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EVIL TARGET~標的の宿命~  作者: 深井陽介
第一章 生者を弄する死者の罪
21/53

その21 キキの罠

 <21>


 山本あさひが重傷を負い、この流成大学附属病院に搬送されてから二日たった夜。時刻は八時を少し回ったあたり。見舞い客も数を減らしたこの時間帯に、帽子を目深に被った一人の少年が、正面入り口から院内に入って来た。

 入り口の閉鎖時刻が間近に迫っているためか、正面ロビーの全ての照明は消えており、一階フロアの光源は受付の天井灯だけ。おかげで受付にいる誰ひとりとして、少年の侵入に気づかなかった。少年は受付に残っている数人のスタッフに見られぬよう、足音を立てずに受付の前をやり過ごした。

 問題の病室がどこにあるのか、少年は聞いていなかった。これは病院や警察で極秘事項扱いになっているらしく、どこをつついても情報は出てこなかった。直接スタッフに訊ければいいのだが、見舞い目的以外で入院患者のいる病室を教えてもらえるとは思えず、だからと言って見舞い客を装えば受付で名前を記録されてしまう。昏睡状態の患者で、しかも傷害事件の被害者であれば、なおさら見舞い客のチェックは厳重になるだろう。

 しかし、少年には別の当てがあった。意識が戻っていないとはいえ、事件の被害者が無事でいるのなら、犯人に再び命を狙われる事態を、警察が想定しないはずがない。ならば病室の前には見張りの警官が一人はいるはず。

 外科病棟に入り、各階を回って廊下の状況を確認していくと、四階のある病室の前に、パイプ椅子に腰かける制服警官の姿があった。間違いなくあの病室だ。一人しかいないのは好都合といえた。問題はどうやって部屋に侵入するかだが……。

 しかし、幸運な事態はすぐに訪れた。

 固いものが床に落ちるカタンという音が、廊下の奥から聞こえたと思うと、制服警官が立ち上がって音のした方へ向かった。どうやらトイレに行こうとしていた老婆が、何かにつまずいて転んでしまい、その際に杖か何かが倒れたらしい。

「大丈夫ですか?」

「ああ、平気ですよ……」

 老婆のしゃがれた声が聞こえる。チャンスだ。少年は問題の病室に素早く駆けつけ、警官と老婆の様子に注意を配りながら扉を開け、すっと身を滑り込ませた。

 音を立てずに扉を閉める。その後に廊下の様子に耳をそばだてたが、警官が再びパイプ椅子に腰かける音がした後は何も起きなかった。どうやら、誰にも気づかれることなく侵入できたようだ。

 少年はせせら笑いを浮かべた。結局は狡猾さと立ち回りの上手さが、全ての物事の勝敗を決める。運さえも味方につけて、迷うことなく実践できる人間だけが、あらゆる連中を凌駕する力を手にできるのだ。馬鹿で幼稚な正義感など、尊崇の対象にはなり得ない。自分のような力のある人間によって、惨めに潰されるのが宿命だ。

 ベッドに近づく。シーツをかけられた患者の姿を見る。顔はちゃんと出ていて、暗いうえに酸素マスクがつけられていても、山本あさひだという事はしっかり判別できた。腕もシーツから出ていて、点滴用の注射針が射し込まれている。手首に触れてみたが、脈拍は明確に触知できた。もう疑いの余地はない。こいつは山本あさひだ。

 少年は、もうすぐ訪れる自らの勝利に早くも酔いしれていた。注射針を慎重に腕から引き抜き、ガーゼの間に挟んで腕の上に載せた。次に、酸素マスクをそっと外した。しばらくこの状態で放置しておけば、翌日にはまた危険な状態になるだろう。刃物を突き立てれば確実に始末できただろうが、夜中に刃物を持って外を歩くわけにはいかなかった。だが意識のない患者を重篤な状態にするなら、いくらでも方法はあった。

 さあ、これで山本あさひは、二度と目を開かなくなって……。

「やっと来たわね」

 なっ……。少年は心臓が口から飛び出そうになった。動くはずがないと思っていた少女が、唐突に目を開いて口を利いたのだ。計算にない事態に、少年は思考が働かなかった。

 すると、今度は病室の照明が点灯し、開かれた扉と、壁際の棚の陰から、山本あさひと同じ年頃の少女がふたり現れた。扉から入って来たのは、長く整った黒髪を持つ小顔の少女で、棚の後ろから現れたのは、所々跳ねた茶髪がずぼらそうに見える少女。二人とも、射るような視線を真っすぐに少年へ向けていた。

 蛇に睨まれた蛙。縁がないと思っていたこのことわざは、今の自分そのものだと、少年は思わずにいられなかった。


 何もかも予想通りだ。現れた少年は似顔絵の人物と瓜二つ、つまり柴宮酪人だ。さして意外とは思わない。証拠が不足していただけで、彼が犯人である事は明白であった。

 柴宮は、この状況が信じがたいとでも言わんばかりに、瞠目して表情を歪めながら立ち尽くしていた。やがてあさひが上体を起こすと、柴宮の呼吸がさらに乱れ始めた。

「……キキから話は聞いていたけど、やっぱりあんたが犯人だったの」

「な、何だよ、これ……だまし討ちかよ? 意識がない振りをしていただけか。それなのに点滴って、こんなことしてただで済むと思ってるのか?」

「点滴静脈注射は、薬剤を徐々に、または持続的に体内に注入するための手法。意識のない人に栄養を与えるためのものとは限らない。わたしの場合、血液を割と失った上に傷口から細菌が入り込んだ可能性が高くて、薬剤の注入は慎重に行なう必要があった。だから意識が戻った後でも、点滴自体は何も問題ないのよ。お分かり?」

 あさひは嘲笑を柴宮に向けた。自分を傷つけた人物へのささやかな復讐だろうか。

「単純な罠でしたけど、上手くいきましたよ」と、キキ。「意識不明の被害者が明日にでも目覚めそうだと知れば、あっちゃんを憎む犯人は絶対に黙っていられない。口封じの意味もあるでしょうが、何よりこのまま無事に生かすこと自体が我慢できなかった。必ずここに来て、何かしら行動を起こすと踏んでいましたよ」

 より厳密に言うと、柴宮がそうした行動を起こすように仕向けたのだ。能登田中に嘘の噂を流しておき、それを聞きつけた柴宮が確実にあさひを手にかけるよう、随所に仕掛けをしていた。見張りの警官を一人にしておいたのは、別の事情もあるが、寸前で柴宮が危険を察知して逃げ出さないようにするため。そして駄目押しとして、老婆が警官の近くで転ぶことで、わざと警備に隙を作って柴宮を誘い込んだ。最初から病室内にはわたしが潜んでいたが、それでも柴宮が暴挙に出る事は避けたかった。だから警官も、柴宮の侵入に気づいていても、あえて病室内を覗かなかったのだ。

 ちなみにあの老婆は、唐沢菜穂の知り合いの演劇部員から借りた衣装で変装したキキである。この作戦をキキが伝授した際、菜穂が提案した事だった。

「ち、違う!」柴宮は大仰に首を横に振った。「俺はただ、警察の警備とかが大丈夫なのか心配になって来ただけで、点滴もマスクも、さっき外れているのを見かけて……」

「わたしの感覚だと、どちらもさっき外されたように思えたけど」と、あさひ。

「そ、それは違う。たぶんお前は、さっき言った傷口からの感染で一時的に脳の働きが混乱していたんだ。だから、さっき外されたものだと錯覚して……」

「苦しい言い訳だね。君が先ほどやった事は、全部カメラに収まっているんだけど」

「な、なんだと……?」

 わたしは、ベッド脇の棚に歩み寄り、棚の上の花瓶の裏側に隠していたビデオカメラを手に取った。録画を停めて、撮影した動画を再生してみた。

「うん、バッチリ。赤外線カメラだから暗所でもしっかり撮れてる。あんたが酸素マスクを外した瞬間が写っているよ。とりあえずこの場での犯行は証明されたね」

 柴宮が行動を起こすよう仕向けたのだから、決定的瞬間を押さえる準備は事前にいくらでもできた。この隠しカメラもその一つである。相手がもし口八丁を得意とするなら、反論の余地のない証拠を入手する必要があった。

「柴宮酪人さん」キキはよく通る声で告げた。「あなたは、一連の銃撃事件の主犯に唆され、その犯行に協力した。具体的には、自分の教室の鍵を借りると偽って、その鍵にプールの鍵のシールを貼っておき、実際はプールの鍵を持ち出した。シリコンなどで鍵の型を取った後、すり替えた鍵は元に戻しておいた。その型を元にプールの鍵の複製を作り、さらには水溶性の手紙であっちゃんをプールに呼び出し、あらかじめ複製の鍵で開けておいたプールに誘い込む。そして、主犯によって銃撃されたあっちゃんを、冷たいプールに突き落とした……!」

 キキの表情が次第にしかめ面に変わっていく。憤怒の感情が透けている。

「い、いったい何のことだか……」柴宮は頬が引きつっていた。

「でもあっちゃんは寸前で助かった。確実に死の危険にさらしたかったあなたは、病室に侵入してまであっちゃんを殺そうとした。心配になってここに来た? だったらなんで、診療時間も終わってしまうこの時間に、なんで人目を避けるようにして移動したの? 何もやましい事がないなら、そんな面倒な事をする必要はない。警備状況なんて、病院のスタッフに訊けば一発で分かる事でしょう。なぜそれをしなかったの?」

「それは、気が動転していて……」

「なぜあなたが? 気が動転していたなら、なおさら夜中に人目を避けて移動する事の説明がつきません。そんな集中力の求められること、混乱した状態では不可能ですから」

 柴宮は唇を突き出し、忌々しげにキキを睨みつける。学校で聞いた限りだと、柴宮はかなり自尊心の強い人物だ。舌戦で女子に気圧されるのは屈辱だろう。

「……わ、分かった。ここでやった事は認めてやるよ。俺はこいつに個人的な恨みがあったから、懲らしめてやろうかと確かに考えたよ」

 ふざけた物言いだとわたしは感じた。個人的な恨みを晴らす事に“懲らしめる”という言葉はふさわしくない。

「だけど、事件そのものに俺は関わりない。俺は便乗しただけだ」

「あんたね……」わたしもいい加減に我慢の限界だ。「目覚めると思われた寸前にタイミングで口封じにやって来て、そんな言い訳が通るとでも思ってるの?」

「ああ思うさ。だってここで俺がした事と、二日前の事件は直接には関係がない。いくらカメラで俺の犯行を撮ったとしても、それが事件の証拠だなんて言ったら、裁判官に笑われるのがオチだぜ?」

「鍵のすり替えをやったのはあんたでしょ!」

「それだって、実際にすり替えた所を見た人がいたのか? 俺は確かに自分の教室の鍵を借りたけど、それがすり替えられた鍵だったなんてねぇ、驚きとしか言いようがない」

 なんて盗人猛々しい姑息な野郎だ。自分のしたことが悪事だという自覚がないのか。

「あんたの借りた鍵が、プールの鍵とすり替えられた事は、シールの接着剤が残っていたことで証明されているのよ?」

「それを借りたのが俺だけだから俺が犯人だって? 乱暴にも程があるな。大体、鍵のすり替えが事件と関係しているって、どうやって証明するんだよ」

「まあ難しいだろうね」キキはあっさり言った。「プールの鍵を開ける方法はそれしか考えられないけど、逆に鍵のすり替えがそのために行われたと証明するのは、厳密にやろうとすれば確かに難しい。だから、ちょっと別の方法を考えてみたんだ」

「べ、別の方法だと……?」

 柴宮は鍵のすり替えと複製に関して、かなり慎重を期していた。だがそれ以外の方向から攻められた場合に、どう対処するかは考えていなかったのではないか。現に、柴宮の動きからは動揺が見て取れる。

「あなたが当日着ていた衣服を、警察で調べてもらうというのはどうかな。あなたがこの事件に関わっているのなら、たぶん袖口に拭いきれない痕跡があると思うけど」

 キキの考えを察した。その痕跡とはペンキの跡のことだ。ペンキは水洗いしても簡単に落ちるものじゃない。わずかでも、更衣室の床にこぼれていたものと同じペンキが、袖口の辺りから検出されるはずだ。それでもたいした証拠にはならないかもしれないが。

 ただ、犯人が床のペンキに手を突いた事は、わたし達と警察関係者しか知らない事だ。今ここで柴宮の口からペンキという単語が出れば、それが突破口になる。些細な失言を誘発させて切り口を見つけるのは、キキの得意技だ。

「自分が犯人じゃないと証明したいなら、出してもらえますか」

 柴宮はしばし無言でキキを睨んでいたが、やがて余裕の態度で言い放った。

「いいけど、調べたって無駄だぜ。硝煙反応は水で簡単に落とせるし」

 えっ……? 予想外の答えが返ってきた。

「ふうん、そうなの?」キキは少し悔しそうに言った。

「あんたが自分で言ったんだぜ? 山本を撃ったのは別の奴なんだろ? だったら、俺の服をいくら調べても硝煙反応なんか出やしないぜ。間の抜けた勘違いだな」

 想像以上に手ごわい相手だ。キキの考えを瞬時に見通して、同じく腕に付いても不思議じゃない硝煙反応を持ち出した。自分が勘違いしていると思わせて、決定的な一言を避けたのだ。同時に相手を焦らせ、立場の逆転を図ろうとしている。意外と頭がよく回る奴だ……。

「別に勘違いしていたつもりはないですけどね」キキは頬をぽりぽりと掻いた。「主犯が別にいる事は確かですけど、この件の協力者はあっちゃんをかなり恨んでいるみたいなので、学校の裏のビルからの銃撃もあなたの仕業、という可能性もありましたし」

「へえ、山本は学校の裏のビルから撃たれたのか。知らなかったな」

 柴宮がそう言った途端、キキは自分の口を手で塞いだ。口を滑らせた、という内心が見えるようだ。それが柴宮にさらなる余裕を与えた。

「お前、結構バカだろ。ただの中学生にそんなことができるかよ」

「それなりに練習すれば、最初に決めた一点を狙うのもできそうですけど」

「無理だって。夜中にそんな遠くからふくらはぎを狙い撃つなんて、プロのスナイパーでもなければ不可能だろ」

「じゃあ、あなたはプールに突き落としただけなんですね」

「その手には乗らねぇぞ。突き落とすどころか、プールに来てさえいない」

「ではこの映像を見てください」

 キキはタブレット端末を取り出した。……どこから?

 端末のスイッチを入れると、画面に動画が映し出された。夜中にハイアングルで遠くから撮影された、能登田中のプールだ。誰かがプールサイドでうずくまっている。暗くて影しか見えないが、あれがたぶんあさひだ。

「な、なんだ、これは……」柴宮に動揺が戻った。

「学校の向かいにあるマンションの住人が、当日のプールの様子をスマホで撮影していたんですよ。いやあ、探すのに苦労しました。様子がおかしいことに気づいて、思わずスマホを構えてしまったそうです」

 柴宮の額に、徐々に玉の汗が数を増していく。動画の中身と連動するように、キキが実況の如く説明した。

「ほら、見てください。プールサイドでうずくまっていた人が、今しがた別の人物に突き落とされました。ここでは暗くて二人の顔がよく見えませんが、この後には立ち去っていく犯人の姿も映っています。校門近くには街灯の光があるので、逃げて行く犯人の姿が確認できます」

 沈着とした面持ちで語り続けるキキとは対照的に、柴宮は虹彩が揺れていた。漏れ出る吐息は途切れがちで、精神が安定を失っている事は一目で分かった。

「この後はどう動くでしょう。おっと、そのままプールを出て行きますね。どうやら撮影した人の存在には気づいていないみたいです。悠然とその場を去って……」

「ふっはっは!」柴宮は突然高笑いした。「やっぱり捏造(ねつぞう)か!」

「捏造? どうしてです?」

「何も知らないで想像だけで作っただろ! 俺は確かにマンションの人影に気づいた。そして慌てて逃げ出したはずだ。そんな映像には……」

 柴宮はその表情のまま、時間が停止したように固まった。キキは無表情のまま告げた。

「そうです。この映像は後から作った偽物です。ちなみにこの部屋にはあらかじめ、携帯電話とセットで使う小型マイクを設置していて、会話はすべて別室にいる刑事さんが聞いています。オープンリールで録音しているので証拠として十分です」

「お、お前……そんな卑怯な真似を」

「嘘は言ってないですよ。撮影に使ったのはマンションの住人のスマホですし、事件の日にスマホを構えた事も事実です。まあ、間に合わなくて撮影はできなかったそうですが。撮影したのも、事件当日ではなく調査をした当日です。わたしは撮影した内容を語っていただけですから、嘘にはなりませんよ」

 信じられないという心境が顔に現れている柴宮。全部が巧みな誘導だった。理論面でも感情面でも、一切の反論が跳ね返されるように組み立てられていた。

「柴宮さん。あなたは事件当日、プールに来ていましたね? そこで、向かいのマンションの住人に姿を見られたと気づいた。だから焦ってその場から逃げ出し、結果、塗装用のペンキの缶を蹴飛ばして転んでしまい、こぼれたペンキに手を突いた」

「そ、それは……」

「それと、さっきあなたはこうも言いましたよね。『ふくらはぎを狙い撃つなんて』と。この件はマスコミに公表されていませんし、夜中の学校での出来事だから、警察が把握している以上の目撃者なんていなかった。だから、あっちゃんの撃たれた部位がふくらはぎだという事は、警察と、直接情報をもらったわたし達しか知らないのです。実際にこの事件に関わった犯人でない限りはね……」

 柴宮はしばらく口籠っていたが、やがて何か思いついたように顔をあげた。

「あっ、違う……呼び出されたんだよ」

「呼び出された?」キキは目を細めた。

「そ、そう……俺が事件の日にプールに来ていたのは認めるよ。だけどそれは、山本と同じように手紙で呼び出されたからなんだよ」

「ではその手紙はどちらに?」

「さあな。もうどっかに捨てちまったよ」

「またそうやってしらばくれて……」わたしは怒気をこめて言った。「じゃあ何? あさひが撃たれてプールに沈んでいた事に、あんたは気づかなかったっていうの?」

「い、いや……」柴宮はわずかに動揺した。「き、気づいてはいたよ。撃たれた瞬間は見てないけど、プールの中にいる山本は確かに見た……だけど、そう、こいつの言ったように誰かが見ている事に気づいて、このままじゃヤバいと思って逃げ出したんだよ」

「いい加減にして! だとしても普通はあさひを助けるでしょう! そうすれば犯人に疑われる事もないんだし……」

「こ、恐くて気が動転していたんだよ。それに、手紙で呼び出したのは、俺を犯人に仕立て上げるためだったかもしれないと思って……」

「そんな言い訳が通るわけないでしょ。自分で言っておいて不自然だと思わないの!」

「ひ、百パーセントないとは言い切れないだろ」

「いいえ」

 キキはまた、よく響く声で言い放った。柴宮は金縛りに遭ったように固まった。

「百パーセントありえません」

「な、何を根拠に、そんな出まかせを……」

「さっきも確認したように、あっちゃんがふくらはぎを撃たれた事をあなたは知っていました。その話が本当であればありえない事です」

「ど、どこが……言っただろ、プールの中にいる山本は見たって」

「それでも分かるはずがありません。プールに沈んでいるあっちゃんを見たのなら、それより前に、あっちゃんは別の人物に突き落とされた事になります。脚をかすめた程度であれば、反動でプールに落ちるという事もないですからね。つまり、あっちゃんがプールに突き落とされ、犯人がその場から逃走し、その後にあなたがプールサイドに出てあっちゃんを発見するまで、優に三十秒はかかったはずです。もしあなたが犯人と出くわしたら、あなたも無事では済まなかったでしょうから、そのくらいの時間は当然かかります」

「それが何だっていうんだよ」

「分かりませんか? どこかを撃たれた状態で水の中に入り、それだけの時間が経てば、傷口から出た血液が水中で拡散されて、傷口の周りを大きく覆ってしまいます。辛うじて下半身のどこかだとは分かるでしょうが、どの部位が撃たれたかなんて、ただ見ただけでは分かるはずがないんですよ。まして事件当時は真っ暗でしたし」

 柴宮はようやく自分の見落としに気づいたらしく、言葉を詰まらせた。少し想像すれば簡単に分かる事だった。嘘で塗り固める事ばかりに執着するあまり、その嘘が矛盾を生じさせていないか、考えを巡らせる余裕がなかったようだ。

「もちろん、懐中電灯で水面を照らしたとしても同じ事です。むしろ揺らめく水面で光が乱反射して、もっと見えづらくなったでしょう」

「ぐっ……」

「あなたが、撃たれた部位を確認する事ができたのは……プールに落ちる前、あっちゃんがふくらはぎを押さえてうずくまっている姿を見た時、これ以外には考えられません。そして、その後にあっちゃんを突き落とせたのは、その場にいたあなただけです」

「お、俺が逃げた後で、誰かが突き落としたかもしれないじゃないか!」

「発見したあなたが通報する可能性もあったのに、そんな危険を冒しますか? あっちゃんにもそれだけの余裕はありましたし。裏を返せば、あっちゃんが通報する余裕も与えられないうちに突き落とされたという事です。直前まで近くにいたあなた以外、誰にそんな事ができたというんですか?」

 顔面蒼白で項垂れる柴宮。しばらく待ってみたが、反論はそのまま途絶えた。

 キキによる二段階の心理攻撃には、舌を巻くしかない。最初はわざと隙を見せる事で相手を油断させ、ウィークポイントである『ふくらはぎを撃たれた』という言葉を引き出させた。そして、その失言に相手が気づく前に、偽の映像を見せて精神的に揺さぶり、プールにいた事を示す発言を引き出した。直前まで十分な心の余裕を与えておいた分、映像を見せる事で不安に陥った時の、落差が大きくなる。冷静な思考は働かなくなり、あからさまに偽物だと分かる根拠が見つかれば迷わず飛びついて、自滅する。そうした展開をすべて予測していた。

 キキがマンションの存在に気づいた時、もしかしたら犯人は、住人の誰かが現場を撮影している所を見たのでは、という推測は当然立っていた。元から低確率だったとはいえ、唯一当日にベランダに出ていた住人は、やはり撮影などしていなかった。だが、それでもキキにとっては十分だった。犯人がそう思い込んでいる、その事実だけが重要だった。そして慎重に筋書きを練っていった結果が、今回の二段階の心理攻撃である。

 相手の心理を巧みに操って、自白に等しい失言をさせる。その弁巧には感服せざるを得ない。

 病室のドアが開かれ、紀伊刑事が入って来た。キキに向かって尋ねる。

「終わったの?」

「ええ。ここでの会話を、調書作成の参考にしてください」

「言わずもがなよ。さて、柴宮酪人」紀伊刑事は厳しい口調で告げた。「話はすべて聞かせてもらったわ。山本あさひに対する殺人未遂容疑、認めるわね?」

 すると柴宮は、開き直ったような素振りで床に座った。

「あーはいはい、認めりゃいいんだろ、認めりゃ。くそっ、こっちは女相手にことごとくしてやられて、虫の居所が悪いっていうのに、追い打ちをかけるみたいに……」

「身から出た錆でしょ」紀伊刑事は冷たく言い放つ。「で? こんな馬鹿な事をした理由は?」

「決まってんだろ」柴宮はあさひを指差した。「こいつが生徒会役員の立場を利用して好き勝手やって、偉そうなことばかりほざくからマジムカつくんだよね。そのくせ俺よりも有名人って、ありえねぇし意味わかんねぇ。目障りだったから消えてほしかったんだよ」

「柴宮……!」怒りが沸き立つ。「あんたこそ勝手な事をぬけぬけと」

「違うでしょう」

 突然、あさひが口を開いた。さっきまでベッドの上にいたのに、いつの間にか抜け出して両足で立っている。侮蔑の念を滲ませて柴宮を睨みながら、あさひは言った。

「あなたがわたしを恨んだ理由は、唐沢さんでしょう」

 柴宮は言葉を詰まらせた。この上まだごまかそうとしていたのか。でも……。

「唐沢さんって、生徒会の唐沢菜穂さんだよね。あの人がどうしたの」

「こいつは、柴宮酪人は……唐沢さんのストーカーなのよ」

「ええっ?」

 わたしとキキは揃って驚き、柴宮を見た。柴宮は忌々しそうに歯を食い縛っている。

「柴宮は唐沢さんに交際を迫り、結果として断られた。でもその後も、柴宮は唐沢さんに対して執拗なアプローチを続けた。あちこちに手紙を送りつけ、隠れて盗撮し、携帯のアドレスを変更するたびに仲間を使って調べ上げ、しつこくメールを送り続けた。恐怖を覚えた唐沢さんはわたしに相談してきた」

 そういえば菜穂は柴宮の似顔絵を見た時、顔が真っ青になっていた。知っているどころではない、顔を見るだけで恐怖心が湧き上がるほどなのだ。

「わたしは唐沢さんの携帯のアドレスを知っている人を調べ上げ、柴宮にアドレスを教えた人物を残らず特定した。柴宮に命令、もとい強要されて調べた事を証言させ、携帯の予測変換機能を使って迷惑メール作成の証明をしたのよ」

「ああ、メール自体は消去できても、予測変換機能に言葉は残るんだよね」と、キキ。

「卑猥な単語もいくつかあったから、間違いないと分かったわ。で、この事実をネット上にばらされたくなかったら、謝罪したうえで盗撮写真を処分するよう要求したの」

 なるほど……柴宮からすれば、親や学校に報告されるより嫌だろう。生徒会の友達のためとはいえ、あさひも手段を選ばないな。

「柴宮くんはその事をずっと逆恨みしていたんだね。自己顕示欲が強くて、女性を卑しめる事が普通と思っている彼にとっては、屈辱に他ならないだろうし」

「わたしを呼び出す手紙にはこう書かれていたの。『これ以上の追及はたくさんだ。菜穂には二度と近づかないと確約するから、誰にも見られない所で話をしたい』とね。その後に時間と場所を指定して、同時に『ただし、こちらがせっかく譲歩するのに聞き入れないとなれば、今後のことは保証できない。菜穂の身の安全も同様だ』とも書かれていた」

「そんなことが……だったら断れないよね」

「罠の可能性は当然疑ったよ。でも、唐沢さんに万が一のことがあったら……それを考えたらとても無視できなかった。まさか、連続銃撃事件の犯人の手を借りるなんて、少しも想定できなかったよ」

 まあ、それは誰でも無理だっただろうけど。

 柴宮にとっては屈辱ともいえる動機だ。だからこの場でも白状せず、恐らく警察に捕まっても言わなかっただろう。この場で当事者にばらされた事で、それさえも隠し通せなくなったが。結局柴宮は、自分の体面しか考えていないのだ。

「なんて陰険なやつなの……」わたしは愕然としていた。「悪質なストーキングを咎められたら逆恨みして、自己弁護のために平然と嘘を重ねて反省もないなんて。最低ね」

「いちいちうるせぇんだよ! 何も知らないくせにぐだぐだ罵りやがって!」

 最後は逆ギレしてきた。こんな奴のせいで、あさひは命の危険にさらされたのか。

「ちょっと交際を迫ったぐらいで逃げようとするから、なんとか俺のことを知ってもらおうと努力しただけじゃねぇか。それなのに重箱の隅をつつかれた上に、女の前で頭を下げられて、こっちがどれだけ胸くそ悪い思いでいたか。こいつのせいで、俺は何もかもぶち壊しにされたんだよ。殺されたって文句は言えねぇよ!」

「でも菜穂さんは怯えていましたよ」

 キキは静かに告げた。怒りなどとうに通り越して、諦観しているように見える。

「あなたの言う“努力”によって、菜穂さんは心の底から恐怖を感じた。あなたの似顔絵を見ただけで震えてしまうほどに……それほどまでに強いトラウマを、あなたは菜穂さんに植え付けたんです。その事を知っていれば、受け止めていれば、あなたはいくらでも手段を変える事ができた。あなたは自分の願望を満たすことだけに終始して、肝心の菜穂さんの気持ちをまるで無視したんです。それでも自分が被害者だというつもりですか」

 柴宮は口元を歪めて、キキを睨みつける。だがキキは微塵も動じなかった。

「あなたはもはや純然たる加害者です。悲劇の主人公を装う資格だってありません。何もかもぶち壊しにされたのは、起こるべくして起こった報いです」

「報いだと……? そんなはずがあるかよ。俺に何の問題があるっていうんだ」

 むしろ問題しかないように見えるが。柴宮は自分を美化しすぎている。

「力も強いし、頭もいいし、人々を従わせる力だってあるんだぜ。俺と付き合えば愚昧な連中から確実に守ってやれるのは明白だ。なんで俺を嫌うのか、意味が分からん」

「そうですか?」すまし顔のキキ。「いちばん大事なものが欠けているじゃないですか」

「はあ? 何が欠けているっていうんだ」

「優しさです」

 それを聞いて柴宮は眉をひそめた。たぶん理解できていない。基本的に馬鹿なのだ。

「どれだけ力が強くても、頭がよくても、肝心の優しさがなければ誰も好きにはなりません。時には理屈も義理も度外視して手を差し伸べる事も、必要なんです」

 完璧に実践できているキキが言うと説得力があるが、知らなければその限りじゃない。特に身勝手を絵に描いたような人物には、綺麗事にしか聞こえないのだ。

「何だよ、それ。理屈も義理も度外視した優しさ? そんなものが何の役に立つ。競争にあぶれた負け犬が正当化に使うだけの、(やわ)で出来損ないのやり方だな。ま、しょせん愚鈍な女には、何が役に立つかなんて分かりゃしないんだろうけど」

 ぶち切れた。わたしは、キキの優しさに幾度となく救われてきた。優しさが何より大事だという事を、わたしは身に染みて知っている。だから……キキの優しさを侮辱し、愚弄しているのかと思うと、救いの余地はない。

 わたしは大股で柴宮に近寄り、素早く片手で柴宮の喉元を押さえ、床に叩きつけた。

「もっちゃん!」

「いい加減にしなさいよ。あんたのその、身勝手で短絡的な考えのせいで、いったい何人の人たちが傷つけられたと思ってるの。人々を従わせる力ですって? 脅迫や暴力に訴えて相手を(ひざまず)かせれば、それで従った事になるとでも思った? そんな事をされて、怯えて助けを求める人が出るのは当たり前じゃない。出来損ないの力にばかりしがみついているのはあんたの方でしょう!」

 柴宮はわたしの手を外そうと抵抗するが、わたしの手にはさらに力が入っていく。遠慮する必要性は感じなかった。

「優しさが役に立たない? あんたは一度でも優しさを示した? その結果何も変わらなかったっていう前例でもあった? あんたは自分に都合の悪いことを無視して、力でねじ伏せようとしただけじゃない。そんな奴に、優しさを馬鹿にする謂れはない。支配者ぶって偉そうな口を利くんじゃない!」

「もっちゃん、もうやめて!」

 キキが後ろからわたしを羽交い絞めにして、柴宮から引き離した。わたしはまだ怒りが治まらず、柴宮は喉に手を当てながら咳き込んだ。そして、ずっと静観していた紀伊刑事が、真顔で柴宮に歩み寄ってきた。

「気が済んだ? じゃあ署に行って続きを聞かせてもらう。無駄な話はいらないけど」

「あ、あいつも捕まえろよ!」柴宮はわたしを指差した。「暴行の現行犯だ!」

「私は何も見てない。何も聞いてない」

「け、警察がそんなんでいいのかよ。職務怠慢だろ」

「もみじちゃんは大事な友達を、心も体も傷つけられた。怒るのは当然。むしろあなたのしたことの方が何倍も酷い。女性蔑視の発言もあるし、一般論としてあなたに同情の余地はない。よって目をつぶる」

「私情を挟むのかよ。贔屓(ひいき)だ! 名誉毀損だ!」

 柴宮の見苦しい反駁など意に介さず、紀伊刑事は柴宮の腕を掴んで立ち上がらせ、そのまま病室の外へ強制的に連行した。柴宮の情けない声だけが院内に響き渡る。

 でもわたしは、その光景が見られなかった。キキによって柴宮から引き離された直後、激しい頭痛に襲われたのだ。前にもこんな事があったような気がするが、思い出せる状態じゃない。

「もっちゃん! 大丈夫?」

 キキが心配そうにこちらを見ている。その様子を眺めるうちに、徐々に痛みは引いていった。よく分からない症状だ。

「だ、大丈夫……ちょっとよくなってきた」

「ねえ、二人とも」

 あさひは直立したまま、半泣きの表情で言った。彼女は何も悪くない。悪いのは柴宮ひとりのはずなのに、なぜか彼女が俯きながら告げた言葉は、これだった。

「……ごめんね」

 犯人は無事に捕まった。でも、少しも気が晴れなかった。

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