その3 Invitation
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あさひの家の隣には、『フェリチタ』という喫茶店がある。喫茶店ではあるものの、軽食の出来栄えはいっぱしのレストランと肩を並べられるほどに美味で、店長一名と数人のバイトだけで回している小規模な店ながら、近所一帯に常連客を抱えている(そのほとんどは男性だが)。もちろんあさひも常連の一人であり、隣人のよしみでサービスされる事が多い。
ちなみに、表参道にある同名のイタリア料理店とは特に関係ない。
わたしとキキはそれほど頻繁に来るわけじゃなく、今日はそれこそ一か月ぶりくらいの来店となる。というのも、学校の違いからも想像できるように、わたしとキキの二人とあさひは、同じ星奴町内でも違う地区に住んでいるため、家同士が割と離れているのだ。だからよほどの用事がなければ、この辺りに出向く事もない。
しかし、地区の違いで家同士に距離があっても、例外的にこの店に顔を出す人はいるものだ。あさひと特に仲の良い、彼女もその一人である。
「あ、待ってたよ、みんな〜」
ドアベルを鳴らしながら店内に入ると、出入り口に一番近いテーブル席の間仕切りから、鮮やかな金髪の少女が顔を出して呼びかけた。
彼女がメールでわたし達を呼び出した張本人、鈴本みかん。名前の通り、純日本人であるが、母方の家系のどこかに外国人の血が混ざっていて、それが今になって顕現したといういわくありげな少女である。わたし達の一つ年上の中学三年生で受験生だが、それを感じさせないおっとりとした雰囲気は、この時期でも変わらない。
「みかん、話って何?」
あさひが開口一番に言った。年上ではあるけれど、わたし達は誰もみかんに敬語を使わないし、みかんも特に気にしていない。以前に一度だけ、ものの試しに敬語を使って話してみたら、悲しそうな顔で唇を尖らせたことがある。あの時みかんは何も言わなかったけど、それ以来わたし達は無理に敬語を使う事を避けている。
「イベントのお誘い。詳しい事は座りながら話そうよ」
そういうわけで、わたし達はみかんが陣取っていたテーブル席に座った。みかんの隣は当然の如くあさひである。だからわたしの隣は自然とキキになる。
ついでに注文したハーブティーを嗜みながら、みかんはイベントの事を話した。
「雪像まつり……?」
「そう」みかんが答えた。「翁武村にある使われていない土地を使って、雪で作る像を展示するイベントを開催することになったんだけど、お父さんの会社がイベントに出資している関係で、開催前に下見に行けることになったの。その下見に、みんなを誘おうかと思って」
「そのイベントっていつ……」
「来年の大寒の日にやるって。ちなみに下見の予定日は明日です」
「はやっ」
みかん以外の全員が声を揃えて言った。お誘いにしても突然すぎる。大寒の日ということは一月の下旬だから、一か月以上の猶予があるけど……。
「コンテストも兼ねているから、開催前に関係者でない人が出入りするのは基本的に制限されているの。頼み込んでみたけど、許可が下りたのは明日と明後日だけで」
頬に手を当てて困ったようなしぐさを見せるみかんに、わたしは気になって尋ねた。
「それって、泊りがけってこと……?」
「だって、翁武村って東京の中でも山の方だし、アクセスも悪いでしょ? 一日だけじゃ満足に下見する時間が取れないよ」
「『でしょ?』といわれても、一度も行った事ないし」
「あれ? そうなの?」みかんは目を丸くした。「小学校三年生の遠足で行ったと思うけど」
「みかんよ、それは能登田南小の話で、燦環小学校は違うから」と、あさひ。
「あ、そうだった」
みかんのキキに負けない天然ボケは知っていたけど、よもや小学校の違いまで失念していたとは……。先述の通り、わたしとキキは同じ燦環小学校に通っていて、あさひとみかんも同じ能登田南小学校の出身である。そして現在、わたし達四人は全員が違う中学校に通っている。それでも帰り道を一緒に歩くなどの交流はあるのだから、不思議だ。
「そういえば話は変わるけど、みかんはあさひと違う地区に住んでいるのに、なんで小学校は同じだったの? 学区の都合?」
「あれ、知らなかったっけ」と、みかん。「わたし、お母さんが再婚して今の家に移り住むまで、あさひと同じ能登田地区に住んでいたんだよ」
「ああ……そういう事情か」
わたしも先々月まで知らなかったが、みかんは元々母親の連れ子であり、五年ほど前に再婚したのだ。みかんには妹が二人いるが、二人とも再婚後に生まれているため、姉妹で父親が異なるのだ。ちなみに二人の妹は双子であり、一見してすぐに違いを看破したのはキキだけである。要するに、極めて外見が似ているのだ。
「わたしも最近になって教えられるまで知らなかったよ」と、あさひ。「再婚する前からみかんの苗字は鈴本だったから、言われなきゃ気づけなかったよ」
「ごめんね。本当は中学校に上がる段階で話せたらよかったんだけど、言いづらくて」
「でも、再婚と同時に引っ越したなら、その時点で転校する事もあったんじゃない?」キキが言う。「五年前なら、みかんはまだ小学四年生だし」
「うーん……確かにその話もあったけど」みかんは少し頬を赤くした。「あさひと離れるのが、嫌だったから」
ハーブティーのカップに口をつけながら、あさひが耳まで真っ赤になっている所を、わたしは見逃さなかった。言わないけど。
「さすがに中学校に上がる時は、それこそ学区の都合で一緒にはなれなかったけど」
「そういう事だったのね……」
誰にでも、親しい友人にさえ軽々しく話せない秘密の一つもあるものだし、わたしはそれを無理に引き出そうとは思わない。だけど、きっかけがないと話してくれないというのは、友人として少し寂しい気分になってしまうものだ。
「まあ、わたしの家の話はここまでにして、雪像まつりの下見、どうする?」
みかんの家庭の事情はわたしが持ち出した話だが、かなり脱線してしまった。元はその話をするために呼び出されたのだ。
唐突すぎるお誘いではあるが、実を言えば明日も明後日も特に予定はない。雪像を展示するお祭りなんて札幌くらいしか知らないし(後で聞いた事だが、同様のイベントは国内外の二十か所以上で行われているらしい)、楽しみでないと言えば嘘になる。
しかし……このイベントに懸念があるのも正直なところだ。
「誘ってくれるなら行くけど……どうせ土日は暇だし。だけど、関東でそういう雪のイベントって大丈夫なのかな」
「ここ最近は積雪も少ないしね」キキも同様の不安を抱いていた。
「翁武村は東京の中でも特に雪の多い所だから、その辺は心配ないと思う。本当は、雪像制作には不純物の少ない新雪が理想的なんだけど、関東圏内で必要な量を全て賄うのは厳しいから、北海道や北陸からいくらかもらうみたい。翁武村は斜面の多い土地だから、乾燥した風が流れやすくて、あとは空気が冷たくなれば雪も融けにくくなるよ。いざとなればお父さんの会社で手配した、人工降雪機を出動させるしね」
さすがは年商数十億の投資企業……考えることの規模が違う。
「人工降雪機で雪を作るには、氷点下二度くらいの気温が必要じゃないか?」
あさひが言う。何でも詳しいのはいつもの事だ。
「お父さんが用意したのはもっと大きい装置だよ。装置の中で、氷点下十度くらいの空間に水の粒を風で送り込んで、雪を作るんだってさ」
「途方もないスペースが必要になるんじゃないか……?」
「まあ、量産も運搬も絶望的だから、カンペキ趣味の代物だけどね」
ありていに言えば金持ちの道楽ということか。雪像よりむしろそちらの方が、イベントで目立つことになるかもしれない。主題のぼんやりとした大会になりそうだ。
「そんな大きな装置から雪が出てくるなんて……これは一見の価値ありだね」
キキは目を輝かせていた。案の定、雪像より興味を示す人が現れたか。
「そのイベントって雪像のコンテストも兼ねているんでしょう? 肝心の雪像を見る人が少なくなったら困りものだね」
「その辺は運営委員が考えることだから」
出資者側はノータッチ、アイデアを提供する義務はないということか。まあ、東京で雪のイベントを開催するという前例のない企画を実行に移せば、そうしたおかしな事態が生じてしまうのは必然かもしれないけど。
「それじゃあ、キキともみじはOKってことで……あさひは?」
「行かないなんてひとことも言ってない」
「行くとも言ってないよ」みかんは笑顔のまま言った。
「……行くよ。わたしも土日は特に予定ないし、みかんのお誘いだし」
「やった。それじゃあ、学校のみんなへのプロモーション、お願いね」
何だと? みかん以外の全員が眉をひそめた。
「今、プロモーションって……」
「せっかくだから今日はわたしがおごるね。呼び出したのはわたしだし」
「え、待って。これってつまり宣伝員を確保するための買収……」
「お父さんの会社の専務にも伝えておくから。いやあ、やっぱり持つべきものは友達だよねぇ。まあ、今後同じようなことはないと思って」
ひたすら笑顔で指摘を避けまくるみかん。どうやらわたし達は、自然な形でイベントの宣伝をさせるために、わざわざこうして下見に招かれたらしい。エサにつられてやって来て、そしてまんまとみかんに掌握された。
あさひは以前に、父親の会社を受け継ぐにはふてぶてしさが足りないと、みかんの将来を案じていたけれど、あれはもう完全に撤回すべきだ。今の父親と血の繋がりはないが、みかんも実はかなり商魂たくましい人のようだ。
まあ、イベントは来年の話で、会場もまだ準備段階だろうし、この程度の頼みなら引き受けても損はあるまい。買収といっても、ハーブティー一杯程度の安い恩だし。
「……で、お話はそれだけ?」わたしは念のために訊いた。
「うん、これだけ」
「んじゃ、お言葉に甘えて、おごってもらうことにするよ」
「あ、プロモーション引き受けるんだ……」
半ば呆然としているキキも、たぶん断るつもりなどないだろう。
「それで? 明日はどうやって会場に行くの?」あさひが尋ねる。「確かあそこ、バス路線が通ってなかったよね」
「えー、都内でバスが通らないって……」と、キキ。
「最寄りの駅まで着いたら、お父さんの会社の専務の人が車で送ってくれるよ。イベント当日は臨時のバスを手配する予定だけど」
「さすがに下見のためにバスを使うわけにはいかないか……。泊まる所は確保してあるんだよね?」
「会場に宿泊用の施設があるから。といっても、その施設は土地の所有者が昔の財閥の家を改築したものだから、普通のホテルほど設備が充実しているわけじゃないけどね。一応、旅館業法で決められている最低限の設備はあるから、宿泊に不自由はないよ」
「食事は?」
「運営委員が用意してくれるけど、まともなものは期待しない方がいいかも」
いいところのお嬢様の感覚でいう“まともなもの”がどの程度か知らないが、念のための備えはしておくべきかもしれない。よし、この後の予定は決まったな。
「キキ、これから明日の分の買い出しに行く? お菓子とかになると思うけど」
「わあ、いいねぇ!」キキは嬉しそうに目を輝かせた。「みんなで一つの部屋に集まって、お菓子食べておしゃべりして……来年の修学旅行の楽しみが先取りできる」
お前はそっちの方向に考えが及ぶのか。ポジティブ思考が喜ばれるのは時と場合によるのだけど。
「じゃあ、明日は駅に集合ってことでいいのかな」
「そうだね。電車の出発は十時半だから、その前に集まるってことで」
「オッケー、十時半に間に合うように、だね。それじゃあ買い出しに行く?」
「キキともみじに任せるよ」あさひはそう言って財布を取り出し、テーブルの上に五百円玉を一枚置いた。「これを預けるから、好きなもの買いな」
「遠足の前に親からもらうお小遣いみたいね……あさひはこのあと何か用が?」
「いや、どうせわたしは隣の家に帰るわけだし」
そうでした。あさひの家はここ『フェリチタ』の隣だった。
「それに」あさひはみかんの頭頂部をがっしりと掴んだ。「ちょっとこいつに軽く説教してやりたいからね」
あさひもみかんも笑っているが、あさひの笑顔は引きつっていて、みかんは少し血の気が引いた顔で「いやーん」と言っている。プロモーションの件が原因である事は、もはや言うまでもない。
これは……放置するに限るな。みかんだって、お説教は嫌だろうが、あさひと長く話すためにここに残るだろう。あさひがどんなお説教をするのかは、恐くて知りたいとも思わなかったので、わたしとキキは早めに店を出た。
ところで、店主の晴美さんは、わたし達の会話をカウンターでずっと聞いていたが、わたしとキキが店を出た後にこう呟いたそうだ。
「お菓子くらい私が作ってあげてもいいのに……」
隣人とその友人たちに対して、結構世話焼きな店主であった。
わたしとキキは並んで歩きながら、スーパーに繋がる商店街を通り抜けていた。ほとんどの店がクリスマス商戦の真っただ中にあるが、残念ながら今は用がない。
「別にクリスマスのお祝い用のお菓子じゃないし、適当でいいよね」
「あまり荷物にならないようにしようよ。食べ過ぎてもよくないし」
「確かに、夜食とたいしてやることは変わらんからな……」
「それにしても」キキは口元を押さえて、ふふっ、と笑う。「久々にもっちゃんと二人きりで街を歩けて、ちょっと嬉しい」
ちょっとというレベルではないような気もするけど……まあいいか。
考えてみれば、ウィンタースポーツと冬フェス以外に、冬のイベントに無縁でいたはずのわたしが、友達の頼みとはいえ展覧会的な行事に関わることになろうとは……。人生、何が起きるか分からないものである。家でクリスマスのお祝いも特にやらないし、年末年始は家の大掃除、紅白歌合戦の視聴、初詣でをして終わり。他は……何かあったかな。とにかくその程度のことしかやらない家なのだ。
だからあちこちでクリスマス商戦が激化の一途を辿っても、わたしはあまり心惹かれない。元より心惹かれるものが少ないせいでもあるけど。剣道の鍛錬には充実感を覚えることばかりだし、歴史は知れば知るほど面白い。仲のいい友人と一緒に歩くのも楽しい。それだけで普段の生活に満足している所があって、だからこそ、これ以上のものを望むということがないのかもしれない。現状に満足してその維持以外の事を望まない。変化に対して積極的になれない。それがわたしの性向なのだろう。
功輔からのお誘いだって、奴の目的が何であろうと、現状を変えるだけの事態にならないと思っているからわたしは了承したのだ。功輔と二人で遊ぶことに抵抗はないし、これをきっかけに功輔との関係性が劇的に変化することもない。あるいは向こうから変化を求めるかもしれないが、そうなればわたしは確実に拒絶するだろう。付き合いの長い功輔がそれを予測できないはずもなく、しかも割と見栄を張る性格だから、失敗する確率が高い計画なら実行には移さない。あいつから積極的に現状変更を求めることは、ないと考えていいだろう。
こうして見ると、わたしの付き合いはそのほとんどが淡白だ。心地よい関係性に一度到達すれば、それ以上踏み込もうとしないからだろう。
でもキキの場合はどうだ。わたしは、今の彼女との関係にも満足しているし、それ以上の事はやはり何も望んでいない。キキも、やたらスキンシップが激しくてもそれは日常茶飯事だし、友人相手でも土足で踏み込むような真似はしない。だけど時々、わたしはキキの行動の真意が分からない事があり、その度に胸が締めつけられるようになる。心のどこかで、キキとの関係に足りないものを感じているのだろうか。
いつの日か……関係を変えざるを得ない、そんな瞬間が来たりするのだろうか。
「そういえばもっちゃん、今日はなんで下校が早かったの?」
キキがわたしの顔をじっと見ながら尋ねた。だから、顔が近いって。
「一旦捨てた話題を蒸し返すか……てかもっちゃんと呼ぶな」
「うん。で、なんで早かったの?」
受け流しやがった。今のところ関係を変えるつもりはないけど、キキのこの悪癖はいい加減に変えてほしい。言いたい事はまだあるけど、これ以上のツッコミは無駄に体力を消費するのでやめた。
「詳しい事は知らないけど……臨時の職員会議があって、先生たちが放課後活動に参加できないから、部活動が休止あるいは短縮になったみたい」
「ふうん、あっちゃんとこと同じだ」
「え?」
「あっちゃんの学校でも、臨時の職員会議があって下校が早まったらしいよ。まあ、あっちゃんは生徒会だからあまり関係ないけど、教職員の動向は伝わってくるみたい」
「能登田中でも臨時の職員会議……なんか、重苦しい雰囲気があったりとか?」
「さあ。そこまでは聞いてないけど」
予想して然るべきだった。あさひは何事も無難に片づけるたちで、自分に直接関係なければ興味関心を示さないし、キキもこの件にはそれほど惹かれないみたいだった。詳細は何も知らないのだろう。
「ちなみに、キキの学校ではどうだったの?」
「わたしは元から帰宅部だし、そもそもよく覚えてない」
わお、とおどけてみせるキキ。確かにいつもこの時間に帰っているからな。
「みかんの学校ではどうだったのかな」
「うーん、気になるけど……わざわざ聞いて確かめるほどじゃないと思う」
キキの言う通り、その機会はいくらでもありそうだからな。確かめたところでどうなるわけでもないし。……やっぱり淡白だなぁ。わたしも、キキも。
「それよりわたしは、あれが気になる」
キキは真っすぐ進行方向を凝視して言った。わたしも同じことをしている。
「奇遇だね。わたしもあれが気になってた。ものすごく」
「気になるよね。ものすごく」
「いつから気になってた? わたしは職員会議の話が始まる前から」
「わたしもその辺りから」
類は友を呼ぶなんてよく言うけど、こういう時に気が合う所がやはり親友である。
わたし達の視線の先には、一軒の青果店があった。普段は野菜や果物を売るけれど、今は店頭に風変わりなものを設置して、見事に客を寄せ集めている。多種多様な素材と節系のダシによる、渾然一体とした深みのある香りが、こちらまで漂っていた。
わたし達の足は自然とそのお店へ向かっていた。
「いやあ、やっぱり冬はおでんに限りますな」
「わたし、モチ巾と大根とがんもとはんぺんと昆布とゆでたまとつみれが好き!」
「ほぼ全種じゃん。おでんそのものが好きって言えよ」
まあ、それら全部わたしも好きだけど。だから笑いながら突っ込んだ。
「ちなみにもっちゃんも好きですよ」
「それは言わんでいい」さすがに笑えません。
「意見の一致を見たわけだし、お菓子買った後におでんも買おうか?」
「お土産だね。ちなみに何を買う?」
「えっと、モチ巾と大根とがんもと……」
「結局同じラインナップかーい」
わたしも同じものを買おうとしていたから、笑いながら突っ込んだ。ところが、後ろから誰かがぶつかって来て少し目が覚めた。
「うぉっと」
「ちっ」ぶつかって来た少年が忌々しそうに睨んだ。「気ィつけろよ、女が」
わあ、思い切りわたしの嫌いな人種だ。見るからに不良っぽいし、同じような雰囲気の少年を三人ほど連れているし。
「……ぶつかって来たのはそっちじゃない」
少し不満が口を突いただけで、あからさまに敵意を向けてはいない。視線も少年からは逸らしていた。だけど少年は、とりあえず自分に非があると主張する発言には、なんでも過敏に反応する性質のようだった。要するに、気が短いのだ。
「ああん?」少年は目をぎょろりと剥いて言った。「俺が悪いってのか。ぶつかって人に嫌な思いさせといて、謝るどころか罪のなすりつけか?」
「それ、言葉のブーメランだよ。そっくりあなたに言えること」
「寝ぼけてんじゃねぇよ。てめぇが前開けねぇからぶつかったんだ。ぶつかったのはてめぇのせいなんだから、てめぇが謝れよ。ああん?」
言葉で脅しつけて相手を黙らせるのが正当だと思っているのか。典型的な不良だ。無視しても状況は何も変わらないだろうな。
少年がなおも極端に顔を近づけて睨みつける中、わたしは平静を保った。
「わたしが前を歩いていたなら、あなたはそれを見て避けられたはずでしょ。そうしなかったのはあなたが前を見てなかったから。同じくらいあなたも悪いと思うけど」
「ちっ、いちいち言い返しやがって」少年はわたしの胸倉を掴んだ。「屁理屈こいてんじゃねぇよ、女のくせに」
二度目の性差別的発言。もう手心を加える必要はなくなったと見ていい。わたしは精一杯の侮蔑の念を込めて言い放った。
「あんた、えらそうな事を言える立場だと思ってんの?」
「……はあ?」少年は眉をひそめた。
「不良のくせに」
少年は反論の言葉が思いつかなかったらしく、表情を歪めて口をつぐんだ。しかし、何もしないで引き下がるとは思えない。脅しの言葉で屈服させられなければ、この手の不良が使う手は相場が決まっている。冷静さを失った相手の行動を読むのは容易だった。
「なめたこと言ってんじゃねぇぞオラァ!」
ドスを利かせた声を上げながら、少年はわたしを突き飛ばした。後方に倒れるわたしのすぐ後ろには、まだキキがいた。これこそ想定外だった。
キキはわたしと一緒に、アスファルトの地面に叩きつけられた。ただし、わたしはキキの体がクッションになって、それほどダメージを受けなかった。キキは直接に体が地面に衝突したため、痛みで少し表情が歪んだ。
「キキ、大丈夫?」
「なんとか……たいして怪我もしてないみたい」
それならいいのだが、こうなる事はわたしの予測にない。キキがわたしの予測を超えた行動をとるのはいつもの事だけど。
道の真ん中で女の子を突き飛ばして転倒させたから、当然ながら周囲の人たちの視線を集めることになる。不良少年たちも、周囲からの蔑むような空気に気づいた。スマホで撮影を試みている野次馬を目に捉え、すかさず怒号を浴びせた。
「おい何撮ってんだよ、ああ? スマホぶっ壊されてぇのか」
「そこまでにしたらどうなのよ」
わたしは転倒時に服についた汚れを手で払いながら、なおも幅を利かせようとする不良少年を牽制した。少年は苛立ちを隠すことなくこちらを向いた。
「なんだよ、今度は本格的に怪我してぇのか?」
「もっちゃん、これでいいかな」
張りつめた空気を一気に緩める、能天気すぎる言葉を発しながら、キキは道端で拾った空き缶を持ってきた。特に言葉を交わしてはいないが、どうするのが一番効果的か、キキは瞬時に察したらしい。そのくらいの事はする奴だ。
「ありがとう」
わたしは空き缶を受け取ると、その手で即座に缶を握り潰した。その瞬間の音は、擬音で表現するのが困難だった。容積が十分の一ほどになるまで潰すのに、わたしであれば一秒もいらない。
この程度のことで、不良少年たちは全員、瞠目して一歩引いた姿勢になった。所詮は肝っ玉の小さい悪党だ。
空き缶を歪な形のまま捨てるわけにもいかないので、わたしは缶の上下に左右の親指と人差し指を当てて、上下に潰してコンパクトにした。これも一秒足らずで。
「はい、捨ててきて」
「りょーかい」
キキは楽しそうに潰れた空き缶を受けとり、近くのゴミ箱に持って行った。まだ不良少年たちが引いたような姿勢でこっちを見ていた。何を怖がっている。
…………うん、分かっていますよ。原因が何なのか。だってこれは少年たちから仕返しする気力を奪うためにやった事だから。
「ほら、さっさと退散したらどう」
わたしが追い払うように手を上下に振ると、少年たちはバツが悪そうにそそくさとその場を離れていった。たぶん、格好つけた反駁ができなかったからだろう。不良など得てしてそんなものだ。
空き缶を捨てに行ったキキが舞い戻り、わたしに耳打ちした。
「ちゃんと捨ててきたよ、もっちゃん」
頭痛がしそうだ。「その呼び方さえしなければなぁ……スマホで動画撮ってる人もいるのに」
「それよりもっちゃん」キキは馬耳東風。「さっきのちょいワル的な男の子、絵笛中の校章つけたカバンを持ってたよ」
ちょいワルどころか相当な底意地の悪さを見たような気がしたけど。
「本当? みかんと同じ学校か……公立だから、みかんみたいなお嬢様ばかりがいるわけじゃないんだよね」
「公立とか私立とかはあまり関係ないんじゃないかな。四中は私立だけど、もっちゃんみたいな生徒もいるわけだし。どこにでもいるんだよ、ああいう手合いって」
四中とは四ツ橋学園中の略称だが、使っているのは主に学外の人間である。少なくともわたしの身近では“四ツ橋学園中”以外の呼称を聞かない。
「確かにわたしはいいところのお嬢様じゃないけど、あの連中と同列に並べるのはやめてほしい」
わたしが眉根を寄せたのを見て、キキは少し慌てた。
「あ、いや、別にもっちゃんがあの人たちと同レベルということはないから……でも、私立って公立よりお金がかかるよね? もっちゃんちってそのくらいの余裕があるの?」
「さっきからもっちゃんと連呼するな。お父さんが大手外資系企業の課長さんだから、経済的にはあまり困ってないの。わたしが今の学校に行きたいって言っても、特に止めたり渋ったりする素振りはなかったな……」
「やっぱり、いいご両親の元だといい子に育つのかなぁ。あの子は違ったのかな」
わたしがいい子であるかどうかは、悲しいが自信を持って肯定できない。だが少なくとも、目の前の道を我が物顔で闊歩して何一つ恥じる様子のない、あの少年たちの親は、きっといい親ではないのだろう。本人たちがどう思っていようと。
とはいえ、彼らがあのような不良的行為を平然とやらかす原因を、親だけに求めるのはいささか強引だけど。朱に交われば赤くなるように、偶然似たような連中と接した事があって、それに影響されただけかもしれない。その場合でも、止めようとしなかった親に責任の一端がある事は否めないが。
そんな事を考えながら彼らを見ていると、先ほどわたしと口論したあの少年が、おでん鍋の近くで立ち止まった。見たところ、その直前に取り出したスマホにメールが来て、それを開くと同時に足を止めたようだが……。
直後、目を疑う事態が起きた。
どこかで空気が素早く抜けたような音がして、それから間を置かずに、立ち止まった少年の首から……鮮血が噴き出したのだ!