その20 天秤のクイズ
<20>
犯人を追いつめるためのキキの作戦は、すぐに紀伊刑事たちに知らされた。柴宮に少しでも知られたらアウトなので、この作戦の全容を明かしたのは警察以外だと、菜穂と丹羽の二人だけである。今度は丹羽も乗り気になってくれた。
この作戦に基づいた今後の行動について、簡単な確認を行なった後、キキとわたしは能登田中を後にした。能登田中とわたし達が住む燦環区を直接つなぐバス路線はないので、駅を経由して乗り換えるしかない。近くのバス停から駅に向かうバスに乗り、駅に到着して十分ほど待ってから、燦環区行きのバスに乗り込んだ。
そのバスの中で、わたしはキキに尋ねた。
「キキ、この作戦、上手くいくかな……」
「百パーセント上手くいく作戦なんて、誰にも立てられないよ。相手は人間だから、いつもこちらの理想通りに動いてくれるとは限らないし。ただ、計画の核心だけは悟られないように、細心の注意を払う必要があるね」
「ていうか、わたし達とほとんど歳の変わらない奴を相手に、ここまで慎重を期した行動をしなければならないというのも、ある意味で異常な事態だわ」
「同い年だろうが関係ないよ。容赦なんかいらない。友達を傷つけられたらどうなるか、骨の髄まで思い知らせる」
ふだん温厚な奴が怒りだすと、手の施しようがなくなる。まして、一度知恵を働かせたら手段を選ばなくなる奴が相手だとなおさらだ。ご愁傷様である。
キキはいつだって、自分の考えが百パーセント正しいとは思っていない。それは何らかの策を練る時も同様だ。完全なものに近づけるため、確実に成功させるため、キキは補正する努力を怠らない。今だって、キキは自分の作戦に見落としや抜け道がないか、入念に考えを巡らせ確認している。
誰も敵うはずがない。勝てると過信せず、それでいて勝つ意志を強く持っている人に、いったい誰がまともにやり合えるというのだろう。
今朝の待ち合わせ場所でもあるバス停で降りる。さて、今日の調査はこの辺で切り上げて、あとは普通の中学生に戻りますか……と思った矢先のことである。
「も〜み〜じ〜ちゃ〜ん?」
うぐ、という声が出そうになる所を辛うじて堪えた。
恐る恐る振り向くと、いつどこから出てきたのか、綾子と功輔の二人が立っていた。功輔は無表情でポケットに手を入れているだけだが、綾子は腰に手を当てて歯を見せながらこちらを睨んでいた。なんか、気まずい……。
「あ、綾ちゃん……それに功輔も」
「なんでバスから降りてきているの。家の用事じゃなかったの」
「いや、これは、その……てか、なんでここに?」
「学校が終わってからずっとここで待ち構えていたのよ。功輔くんに相談したら、最終的に必ずここに来るっていうから」
功輔が? わたしの行動を読んでいたというのか。
「要の携帯にお前からメッセージが来たって聞いてピンときたよ。家の用事っていうのは建前に過ぎないって。家の人を巻き込んでまで学校に嘘を伝えたなら、お前のことだから個人的な事情があるんだろうと察したよ。燦環区内の二つの中学校の通学路から、一番離れたバス停はここだから、もし遠方からバスを使って戻ってくるとしたら、ここを使うだろうと思ったんだよ」
何もかもお見通しでしたか。功輔も意外に鋭い所があるとは知っていたが、ここまで看破されるともはや苦笑しかできない。さすが幼馴染みといったところか。
「ところでもみじちゃん、そちらの子は?」綾子はキキを見て尋ねた。「この制服は燦環中学校の二年生ですな」
「先週の金曜、うちの学校に来てただろ」と、功輔。「もみじの友達のキキさんだよ」
「あの時はもみじちゃんが一人で図書室に行っちゃったから、ずっと自分の席で本を読んでいて、周りの騒ぎなんか気に留めなかったんだよ」
おいおい、わたしのせいみたいに言うな。
「キキ、紹介するね」そろそろキキを会話に参加させようと思った。「女の子の方は要綾子ちゃん。うちの学校で五本の指に入る成績優秀者」
「そんなに盛られてもちょっと困るなぁ」綾子は照れながら言った。
「そして男の子の方が外山功輔。わたしの幼馴染み。小学校も一緒だったけど、キキはたぶん一度も会った事がないよね」
「こいつとは幼稚園からずっと同じクラスだけど」功輔はわたしを指差した。「小学校二年生くらいから一緒に遊ぶことがなくなって、別のクラスの友達と頻繁に会っていると聞いていましたよ。会ったのは初めてでも、話だけは色々聞いています」
あれ、功輔が同年代の子に敬語を使うとは珍しいな。
「そうなんだ」キキはふわりとした笑顔を浮かべた。「綾ちゃん、功輔くん。これからよろしくね」
屈託のないその笑顔は、ここだけ綺麗な花畑に変えた。大抵の人はこれでノックアウトされる。綾子は紅潮した頬を両手で押さえた。
「うわあ、かわいい……ていうか、いきなりフレンドリーな呼称が使われちゃった。綾ちゃんなんて呼ぶの、もみじちゃんくらいなのに」
そして綾子はキキの両手をがっしりと握った。嬉し恥ずかしといった様子で、顔を伏せながら饒舌に言った。
「こちらこそよろしく! もみじちゃんの友達ならきっと仲良くなれると思うから、こんなわたしでよければぜひ友達になってください!」
「わあ、嬉しい〜」
キキは純粋に、友達が増えたことが喜ばしくて仕方がないらしい。わたし以外に親しい人が少ないせいなのか、綾子はやっと仲良くなれそうな人と出会えて、感極まって今にも泣きだしそうな勢いがある。本人は気づいていないようだが、綾子と仲良くなりたいと思っている人は、クラス内にも結構な数がいるのだけど。
「なるほど、キキさんはこうやって味方を増やしてきたわけか」
なぜか功輔は、異性なのにキキの魅力的な笑顔に惹かれることなく、至って冷静な素振りで状況を達観していた。男子の中にもこういう人がいるのだと、わたしは少し驚いた。そういえば四ツ橋学園中にキキが来た時も、功輔はキキのことを「可愛らしいけど付き合うのは面倒くさそう」と評していたし、元から心惹かれるタイプではないのかも。
「で? お前たちはどこで何をしていたんだ」
功輔は半眼でわたしを見た。嘘がばれた以上はちゃんと説明しないといけない。
わたしは二人を近くの公園に誘い、そこのベンチに集まって事情を話す事にした。長い話になるし、警察から口外しないように言われているので、なるべく他の人には聞かれたくなかったのだ。もちろん二人にも、他言無用と前置きしておいた。
わたしと綾子がベンチに腰掛け、キキはベンチの後ろから身を乗り出し、功輔は側の木にもたれかかって立っている。一人だけ男子が混じっていると、何かと不自由だ。
「そんな事があったんだ……」綾子は神妙そうに呟いた。
「なんとかあさひの敵を討ちたいと思って、どうにか協力者の尻尾を掴めそうな段階まで来たんだ。そこから先はまだ不透明だけどね」
「許せないね。嫁入り前の女の子になんて事をするのか」
同じ女子として綾子が憤慨するのも当然だった。しかし……言葉尻を捉えているだけだが、あのあさひが嫁に行く瞬間というのを、わたしは全く想像できない。
「なあ……」功輔が口を開いた。「犯人があさひさんを襲ったのは、本当の目的を隠すためのミスリードなんだよな」
「キキの読みだとそういう事になりそうだけど」
わたしの言葉にキキも頷いた。
「じゃあ、あさひさんを選んだ理由は何だったんだろう。主犯の方に、あさひさんを恨む理由はない可能性が高いんだろう?」
「それはたぶん、協力者である男子生徒の存在が関わっている」キキが言う。「いきなり普通の中学生に犯罪の片棒を担がせるのは厳しいから、逆に、犯罪に手を染める事も厭わないような人を、ネット上で募っていたんだよ。男子生徒の方から自発的にコンタクトをとったのか、それとも別の誰かが男子生徒の存在を犯人に知らせたのか、そこまでは分からないけど……」
「どちらにしても、星奴町内の中学生に恨みを抱いていて、そいつを傷つけたいという明確な意思を持った人物を、ネットで探して選んだって事ですか」
「うん。もしその条件に当てはまる人が見つからなくても、探す範囲を広げていけば、いずれ一人は見つかると踏んでいただろうね。準備期間は十分にとっていただろうし、他の三人を殺害する場所を広範囲に散らばしておけば、関連性を疑う人は少なくなる」
「計画の根幹が揺らぐことはないってわけか……悪質だな」
「そ、それで?」綾子は緊張した面持ちで尋ねてきた。「協力者の尻尾を掴むって言ったけど、どうするの?」
「悪いけど、それは話せない」と、わたし。「どこで犯人が聞いているか分からないし、わたしも詳しい事はまだ聞いていないの」
「そうなの?」
「相手の出方がまだ分からないからね」と、キキ。「警戒心の強い人だったら、どんな手を使ってもこちらの情報を得ようとする。最悪の場合、知っていそうな人を脅してでも情報を引き出そうとするかもしれない。作戦について知らせるのは最小限に留めないと」
「それだとキキちゃんは危ないんじゃない?」
「わたしは大丈夫だよ。もっちゃんがちゃんと守ってくれるから」
「そこまで高く買われても困る。ていうかもっちゃんと呼ぶな」
日常的に行われるボケとツッコミの応酬を見慣れていない綾子は、口をポカンと開けて呆然としていた。まあ、綾子は頭も察しもいいから、これが普段のわたしとキキだって理解してくれると思うけど。
わたしは何事もなかったように話を戻した。
「そういうわけだから、残念だけどこれ以上は説明できないな」
「ふうん……まあ、ありもしない家の用事にかこつけて調べていたわけだし、深い事情があるのは分かるよ。元々ぜんぶの理由を聞き出すつもりなんてなかったし」
「ぜんぶ残らず聞き出してやるっていう勢いがあったけど……」
「もみじちゃんが勝手に休んだせいで寂しい思いをしたから、見つけたらちょっと叱ってやろうと思っていたのよ」
「駄目だよ、もっちゃん。友達に寂しい思いをさせちゃ」
わたしのせいかよ。巻き込んだのは他ならぬキキじゃないか。責任転嫁という理不尽な目に遭って、ストレスレベルが一つ上がったけれど、どうにか抑え込んだ。
「じゃあ、わたしを叱るためにわざわざバス停近くで張っていたの?」
「いや、それはついでで……これを渡したかったの」
綾子はカバンから一枚のプリントを取り出し、わたしに見せた。図形の証明問題がずらりと書かれている。
「横村先生から数学のプリント預かっていたから、会えたら渡そうと思って」
「ああ、ありがと……」
「ちなみに、そこに書かれているけど、提出期限は明日だからね」
「一夜漬けにさせるつもりかっ!」わたしは叫んだ。
「大丈夫だよ。見てみたけど、教科書の内容が分かっていれば楽に解けるから」
成績優秀者のフォローがどこまで信頼できるだろう……もし分からない問題に突き当たったら、迷わず綾子に質問しよう。からかうのが好きな綾子だが、わたしに対して同様のことをしたという記憶はない。
とはいえ、絶望的に苦手な科目でもないので、たぶん八割は自力で解けるだろう。そう思いながらプリントを眺めていると、下の方に付箋が貼られている事に気づいた。付箋の方に何も書かれていないので、めくってみると、その下に横村先生の文字があった。
『チョコ、ありがとね』
…………。ふいに心の中がくすぶり始めた。
先生に感謝された事は素直に嬉しいけれど、受け止める事が憂鬱にさえ感じるのは、それが純粋な気遣いによるものではないからだ。半分は厚意を受け取られた喜びで、もう半分は後ろめたさに似た感情、それらが半端に攪拌され渦を巻いている。
「どうしたの?」キキが訊いてきた。
「いや、何でも……」
わたしはプリントを二つ折りにしてショルダーバッグに仕舞った。……今のままでキキに上手く説明できるとは思えなかった。
「とにかく、まだ犯人の目的が分からないから、しばらくは用心した方がいいと思う。可能性は低いけど、不良中学生ばかりを狙っているとは限らないから」
「えー?」と、綾子。「でも銃で狙ってくるんでしょう? 対処のしようがないよ」
「とりあえず、特別用事がない時は外出を控えるとか……」
「インフルエンザじゃないんだから」
「それに、ずっと狙いを定めたままとは限らないだろう」
功輔が言った。こちらを見ず、独白するように言葉を連ねている。
「本来の標的じゃなくても、自分を脅かす人の存在を知ったら、捜査の攪乱もかねて襲ってくるかもしれない。たぶん、いま一番狙われる危険が高いのは、もみじ達の方じゃないのかな。まあ、キキさんはちゃんと警戒しているようですが」
「そりゃあ、自力で調べようとすれば外を出歩くのは必然だから、自分が狙われる可能性はいつも想定しているよ」と、キキ。
「だとしても、百パーセント自分の被害を防げる保証なんてありませんし、いつ何時も、もみじが守ってくれるわけでもない……というか、当のもみじが怪我をする事だってありうるから、俺としては心配なんですけど」
ずいぶん弱気な発言をするなぁ。わたしはベンチから立ち上がり、功輔の元へ。
「別に功輔が心配する事はないよ」功輔の肩に手を置く。「剣道部の風戸先輩からもよく言われていたんだ。精神的余裕が生まれてこそ攻守の均衡を保てるって。カッコつけて攻撃ばかりに集中して失敗した事が幾度もあるから、自分の身を守る術も本能に植え付けてきたつもり。ヒロイズムに傾倒して無茶な行動に走るなんて事はないから」
「……幼馴染みの心証としては、そういう無茶を平気でしそうな奴に見えるけど」
「多少なりとも失敗すれば反省もするわよ」わたしは手刀で功輔の頭を叩いた。
「まあ、お前がそこまで言うなら不安視はしないけど、心配する奴もいるって事は覚えておけよ。もみじのことで俺が無関心でいられない事もあるんだから」
そういう事だったか。キキの名前を借りてはいるが、実際に功輔が心配しているのはわたしの方だ。幼馴染みの義理もあるし、無視するのはあまりに不憫だよね。
「はいはい、功輔も十分に気をつけなよ。わたしもちょっとは心配してやるから」
「露ほどもありがたくねぇな……」
体裁を気にするのはむしろ功輔の方だ。素直に言わない事は予想していた。
そんなわたし達のやり取りを、綾子とキキはずっと眺めていた。
「仲いいんだね、もっちゃんと功輔くん」
「いつまで経っても幼馴染み以上の仲にならないから、こっちはやきもきするけど」
「ん?」
ウサギ並みの聴力を持つわたしには全て聞こえているが、何もコメントしないのが無難と思い、聞こえなかった事にした。
その場でわたし達は解散し、各自帰路についた。功輔は家が近所なので、まだしばらく一緒に歩く事になったけれど。
予測にたがわず、数学のプリントは綾子に助けを求めることになった。最後の二問だけだったけど、全問解かないと容赦されないような気がしたのだ。結局、日を跨ぐ寸前まで付き合ってもらった。たぶん冗談だと思うけど、綾子からは貸しだと告げられた。
そんな事があった翌日のこと。
能登田中では妙な噂が流れていた。あさひがまだ意識を回復しておらず、経過観察の真っ最中であると。一方で、脳の検査で問題は見受けられなかったので、昏睡状態は一時的なものと考えられ、恐らく明日には目が覚めるだろうと見られているとか。もちろんこれらは全て事実に反している。いったいどこから生じたデマだろうか。
今朝は普通に登校しているはずのわたしが、なぜ他校の状況を詳しく知っているかというと、あさひの友人の唐沢菜穂から携帯で聞かされたからだ。例の作戦を関係者に伝授した後、彼女に乞われて番号を交換したのだ。
「それじゃあ、今朝の時点であさひの病室に行った人はいないんだね?」
今日も午前授業。昼のホームルームと掃除が終わって、わたしは階段の踊り場で菜穂と携帯で会話していた。菜穂は生徒会室にいるらしい。
「うん。それとなく聞いてみたけど、まだ予断を許さない状態だから、面会はできないって断られてた。だから、今のあさひさんの状態を知っている人はいないと思う」
「そう……現時点で噂の真偽を確かめる人もいないみたいだね」
実際には、みかんがずっとあさひのそばにいるから、そうした事が起きていれば、嫌でもわたしの耳にも入るのだけど。
「じゃあ、作戦のことで何かあったら、唐沢さんにも連絡するから」
「うん、ありがとう。あ、それと……」
菜穂からの頼みごとがずいぶんと多い。基本的に来る者は拒まないたちなので、大抵のことは断らないが……これは少し気が進まないかな。結局了承したけど。
電話を終えて、わたしはその足で職員室に向かった。ホームルームではタイミングが合わなくて渡せなかった宿題を、今から提出しに行くのだ。
幸い、横村先生はまだ職員室にいた。
「数学の課題、やってきました」わたしはプリントの束を渡した。
「ああ、お疲れさま」横村先生は椅子に座りながら、プリントをめくる。「ふうん、一応ぜんぶ解いたのね。坂井さんの今の実力で、解けるかどうか怪しい問題も最後に仕込んだつもりだったけど」
「ええ……実際、自力では最後の二問が解けなかったので、友達の助力を受けて」
「うふふ、わざわざぜんぶ解いてくるなんて、坂井さんは真面目ね。ちょっとだけお灸を据えようと思ったのに」
「はい?」
「親御さんに嘘をつかせてまで無断欠席するから、軽く罰を与えようと思ったの」
図星を突かれて、矢が突き刺さったような気分になる。先生まで見抜いていたのか。
「あの、どうしてそれを……?」
「坂井さんがどうなのかは知らないけど、少なくともあなたのお母さんは嘘に慣れていないみたいね。説明があきらかに棒読みだったのよ」
うぅむ……あの親にしてこの娘あり、という事か。たぶんわたしが直接電話で嘘を言ったとしても、同じように棒読みになっただろうな。
「で? 本当はどんな用事があったのかしら。言いたくないなら強制はしないわよ」
そう言いながら、横村先生の目は「白状するまで帰さないわよ」とでも訴えかけるように、じっとわたしを捉えて離さなかった。嘘もごまかしも苦手なわたしは、その視線に耐えきれず口を開いた。
「実は……友達と一緒に、とある事件の調査をしていたんです」
「事件?」
「先生ならたぶんご存じですよね。ここ一週間で、中学生が狙われる銃撃事件が起きている事を」
横村先生の両目が大きく開かれた。やはり先生たちは知っていたのだ。
「坂井さん……その事件を調べていたの?」
「一昨日、わたしの友達の一人が、同じ犯人に銃で撃たれたんです。急所を撃ち抜かれたわけではありませんが、直後に学校のプールに落とされて、危うく命に関わる事態になるところでした。今は安定していますが……」
「そう、その話は聞いていなかったけど、酷いわね……」
眉根を寄せながら、横村先生は呟いた。直後にハッと顔をあげて、わたしを見た。
「まさか、その友達の敵を討とうとしているの?」
「そこまで大それたことは……ただ、犯人の正体をどうにかして突き止めたい、そう考えていることは事実です。出過ぎた真似だとは自覚していますが……」
じっと見つめた後、先生はデスクに体を向けて小さくため息をついた。
「確かに、中学生としては出過ぎたことでしょうね。お友達を大事に思うのはいいけど、教師の立場としては、勉学を疎かにするのは見過ごせないわ」
「先生……」
「だからね、危ないことは控えて、ちゃんと学校にも来て勉強すること。それさえ守れるなら、私からは何も言わないから」
全面的に止められるかと思った……調査の継続を勧めているわけでもないが。
「それじゃあ、お咎め無しですか」
「ええ。子供の探偵ごっこの延長として、目をつぶってあげる」
「目をつぶる理由になるんですか……これでも一応、一緒に調べている友達のおかげで、解決の一歩手前まで来てるんですからね」
「そうなの? 頭のいい友達が一緒なのね」
「うーん……あれを本質的に頭のいい奴というべきかどうか。なんというか、ここぞという時の閃きに長けているんですよ」
「閃き、ねぇ……」先生は頬杖を突いてニヤリと笑った。「坂井さん。一つ、数学のクイズを出そうか」
「クイズ……?」
この人が数学に関して遊び心を見せた記憶はないけれど、まあ横村先生がクイズを出すとすれば例外なく数学絡みだろうな。
「小学校の理科で、上皿天秤で重さを量るために分銅という錘を使うでしょう? 天秤で一グラムから四十グラムまで、グラム単位で全て量るには、最低何種類の分銅が必要になるでしょう? 当然だけど、分銅も全てグラム単位になるわね」
「四十種類の重さを全て量るんですか。理科の授業で見た種類だと、一グラムと二グラムの分銅が計三個、五グラムが一個、十グラムと二十グラムが計三個になるから、多くても七個ですよね。それより少なくできるんですか?」
「一個の分銅の重さをどう設定するかによって変わってくるわね。閃きに長けているっていう坂井さんのお友達にも、出題してみたら?」
確かにこれは閃きも論理も要求されそうな問題だが、連立方程式の問題で閃かなかったキキに、果たして解く事ができるだろうか……。
ところで、来た時からずっと気になっていたのだが、先週はあったものが今は無くなっている。これも記憶の片隅に残っていた。
「そういえば、今日は甥御さんの写真がないですね」
「え? ああ……いつも置いているわけじゃないから。ほら、そろそろ下校時間になるから、早く帰る準備をしなさい」
「あ、はい……」
結局どういう時に甥の写真を置く事にしているのだろう。いや、単なる気まぐれである可能性が大だ。疎遠になっている親戚の写真なんて、むしろ頻繁に置いている方がおかしいだろう。気にするだけ無駄というものだ。
用事が済んだので、わたしは二年D組の教室に戻ってきた。部活が休止になる事は分かっていたので、今日はそのまま帰路につく予定だ。後でやることがあるけど。
ちなみに、功輔と綾子はまだ教室に残っていたので、さっきの問題を出してみた。
「一グラムから四十グラムまで全部か……六種類に減らせるんじゃないかな」
功輔は少し考えた後に言った。一個だけ減ったか。
「その六種類って?」
「一グラムから順に二倍したものを六個用意するんだよ。一、二、四、八、十六、三十二グラムの分銅を一個ずつ。上手く組み合わせれば、四十種類すべて量れる」
「そうなの? 例えば二十五グラムだと、十六と八で二十四だから……あっ、一と八と十六になるね」
「全ての自然数は、二の累乗を一個ずつ使った和で表せる」綾子が言う。「二進法で考えると分かるよ」
「要……お前は初めから分かっていたのか?」半眼で綾子を見る功輔。
「うん。天秤の問題は有名だからね。ちなみに功輔君の解答は、数学がそれなりにできる一般人の解答だね」
綾子は口元を押さえながらニヤリと笑った。またからかっている……。
「遠回しに間違っているって言ってるな。だったらお前の答えも聞こうじゃないか」
「わたしだったら、四種類あればぜんぶ量れるよ」
今度は二個も減った。だけど、たった四種類で四十パターンを量れるのか?
「そんなに少なくていいのかよ?」
「ええ。実践には向かないけどね。でもさすがは横村先生、いい問題出すなぁ」
感心したようにしきりに頷く綾子だが、肝心の説明をしないまま帰った。喫緊の課題であれば助力を惜しまないが、この問題はそれに含まれないらしい。
帰り道でキキと出くわし(というかキキが待ち構えていたのだが)、同じように天秤の問題を出してみた。キキはぶつぶつと呟きながら考えている。
「どう、難しい?」
「待って、もうちょっとで考えがまとまりそう。たぶん四種類でいけると思うけど」
綾子の答えにあと少しで辿り着けるという所で、わたしの携帯に着信が入った。
「あぁあー、着信音のせいで集中力が切れたぁ」
そういう事にしておくとして、電話は友永刑事からだった。とりあえずキキが何か言う前に文句を代弁してやろう。
「もしもし、もみじちゃん? いま大丈夫だったかい」
「大丈夫ではありますがバッドタイミングです」
「……はい?」
「いえ、こちらの話ですので。何かありましたか」
「キキちゃんが紀伊くんに確認するよう頼んだ事があっただろう。証言が得られたから報告しておこうと思って。そっちにキキちゃんいるかな」
「ええ、いますよ」
そして同じように携帯に耳を当てていますよ。当然ながら体も密着している。こいつはそのくらい躊躇なくやってくるのだ。
「ちょうどよかった。一人目の被害者の平津卓也だけど、キキちゃんの予想通り、大きな音に特別弱かったそうだ。友人の話だと、以前にイタズラ半分でクラッカーをいきなり鳴らしたら、錯乱状態といってもいいほど取り乱した事があったそうだ」
「そのクラッカーって、ものすごくでかい物とか?」
「いや、百円ショップで手に入るような普通のクラッカーだって」
普通のクラッカーなら、耳元で鳴らしてもびっくりするのがせいぜいだろうに、錯乱するとは相当なものだ。写真で感じた気弱そうな印象は、間違っていないかもしれない。
とにかく、これで確認できる事は済ませられた。その証拠に、真横にいるキキは満足そうな笑みを浮かべている。彼女の推理は結実しそうだ。
「可能性の高い仮説は構築できたの」分かりきっているけど尋ねてみた。
「まあね。もっとも、この仮説を前提にしても、犯人に繋がる手掛かりはやっぱり見つけられないけどね……どこをつついても証拠なんて出てきそうにない。やっぱり今夜の作戦が頼みの綱になるのかな」
「あ、その事だけど……」キキの言葉に、電話の向こうの友永刑事が反応した。「キキちゃんが提示してくれた作戦については、高村警部と刑事課長の許可が下りたけど、現場に派遣できるのは一人だけになりそうなんだ」
「えっ?」と、わたし。「そんな、警察の援護が一人だけですか」
「すまない、他の人たちは手が離せなくなって……」
「ちょ、それってまさか……」
そうだ、色々あって忘れていたが、あさひが撃たれて今日で二日が経っている。もし犯行がまだ続いているとすれば、次があるとしたら……。
「ああ。また犠牲者が出た。十五歳の男子中学生。最初の三件と同様、発見された時点で死亡が確認されている。詳細はこれから調べるけど、恐らくは……」
重要な作戦決行を前にして、また精神が揺さぶられる。この卑劣な凶行は一体どこまで続くのだろう。終わりの見えない戦いに、足がすくんでしまいそうになる。
だけどキキは、それでも突き進むという意思を、その目に滲ませていた。