その18 修羅の病室
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予想通り、想定通り、あさひの病室は修羅場と化していた。
病室の引き戸を開けた途端、凄絶で醜い言い争いが、密閉されていた熱気が放たれたように、波の如く塊となって襲ってきた。
「だから、さっさと認めれば楽になるっつってんだろうが!」
「木嶋さんがさっさと引き上げても楽になると思うんですけど。ていうかマジで、さっさと尻尾巻いて帰ってほしいです」
ベッドのそばで木嶋が吠えて、布団を被って無視を決め込んでいるあさひが言葉だけで応戦している。
「お前の証言の矛盾が解消されるまで、お前を放置して引き上げるわけにはいかん」
「わたしは一貫して、自分で見聞きした事実しか口にしておりません。矛盾があるなら他を当たったらいかがです?」
「その間にお前が逃走する可能性もあるからな。とにかくお前が犯行を認めない限り、俺たちがここを離れる事はないと思え」
「馬鹿も休み休み言ってくださいよ。生理現象を催したら離れざるを得ないでしょうに」
「友永を見張りにつければ問題はないだろうが。油断していたな」
「何も間違っていませんよ。木嶋さんは、あなたと友永さんの二人の両方が離れる事はないと言っただけです。つまり片方でもここを離れれば成立しなくなります。キャリアのくせにその程度の論理的思考も備えていないとは、ああ警察もお先真っ暗ですなぁ」
「てめぇ、そうやってことごとく馬鹿にすれば引き下がるとでも思ったか!」
「引き下がってくれればラッキー、くらいには思っていますが」
「ほうぅ、何がラッキーだっていうんだ? 逃げるチャンスが生まれるからだろ。今のは自白と解釈して問題ないな」
「都合のいい解釈の上に成り立つ仮定が、何の証拠になるというんです? では馬鹿は撤回しましょう。あなたは超と弩級がつくほどの大馬鹿です」
「グレードアップさせてんじゃねぇよ! とにかくさっさと罪を認めろ!」
「ろくな証拠も提示しない状況で、恫喝して相手が罪を認めた事例でもあるんですか。あれば確実に不祥事の仲間入りですけどね」
「証拠ならさっき俺が説明しただろうが。お前の証言は矛盾だらけだ。それを説明する方法はただ一つ、お前が犯人である可能性だけだ。それが証拠だ!」
「他の可能性があり得ない事を十分に検証しなければ、その理屈は容易に破綻します。大体、それ以外に物的証拠はないんですか。わたしが犯人だと考えているなら、どの方面から見ても否定されざる証拠を探せばいいんですよ」
「そう言えば遠ざけられると思ったか。お前が犯人だという事は確実だ。証拠なんて後からいくらでも手に入るはずさ」
「つまり現状は手に入れておらず、憶測と妄想だけで犯人を決めつけていると。刑事は体が資本だというのは過去の話ですか」
「黙れっ! この俺様を馬鹿にするつもりか!」
「超弩級の大馬鹿者ですからね。もうちょっと賢くなってから出直しを」
「賢くなってから? 矛盾だらけの証言をしておいて、自分の方が賢いとでも? これがお笑い草でなくて何だというんだ」
「事実というんです」
「ええい、とにかくさっさと認めて楽になったらどうだ。そうやって煙に巻こうとしても無駄だっていい加減に気づけ!」
「あなたの場合、煙に巻かれて視界が霞んでいるだけでしょう。事故起きますよ」
「こいつ立場も弁えず大人を愚弄しやがって……!」
パン、パン。手を叩く音が二回響いた。木嶋と友永刑事が振り向き、あさひが布団から顔を出した。
「あの、そろそろ終わりにしません?」音の主のキキが言った。「あまり大声出していると近隣に迷惑ですし、無闇に言い争っても何ひとつ解決しません」
「キキ、それにもみじも……来てくれたのか」
あさひは一転して晴れやかな表情を見せた。……言い争いの最中は布団を被っていたから、表情なんて見えなかったけど。
「二人とも、さっさとこの雄鶏刑事を追い返してくれない? 不格好な理屈ばかり聞かされているせいで体調悪くなりそうなの。有害無益な汚物は病室にいらない」
「誰が汚物だってぇっ?」
これは相当腹に据えかねているな。毒舌攻撃は美衣の得意技だけど、あさひの罵詈雑言もかなり破壊力がある。美衣みたいに急所を突いてこないから長引いているけど、間違いなく木嶋の精神は創痍でいっぱいのはずだ。
「あっちゃんももう少し言葉を選んでよ」と、普段から言葉を選ばないキキが、額に手を当てながら言う。「みかんからのヘルプで駆けつけなきゃ、木嶋さん、きっと来年は地方に飛ばされる事になったと思うよ」
「どういう意味だコラ」
「また言い争いになっても困るので、とりあえず木嶋さんの主張を最初から丁寧に説明してください。あっちゃんが自分の無実を主張しているのは明白なので」
落ちついているなぁ。キキが動揺するとしたら、一体何が起きた時だろう。
「木嶋さんの話だと、疑う理由の一つは鍵にあるそうなんだ」
未だ怒りで興奮が治まらない木嶋の代わりに、友永刑事が言った。鍵というのは当然、プールの扉の鍵だろう。高村警部に鍵のことを報告した時点で、木嶋は何かを思いついていたらしい。キキはその話を聞いた段階で、木嶋の行動を予測したのだろう。
「プールの鍵ですね。高村警部から話は聞いています」
「あ、そうなんだ……」
「話を聞いたならお前らも知っているだろう。昨日の時点では施錠されていたはずのプールに、なぜかこいつは鍵を使わずに入っている。プールの鍵は三種類存在するが、いずれもしっかり管理されているから、第三者が介入する余地はない。つまり、こいつは何らかの非常手段を使って入ったということだ」
ああ、それであさひに疑いの目を向けたのね。本人は聞き飽きたらしく、顔を背けて大仰にため息をついている。もうこの時点で正道から逸れたのは明らかだ。
「いいか。普通ではない手段で自発的に侵入したのなら、誰かに呼び出された可能性は限りなく低い。悪意あってのことだと考えるのが自然だ。そうすると、不自然に銃弾が消えていた事も容易に説明が」
「その前に」キキは木嶋のセリフを遮った。「あっちゃんがどうやってプールに忍び込んだのか、その具体的な方法を説明してくれませんか。それが無いと、この後の展開が全て否定されますよ」
「わ、分かっている」
木嶋はあからさまに動揺した。中学生に論理の穴を指摘されたからだ。というか、まともな具体例を考えているのだろうか、こいつは。
「これは消去法で見えてくる。窓は小さすぎていくら中学生でも入れないし、金網の柵を越えようにも足跡はどこにもない。正面突破と横からの侵入が無理なら、残されたルートは一つだけ。それは……上だ」
「はあ、上ですか」キキはおうむ返しに言った。
「お前たちは知らないだろうが、更衣室の裏手には水道の元栓がある。こいつはそれを使ってプールに侵入したのさ。まあ、そう言われてもピンと来ないか?」
木嶋は尊大な態度で言うが、キキを見ると、半分閉じた瞳から生気が消え失せていた。呆れて物も言えないという事は、木嶋の考えが何となく分かったのだろう。更衣室の建物の裏にある元栓は見てないが、見なくてもキキはすぐにピンと来たようだ。
「犯行の手順はこうだ。まず、その元栓の蛇口にロープを括りつけ、入り口近くまでロープを持ってきたら、緩く持ったロープを一気に上へ投げて、屋根にロープを渡したんだ。運動会でよく見る大縄跳びの要領だな。そのロープを使って屋根まで上り、括りつけていたロープを緩めて蛇口から外し、回収したんだ。二回ほどぐるぐると巻いておけば、十分な強度が確保できる上に、回収も容易になる」
それは蛇口の強度が人の重さに耐えられる事が前提だと思うが……。
「そうしてロープを回収した後にプールサイドで飛び降りて、あらかじめ持って来ていた銃で自分の脚を撃ち、ロープと銃と弾を、プールの外にいた共犯者に投げて渡したというわけだ。これであの現場の状況が、何ら矛盾なく説明できるだろう?」
キキは、思い切り矛盾あるよ、とでも言いたそうな顔をしていますが。
「畢竟するに、これは山本あさひによる狂言というわけだ。現場の状況が全てを物語っているのだよ」
「そんなはずがありません!」
大声で反論を唱えたのはみかんだった。あさひがハッとしてみかんを見る。
「他の人ならともかく、あさひがそんな面倒な事をするはずがありません。あさひは、学校では真面目で誠実な人を装っていますが、実際は常に手を抜く事を全力で考えるような子です。どんな理由であれ、あさひからすれば七面倒くさくてやっていられない事を、わざわざ自分の学校なんかでやるものですか!」
「えーと、みかん……?」
あさひは半泣きの表情でみかんを見た。必死に擁護しているつもりだとは思うけど、貶しているようにしか聞こえない。まあしかし、あさひのことをよくご存じのようで。
「友人だから犯人だと思いたくないのは当然だろうが、事実は揺らがないぞ」
「友人ではありません! あさひはわたしの、最愛の親友です!」
瞬時にあさひは布団を被った。照れた顔を見られたくなかったのだ。みかんよ、そんな事をムキになって言ってどうする。
「あの、ちょっとよろしいですか」やっとキキは口を開いた。「あっちゃんが自作自演でそんな事をしたのなら、なんでプールに落ちたんですか。一歩間違えたら命が危なくなりますし、それ相応の理由がないとおかしいですよ」
「たまたまだよ。脚を撃ってふらついていたんだ、誤って落ちても不思議はない」
十分に不思議はあると思います。
「うーん……」キキは渋面を浮かべる。「まあ、百歩じゃ足りないので百万歩譲って、そのこじつけが仮に正しいとしても」
「こじつけだと? てか、桁上げ過ぎだろ」
「そもそも、あっちゃんがそんな事をする理由は? 木嶋さんの口ぶりだと、これまでの三件の犯行を模倣しただけのようにも聞こえますが、よほどの理由がないと、そんな面倒をしてまで同じ状況を作ろうとは考えないのでは?」
「そんなのはあれだ、今よりもさらに校内での知名度を上げたがっていたんだよ。有名になるとさらにその上を行きたくなるのは人間の性ってやつでな、特に物を知らない子供だと、より単純で浅はかな方向に行きやすいんだよ」
それは紛れもなくあなたのことですよ、木嶋刑事。
キキの目は死にかけていた。あさひの言った通り、木嶋の推理は健康に悪そうだ。
「……あっちゃんの反論も尤もですよ。物的証拠は何ひとつない、ただ想像を繰り広げて何ひとつ確かめずに決めつけてる。これだと裁判に持ち込んでも勝てませんよ」
「友永の発言を聞き漏らしたか? こいつは、疑う理由の一つが鍵だと言っただろ」
「言いましたね」聞き漏らしてはいなかった。
「根拠ならもう一つある。それが、こいつをプールに呼び出したという手紙だ」
キキが初めて目を見開いた。呼び出しの手紙なんて初耳だ。
「こいついわく、プールに来たのは手紙で呼び出されたからで、プールの扉も施錠されていなかったという事だ。その時も手紙を持っていったが、こいつの着ていた衣服から、そんな手紙は見つからなかった」
「そんな事があったんですか。で、それが何の証拠になると?」
「かぁ、鈍いにも程があるな。実際にはない物をあると言い張るなんて、レベルの低い嘘を繰り返し言うんだぞ? 捜査を攪乱させるためとしか考えられんじゃないか」
「もっちゃん……精神安定剤がほしい」
キキはわたしの肩にしがみつき、項垂れながら言った。生憎、わたしは医者じゃないので、そんなものは処方できない。
「見てみろ。山本あさひは反論ができなくて目も合わせやしない。これでは認めたのも同然だな」
……全部の大人がこんな為体とは思っていない。しかし、いい歳こいた大人が、よくもこんな、牽強付会の妄言を臆面もなく堂々と言えるものだ。隣にいる部下の友永刑事も、木嶋の暴走を止める方法が分からなくなり、すでに諦めの境地にあった。
手紙について、少し思い当たる事があったので、わたしはベッドの反対側に回り込んであさひと正対した。
「ねえ、その手紙ってもしかして、昨日と一昨日で文庫本に挟んでいた……」
「当たり。三日前、みかんから雪像まつりの下見に誘われた後、家に戻ったら郵便受けに入っていたんだ」
やはりそうだったか。手紙と聞いて真っ先に思い浮かんだのが、二日前に駅で待ち合わせた時に文庫本に挟んであって、翌日の朝にあさひが眺めていた小さなメモ用紙だ。間近で見て確かめたわけじゃないが、手紙は本当にあったみたいだ。
「誰にも見られたくなかったんで、時が来るまで肌身離さず持っていようと思って、しおり代わりに挟んでおいたの」
「見られたくなかったってどういう事? プールへの呼び出しなんて怪しい手紙、わたし達にも話してくれてよかったのに」
「相談しにくい内容だったんだよ。悪いけどその辺は突っ込まないでくれ」
「そんなこと言ってる場合? 疑われているんだよ?」
「フン」木嶋が尊大な態度で鼻を鳴らした。「お前さんが見たという手紙も、本当に別の誰かから送られたものとは限らんぞ。架空の犯人を匂わせるためにわざと見せた、少なくとも俺ならそう見るね」
誰もあんたの見解など聞いていない。わたしは木嶋を無視した。
「じゃあ、なんでその手紙をプールに持っていったの?」
「問い詰める道具になるかと思ってね。あれ、手書きだったから犯人を示す証拠になると踏んだんだけど……」
「手書き?」キキが反応した。
「いい加減にしろ。これ以上嘘を重ねても偽証罪が追加されるだけだぞ。全く、ちょっと絞れば簡単に白状すると思ったが、予想以上にふてぶてしい奴だ。だが真相はもはや歴然としている。言い逃れなどできないと、早く諦めた方がいいんじゃないのか?」
それはあんたにこそ言いたい。しかし、この場で木嶋をやり込められるとしたら、彼女しかいないだろう。わたしは、全部任せると手で合図を送る。
キキはわたしの合図を見て取ると、こくんと頷き、木嶋に向かって言い放った。
「お話はよく分かりました。どうやらあなたに対しては、言い方を遠慮するだけ馬鹿を見ることになりそうです」
「あ?」木嶋はキキを睨みつけた。
「正直に言いますと、手紙のことはいま初めて知ったので予想外でしたが、それ以外の木嶋さんの推理は全部想定していました。前日にプールが施錠されていたという話から、より単純で浅はかな結論を出すとしたらそのくらいだろうと」
さっき木嶋が使ったフレーズでカウンターを食らわせた。
「何だとぅ……?」
「それにしても」キキは涼しい顔で言った。「他人の考えですから、多少のずれはあっても仕方ないかとは思っていましたが、こんなにことごとく期待を裏切らないとは……あまりに予想通りすぎて、面白味のかけらもないですね」
うわあ。爆弾つけた大砲をぶっ放しやがった。木嶋は満面朱をそそいで吠えた。
「キサマまでこの俺を虚仮にするのか! 警察の捜査に面白味もくそもあるか!」
「どこが捜査ですか。証拠も証言も中途半端にしか集めていないし、ほぼあなたの想像で補完しているだけの推理じゃないですか。マスコミが報道する一部の情報だけ鵜呑みにして、あれこれ想像を働かせるだけの一般人のやり方と、何がどう違うんです? あっちゃんの言う通り、刑事は体が資本だというのは過去の話ですか」
「このガキが! 名誉毀損、いや侮辱罪と公務執行妨害で逮捕されてぇのか!」
「あなたがあっちゃんにしている事こそ名誉毀損でしょう。裁判所だって、あなたの捜査もどきに妥当性はないって結論を出しますよ」
「捜査もどきだと……? ガキのくせに偉そうな口を利くな! それとも何だ、お前が俺以上に筋の通った説明をしてくれるか? どうせ無理に決まって……」
「ええ。あなたの妄想より、何倍もシンプルで筋の通った仮説を持っていますよ」
「…………え?」
木嶋は固まった。予断が裏切られて脳がフリーズしたみたいだ。
「ま、まさか……だったら聞かせてもらおうか。お前の妄想を」
「やめておきます」キキは非情な事を告げた。「そちらに、わたしの話を聞く姿勢が微塵もなさそうですから、後で文書にして星奴署にファックスで送りますよ。先ほどの木嶋さんのお話も添えてね。上司や同僚たちにご自分の恥を盛大にさらしてください」
「ちょっ、お前……!」
木嶋の反応など気にも留めず、キキは悠然と病室のドアに向かっていく。キキ流の復讐というのはかくも恐ろしい。相手の精神を存分に掻き乱して、最も忌避したがる事を平然とやってのける。このままだと本当に、木嶋は地方に飛ばされるかも……。わたしはそれでも別に構わないけどね。
「待って!」
みかんがキキの前に立ち塞がった。キキは何も言わない。
「いま何も説明せずに帰ったら、あさひは窮地に陥ったままだよ。お願い。あさひの無実を証明できるなら、今すぐにやってほしい」
「分かった」キキはあっさり答えた。「みかんの頼みなら喜んで聞くよ」
「てめぇ!」
ホント、素晴らしく効率的かつ効果的に、木嶋を貶して振り回すねぇ。もう見ていて爽快なくらいだから、このまま止めずに見ていようかな。
「木嶋さんが提示した根拠は二つありましたが、あっちゃんが無実だと仮定しても、両方にシンプルな解答が与えられます。まずは手紙の件ですが、あっちゃんが確かにそれを受け取ってプールに持っていき、そのままプールに落ちたのであれば……銃弾が消えた理由と同じだと考えるのが最もシンプルです」
「はあ? 銃弾が消えた理由だって分かっては……」
「あれ、お聞き及びじゃありませんでしたか」
そういうことね……わたしにもすぐ分かった。確かにこれなら単純な話だ。
「なるほど。岩塩で作った銃弾がプールの水に溶けたのと同様に、その手紙も水に溶けて消えたというわけね」
「そういうこと」キキはわたしに向かってウィンクした。
「手紙が水に溶けただって?」木嶋は嘲笑した。「そんな都合のいい紙があるわけ……」
「ありますよ」友永刑事が言った。
「え?」
「水溶紙といって、水に溶けやすい繊維を使用し、紙に求められる最低ラインぎりぎりまで強度を緩めたものです。1970年代から証拠隠滅用の紙として頻繁に使われています」
そこまで詳しくは知らないが、今どきは子供用の遊び道具にも散見される、ありふれた素材と言っていい。その程度のことも知らないとは……。
「あっちゃんの説明によれば、手紙は手書きだったそうですから、証拠になると思えば、余計な折り目や皺を作らないよう慎重にポケットに仕舞うでしょう。というより、そうするように仕向けられたのですね。そうすれば水が浸み込みやすくなって、簡単に溶けてなくなるという寸法です」
「ああ、わたしも犯人に踊らされていたのか……」
そう言って苦笑いするあさひだが、木嶋の方が派手に踊っていた。もしかしたら、犯人の思惑以上の踊りだったかもしれない。
「では次に鍵の問題についてですが、これも、さっきのロープを使った侵入という仮説よりも、ずっとシンプルで確実な方法があります。むしろ、さっきの話はシンプルでないどころか、百パーセントありえません」
「何だと? 俺の考えのどこに穴があるっていうんだ」
「至る所にありますよ。蜂の巣も同然です」
豪快なたとえ方をするなぁ。
「まずロープを使った侵入方法ですが、それが使われていない事は現場を見れば明瞭に分かります」
「はあ? 俺には逆に、この方法以外使えないように見えたが」
「だったらあなたの視野は狭すぎです。お聞きしますが、金網の柵を乗り越えたという可能性を排除した、その理由は何でしたか」
「だから、周りに足跡がなかったからで……」
「そうです。前日に降った雪のせいで、地面は湿り気を帯びていました。特に更衣室の周りは、中にあった暖房器具の影響で、ほぼ水のままでした。だから他の所から回ろうとすれば確実に足跡が残った。それと同じ事が、ロープによる侵入でも言えるのですよ。だって、さほど突き出ていない屋根に渡したロープをよじ登る時、泥のついた靴を壁に一切付けないなんて事がありえますか?」
「あっ……!」
木嶋はようやく、自らの推理の穴に気づいて瞠目した。
「中学生の女の子で、まして普段から腕力の鍛錬をしていない子が、腕の力ひとつでロープを上るのは至難の業です。あまりロープの形状を複雑にすれば、今度は大縄の要領で屋根の上に渡す事も難しくなります。大縄と違って、回転の勢いをつけるためのスペースが確保できないから、確実に投げて渡せるよう、ロープはなるべく軽く、シンプルな形状でなければいけません」
「そ、それなら、靴を脱いでから上ればいいんじゃ……」
「入り口の近くに靴を脱げるような足場はありませんし、ロープにしがみついたまま靴を脱ぐのはかなり難しいはずです。それに脱いだ靴はどうします? 手に持って上るとしても、体のどこかに引っ掛けるにしても、片手では自分の体を支える事もできません」
「共犯者に体を支えてもらったかもしれないだろ」
「小さな赤ん坊ならともかく、十四歳の女の子を持ち上げて靴を脱がせるのは、途方もない腕力が必要です。持ち上げた分、共犯者の足跡は他より明瞭に残るはずですが、そんな足跡を美衣も鑑識も見つけていません」
「だったら、ロープを渡した後に、何かの道具をつけたんじゃ……」
「へえ。ロープを屋根の上に投げて渡して、自分の体を支えられる道具をつけて、それを体につけたら靴を脱いでどこかに引っ掛けて、そして屋根に上り、後で道具は共犯者に回収させる……手間がかかり過ぎじゃないですか。あっちゃんの体力を考えたら、半端な道具じゃ上れないでしょうし。そんな事をしてまで密室のプールに忍び込む意味があります? ドアの錠をこじ開けて入った方がよほど簡単だし、自分が警察に疑われる危険を断然減らせます。まるで筋が通っているとは思えませんね」
「くっ……人間のやることだから、いつも筋が通っているとは限らんだろ」
「でもなるべく簡単な方法を取ろうとするのも人間ですよ」
木嶋は言葉に詰まった。尊大な態度で推理を話していた姿が道化みたいだ。
「だが、これ以上にシンプルかつ実行可能で状況にも矛盾しない仮説なんて……」
「あるじゃないですか。正面突破、つまり鍵を使ったという可能性です。木嶋さんが指摘した矛盾は全て、鍵の存在一つで解決できます」
「だから、三つある鍵は全部ちゃんと保管されていて……」
「そんなの、こっそり合い鍵を作っておけば難なくクリアできますよ」
確かに、能登田中の鍵はありふれたピンタンブラー錠用のもので、素人でも比較的容易に複製が作れそうだ。
「最近は、型取りシリコンがネットで簡単に手に入りますからね」
「それでも複製を作るには元の鍵が必要になるだろう。だがこの三か月間、プールの鍵を借りた人は一人もいないし、他の二つの鍵は容易に持ち出せないぞ」
「だから早々に鍵を使った可能性を排除したんですね? 確かにこれが三か月越しの計画とは思えません。そんなに時間をかけるまでもなく、プールの鍵が容易に借りられる時期にやれば、リスクも少なくなりますし」
「設備点検の業者の足跡に、自分の足跡を紛れ込ませるため、という可能性は?」
一応わたしは確認してみた。
「それでも同じこと。地面が乾いて足跡が残りにくい時期にやった方がいい。むしろプールを使う人がまだ残っている時にやった方が、足跡を紛れ込ませやすくなるよ」
「そっか……じゃあやっぱり、複製を作るために借りたのは最近ってこと?」
「そう考えるのが自然だね」
「どこが自然だよ」木嶋はすかさず噛みついた。「どうせ保管庫をろくに確かめちゃいないんだろうが、能登田中の鍵の管理は完璧で……」
「どんなに完璧に見える管理にも、必ず穴があると思うべきです。実際あの状況だと、ごく簡単な方法で、誰にも気づかれずプールの鍵を持ち出せます」
「言うほど簡単じゃない。教師の目もあるし、カウンターの数値と貸し借りの回数が一致しなくなるから、すぐにばれて……」
「でも、別の鍵を借りるフリをしてプールの鍵を借りた場合、それでばれますか?」
病室の中が、しんと静まり返る。本来はこうあるべきである。
「…………え?」木嶋は表情が固まっている。
「あとで確かめられるのはカウンターの数値と、ノートに書かれた記録だけ。ただ勝手に持ち出せば、扉の開閉音などで気づかれるでしょうが、実際に借りた鍵と違う教室名を書いておいたら、誰も確認できませんよね」
「いや、しかし……もしプールの鍵がなくなっている事に気づかれたら、一巻の終わりだろう」
「この時期に借りられていたら不自然で、記憶に残りますからね。でも、ノートに書いた方の鍵に、プールの鍵と書かれたキーホルダーが付いていて、それがプールの鍵を掛ける場所にあったら、誰も疑いませんよね?」
そういうことか……もしキーホルダーを取り換えたとしても、鍵本体の違いは一見して分かるものじゃないし、鍵の形状まで細かく記憶している人は圧倒的に少ない。まして学校の場合、鍵のメーカーはどれも同じだから、大体の形状は共通している。
友永刑事が腑に落ちたように頷いた。
「つまり、プールの鍵と別の鍵のキーホルダーを入れ替えて、ノートにはその別の鍵を借りたと記録しておけば、誰の目から見ても、プールの鍵が借りられたようには見えないというわけか……」
「くっ……しかし、誰が見ているか分からんのに、キーホルダーをこっそり入れ替えるなんて、できるとは思えんぞ。あれはリング繋ぎだから、簡単に外せるものじゃない」
「そうですね」と、キキ。「だから実際は、キーホルダーも替えていないはずです」
「はあ? じゃあどうやって……」
「もっと簡単な方法があるじゃないですか。要は、別の教室の鍵が、プールの鍵であると思わせるだけでいいんですから」
「分かった!」わたしは声を上げた。「シールを重ね貼りすればいいんだ」
二人の男性刑事は同時に「あっ」という声を漏らした。
「そう。キーホルダーに貼られたシールの文字は手書きだった。だったらその上に、手書きでプールの鍵と書き込んだ同じサイズの紙を貼っても、気づかれないよね。小さな紙を隠し持っていても目立たないし、貼るだけなら一瞬で済みます。シリコンで型を取るなら十分あれば事足りる……そんな短い時間に、使うこともないプールの鍵があるか確かめる人はまずいません。ばれる確率は限りなくゼロに近いです」
「ま、待て……それでも問題があるぞ。重ね貼りしたシールは当然、元に戻した時に剥がす必要がある。だがシールの下も紙だから、剥がすのは難しいんじゃ……」
「うーん……」キキは目を閉じた。「キャリアだからでしょうか、木嶋さんって庶民的なアイテムにとことん疎いですよね」
「なに?」
「たとえ接着剤の下が紙でも、簡単に剥がせる類いのものがあるんです。ほら」
キキはスマホの画面を見せた。画像検索にかけて出てきたものは……。
「貼って剥がせる糊……?」木嶋はスマホを凝視して読み上げた。
「ええ。きれいに接着する事ができて、なおかつ後で簡単に剥離できる糊です。百円ショップで普通に入手できます。これなら剥がすのも難しくないですよ」
キキがにっこり笑って言うと、木嶋から反論の言葉はもう出なかった。控えめに見ても彼女の仮説の方が圧倒的にシンプルで、しかも状況との矛盾もない。無理な解釈を重ねるだけの木嶋の推理とは、まさに雲泥の差であった。
そしてさらに追い打ちをかけたのが、遅れて病室に現れた紀伊刑事である。
「キキちゃん、城崎さんからの報告よ」
中学生と刑事のドロドロしたいがみ合いなど見たくないと、紀伊刑事はずっと外の車で待っていたのだが、城崎からの報告を受けて、キキに知らせるべきと判断したらしい。
「紀伊くん、どこにいたのかと思ったら……」
「すみません友永さん、私には修羅場に身を置く度胸がなかったもので」
「う、うん……いなくて正解だったと思うよ」
友永刑事は胃を押さえながら言った。ストレスフルな刑事生活である。
「それで?」キキが尋ねた。「プールのドアの鍵穴を調べた結果、どうでしたか」
「ビンゴよ。鍵穴の内部から、床にこぼれていたものと同じペンキが見つかったわ」
「あ? どういうことだ」
木嶋にとっては理解しがたい結果らしい。わたしはキキに訊いた。
「ひょっとして、あの靴で擦ったような跡が関係しているの?」
「うん。もしあれが犯人によるものなら、その目的はとりもなおさず、犯人に繋がる痕跡を消すため。何だと思う?」
逆に尋ねられた。しかし、少し考えれば分かりそうだ……そうか。
「手形とか」
「正解。他の痕跡ならともかく、指紋とか掌紋が残ったままだとまずいから、慌てて靴底を擦りつけて手の跡を消したのね。たぶん、犯人はペンキの缶を蹴った時のはずみで転んで、床にこぼれたペンキに手を突いてしまった……もしその手に鍵を持っていれば、あるいはその手で鍵を取り出したとすれば、鍵にもペンキが付着した可能性がある」
「ペンキのついた鍵を挿し込めば、鍵穴の中にもペンキがついているかもしれない、という事ね。だから城崎さんに調べさせたのか……」
「もっとも、ついたとしてもほんのわずかな量だろうし、見つかるかどうかは賭けだったけどね。でもおかげで、鍵を使って開け閉めした事は間違いないと分かったね」
そうだ。ペンキがこぼれたのは事件のあった夜だけだ。鍵穴の中にペンキが付着していたなら、ペンキのついた鍵が、その夜に挿し込まれた事の証明になる。そして、木嶋の言うように三つの鍵はどれも容易に持ち出せない。ならば使われた鍵は複製されたものだと考えるしかない。キキの推理の方が正しいみたいだ。
「やっぱり人間、簡単な方法に飛びついてしまうみたいですね。少なくとも、あっちゃんを犯人だと決めつける事はできません」
「ぐぬぬ……」木嶋は口惜しそうに顔を歪めた。「それでも、完全に疑いを晴らしたとは言えないぞ。手紙の事だって、嘘だという可能性は拭えないし、お前が言った方法をこいつが使ったという可能性だってあるだろうが」
「でも、さっきのあなたのやり方が間違っていた事に変わりはない」キキは声量を低くして言い放った。「あなたは、自分の仮説に合わせるために、あっちゃんの人物像や性格を都合よく決めつけていました。そのくせ、あっちゃんのことをよく知っているはずの、みかんの主張は初めから聞き入れませんでした。これは、独断専行と言わざるを得ない」
「お、俺はただ、真実を明らかにしたかっただけで……」
「いいえ!」キキは叫んだ。「あなたは自分の身勝手な妄想を、我が物顔で他人に押し付けようとしていたんです。相手の人柄を妄想ひとつで知った気になれば、それで真実が明らかになるとでも思いましたか。あなたは、あっちゃんの何を知ってるんですか!」
ずっと言葉に出さなかった怒りを、キキは初めて表出させた。濁りのないその瞳は、煌めく炎を立てながら、真っすぐ木嶋に向けられている。一方の木嶋は、悔しさと後ろめたさからか、キキの目を見ようとはしなかった。
「おい友永、引き上げるぞ!」木嶋は踵を返した。
「え、引き上げるって……」
「本庁の高村警部たちと、今後の捜査方針について相談するんだよ。立て直しせざるを得なくなったからな!」
木嶋は苛立ちを隠すことなく、乱暴に引き戸を開けて廊下に出た。反省する気は露ほどもなさそうだ。これほど“反面教師”という言葉が似合う大人はいない。
上司の指示なので友永刑事はそれに従ったが、病室を出る前に振り返り、弱々しく微笑みながら謝罪のポーズを見せた。わずかばかりだが感謝はしているらしい。大人げない言動を取らない分、友永刑事の方が何倍も好感度が高かった。
木嶋が出て行った事で、病室はようやく静かになった。みかんがあさひに近づく。あさひは微笑みながらみかんを見返した。
「ねえ、一つだけ訊きたいんだけど……」キキが口を開いた。「あっちゃんが狙われる心当たりを隠すのは、他の誰かのためなの?」
あさひは答えなかった。枕の上に頭を載せて、天井を眺める。
「後はキキたちに任せるよ。必要があれば、いつでも手を貸すから……」
何か深い事情があるようだ。必要以上に突っ込めば解決を遠ざける。木嶋の馬鹿な追及のせいで、あさひも相当に疲れているだろうから、なおさら無茶な事は要求できない。精神面のケアはみかんに任せればいい。
今のわたし達がやるべきは、一刻も早い真実の解明だ。となれば、これから向かうべき場所は一つだ。幸い、木嶋たちは星奴署に戻っている。調べるには絶好の機会だ。
「ところで紀伊刑事」キキが言った。「城崎さん、まだ能登田中にいますよね?」