「だって、舛岡さんから話した方が早そうでしたから」

 キキはすました顔で言った。

「確かに君から話しても信憑性は薄いと思われるだろうし、又聞きだけだから具体的に説明することもできないが……いきなり俺の事を呼び出さないでほしいな。受付で許可を取ってきたとはいえ、あまり顔を知られたくなかったし」

「またまたぁ、署内に入って来た時点で、その危険は仕方がないと思ったくせに」

「本当に遠慮のない物言いだな」

「おい」さっそく木嶋が舛岡を睨みつけてきた。「どこの部署の人間か知らんが、見ての通りここは連続銃撃事件の捜査で多忙なんだ、勝手に入ってくるんじゃない」

 多忙ではあるのだろうけど、さっきのキキとのやり取りを静観していた人たちの方が多いように思えたが。捜査になっているのだろうか、これで。

「おお、そういえば挨拶がまだでしたな。失敬」

 舛岡はコートの内側をごそごそと探ると、警察手帳を取り出して開いた。

「私は、警視庁警務部人事第一課、監察官室所属の舛岡警視です」

「か、監察ぅっ?」

 木嶋が驚いて声を上げると同時に、再び室内にざわめきが広がった。監察に目をつけられるという事は、不正があると疑われるわけだから、非常に不名誉な事に違いない。ここにいる誰ひとりとして、監察官と顔を合わせることになるなんて、夢にも思っていなかっただろうし、露ほども歓迎できない状況だろう。

「な、監察が何の用で……ああいや、どんなご用でしょう」

 相手が二つも階級が上の人間だと気づいて、あからさまにへりくだっている。

「別に君らの部署に問題があると疑ってここに来たわけじゃない。まあ、ないという事は保証しないがね」

「め、滅相もない……」木嶋は苦笑した。

「うわあ、あの木嶋さんが人にへつらってる……」

 友永刑事が唖然とするのも無理はない。さっきまでこちらが呆れるほど威張り散らしていたのに、その面影が微塵もないのだ。

「私は、まさにその連続銃撃事件に遠からず関連する、ある事件について調べている。場合によっては、君ら捜査陣への有効な情報提供になるかもしれない」

「ある事件……?」

「皆さんの中に、『ボット』というハッカー集団をご存じの方はいますかな」

 知っていそうな反応をした人は、わたしが見る限りでは一人もいない。全員が困惑の表情を浮かべている。銃撃事件と関連のなさそうなハッカー集団の名前を出されて、舛岡の話の筋が読めないようだ。

「僕もそんな名前のハッカー集団に覚えはありませんが……」と、城崎。「ボットというのは、本来ユーザが自発的に行なう作業を自分で実行するプログラムの事ですね。それと同時に、外部からの指令を受けてユーザの意思と関係なく作業を行なう、コンピュータウィルスの一種でもあります」

 コンピュータウィルスの名前だったのか。美衣は初めから知っていたようだが。

「その名前から連想すると、『ボット』なるハッカー集団は、普段は一般市民として生活しながら、リーダーの指示を受けた時に悪意あるハッカーとして、他人のサーバに侵入して不正工作に及ぶ……そう考えてよろしいでしょうか」

「残念ながら」舛岡はかぶりを振った。「現時点で、『ボット』の素性はまるで明らかになっていない。そのような形式の活動をしていると推測はできるが、確認するすべを我々は持っていない。一方で、あくまで噂の段階に過ぎないが、この『ボット』は、金沢晋太郎都知事が自らの悪評を潰すために組織したと考えられている」

「金沢都知事が? どうも最近、職場でその名をよく聞きますねぇ」

「銃撃事件で重要な容疑者として浮上した男が、四年前に金沢都知事の孫をナイフで切りつけたという話だろう? すでに聞いている」

「ですが、その程度の繋がりでは……」友永刑事が控えめに言う。

「言わなかったか。都知事は『ボット』を悪評潰しの道具として作ったのだ。有能なハッカーを多数そろえているし、都合の悪い情報を見つけたら即座に消すことができる。この銃撃事件でも報告されているだろう。事件に関する民間サイドの情報が、ネット上に一切流れていないという」

「まさか、それが『ボット』の仕業だと?」と、福島刑事。

「一つの地域でこれだけ多くの、それも日本では珍しい銃撃による中学生連続殺人事件なのに、野次馬や噂を聞きつけた民間人によるネット上への書き込みが全くないなど、普通に考えてありえないだろう。『ボット』の関与は疑ってしかるべきだ」

「でも、本当にそんな、闇のハッカー集団なんてものがあるんですか?」

 まあ……にわかには信じがたいだろうな。キキだって最初は(いぶか)っていたし。

「証拠はない。というより、辿り着かれるような証拠は決して残さない。だが私は実在すると考えている。四年前……その『ボット』の仕業である可能性が極めて高い、奇妙なクラッキング事件が起きているんだ」

「クラッキング?」

「四年前に、都庁に勤める男性職員が謎の失踪を遂げたんです」なぜかキキが先に説明を始めた。「素性不明の何者かが、その職員の男性を装って不受理届を出して捜索を妨害したり、職場でも失踪直後に懲戒処分を与えたりと、色々奇妙な点が多いんですが、中でも極めつけにおかしいのが……」

「その男性と同棲していた恋人の女性がネット上にこの事実を書き込んだところ、なぜか翌日にコメントが勝手に削除されていたことだ」

 舛岡に横槍(よこやり)を入れられて、不満そうに頬を膨らませるキキ。先に横槍を入れたのはお前じゃないか……。

「この場の説明は俺に任せてくれないか。君には後で発言権を与えるから」

 舛岡の説得にキキは納得した様子がない。そんなに喋りたいのか。というか、舛岡はわたし達に対しては一人称が“俺”になるのか。

「要するに」城崎が口を開いた。「その女性がネット上に書き込んだコメントが、『ボット』による不正アクセスによって削除されたという事ですか」

「わずか数秒間のクラッキングだ。技術的に不可能ではないが、よほど手慣れた人でなければ成しえないだろうし、常にネット上で見張っている必要もある。『ボット』の仕業である可能性は極めて高い」

「なるほど……百パーセント信頼できる話とは言い難いですが、可能性としては否定できるものじゃありませんね。ただ、本当に『ボット』の仕業なら、その都庁職員の失踪や今回の事件には、金沢都知事にとって都合の悪い何らかの事実が隠れている事になると思いますが?」

 それはそうだろうな……自分に関係のない事で『ボット』を動かしたら、存在が知られる確率を上げることになりかねない。

「私もそう思う」舛岡は頷いた。「恐らくこの銃撃事件にも、何らかの形で金沢都知事と『ボット』が関わっている。現状では、執拗に銃弾を消しているという犯人側に関与している可能性が高いが……話によると、被害者の家のルータが破壊されていたそうだな」

「なぜその事まで?」木嶋が頬を引きつらせながら尋ねた。

「最初はこちらの女子中学生たちに聞いたのだが、慎重を期すために本庁の鑑識課長に確認を取った」

 さすがに公安出身というだけあって、情報の正確性には敏感らしい。が、あまりわたし達へのフォローにはなっていない。木嶋がまた睨みつけている。

「『ボット』の情報を教えてくれた左翼系セクトから聞いた話だが、『ボット』のメンバーは自らが使用するルータに、共通の紋章を入れているらしい」

「紋章?」友永刑事が言った。

「具体的にどんな形かは分からん。一目で『ボット』を連想させるものではなく、第三者による偽造が困難な複雑なデザインらしい。スペードのエースと同じ原理だ」

 スペードのエース? 確かにどのメーカーも細かく複雑なデザインだけど……。わたしの困惑を察したのか、城崎が説明してくれた。

「十七世紀初頭から二十世紀初頭にかけて、イギリスではトランプに税金がかけられていて、その徴収の証としてスペードのエースのカードを発行したんだ。そのためにスペードのエースは偽造防止の目的で複雑なデザインになり、税収が廃止された後もそのデザインだけが残ったんだ」

「へえ……」

「それで、『ボット』はルータに紋章を入れているそうですが、押収したルータに変わった模様は見つかりませんでしたよ」

「そうなのか?」舛岡は眉をひそめた。

「ただし、破壊されたルータを元の形に復元したところ、底の部品の一部が不自然に抜けていました。音嶋家にあったルータはこれから調べますが、他の三件はすべて同様です。確認する方法はありませんが、あなたの言う紋章が入っていた可能性は高いですね」

「……それならそうと素直に言ってくれ」

 舛岡は頭を掻きながら苦言を呈した。城崎の人を食ったような物言いは毎度のことだ。

「じゃあ、ルータをわざわざ破壊したのは、紋章が抜かれている事に気づかれないようにするため……?」友永刑事がいう。

「不正アクセスの痕跡はパソコン本体に残りやすい」と、城崎。「キキちゃんも推測していたことだが、彼らはネット環境を遮断してでも、パソコンを持ち去って使いたい理由があったと思われる。ルータは破壊して紋章を抜き取っても、パソコンだけは同じ事をするわけにいかなかった。『ボット』ならパソコンは必需品だからな。ネットがなくても普通にできる作業でも、パソコンがなければできない事もあるし」

「『ボット』を指揮する親玉への連絡か……」

 友永刑事はそう呟いた。すでにその話は城崎から聞いているらしい。

「パソコンで書いて印字して郵送すれば、第三者に見られる危険はかなり低い。だがその一方で、どこから送られたのか正確に判断できないという弱点もある。つまり別の誰かが『ボット』のメンバーを装って、親玉に手紙を出して罠にはめるという可能性もある。それを防ぐには、本当に手紙の送り主に異常事態が起きた事を確かめる手段が必要だ」

「なるほど……」と、舛岡。「ルータの破壊は、『ボット』を指揮するリーダーに不測の事態を知らせるための、サインであるという事か」

 理屈としては分かる。しかし『ボット』自体が表沙汰にできない存在だから、誰かがメンバーに成りすますという事態はまず起こらない。それでもゼロとは言い切れないから、駄目押しにこんな手段を用意したのだろう。ルータが破壊されれば、一時的にメンバーのパソコンと直接の連絡ができなくなる。粉々にしたルータを家に残したのは、リーダーがそれを目にする機会を作るためだ。両方とも、異常事態を知らせるサインになる。

 キキが気にしていた疑問はこれで解消できる。外部からのアクセスを防ぐためなら、電源を切っても持ち去って捨ててもいい。それをしなかったのはなぜか。電源を切るだけだと『ボット』の紋章を消すことができない。またその場から持ち去ると、リーダーが不測の事態を確認できなくなる。どちらの疑問も『ボット』の存在ひとつで説明できる。

「用心深い金沢都知事の考えそうなことだ」舛岡は腕を組みながら言った。「これで、銃撃事件の被害者四人の親たちが、『ボット』である可能性は高くなったな」

「しかし、犯人側も『ボット』の一員であるというのは腑に落ちません」友永刑事が首をかしげた。「北原はユーザ名の使い方さえ知らないビギナーですし、とても『ボット』のメンバーとして活動できる技能があるとは……」

「何もハッキングの技術だけが求められるわけではないぞ。さっきも言ったように、犯人側に『ボット』が関与していると考える根拠は、銃弾を執拗に消している事だ。一般市民のパソコンに不正侵入して情報を消し去る集団……そんなものが公になれば一巻の終わりだ。だから『ボット』の活動は、確実な証拠湮滅を伴うのだよ」

 キキもそれを指摘していた。やはり『ボット』は、ただ有能なハッカーを集めただけの組織ではなかったのだ。

「……北原は、活動の証拠を隠滅する役割だったと?」

 友永刑事は眉根を寄せて訊いた。

「その北原歩という男が四年前、どんな理由で金沢都知事の孫を襲ったのか、当時の調書を見ても詳しいことは分からなかったが……その事件であっさり収監された事から見て、『ボット』に入ったのは出所した後だろう。実際の捜査で何があったかは計りかねるが、動機も曖昧な状態で判決が出たのなら、裏で金沢都知事による口利きがあったという事も考えられる。都知事にとっては、射撃に秀でた北原は証拠隠滅の役割を負わせるのに、恰好の人選だったろうからな」

 基本的に舛岡は、金沢都知事が裏で何をしてもおかしくないという前提で考えている。それも一種の偏見ではなかろうか。

 福島刑事が口を開いた。

「今回の銃撃事件は、被害者である四人の少年たちの親が、『ボット』の存亡に関わるような何らかの事情で抹殺を余儀なくされて、その抹殺を北原が担当したと?」

「ただの抹殺であれば親の方を狙えばいい。子供を狙ったのは、親の方を精神的に追い詰めて、さらに服従を強めるためかもしれない。警察に目をつけられて居場所を失えば、金沢都知事の監視下に入りやすくなるからな。どんな事態があったとしても、そうすれば二度も繰り返す事はなくなる」

 一応、筋は通っているみたいだけど、いかんせん手掛かりが少ないせいか、どうしても想像に頼らざるを得なくなる。この状況を美衣が見たら、また「結論を急ぎすぎ」とか言うんだろうなぁ。

「これは……捜査方針の転換を要するかもしれませんね」

「必要ない!」木嶋は城崎の発案を否定した。「何がハッカー集団だ、荒唐無稽な。SFじゃあるまいし、ネット上に蔓延する膨大な情報を、広まる前に発信元から消し去るなんて現実的じゃないだろう」

「クラッキング技術は日々進歩している。コンピュータウィルスを利用した不正操作も、一秒で必要な作業をすべて行える人はたくさんいる……現実に起こりうる問題だ」

 公安にいればあらゆる犯罪の最新情報が耳に入ってくる。公安出身の舛岡が言うと説得力があるが、木嶋は聞き入れようとしなかった。捜査陣営に自分が作った流れに、まだしがみつくつもりらしい。

「犯人は外山功輔で間違いないんだ。『ボット』が関わっていようといまいと、その辺の事情は奴を捕まえて吐かせればいいだけの話だ」

 どこから話を聞いていたのか分からないが、舛岡は功輔の名前を聞いて首をかしげた。最後に功輔の名前が出てからここに来たのだろうか。

「誰だい、外山功輔というのは」

「昨日、最重要容疑者の北原と接触して刃物で切りつけられた少年です」友永刑事が説明した。「搬送先の病院から逃走して、様々な証拠から銃撃事件の主犯とみられています」

「それと同時に」わたしは軽く手を上げて主張した。「わたしの幼馴染みです」

「幼馴染み?」木嶋が耳ざとく聞きつける。「道理でやたらと無実を押しつけるわけだ。俺が見つけた証拠に比べれば説得力が低すぎ……」

「君は少し黙っていてくれ」

 二階級上の舛岡にぴしゃりと言われて、不満げながらすごすごと引き下がる木嶋。

「そうか、君の幼馴染みなのか……という事は中学生なのかい?」

「はい」

「中学生にこんな大それた真似ができるとは思えんが……キキくん、君の目から見て、彼が容疑を向けるに値すると判断した証拠品の、証明能力の是非はどうかな」

 キキはきっぱりと答えた。「どれも疑わしいです」

「なっ……!」

 表情を歪めた木嶋とは対照的に、舛岡は落ち着き払っていた。

「ふう……どちらにしろ、方針転換は急務だろうな」

「舛岡警視」木嶋は頬を引きつらせながら近づいた。「所詮は子供の浅知恵で物申しているにすぎません。彼女の一言で統率を乱す事などあってはならない。警視も監察官のお立場であれば、理解を示してくださると思っておりましたが」

「彼女の見解に異を唱えるならそうすればいい。彼女が何を言おうと、最終的に捜査の方針を決めるのは現場の人間だ。気に入らなければ相手にしなければよろしい」

「警視、そうすると彼女たちは我々の頼みなど聞かず勝手に動き回ります」友永刑事が苦笑気味に言った。「まあ、我々が方針転換しても同様だとは思いますが」

「だったらどちらでも構うまい」舛岡はあくまで傍観者の立ち位置だ。「私が調べているのは『ボット』ひとつで、それに関する情報を集めたいだけだ。銃撃事件そのものの行方に関心はない。元よりその件に関しては、刑事部捜査一課の高村警部が一目置いているという少女に、すべてを任せるつもりでいる」

 それは昨日も聞いているが……改めて全幅の信頼を寄せられる形になると、キキにはかなり重い話になってしまう。現にいまも、キキは表情を強張らせていた。

「我々の捜査には期待していないとでも?」木嶋は苛立たしげに言った。

「詳しい事情は知らないが、理詰めで中学生にしてやられるようでは、先が思いやられるというものだ。……独立性を持った強い権限が与えられる公安にいると、いつもひしひしと感じることがある。権力というのは自動車と同じだ。使う人間の手足があらゆる結果を左右する。アクセルを踏みすぎて暴走することもあるから、ブレーキは常にかけられる状態にする必要がある。そして使い方を誤れば取り返しのつかない悲劇を招く」

「……何がおっしゃりたいのです」

「アクセルとブレーキを踏み間違えるのは、君らが想像する以上によくあることだ。警察に与えられた権力も、使い方を間違えている輩は多い。忘れるな。組織という束縛の中にあっては、アクセルをブレーキと勘違いしても気づきにくくなる。自分に限ってそんな事にはなるまい、その思い込みは危険だ」

「…………」

「自動車は常にそうした危険を孕んでいるから、使用するには運転免許という強力な制限をかけている。だが、人間の権力に制限を与えることができるのは、自分だけだ。それを忘れた人間に待っているのは、権力に溺れて沈没するという結末だけだ」

「それは金沢都知事の事ですか?」

 城崎が挑発的な態度で言った。そんな事は百も承知だ、とでも言いたそうだ。

「あるいはそうかもしれん。あれはブレーキの外れた自動車だ。止めようとするなら慎重さが求められよう。君たちも慎重に動いた方がいいかもしれんな」

「いやいや……」と、福島刑事。「そもそも我々に、都知事に盾突ける度胸をもった人間なんていないでしょう。都の公安委員会の下部組織にいるんですよ?」

「君たちに盾突くつもりがあろうとなかろうと関係ない。どちらにしても、やり方を誤れば都知事を敵に回すことになりかねない。まだ都知事は警察の捜査を静観しているが、自分に捜査の手が及ぶものなら、どんな手を使ってでも息の根を止めてくるぞ。それが金沢晋太郎という男だ」

 舛岡の言葉に、誰も言い返そうとはしなかった。

 いったい、公安は金沢都知事の事をどこまで把握しているのだろう。何を見たら、ここまで都知事の人間性を悪い方向に断定できるのだろう。

「私からの話は以上だ。公僕なら都知事に目をつけられないよう慎重に動くことだ」

 では、と言って舛岡は踵を返し、刑事部屋を出ていった。貴重な情報提供を行なうとともに、所轄の捜査を目いっぱい引っ掻き回して、自分自身はこれといって有力な情報を得ることなく去っていった。何がしたかったのだろう、あの人は。

 ……もしかして、監視対象に存在を知られてしまったから、今後の行動を練り直すつもりなのだろうか。だとすればそれはキキのせいだ。

 そのキキは、まるで何事もなかったかのようにペースを戻した。

「ああ、そういえば城崎さんに訊いておきたい事があったんでした」

「なんだい? プライベートなことなら答えないよ」城崎はおどけて言った。

「それは原子レベルほども興味ありません」

「だったらクオークレベルの興味はあるのかな。どっちにしても無意味だけど」

 キキの容赦ない暴言にも動じないとは、さすがだ。

「死斑というのがありますよね。死亡した後に体に現れる……」

「ああ。心臓が停止することで血液が流れなくなり、下の方に溜まっていくことで生じるものだ。キキちゃんもそのくらいは知っているだろう?」

「まあ一応は……あれって、亡くなってからどのくらいの時間で現れるんですか?」

「個体差はあるけど、普通は二十分から三十分くらいで現れるよ。一時間かけてようやく生じるものもある」

「ふうん……だいたい予想通り、無理な数字ではないかな」

「どういうことだい?」

「恐らく捜査の進展には寄与しませんが、銃弾消失のトリックはすべて読めました」

 それほど大きな声で言ったわけじゃない。が、刑事部屋にどよめきを起こすくらいには強烈な発言だった。どうやらここにいる誰も、すべてのトリックを解き明かせてはいなかったみたいだ。現状ではキキが数歩ほどリードしている。

「す、すべて読めたって……そ、そんな出まかせを」

 木嶋は当然の如く強がって見せたが、中には即座に受け入れた者もいる。

「本当かい、キキちゃん」友永刑事が歩み寄ってきた。「一体、どうやって……」

「ちょっと待ってくださいね」

 キキはスマホを取り出して画面を見た。時刻を確認しているようだ。刑事部屋の壁にも時計は掛かっているのだけど……。

「うーん、ちょっと時間が押していますね。後で文書にして送ります」

「またそれかよ!」と、木嶋。「実は思いついてないから逃げようとしているのか」

「舛岡さんも言ってたじゃないですか。わたしが何を言おうと、捜査の方針を決めるのは皆さんです。わたしが本当に思いついているかどうかなんて、関係ないでしょう? わたしはわたしの考えに従って行動し、事件の謎を追います」

「でもキキちゃん……」

「とにかくわたし達は帰ります」キキは友永刑事のセリフを遮った。「必要な情報はすべて手に入りましたし、もう用はありません。行こう、もっちゃん」

「あ、うん……」

 警察の考えに無条件に従うつもりはないけど、どうもキキの言うことには素直に応じてしまう節がある。ついて行かないと何かと大変な事になるから致し方ないが。

 刑事部屋を出ようとするキキを、一人の刑事が肩を掴んで制止した。みかんの事件で言葉を交わした事がある。確か吉本という刑事だ。

「ちょっと待ってくれ。きちんと話そうじゃないか」

「話す事はもうありません」

「君だって事件を追っているなら、我々と立場は同じだろう?」吉本はキキの前に回り込んで告げた。「だったら情報共有は必要だ。同じ目的を持っているもの同士、協力し合えば解決に早く近づけるだろうし」

「そう、その通りだ!」

 木嶋はちゃっかり部下の発言に便乗した。たぶんキキは聞いてないけど。

「何を言ってるんですか」キキは冷たい反応を示した。「勘違いしないでください。わたしとあなた方は立場も目的も決定的に異なります」

「えっ……」

「わたしが動いているのは、あっちゃんをあんなひどい目に遭わせた、その元凶が何かを見極めるためです。あなた方の捜査に協力するつもりで調べているわけじゃありません。あなた方は犯人を捕まえて裁判に送り込めば満足でしょうが、わたしは違います。わたしにとっては、真実よりも友達の方が大事なんです」

 そう言ってキキは、吉本の横をすり抜けて出入り口へ向かった。わたしもキキの後を追ったが、出る前に一度振り向いて軽く頭を下げた。協力的な姿勢を見せた人も皆無ではなかったからだ。

 階段を降りていく途中で、キキがこちらを見ずに呟いた。

「……どうやらグランプリステージに突入みたい」

「は?」

「もっちゃん、こうなったらてっぺんまで登ってみせようよ」

 何がおっしゃりたいのか分かりかねますが……でも、待てよ? この脈絡のなさそうな言葉、もしかして昨日の話に出た符牒ではないか。

 グランプリステージ……グランプリはGPと略せるから、ステージを追加するとGPSになる。てっぺんまで登る……山の頂上に登ると解釈すれば、それはつまり“登頂”だ。という事は盗聴器を示す符牒か。

 ああ、なるほどね……さっき吉本刑事がキキに接近した時か。確かどっちも捜査で使うにはふさわしくないとされていなかったか。端的に言えば違法性が疑われると。まあアレだ、誰も見てない所で赤信号の横断歩道を渡る事と同じだ。違法性の前にまず人間性が疑われそうだ。

 やれやれ、なんだか忙しい一日になりそうだよ。

第二章その1に繋がります。

次回は第二章その1の続きです。

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