その3 ダーウィン
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監察官の舛岡の話がひと通り済んだ後に、今度はわたし達が、星奴署で見聞きした事を詳らかに話した。もっとも、説明のほとんどはキキがしたのだが。美衣はあまり調査に参加していないから説明のしようがないし、わたしはその辺の能力に自信がない。
「ふうん……実行犯の目星はつけられたのか。進展だな」
「まだ証拠は何もありません。逮捕しようにも、本当にその人が犯人だという絶対の根拠がないと、逮捕状は請求できないんですよね」
「実際は状況証拠があれば、ほぼ確実に逮捕状を発行してもらえるぞ。あれは被疑者を一定期間拘束して、次の犯行と証拠隠滅を防ぐための措置だからな。ただし、裁判に持ち込んで勝てるだけの十分な証拠が揃わなければ、いずれは解放しなければならなくなるし、検察に送っても不起訴処分になる。証拠の確保は、逮捕うんぬん以前の問題だ」
「逮捕してから自白させれば問題なしと考える人もいますからね」
美衣は身も蓋もない事をさらりと呟いた。
「実際、日本の刑事事件の大多数は、逮捕後の自白を根拠として起訴されたものだ。日本では有罪の証拠として一番多いのが自白調書だからな。戦時中に、証拠の独占などの強権力が警察に与えられた、その名残だよ」
「いつかは変えるべきですね」と、キキ。
「犯罪は毎日のように起きている。簡便な手続きで裁判を終えられるなら、どこでも自白を取ることが優先されるだろうし、そう簡単には変えられないさ。ところで、その北原歩という人物が実行犯であるという証拠……特定する手段はあるのかい」
「うーん……」
キキは口をぎゅっと結んだ。
それは難しいと言わざるを得ない。犯人の正体が誰であろうと、執念深く証拠を残さないようにしている事に違いはない。銃弾の消失についても、五件中四件に関してキキは仮説を立てられたが、どの仮説が正しくても、犯人に繋がる証拠は見つけられない可能性が高いそうだ。まだ確固たる説ができていない五件目に関しても、キキは手応えを感じていないようであるし、前途多難である事に変わりはない。
「今のところは、確実に証拠を入手できる保証がありません。犯行、というより銃弾を消すトリックに使った道具は、逃げる途中のどこでも処分できたでしょう。毎回違うトリックを使っているなら、犯行後すぐに処分しても困りませんから」
「まあ、もし犯人側が『ボット』のメンバーなら、その可能性は考えてしかるべきだな」
「やっぱりこの事件の犯人も、金沢都知事の差し金で動いていると?」
「少なくともどこかに『ボット』が絡んでいる。犯人側か、被害者側か、どちらに関係しているかは分からないが、それゆえに情報統制が行われているんだ。普通に考えれば、証拠隠滅に執着している犯人側が『ボット』という事になるのだが……」
「どうもそんな簡単な話ではないようですよ」
そう。この事件をさらにややこしくしているのが、被害者の親たちの言動だ。パソコンを持って逃走し、その一方でルータは粉々に破壊している。未だに説明がつけがたい、謎めいた行動ではあるが、これも『ボット』が関わっているのだろうか。
「ふむ……パソコンとルータの事に関しては、俺に少し心当たりがある。うろ覚えだからちょっと自信はないが……」
「では、そちらは後でちゃんと確認してください。報告はそれからで」
「民間人が相手だと、報告というより漏洩だけどな……」舛岡は苦笑した。「そうなるとこの事件、犯人と被害者の両方が『ボット』に関わっている可能性が出てくるな。仲間割れでも起こしたのか?」
「少し結論を急ぎ過ぎですよ」
美衣がフラットな口調でたしなめた。たぶん、血糖値が下がっているな。
「そもそも、本当に『ボット』が関わっているという確証もない。不自然なまでの情報規制は『ボット』の存在で説明可能でしょうが、それだけで今回の銃撃事件に『ボット』が絡んでいると考えるのは早計です」
「美衣、もうそろそろタルト頼んでいいよ。わたしが許す」
このままだと容赦ない毒舌攻撃に変貌しそうな空気だったので、わたしは独断で美衣の糖分摂取を許可した。
「そうか? では遠慮なく。すみません、ラズベリータルトひとつ!」
「はーい、ラズベリータルトひとつ」
カウンターの晴美さんは弾むような口調で答えると、厨房に引っ込んだ。
話が逸れてしまったので、舛岡は一度咳払いをした。
「えっと……まあ確かに君の言うとおり、結論を急ぐのはよくない。しかし都知事がもし絡んでいるなら、こちらは慎重に行動せねばならん。都知事の内情を、警視庁の監察官が独断で探っていると知られたら、どんな手を使ってでも排除してくるからな」
「大変ですね」キキは他人事みたいな言い草だ。
「これが公僕の宿命だよ」
「金沢都知事の孫の怜弥くんが、四年前に北原歩に襲われた事件はご存じですか」
「一応知っているよ。メディアには出ていないが、公安部にいれば当然その情報は入ってくる。もっとも、大ごとになる前に刑事部がすべて片づけてしまっていたから、殊更に興味は持たなかったな。元より、一個人による傷害事件は公安の守備範囲じゃない」
素人のわたしでも聞いた事がある。公安警察が担当するのは、国家の安定を脅かす危険分子が起こす事件だ。普通の刑事事件とはレベルが違うため、時には非合法活動も厭わないという。友永刑事も少しだけこぼしていた。
「事件そのものが耳に入っているなら、北原歩の事については?」
「公安のデータベースに登録されるのは国家的反乱分子の名前だけで、それ以外の人物のデータはいちいち確認していないよ。都庁職員の失踪事件を改めて調べてみても、そんな名前の人物は浮上しなかった。ただ、四年前か……時期は一致しているんだよな」
「現時点では、金沢都知事が少し関わっているという以外に、共通点はなさそうです」
「他にも接点があるかもしれない。まあどのみち、もう一度この失踪事件は調べるつもりでいるから、その際に北原歩という名前が出てくればいいのだが」
「そこに賭けるのはちょっと無理がある気もしますけど……」
「確かに厳しい調査になりそうだ。あまり警視庁のデータベースを引っ掻き回すと、それこそ公安委員会、ひいては都知事に目をつけられる事になりかねないからな」
「それ以前に大事な問題があると思いますけど」
また美衣が口を開いた。まだラズベリータルトは来ていない。
「あなたはこの件を上司にも内緒で調べているんですよね。しかも聞く限り、失踪事件の調査自体は、監察の守備範囲外に思えるのですが。本来の業務をほったらかして、不確実な噂に基づいた調査にうつつを抜かすのは、後で何かと問題視されますよ」
本当に言葉を選ばない奴だな。なぜわたしの周りにはそういう人が多い?
舛岡はこちらをじっと見て、神妙そうに告げた。
「犯罪や法律違反があれば、それを調べて追及するのが警察の仕事だ。その職務に支障を来たしかねない行為があるのなら、是正するのが監察の仕事だ。もし都知事の圧力で警察が本来の形で機能しなくなる事があれば、監察の出番としては申し分ない」
「…………」
「……という名目が立てられるから、実は上司の目はそれほど気にしておらん」
ははは……乾いた笑いしか出ない。そんな事をよくもまあぬけぬけと。これを上司の人が聞いたら何を思うのか、恐ろしくて想像もしたくない。
「しかし、色々と有益な情報が得られたのは幸いだったよ。些末なことでも公安部なら入手しているはずだが、なかなかプロテクトが堅くてね、すでに別の部署に出向いている俺には、ほとんどいい情報をくれないんだ」
「一般人であるわたし達には守秘義務なんてありませんしね」
キキは笑って言うが、わたし達も警察から情報をもらう時には、他人に口外しないよう釘を刺されているのだから、何でもぺらぺらと話せるわけじゃない。
「でも、この事は星奴署の人たちに伝える必要があるのでは?」と、わたし。
「そうなるかもしれんが、『ボット』の存在は、いずれ星奴署の捜査員も知るところとなるだろう。表立って言わないだけで、本庁の他の部署にも『ボット』を知っている人は何人かいるからな。銃撃事件は星奴署だけじゃ手に負えなくなっている。本庁筋からの情報で、その名前が浮上する可能性はあるよ」
「高村警部も知ってるんですか?」キキが訊く。
「ああ、あの人が君にずいぶん信頼を寄せているそうだね。高村警部は警視庁内でも特に顔が広いから、確実に知っているだろうな。確か彼が今回の銃撃事件で、所轄の応援に駆り出されたそうだから、彼の口から星奴署の捜査員に、この話が語られるだろう」
……そうか、つい今しがた起きたことだから、舛岡は知らないのだ。
「あのぅ、その高村警部は……」と、わたし。「ついさっき、銃撃事件の捜査から手を引くと言って出て行きましたけど」
「なんだって?」舛岡は瞠目した。
「ずっと外で見張っていたなら、出て行く所は見ましたよね」
「ああ。てっきり、本庁に何かの資料を取りに戻ったのかと思っていたが……まさか、捜査から撤退するなんて。何があった?」
「詳しいことは言いませんでしたけど、一番傷が少なくて済む方法を選んだと」
「ふむ……」舛岡は顎に手を当てて考えた。「捜査の過程で、都知事の関与を察知したのかもしれない。このまま自分が捜査を続けることで、都知事に睨まれるという事態を避けたかったとすれば……」
「高村警部が、そんな事を考えたっていうんですか?」
キキは信じられないと言わんばかりだ。彼女は先々月の事件で、高村警部がかなり手際よく調べを進めていた、その有り様を間近で見ていたから、都知事の権力に怖じて捜査をやめるという事に納得がいかないのだ。
「まあ、あの高村警部の事だからな……表向きは捜査から手を引いておいて、裏でこっそり動き回って手掛かりを掻き集める、くらいの事は普通にしそうだ」
「この間の事件と同様に、ですか……それならありえますね」
ありえるのか。先々月の事件の真相はキキから教えてもらったけど、高村警部が具体的にどんな方法で手掛かりを集めたのか、そこまでは聞かなかった。たぶん訊いてもキキは上手く答えられなかっただろうな。
高村警部はどうやら、蓋を開けずにパンドラの箱の中身を知るつもりらしい。舛岡の考えが正しければ、の話だけど。キキはどうだろう? やはり、蓋を開けることなく箱の中身を知ろうとするだろうか。
「高村警部はその点じゃ庁内の有名人さ。検挙率トップの実績もそうだが、他の人が思いもよらない所から手掛かりを拾ってくる、巧みな話術で重要な証言を引き出す、数十人の暴漢を一人でのしたこともある……とにかく伝説的な人だよ。そんな高村警部が何も考えずに捜査をやめるとは、俺には考えられないね」
「キキともみじを足して二で割ったような人だな」
と、美衣は言う。どこから突っ込めばいいのか分かりません。
「高村警部の事はよくご存じみたいですね」キキは気にしていない。
「名前だけなら庁内にいるすべての人が知っているよ。ただ俺は公安の出身だから、庁内の警察官全員のデータが頭に入っている。高村警部の場合は膨大すぎだ」
都内の警察官って、確か四万人を超えていたはずでは……それだけの数のデータが頭に入っているなら、そりゃあ小さな傷害事件の被疑者の事なんて、いちいち覚えてはいられないだろうな。というか四万人分のデータを記憶している時点で超人的だ。
「では、高村警部がわたしの事を以前から知っていた、その理由もご存じですか」
キキの質問に舛岡は眉をひそめた。先々月からずっと気になっていたらしい。キキはいい機会だと考えて質問してきたのだ。
「……詳細は知らない。少なくとも俺が記憶している範囲では、高村警部に関するデータに君の名前はない。しかし、彼はその理由とやらを決して話さないつもりなのか?」
「どうでしょう……以前に星奴署の友永刑事が訊いてみたそうですが、はぐらかされてしまったみたいで」
「それなら心配はいるまい。隠しているわけではなく、ただはぐらかしているだけなら、いずれ時が来れば話してくれよう。いつになるかは分からないが……」
「はあ……」
キキは果たして待ち切れるだろうか。高村警部がなぜ自分を知っていたのか、その理由に彼女はずいぶんこだわっている。その気持ちは、わたしには何となく分かっていた。誰に説明することもできないけれど。
「じゃあ、こちらも新たに情報が得られ次第、君たちに連絡をしよう。俺への連絡先はここに書いてある」
そう言って舛岡は、テーブルの上で名刺を差し出した。キキはそれを見て、慌てて生徒手帳を取り出した。だが筆記具がなかったため、舛岡からペンを借りることに。自分のスマホの番号とアドレスを書き込んだページを破り、ペンと一緒に舛岡に手渡した。
「それじゃあ、俺はこれで失礼するよ」
舛岡は伝票を持って席を立ち、カウンターの端のレジに向かった。コーヒーの代金を払って、そのままこちらを見ずに店を出た。
「うああぁ〜」
キキは変な声を上げながら姿勢を崩した。緊張から解放されて肩の力が抜けたか。
「やっぱり、大きな男の人が相手だと調子が出ない……」
そんなふうには見えなかったけどね。大きな男の人というより、あの威圧感のある風体が原因ではないのかな。
「で、キキ……」わたしは尋ねた。「正直どう思った? 今の話」
「どうというか、未だに実感が湧かないからなぁ。他人のパソコンに一瞬で侵入して勝手に操作して、拡散される前に情報を抹消する集団って……にわかには信じがたい」
「でも、以前にキキが言っていたような事とも合致するじゃない」
「ああ……バスの中で話したやつ? うーん、嘘から出た実って感じかな」
おいおい。確かに本気で言っていたようには聞こえなかったけれども。
「だって、誰も『ボット』の存在を確認できたわけじゃないんでしょ? ただの噂だという可能性もあるし……大体、そんな技能を持った人たちを、一斉に悪事に加担させるなんて無理がないかな」
「そうとも限らないぞ」
そう言ったのは、未だに糖分摂取が叶っていない美衣だ。
「悪事に加担させる人を集めるのは、別に難しいことじゃない。世の中には、政治や社会に不満を抱いている人がいくらでもいるからな。そうした連中を甘い言葉で誘い込めば、ハエがたかるようにやってくる。給料面で厚遇したり、革命を起こすなどと言って鼓舞したりして、犯罪に手を染めているという実感を削いでいく……」
「某イスラム系過激派組織がそうしているように?」と、わたし。
「ああ、同じ事だ。このやり方は犯罪組織のみならず、古今東西至る所で見られる。いわゆる支配者や独裁的な為政者は、そうやって自分に忠実な兵隊を集め、駒のように使って切り捨てるのさ。兵隊たちはそんな宿命なんて、微塵も考えやしない」
やはり血糖値が下がっているな。言葉の使い方が多少乱暴になっている。
「考えなしに偉い人になびく人って、どこにでもいるもんね」と、キキ。
「自分が正しいと信じて疑わない事を誰かが声高に主張していれば、迷わずその誰かになびいてしまうものよ。人は自分の望む事は喜んで信じるものだからね」
「カエサルですか」
「おお、もみじよく知ってたな。強大な権力と統率力でもって、賛否両論あれども随一の天才的政治家と評されたユリウス・カエサルの言葉だと、なかなか重みがあるな」
冷笑を浮かべているという事は、美衣の嫌いな人物に違いない。
「二人は、社会ダーウィニズムという言葉を知っているか?」
「社会ダーウィニズム……チャールズ・ダーウィンと関係あるの」
「関係はあるけど……二人もよく知っているダーウィンの進化論、つまり『種の起原』などの著書に記されている生物進化の理論を、拡大解釈して人間社会に適用した考え方だ」
ダーウィンの進化論というと、自然淘汰によって環境に適した種だけが生き残り、現在の生物のルーツになったという考え方だ。それを人間社会に当てはめる……?
「要するに、優れた人間だけが生き残り、劣った人間は排除されるのが自然の摂理だという考え方だ。ダーウィンの従兄弟が提唱した事から世界中に広まって、例えばナチスなどがこれを引用して、ユダヤ人の迫害やホロコーストなどを推進したんだ。そうした経緯もあって未だに、ダーウィンの進化論は差別的だと批判する人がいる」
「そうなんだ……」と、キキ。
「だけど、ダーウィン自身はこの考え方をむしろ否定している。生物学的には人間同士の差などたいして大きくなく、進化論にある自然選択説は適用できない、とね。自然界では人間に優劣の違いなどないと考えていたから、いわゆる奴隷制度を強く非難していたと言われている。それに自然淘汰の考えも、その生物が多産である事を前提にしているから、一人がそれほど多くの子供を産めない人間には、やはり適用できない。重要なのはその時の環境に適応できたかどうかであって、生物自体の優劣は関係ない。でなければ、恐竜が絶滅して小さな哺乳類が生き残る、なんてこともなかったぞ」
それは要するに、色んな特徴を持った子供を多く産むと、その時の環境に適応できた子供だけが生き残り、次の世代にその特徴を繋げていくという事か。
「じゃあ、社会ダーウィニズムは間違っているの?」
「人間が作った社会構造に人間が勝手な解釈を当てはめただけだから、そもそも正しいとか間違っているとか、そんな判断基準は存在しないよ。ただ、これを理由にダーウィンの思想を差別的だと非難する事は、明らかに間違っている。要するに社会ダーウィニズムというは、曲解の末の悪用なのよ」
曲解されて使われただけなのに、本来それを否定していたはずのダーウィンが非難の矢面に立たされるとは、何とも気の毒な話だ。
「ナチスがダーウィンの理論に歪んだ解釈を持ち出して、人民を煽動するべく悪用した事は事実だよ。悪しき為政者は、時に事実を無理に曲げてでも、自分になびく人間を集めようとする……どこかの大国の大統領も同じよ。『ボット』も、そうして生み出された存在かもしれないな」
「なんだか、華やかに見える歴史にも、暗い側面ってあるものだね」
キキは天井をぼうっと見上げながら言った。美衣は失笑した。
「歴史には本来暗い側面しかないぞ。歴史を作るなら馬鹿でもできるが、歴史を書くのは天才にしかできないからな」
美衣もうまい事を言う。それも誰かの格言なのだろうか……。
そう思っていると、ようやく晴美さんがラズベリータルトを持ってきた。
「はい、お待たせしましたぁ」
「ずいぶん遅かったですね」
さっそくタルトに食いついた美衣の代わりに、わたしが尋ねた。
「注文が入ってから作るようにしていたから……食後のデザートに頼む人が多いのに」
「こだわりますね」
「それよりずいぶん深刻そうな雰囲気だったけど、何の話?」
「人間の歴史は愚行の歴史、ってやつですよ」
美衣のセリフの意図が理解できず、首をかしげる晴美さん。甘いものを食べて、美衣は少し機嫌がよくなったみたいだ。
「そういえば」と、晴美さん。「あさひちゃんの具合はどう? なんか、銃で撃たれて病院に運ばれたって聞いたけど……」
「あー……大丈夫ですよ。もう意識は回復していますし、そもそも撃たれたのもふくらはぎですから、それほど大事には至らなかったので」
実際は冷たいプールに沈められていて、ぎりぎりで助かったのだけど。
「そっか……あさひちゃんのご両親から聞いた時は、何があったのかと思ったけど。もしかして、ここで話していたことも何か関係あるの?」
「まあ、あるといえば、ありますね……」
「晴美さん」キキが言った。「ここで聞いた話は……」
「分かってる。誰にも言うつもりはないから。だけど……ろくに報道されないせいで、あさひちゃんの事件の捜査が進んでいるかどうか分からないから、こっちはやきもきするしかないのよね。はあ、なんか不安になるなぁ」
テレビや新聞などのマスコミ以外に情報源を持たないと、報道がない時は不安にもなるよな……わたし達みたいに警察と繋がりを持っている方が珍しいのだが。
「大丈夫ですよ、晴美さん」キキは拳をぐっと握る。「わたし達が必ず、この事件を解決してみせますから」
「よくも簡単に言ってくれるなぁ、キキよ」美衣は冷たい反応。
「うーん、キキちゃんが言うと本当にそうなりそうだから、不思議よねぇ」
それはわたしにも覚えがある……何なの、あの強烈な説得力は。
「それで、現時点でキキに閃きをもたらしてくれそうな場所は、どこですかな」
「どこだとしても、次に行くのは第五の事件現場だよ」
「そりゃそうか……城崎さんから場所聞いていたからね。確か璃織区だよね。美衣も帰宅するついでに行ってみる?」
「わたしはタルトを食べるという重要なミッションがあるのでパス」
あ、そっちの方が重要なのね……。というかミッションだったのか。
「じゃあ、わたしともっちゃんだけで行くことになるね」
「まあ美衣の出不精はよく分かっていたつもりだけど……てか、もっちゃんと呼ぶな」
「行って調べるなら気をつけろよ」
美衣がタルトの生地をコリコリと噛みしめながら言った。
「言葉や理論を曲解して悪用する輩はどこにでもいる。いつも相手を理屈で押し倒せるわけじゃないという事を、忘れるな」
一応心配してくれている……よね。基本的に感情表現が下手くそなのだ。
「うん、分かってるよ」キキは微笑んだ。「美衣には心配かけないから」
「迷惑はかけるかもしれないのかな……」
美衣のその予感は当たるかもしれない。キキもまた手段を選ばない奴だ。そして美衣は文句を言いつつも断らない。美衣の力が必要になる事態が訪れるかは分からないが、そうなれば確実に、言ったような事になるだろう。
これは、キキと友達になってしまった人の宿命なのだ。でもキキは、歴史上の悪しき為政者とは違う。決して仲間を捨て駒にはしない。
チャールズ・ダーウィンの著書は一般的な名称である『種の起源』ではなく、原典に近い『種の起原』を採用しています。また、本編中の美衣のセリフ『歴史は馬鹿でも作れるが、歴史を書くのは天才にしかできない』は、オスカー・ワイルドの格言『どんな愚者でも歴史を作れる、しかし歴史を書くには天才が必要である』をもじりました。