その1 追跡失敗
※作者注
もう少し後になってから作中でも言及する予定ですが、このセクションでは、2017年3月現在、最高裁の判決を受けて警察庁から自粛が指示されている『GPSを用いた捜査』のシーンがあります。今後、新たに策定される法案の内容によっては、作中におけるGPSの使用は現実としてありえない事になるかもしれませんが、リアルな作中展開を重視し、あえて採用することにしております。予めご了承ください。
なお盗聴器の使用は、令状による通信傍受のみが適法ということで、やはり作中での使用は違法である可能性が高いです。これはあくまでフィクションであり、このような捜査を行なう警察官は恐らく実在しません。表沙汰にならない前提で行なわれていることを承知の上でお読みください。
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警視庁星奴署の鑑識捜査係に所属している城崎巡査部長は、応接用のソファーに腰かけてパソコンと対峙していた。ここは刑事課の鑑識以外の係が共同で使う、いわゆる刑事部屋であるが、鑑識係のチーフである城崎は、ある事情でここに駆り出されていた。優秀な同僚が鑑識には何人もいるが、彼らにばかり本来の仕事を任せたくない城崎にとって、この状況は決して歓迎できるものではなかった。
画面に表示された光るドットの動きを、城崎はぼうっとしながら目で追っていた。両耳につけたヘッドホンから流れてくる会話は、ほとんど聞いていなかった。どちらも強行犯捜査係から命じられてやっていることだが、城崎は内心、恐らく無意味な監視になるだろうと思っていた。ゆえに、まじめに取り組むつもりなどなかった。
約一分前、光るドットは変な位置で止まった。予想通りとしか思わない。そしてこうなると、自分たちにできる事はなくなる。どうあがこうと、彼女たちの姿は影さえも見つからなくなる。
刑事部屋のドアが勢いよく開かれ、二名の刑事が慌てて入ってきた。
「尾行を撒かれました!」
「なんだとっ?」強行犯捜査係の係長、木嶋が反応した。「どういうことだ?」
「それが……ここから西方面に進んだ所にある、歩道のない路地に入った後、突然走って裏の大通りに出た所でタクシーを拾われてしまって……」
さすがだ、と城崎は思った。星奴署の裏手にある大通りは、ビジネス街に通じているからタクシーの往来が多い。どこかで拾うのは容易だ。
「タクシーの会社とナンバーは控えました。先ほど問い合わせて、現在地を確認させているところです」
「それならいいが……おい鑑識、GPSと盗聴器はどうだ?」
せめて名前で呼んでほしいものだ。城崎は、木嶋というこの横柄な刑事が嫌いだ。
GPSと盗聴器は、対象者である二人のうち一人が身に付けていたコートに、先ほど戻ってきた二人の刑事の片割れがこっそり仕込んだものだ。確か名前は吉本という巡査部長だ。そんなにはっきりと名前を覚えていない。城崎が覚えているのは木嶋と、その部下である友永巡査部長と紀伊巡査だけだ。その二人には好感が持てる。
「あー、GPSの反応なら、問題の路地の脇にある家の敷地に、ずっとありますよ」
「はあっ?」木嶋は苛立っていた。
「どうやら路地に入る前から刑事の尾行に気づいて、コートを脱いで塀の向こうに投げ捨てたみたいですね」
「くそっ、なんてこった。尾行だけじゃなくGPSの存在まで気づかれるなんて……まあさすがにコートに仕込んだ事までは分からんだろうから、これは偶然だろうが」
近視眼的とはこの事だろう。あのコート、昨日は身に付けていなかった。つまり最初からGPSなどを仕掛けさせるために用意したものだ。スカートまで隠れる大きめのコートだから、身長差を考えればGPSの類いはコートに仕掛けるしかない。こちらの行動を読んだうえで、コートに仕込むよう誘導したのだ。
対象者がコートを捨てたのは偶然でも何でもない。初めから予定していたことだ。
「それより、GPS発信機の動きに異常があったなら、なんですぐ知らせないんだ」
「知らせたところで意味はないでしょうからね。こうなった以上、彼女たちの追跡は完全にできなくなるだろうと思いましたから」
「なに寝ぼけた事を。タクシーを拾った時点で、我々の手にかかったも同然だ。今日中には容疑者の居所も掴めるに決まっている」
自信満々で嘲笑する木嶋を、城崎は見返さなかった。この後、木嶋の自信が粉々に砕け散る事は目に見えていたからだ。
直後にタクシー会社から連絡が来て、問題の車両はここから一キロほど離れた所で、すでに客を降ろしたと知らされた。その後の客の動向は関知していないそうだ。一キロなら初乗り運賃で済むから、中学生の財布だとその距離が適当だろう。木嶋は、別行動をしていた刑事にこの事を知らせて、その場所へと向かわせた。
数分後、その刑事から電話連絡が入った。ちなみに名前は忘れた。
「現在、追尾対象者が乗り込んだと思われるバスを追っています」
「バスに乗ったのか?」
「ええ、バス停の近くにいた主婦が目撃していまして、璃織区行きのバスを待っている所を見たそうで。近い時刻に出発したバスを追っている所です」
「よぉし、これで追い詰めたぞ」
木嶋はどうも勝利を確信したようだが、さてどうなるか……。
結果は、城崎の予感が当たった。その数分後、木嶋たちにとっては信じがたい報告が来た。対象者が姿を消したというのだ。
「どういうことだ! 対象者がバスにいないというのは!」
木嶋は明らかに狼狽している。身勝手な大人が慌てる姿は見ていて気分がいい。
「それが、運転手も、途中で降りた客の中に、中学生らしき子はいないと……」
「バカな! 走っているバスの中で消えたっていうのか?」
「そうじゃないでしょう、木嶋さん」と、城崎。「最初からそのバスには乗っていなかったんですよ。いなくて当然です」
「だが、目撃証言が……」
「相変わらず頭が固いですねぇ。証言をした主婦が、彼女たちとグルなのでしょう」
「なっ……!」木嶋は唖然として、すぐ受話器に向き直る。「おい! 証言をした主婦らしき女性、どこに行ったか分かるか?」
「わ、分かりませんよ。単なる目撃者ですから、乗っていた車のナンバーも確認していませんし、風邪気味でマスクをしていたから人相も……」
「だったらすぐに戻って来い! どうせ三人の母親のうちの誰かだ。自宅に行って不在を確かめれば簡単に……」
「いえ、三人の母親の中にはいませんよ」
そう告げたのは紀伊刑事だ。受話器を戻して木嶋を見る。
「先ほど電話で確認しましたが、三人の母親はいずれも自宅にいました。電話の向こうに騒音はなかったので転送電話でもない。間違いないですね」
「今から他の心当たりを探っていたら、確実に先を越されますね」友永刑事も神妙に言った。「これ以上の追跡は不可能でしょう」
「ああああっ! 何だよ、この状況は!」木嶋の不機嫌は頂点に達していた。「こんなことごとく先を越されるなんてありえん! たかが中学生を相手に!」
されど中学生なのだが。城崎は肩を竦めるしかなかった。対象者の行方を完全に見失ったとなれば、今日はもう大きな進展はないと考えていいだろう。
大体、あの少女は警察に目をつけられる事を、初めから想定していたのだ。ならばいくらでも予防線を張る事はできた。彼女にかかれば、その群を抜く閃きでもって、警察の読みをすり抜ける方法など無数に考えつくだろう。負け戦だと分からずに挑んで負けることほど、情けない負け方はない。
「こうなったら町内の至る所に人員を派遣して、あのガキ共の足取りを探ってやる! いずれは自分の家に戻るんだ、その時になれば手掛かりを残さざるをえまい」
無駄なことだ、と城崎は思った。彼女なら確実に、星奴署の手が届かない町外に出ているはずだ。高い確率で、その場所で一晩を過ごすだろうし、そうでなくても警察の目を欺きつつ自宅に戻る方法はある。城崎が思いつくような方法だ、彼女に思いつけないはずがない。具体的な事は分からないので、木嶋たちに伝えたところで無意味だが。
「そういえば、盗聴器での会話は? あれに容疑者の居場所を特定するヒントがないか」
「はあ……」城崎は嘆息をついた。「気づくのが遅すぎますよ」
「階級が上の人間を見下げる暇があるなら、こっちの質問に答えろ!」
「先ほど、会話の一部始終を再生して聞いてみましたが、なかなか興味深いですよ」
「だったらさっさと聞かせろ!」
木嶋はヘッドホンのプラグをジャックから乱暴に引き抜いた。鑑識の部品なのだから丁重に扱ってほしいものだが……。はてさて、この会話を聞いて木嶋たちがどんな反応をするのか……城崎は冷めた気分で、録音した会話を再生した。
パソコンの周りに刑事たちが集まってきて、会話に耳をそばだてる。
『さてと、これからどうする?』
『そうだなぁ……まだ情報が少ないから、まずはいちばん身近で、いちばん核心に近い当事者から話を聞こうかな』
『ま、そうなるよねぇ。でもこのまま直接行っていいのかな』
『不安なら少し遠回りしてく?』
『そうねぇ…………おでんでも食べに行く? あのいいにおいが忘れられない』
『……ああ、なるほど。もっちゃん、今どのくらいある?』
『えー……二千円かな。というかもっちゃんと言うな』
『ふうん。どうしようかな……とりあえず、先に何買うか選んでおこう』
『ねえ、ちゃんと話聞いてる……? まあ、なるべくなら体が温まるものを中心に食べたいね。今日はまた一段と寒いし、色々疲れたし、お風呂で温まりたい』
『うーん……やっぱそこは、見える形で疲れを取った方がいいよ。烏の行水になりかねないし』
『それ、言葉の使い方が間違ってないかな……まあいいや。じゃあ、話の続きはその後でということにして』
『おでん作戦、実行開始だね』
『別にそんな作戦名をつけた覚えはないけど』
この後は無言が続く。ごそごそという物音と、布が広げられた時のバサッという音。どうやらここで、盗聴器が仕掛けられたコートを脱ぎ捨てたらしい。
「どこがどう興味深いというんだ、城崎……!」
「ま、高度なジョークと同じですよ。分かる人には面白いんです」
「どう見ても無意味な日常会話じゃないか! 聞くだけ時間の無駄だったよ」
確かに今さら聞いても無駄だったかもしれない。しかし、この会話に隠れた意味を読み解けないとは、全くもって哀れな人だ。木嶋は応接スペースから離れた。
「とにかく、星奴署管内で手の空いている警官は、あのガキ共がいつ帰ってきてもいいように、街中に散って見張りをするんだ!」大声を上げる木嶋。「多少は頭が切れるみたいだが所詮は中学生、警察という強権をもってすれば必ず尻尾を掴める! 警察を馬鹿にするような愚か者どもに、社会の厳しさを教えてやるんだ!」
「…………」
「返事くらいしろよ! 士気が低いぞ、士気が!」
そりゃあ、ここにいる人たちの多くから信頼を得ていない木嶋がひとり怒鳴ったところで、誰が快く反応するというのだろう。愚かなのは木嶋の方だ。
付け加えるなら、彼の主張には誤りがある。警察権力をもってしても、彼女には決して敵うまい。一般人である中学生だからこそ、警察には分からない抜け道を見つけやすく、さらに多くの市民を味方につけやすい。警察はとかく、市民に嫌われがちだ。そして彼女には突出した閃きがある。
城崎はノートパソコンを閉じて、片手に抱えてその場を離れた。これ以上、負け戦に時間を取られてはたまったものじゃない。
高村警部が手を引いた今、彼女に敵う人はこの警察署にいない。いや、警視庁全体にも少ないだろう。誰もが彼女の力を過小評価している。彼女がその気になれば、凄腕の捜査員にだって引けを取らないだろう。
星奴署での騒ぎは想像に難くない。特に木嶋は大慌てだろう。
わたしとキキを乗せた車は、星奴町の隣の門間町に入り、町外の友人である篠原さそりの家に向かっていた。運転しているのは母親の星子さんである。
「いやあ、ひやひやしたわ」わたしは胸を押さえた。「刑事の尾行を撒くなんて、緊張するし後ろめたいし、ああもう二度とやりたくない」
「そう? わたしは割と楽しかったけど」
キキは純度百パーセントの笑顔で言った。なんでも楽しむにしても限度があるぞ。
「よかったの?」バックミラー越しに星子さんが訊いた。「私に話しかけてきたあの二人って、刑事さんなんでしょ? 嘘を教えるのはまずかったんじゃないかな」
「捜査とか裁判の証人でなければ、嘘をついても罪にはなりませんよ」
それは嘘をついていい理由にはならないだろう。
星子さんは星奴署の刑事の一部と面識がある。十四年前に夫、つまりさそりの父親が殺害された事件では、事件現場が星奴町だったためだ。星奴署の刑事なら、十四年前のこととはいえ、彼女の顔を知っている人がいる可能性はあった。だから星子さんにはマスクをした上で応対してもらったのだ。顔の大部分を隠すためだ。
それにしても、キキが事前に予測していたとはいえ、本当にわたし達を尾行してまで、彼の居場所を探りに来るとは……まあ、予測していたから、事前に色々対策を練る事はできたけれど。あらゆるパターンを想定して、知られては困る単語は符牒にした。警察でよく使う隠語と同じ原理だが、まあ……ぜんぶ駄洒落である。キキは盗聴器を仕掛けられる可能性も考えていた。符牒を使えばこちらの動きは悟られない。
星奴署の裏手の大通りでタクシーに乗ったわたし達は、タクシーの中で星子さんの携帯に電話をかけた。事前に、彼の着替えを買うために星奴町内の店に行くよう、星子さんに頼んでおいたのだ。彼女が服を買って帰宅する途中で、タクシーを降りたわたし達を拾ってもらった。無論、指定していた場所の近くのバス停で、何時ごろにバスが出るのか、すべて把握したうえで決めたのだ。狙い通り、後続の刑事たちの目を逸らす事ができた。
「しかし、ここまで上手くいくとはね……キキ、あんた名参謀になれるよ」
「それは褒め言葉なの……?」
「だって優秀な参謀は主君から大きな信頼を得られるんだよ? すごいことだよ。片倉景綱とか、板部岡江雪斎とか、本田正信とかと並ぶわけだし」
「うん……歴女ならではの褒め言葉だという事は理解しておくよ」
具体的な事は何ひとつ理解できていないようだ。みんな有名だと思ったけどなぁ。黒田如水とか出せば理解できたかな。……ないな。
「さあ、着いたわよ。せっかくだから、ホットケーキでも食べてく?」
星子さんは来客があるたびにホットケーキを振る舞っている。まあ美味だし、おやつが欲しいと思っていたのでちょうどいいけど。
ガレージに車を入れて、わたし達は車から降りて家の敷地に足を踏み入れた。ガレージの壁は分厚いアクリル板で出来ていて、狭い庭から内部が見通せる。壁の隅にあるドアは木製だが。母子二人だけが暮らしているように見えない二階建ての家屋の、玄関の前まで来てドアを開ける。
車のエンジン音で帰宅を察知したらしく、さそりが駆け寄ってきた。
「おかえり、お母さん」
「ただいま。もう帰ってたの?」
「うん。塾に行く前に家の様子を見ておきたかったから」
篠原さそり、十三歳。門間町立門間第一中学校に通う中学一年生。学区の都合で小学校だけはわたしやキキと一緒で、住む町も通う学校も分かれた現在でも、たまに会って遊び行くことのある仲である。黒髪ツインテールにスレンダー体型という、等身大のフィギュアに命が吹き込まれたような外見をしている。
「それで、現状はどうなの?」わたしは尋ねた。
「異常ナッスィング」さそりは親指を立てて答えた。「念のために家の周りも調べてみたけど、変なものが仕掛けられている様子はなかったよ」
そこまで念を押すように頼んだ覚えはないけどね……このイレギュラーな事態にも眉ひとつ動かさず立ち回るとは、さそりの適応能力も凄まじいものがある。
「それじゃあ」さそりは敬礼して言った。「そろそろ塾に行く準備するね。キキともっちゃ……じゃなくてもみじが来るまでは、待っていようと思って」
さそりもどことなく天然の気があって、キキと同じくわたしのことを“もっちゃん”と呼んでしまいがちだが、自発的に癖を直そうとするだけまだマシだ。わたしの前では未だに、気が抜けて“もっちゃん”と呼んでしまうらしいが。
しかし、唐突で大変な頼み事だというのに、塾に行く時間を押してまでわたし達に協力するとは……。
「ホント、マメな子に育ったものだねぇ」
「もっちゃん、そこ感慨深くなるとこかな……」
キキにはいい加減に直してもらいたいよ、この口癖を。
「さあ、遠慮なく上がって頂戴」星子さんが先に靴を脱いだ。「おいしいホットケーキ、後で持っていくから」
そう言って星子さんは台所へ向かった。取り残されるわたしとキキ。キキはさっき星子さんが星奴町内で購入した、男物の服が入った紙袋を持っている。
「それじゃあ、行きますか」
「だね」
何もかも事前に決めていた。刑事の尾行を撒くための大掛かりな段取りも、今からここで、事件の核心に関わる話を聞くことも。
彼は、かつてさそりの父親が使っていた和室にいる。わたしとキキは和室の前に来て、襖を開けた。その向こうには……。
「おう、やっと来たのか」
レースカーテンがかけられた薄暗い部屋の中で、座布団に腰かけながらスマホを操作している功輔がいた。……目に悪いぞ。