その2 綻ぶ日常
<2>
その日もいつもと同じように放課後を迎え、わたしは勉強道具を学校指定のカバンに詰め込み始めた。
今日も剣道部に顔を出し、来年の交流試合に向けた練習にいそしむ。三年生が引退し、全部員の活動をまとめる指導長という役職に、わたしが正式に任ぜられた。今は、前指導長の風戸先輩のアドバイスを受けながら、後輩への指導という慣れない仕事をこなす日々である。終われば友達と寄り道をしつつ家路をいき、宿題をするか暇を持て余す。
こうやってこれからの行動を思い起こすと、わたしの日常生活は実に非生産的だと感じる。まあ、そう感じたとて、生産的な方向にシフトする気は今のところないけど。そうする勇気も度胸もないし。我ながら苦笑せざるを得ない。
「ねえ、さっき功輔君から何をもらったの?」
「わっ」
突然背後から呼びかけられて、わたしは思わず声を上げた。
呼びかけてきたのはクラスメイトの要綾子。この学校で一番よく話す同性の友人で、眼鏡の似合うおさげ髪の才媛である。
「綾ちゃん……昼間のやつ、見てたの?」
「他にも何人か見ていた人いるよ。ほとんどは気にしてなかったけど」
本当だろうな。わたしは少し疑わしく感じた。隙あればわたしをからかおうと、タイミングを虎視眈々と狙っているのではあるまいか。
「これだよ、これ」
特に隠すつもりもなかったので、わたしはポケットから取り出して綾子に見せた。
「遊園地の一日無料券? 結構遠いところだね」
「冬休みに入ったら、功輔と二人で出かけようかという話になってね」
「なにそれ、完全にデートじゃない」
綾子はずいぶん嬉しそうに、わたしの後ろから両腕を回してきた。提案してOKの返事をもらった本人より喜ぶとは奇妙なものだ。
「ふうん、デートね……」
特別ときめくような単語でもないなぁ。わたしはチケットを指でつまんでひらひらと揺らした。はたから見ても無関心そうな態度だろうな。
「あれ、意外と冷静だね。もみじちゃん、こういうのに耐性はないと思ってたけど」
「耐性はないけどイメージも湧かないんだよなぁ……功輔と二人きりで遊ぶって、最近はあまりないけど、昔は頻繁にやっていたからね。遊園地は前例がないけど……そんなに特殊な所とも思わなかったけどな」
「やっぱりどこか世の女子たちと感覚がずれているような気が……」
「剣道を始めると決めた時から、その辺はほぼ諦めているからね」
「いや、それはそれでいいけどね。もみじちゃんはそのくらいの方が健全だと思うし、世間ずれしていない方がわたしは好きだから」
それはどうも。褒められているわけでない事は承知しているが、それ以上に、否定の余地がない事を自覚しているのだ。だから特に不快とは思わない。
「それにしても、功輔君もようやく報われるチャンスを得たかぁ。あやつは本当にヘタレだからなぁ、他人事ながら心配になるよ」
功輔のやつ、他人事だと割り切っている人にも心配させていたのか。というか、報われるチャンスとはどういう意味だろう。遊園地へのお誘いのことだろうか。その事で以前に綾子に相談でもしていたのか。……いや、ないな。綾子はこう見えて、人をからかって遊ぶのが大好きな性格だ。それ故に功輔は苦手意識を持っている。
まあ、からかって遊ぶといっても、相手が自分から恥ずかしい思いをするよう、言葉巧みに誘導するのが綾子のやり方なのだが。そこが、幼稚なおふざけに終始する男子共と決定的に違う。節操なくからかうという事もしない。いかに効果的に相手を自爆へと誘い込むか、頭を使って遊ぶのが好きなのだろう。……たちが悪いことに変わりはないが。
それにしても、あれがデートのお誘いというのは、どうも釈然としないものがある。男性が女性をデートに誘う瞬間なんて、わたしは一度もお目にかけた事がないが、それでもあんなふうに、愁いを帯びた表情を見せるものでない事は分かる。
いま一度、真意を確かめたい欲求はあるが、あいにく功輔は、友人の市川将彦と一緒にサッカー部の活動へ出てしまって不在だ。まあ、冬休みまでまだ日はあるし、学校に来ればいつでも会えるのだから、いくらでも尋ねる機会はあるはずだ。
さて、そろそろ部活に顔を出そうかと思い始めた所で、教室の扉ががらりと開かれた。現れたのは二年D組の副担任、化学担当の多田先生だ。
「おう、よかった。まだ残ってたか。坂井、教卓の中にあるプリントの束、職員室の横村先生の所に持って行ってくれ」
「えっ、なんでわたしが」他にも数人ほど生徒はいるのに。
「お前が最初に目についたからだ。まあ誰がやってもいいけどな」
だったら最初からわたしを名指ししなくてもよかったのでは……。
「んじゃ、頼んだぞ」
そう言って多田先生は早足でその場を去っていった。白衣をなびかせながら。
あの人は普段から日常的に白衣を身に纏っており、出勤時も退勤時も白衣姿で自転車を走らせるという奇矯な事を平然とやってのける。化学の担当という事も手伝って、生徒たちからは陰で『マッド多田』という異名で呼ばれている。本当にマッドサイエンティストみたいな怪しい実験をしているのか、わたしはよく知らないけど。
「どうする?」と、綾子。
「まあ、プリントを職員室に持って行くだけなら、たいした手間じゃないし……」わたしは椅子から立ち上がる。「行ってその足で武道場に向かえばいいだけの話だし」
「不満そうな顔していても、やっぱり引き受けるんだね」
「どうせお人好しですよ」
「ううん、誠実って言うべきだよ、それは」
誠実か……およそわたしにはふさわしくない言葉だ。というか、わたしの周りに誠実だと言える人なんているだろうか。いざ考えを巡らすと、誠実というのも、とかく曖昧な使い方をしがちなワードだと気づかされる。
一体この世には、その意味を説明できないまま広く使われている言葉が、どれほど存在するのだろう?
「いっぱいあるでしょうね。私たちが気づいていないような所に」
そう答えたのは、二年D組の正担任で数学担当の、横村朱美先生だ。三十七歳という年齢を感じさせない、若さと物腰の柔らかさで、多くの生徒たちから慕われている。
「ありがとう、坂井さん」横村先生はプリントの束を受け取って言った。「本当はクラス委員長が後で持って来るはずだったんだけど、忘れて先に帰っちゃったみたい。私も多田先生も、このあと職員会議があるから自由に動けなくて……」
「多田先生、ここにいませんけど」わたしは職員室を見回して言った。
「化学準備室に行くって言ってたわ。会議がいつ終わるか見通しが立たないから、教材を家に持ち帰るみたい」
「へえ、職員会議って予定調和の典型かと思っていましたけど」
「偏見、それ偏見だから」横村先生は苦笑した。「ちょっと厄介な事案が発生してね、臨時でこれからすぐに始まるのよ。だから今日は部活動も短縮、あるいは休止」
「そうなんですか? ずいぶん唐突ですね」
「こっちも寝耳に水よ。部活動の事は、後で教頭先生が放送をかける予定だけど」
突然、教職員全員が招集されての会議……一体どんな厄介事が発生したのだろう。なんとも気になる話ではあるが、その会議で何かしら結論が出なければ、詳細が生徒たちに語られる事はないのだろう。そこは、大人の事情というものだ。
時間がないなら、キキが持ち込んできた数学の問題について、横村先生に尋ねる暇はなさそうだ。わたしも後であさひに訊くかぁ。
「それじゃあ、私ももう行かなきゃ」横村先生は椅子から立ち上がった。
「あ、ではわたしも……あれ?」
自分が特別に目敏いとは思っていないが、ふと目についた。横村先生に割り当てられたデスクの上、ファイルや本が整然と並べられたその中に、一枚の写真がフォトフレームに入れて置かれていた。幼い男の子が一人、写っている。
「息子さん……?」
「違う違う」横村先生は笑って否定した。「甥っ子よ。姉の子供。だいたい私、この歳にして未だ独身だし」
「そうだったんですか!」
「なんで独身ってとこにそこまで反応するの……」
驚きもすると言いたい。若いのに落ち着いた雰囲気があって、時折母性さえ感じさせるくらいだから、てっきり既婚者かと思っていたのだ。考えてみれば、横村先生のプライベートな話って聞いた事がないかも……。
「昔はよく遊び相手になったものだけど、この写真を撮った頃……六年前かな、それ以来ちっとも会えてないんだ。これは八歳の時ね」
「じゃあ、今はわたしと同じくらいの歳頃ですね」
「そうね……」
横村先生は写真をじっと見つめながら、寂しげな笑みを浮かべた。六年も会えていないという事だが、何か家庭内で不和でもあったのだろうか。先生自身は今でも会いたそうだけれど……。
「あっ」横村先生は急に顔を上げた。「いけない、早く行かなきゃ。じゃあ坂井さん、気をつけて帰ってね」
「あ、ちょっと待ってください」
急いでいる所を引き留めるのは悪い気もするが、わたしはほぼ反射的に横村先生を呼び止めた。立ち止まって振り向いた先生に、わたしはチョコを一粒手渡した。
「これ……よかったら」
「チョコ?」
「先生、ちょっと疲れているように見えたので……余計な心配でしたか」
横村先生は少しの間きょとんとしていたが、やがてふっと微笑みながら、わたしの手からチョコをつまんだ。
「いいえ」
「ちなみになんでチョコを持っているかは訊かないでください」
「ああ、うん、というか聞いている時間がない」
横村先生は駆け足で職員室のドアに向かった。しかし、出る前にもう一度こちらを振り向いて、柔らかな笑みを向けながら告げた。
「坂井さん、ありがとう」
そして、わたしが何らかの反応を示す前に、先生は廊下に消えていった。
先生が疲れ気味だったのは確からしい。あのチョコをあげたのは正解だった。どうしようかと迷っていたから、本当に必要な人に与えられてほっとしている。先生にも一応感謝されたわけだし。
しかし……感謝されれば嬉しいが、今はそれ以上に、もやもやとした感触を拭えないもどかしさがあった。あの、横村先生の甥の写真……以前にも何度か職員室には来ていたけど、今まであんな写真があっただろうか。それに、職場のデスクに写真を置くなんて、よほど会いたいと強く願っているのか。何かきっかけがあったのだろうか。
……まあ、いくら考えてもわたしの場合、ろくな答えが出せないのだけど。
来た時はまだ数人が残っていた職員室。今は全員が会議室に向かったようで、ここにはわたししかいない。会議室での職員会議……よほど重要な案件に違いない。
置き去りにされた感覚が残されたまま、わたしは職員室を出た。直後、教頭先生の声で校内放送がかけられた。
「全校生徒にお知らせします。本日は、臨時の職員会議のため……」
横村先生の話を額面通りに受け取るなら、部活動によっては休止ではなく、一時間ほどの短い間でも活動するところもある、という事になる。剣道部がその例に当てはまる可能性もあったので、わたしは予定通り武道場に顔を出した。元より、私物である竹刀や防具を武道場に置いているので、それを取りに行くつもりだったけど。
任命されたばかりの二年生の部長の判断は、休止という事だった。
放送がかけられた時点で何人か練習を始めていたが、まだ続けたいという人は部長と副部長、および指導長の監督の下で十分ほど継続することになった。指導長とはつまりわたしである。帰路につくのは十分ほどお預けだ。
全員が練習を終わらせて武道場を出て行き、ようやくわたしたち女子剣道部三役も解放された。わたしは部長と副部長の二人と別れ、竹刀と防具を持って校門に向かった。なぜ荷物がかさばるのに竹刀や防具を持ち帰るのか、だって? 自分のものは自分の許可なしに他人に触られたくないのだ。
校門の前ではすでに、キキとあさひが来て待っていた。
「あ、もっちゃん」キキが先に気づいた。「部活もう終わったの?」
「まあね。今日はどこも短縮か休止だって」
「そういえば、いつもより出て行った人数が多かったような……あ、それより、あの連立方程式の問題、解けたよ」
瞬時に話題を変えたな。キキが興味を惹かれる事ではなかったらしい。
「…………ほう」
「あれね、1/xとか1/yを、大文字のXやYに置き換えればよかったんだよ。そうすれば普通の連立方程式になるから。で、文字も三つあるけど、そこはあまり気にせず、加減法で一個ずつ消していけば大丈夫なんだって」
「それ、ほとんどわたしの受け売りだべさ」
前髪を留めているヘアピンをいじりながら、あさひは言った。語尾が不自然に訛ったこの口調は、あさひの特徴の一つといっていい。わざとなのか、それともこれが地の口調なのか、わたしにも分からない。
ええと、要するに文字の逆数を別の文字に置き換えるわけだな。すると、
(1)’X+2Y+Z=1
(2)’4X+6Y−5Z=2
(3)’3X+8Y+6Z=4
で、これを少しずつ解きほぐしていくと……当然のように時間はかかったが、なんとか答えをはじき出せた。
X=1/3、Y=1/4、Z=1/6
「……あ、しまった。最後に小文字のx、y、zに戻さないと」
「そうそう、そのミスもやりがちなんだよねぇ」
「なんでキキが偉そうにしちょるがか」
どうやらあさひは絶賛平常運転中みたいだ。いいことだ。
「答えはx=3、y=4、z=6か……ホント、どこから拾った問題よ」
「少なくとも高校入試の問題集にはないな」と、あさひ。「そんな変わり種の問題、入試じゃまず出ないし」
「そうなの? じゃあどこで見たのかなぁ」
見たのはキキだけなのだから、キキが分からなければ誰も分かるまい。なんだか、これ以上追及して深みにはまるのが恐いから、もうこの話は終わりにしよう。それよりも、わたしはキキに一つ言いたい事がある。
「どこでもいいけどさ、そのためにわざわざわたしの所に来るのはやめてくれる? あんたがイレギュラーな行動をとると、大抵予兆みたいに嫌なことが起きるんだから」
「えー、なにその不吉なジンクス」
「自覚もなかったんかい」
「まあ、今日一日何も起こらない事を祈りつつ、道々おしゃべりしながら帰ろうか」
あさひは一人達観していた。頼むから、他人事で済ませないでほしい。
とはいえ、不吉なことが起きようと起きまいと、いつまでも校門の前でグダグダしているわけにはいかない。今日もいつものように、くだらない話に花を咲かせながら、寄り道をしつつ家路をいく。
「そういえば、今日の昼休みにもっちゃんはどこに行ってたの?」
「もっちゃんと呼ぶな」いつでも忘れないこのツッコミ。「図書室だよ。最近また、お気に入りの歴史マンガを読んでいたのよ」
「なるほど」あさひが言う。「定期テストが終わって解放感に身をまかせ、試験勉強中は読まなかったものに手をつけたというわけですか。飽きもせず同じものに」
完全におっしゃる通りです。わたしの歴史好きは友人なら誰もが承知のようで、図書室の歴史本は全て読破していることも容易に想像できるようだ。
「そうそう、読んでいる最中に考えた事があるんだけどね……」
特に隠す必要のある事でもなかったので、わたしは昼休みに延々と考えた歴史観について語った。全てのものに歴史は存在するが、ある程度の長い時間が経ったものでなければ、その歴史に思いを馳せることはない。それほどに、歴史という言葉の定義を曖昧なまま使っている人が多い。歴史は事実の積み重ねであり連なりだから、空白を埋めたり想像で補完する事はできても、塗り替える事はできない。後世の人たちが歴史の真実と呼ぶのは、その事実が起きた経緯であるとか、事実の羅列だけでは見えない隠れた側面である事が多く、知ろうとしない限り価値を持たない代物である……。
「……という事を考えたの」
「いやあ、今どきの中学生らしからぬ考え方をするねぇ」と、あさひ。
「これもなまじ哲学的な発言を連発する、奇天烈な友人のそばにいつもいる所以かな」
「えっ、それってわたしのこと?」
キキが自分を指差して意外そうに言った。そうだよ、お前だよ。
「まあ、もみじの考えも一面の真実ではあるけどね……」
「ちょっと引っ掛かる言い方ね」わたしはむっとした。
「確かに、歴史を大局的に見れば、事実の連鎖という考えもあながち間違ってはいないけど……その事実が発生した過程では、関係者が何かしら考え、判断を下している。あるいは何も考えず雰囲気に流されただけという事もあるかもしれないけど、それも含めて、その行動や判断が正しいかどうかを、あくまで現代の価値観で精査するのも、歴史というものの一つの見方だよ」
「難しくてよく分かりませーん」
キキにとっては理解のキャパシティを超えた話だったらしい。
「簡単に言えば、故きを温ねて新しきを知る、あるいは、他山の石以って玉を攻むべし、というところかな」
「ちっとも簡単に言ってない……」と、キキ。
仕方がない。見かねたわたしがあさひの言葉を翻訳した。
「要するに、歴史上における過ちを知ることで、現代に生きるわたし達が同じ過ちを繰り返さないようにする、それが歴史を学ぶ意義だってこと」
「もっちゃん、ありがと。そう言ってくれたら何となく分かった」
「でも、その考えも分かる気がするな……大雑把に歴史を見てみると、ほぼ周期的に戦争が起きているし」
「それも一つの例だね。歴史の舞台裏で下される判断は、当然だけど正しいものばかりとは限らない。正誤の基準は人それぞれだけど、結果として紛争や大量死を招けば、それは例外なく間違った判断だと考えるべきだろうね。今の時代、人権擁護が半ば常識のように根付いているから、そうした結果を快く感じる人は極めて少ない。歴史を振り返って現代の問題に繋げるなら、そのくらい厳しい観点で見るべきだ」
前から思っていたけど、あさひの物言いはまるで論説文の音読みたいだ。
「でも、結果としてそうした悲劇を招いたとしても、その原因までが悪いと決めつけるのは短絡的な気もするけど」
「その通り。実際には、いくつもの要因が重なることで結果に結びつく、というパターンがほとんどだが、その要因の全てが誤りとは限らない。だが、悪い結果が出たのなら、決定的に間違っている要因が必ず一つはあると思わなければならない。そうだね……原子爆弾が一番いい例かな」
「原子爆弾?」
「原子力開発自体は、決して悪いものじゃない。現代の科学の発展は、原子力開発抜きではありえないからな。その一方で、原爆投下による大量虐殺や、福島での原発事故から、原子力開発や関係する研究者に嫌悪感を示す人もいる。だけどそれは的外れだ。誤っているのは原子力開発ではなく、それを悪用ないしは杜撰に使用した人間の方だ」
ああ、なるほど……全ての要因が悪ではないけれど、何が悪いのかを正確に区別できなければ、やはり同じ失敗を繰り返す。そのよき前例と言えるな。
「そう考えると、避ける事のできた悲劇っていうのが、歴史上にいくつもあったように思えるね」
「それこそが歴史を学ぶ意義だよ。厳正な善悪の基準でもって歴史を見れば、同じ悲劇を避けるために何をどう判断すればいいのか分かる。一見すると偶然に思える要素も、本当はわずかな可能性として予測する事は可能だ。歴史に学び、そして知恵をひねれば、どんな問題だって解決できるんだよ。ま、言うほど簡単ではないけど」
「人権擁護の発想が根付いていると言っても、まだ全ての地域に言えるわけじゃないからね……とはいえ、革命とか国家主義が礼賛されて、人命を弄ぶことに誰も躊躇しなかった時代と比べれば、まだマシなのかもしれないけど」
「日本も数十年前までそうだったから、他人事ではないな」
「そういう時代の中では」キキがようやく口を開いた。「革命を成功させたり、国家主義を掲げて犠牲になったりした人は、英雄みたいに扱われるよね」
「キキ……」
わたしは返答に詰まった。キキはこちらを見ずに、まるで独り言のように言った。失望を滲ませているようにも感じられた。
「まあ、歴史を都合よく解釈する人間が為政者になれば、どんな時代でもそいつらは英雄扱いされるだろうさ。自分が同じことをする時、あえて反対する人が減るからな」
あさひもずいぶん身も蓋もない事を言う……。
「キキだったら、誰が何と言おうと、そういう人たちを英雄とは認めないだろうね」
「わたしは……」沈んだ声でキキは言う。「歴史上の偉人や英雄たちは、みんな無責任だと思うんだ……」
あさひは失笑した。「無責任とまで言うか……それもまた極端だな」
キキは何も言い返さなかった。歴史上の偉人が無責任とは確かに極端だが、そう考えるだけのきっかけがキキにはあったのだろうか。だから……どこか失望しているような雰囲気が漂っているのか?
キキが何も言わないから、わたしもあさひも無言にならざるを得ない。こんな重苦しい話題がよくここまで続いたものだとも思えるが、唐突に途切れても違和感がある。何か別の話題を振るべきかと思い始めた時だった。
あさひの携帯に着信が入った。メールだった。
『あさひ、これから時間は取れるかな? ちょっとお話があるので、キキやもみじも連れて『フェリチタ』に来てくれない? 相談しておきたい事があります』