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EVIL TARGET~標的の宿命~  作者: 深井陽介
第一章 生者を弄する死者の罪
17/53

その17 能登田中学校

 <17>


 キキが次の行き先として指定したのは、あさひの通う能登田中学校だった。星奴署で高村警部が話していた通りなら、警察による学校での聞き込みはすでに終わっているから、今なら堂々と話を聞きに行けると考えたのだ。肝要ながら後回しにしていた調査が、これでようやく行なえる。

 紀伊刑事が先に学校に連絡して、職員玄関から入れてもらえることになった。他に二人ほど同行させると電話で話していたが、それが十四歳の少女とは言っていない。門前払いされる事態を回避するためと紀伊刑事は言うが、実際はただの先延ばしに思える。

 ここも四ツ橋学園中と同じく、授業は午前だけで終わったようで、校舎から続々と生徒が流れ出ていた。覆面パトカーは近くの有料駐車場に停めて、帰宅する生徒たちとすれ違いながら、わたし達は校舎へと歩いていく。

「それで? まずは何を調べるの」わたしはキキに尋ねた。

「最初は鍵の保管庫を見ておこうかな。あっちゃんの事件でいちばん重要になるのは、たぶんそこだと思うから」

 つまり、何か仕掛けがあるとすれば鍵の方だと、キキは考えているのか。確信が持てるまでは根拠を話してくれそうにないけど。

 校門を過ぎたところで、わたしの鋭敏な嗅覚はまた異質なにおいを感じ取った。思わず立ち止まり、人波の流れる方を振り向く。誰とも連れ立っていない男子生徒がいる。さっきのにおいは恐らく彼から漂っていた。少しすれ違っただけだが、顔は見えた。

 いまのは……香水か?

「どうしたの、もっちゃん」

 急に立ち止まったわたしを見て、キキが訊いた。

「あ、いや、別に……ていうか、もっちゃんと呼ぶなよ」

 聞き入れてもらえるはずもないツッコミをしつつ、わたしは二人を追った。男子が香水を使うのは統計的に珍しいが、そんな事を気にしている場合ではない。

 職員玄関に来てみると、手の空いているらしい男性教師が出迎えに来ていた。スーツではなくジャージを纏っていて、見るからに屈強そうな人だ。

「えっと、星奴警察署の刑事さんですね」

「はい」紀伊刑事は警察手帳を取り出し、開いて提示した。「強行犯捜査係の紀伊です」

「生活指導担当の丹羽(にわ)です」

 丹羽という男性教師は軽く頭を下げて、当然の流れでわたし達に視線を向けた。

「……あの、こちらの二人は?」

「電話でお話しましたよね。二名ほど連れを同行させると。彼女たちがそれです」

 微塵も慌てることなく真顔で答えた。丹羽は明らかに困惑していた。

「えーと……どう見ても中学生くらいにしか見えませんが。しかも一人は、燦環中学校の制服を着用しているようですが」

 キキのことである。案の定、着替える暇などなくてそのままここに来た。

「事実、中学二年生ですからね。彼女たちは、昨日銃撃を受けた山本あさひさんの友人であると共に、過去に我々の捜査に多大な貢献をしてくれた実績があります。ゆえに、私の独断と自己責任で例外的に同行させているのです」

 正確には本庁の高村警部の指示で動いているのだが、一般人から見ればたいした違いはない。

「しかし……」丹羽は顔をしかめる。「生活指導担当として、平日の日中に中学生が出歩くというのは看過できませんし、まして警察の捜査に同行するなんて……」

「色々と複雑な経緯があったんですよ」

 紀伊刑事は諦観した素振りで、丹羽の肩に手を置いた。

「この子たちは、我々が想像している以上に友達を大事にしているから、何を言っても聞き入れずについて来るんです。理を尽くして説き伏せようとしても無駄です。調査能力については保証できるので、ここは特別に見逃してくれませんか。こっちだって引くに引けない状況で連れて来ているんです」

「うぅむ……刑事さんがそこまで言うなら、私は何も口出ししませんが」

 それでも腑に落ちている様子はない。紀伊刑事の言い分は要するに、自分たちが譲歩しないと泥沼に陥るから察してくれ、という事に尽きる。無理押しもいいところだ。

「それで、まずは誰に話を伺いますか」

「ああ、聞き込みの前に、鍵の保管庫を見せてください。彼女の要望です」

 大人二人の視線が向けられたキキは、満面に屈託のない笑みを浮かべた。ある意味で度胸のある行動だが、基本的にこれを見て逆らえる人はいない。

「……分かりました。保管庫は職員室にありますので」

 丹羽は観念した様子で踵を返し、先にガラスのドアをくぐった。続けて校舎に入っていく紀伊刑事の後に、わたし達も足を踏み入れていく。キキはまだ微笑んでいた。

 閃きとか弁巧とか、キキの武器はいくつかあるけれど、この裏表がない笑顔こそが最大の武器ではなかろうか。彼女の笑顔に屈しなかった人など、見たことがない。

「……まったく、あんたは世界最強の女の子だわ」

「え? それはもっちゃんでしょ?」

 ……何も言い返さなかった。


 職員室に入ってみると、セミショートの女子生徒が気づいて丹羽の名前を呼んだ。

「あ、丹羽先生。ちょっと確認したい事が……あれ?」

 丹羽が来客を引き連れている所を見て、女子生徒は首をかしげた。

唐沢(からさわ)、すまんがもう少し待ってくれ。こちらは……」

「構いませんよ。そちらの用事を優先させても」紀伊刑事が気を遣って言った。「少しの間くらいなら待てますから」

「はあ……では、少しお待ちください」

 丹羽はわたし達をこの場に待たせて、唐沢という女子生徒の元へ。その後の会話を聞いた限りだと、次の行事に関して、丹羽が担当しているクラスが提出した要望書の中身を確認したいというものらしい。察するに彼女は生徒会の役員なのだろう。リボンの色があさひの制服と同じだから、たぶん同学年だ。

「……うん、問題はなさそうだ。この内容で会議にかけてくれ」

「了解しました。ところで……」

 唐沢はその視線を丹羽からわたしとキキへ移した。紀伊刑事のことは見ない。唐沢はこちらを凝視しながらすり足で接近してきた。いや、すり足ってどういうことだ。なぜ肩を揺らさずに歩くのだ。

 瞬きもせずにじっと見つめながら、唐沢はわたし達に尋ねた。

「どちら様です? 二人とも、ここの生徒ではありませんよね」

 燦環中の制服を着ているキキはともかく、わたしのことも別の学校の生徒だと瞬時に見抜いてきた。どうやら全校生徒の顔をしっかり記憶しているようだが、それ以前に、私服で学校に来ている事を気にするべきではないか。

「あっ……わたしの名前はキキです。燦環中学校の二年生で、あっちゃんの友達です」

 英語の教科書の和訳みたいな自己紹介だなぁ。大体、あっちゃんと言っても相手は何のことか分からないだろうに。……と、思ったら。

「あっちゃん? ああ、もしかして、あさひさんがよく話していたご友人ですか」

「はい、そうです!」

「天然で運動音痴の?」

 キキは固まった。何ひとつ間違っていないけど、この人まで歯に衣着せぬ物言いをするのか。あさひから聞いた人柄をそのまま言ったのだろうけど。

「わたし、唐沢菜穂(なほ)と言います。あさひさんとは生徒会で親しくさせてもらっています。あの人のご友人とお会いできるとは光栄です」

「光栄って……あっちゃんのこと、ずいぶん慕われているんですね」

「そりゃそうですよ。あんなに素敵な人はいません。仕事は速くて正確だし、何事にも妥協せず熱心だし、誰に対しても笑顔で……本当なら会長の座についてもいいんですが、本人は誰かを支える方が性に合っているとおっしゃっていて、そういう謙虚な姿勢もことさらに美しい。はあ……あれこそ理想の女性像ですよ」

 菜穂のあさひに対する憧憬(しょうけい)の念は強いらしく、ほんのり赤みを帯びた頬を押さえながらまくし立てた。聞いているだけの側は唖然とするしかないのだが。

 しかし……話には聞いていたが、学校では本当に優等生として振る舞っているようだ。あさひは頭も要領もいいから、優等生を演じるくらいどうという事もないだろうが、それだけに普段わたし達と接する時とのギャップが激しい。生徒会の激務から解放されたら、人目も気にせずだらけて不真面目な言動に徹する……そんなあさひの姿など、この菜穂には特に話せないな。

「あっ」菜穂はわたしに目を向けた。「すみません、放置してしまって。あなたもあさひさんのご友人ですか」

「ええ、まあ……」

 あさひのことに夢中になるあまり、わたしの存在を忘れていたらしい。わたしの方は、いっそのこと空気に同化しようかと思っていたのだが。まあいいか。

「初めまして。四ツ橋学園中二年生の、坂井もみじです」

「え?」

 菜穂はわたしの名前を聞いてなぜか瞠目した。菜穂とは初対面のはずだ。彼女だって、わたしがあさひの友人という事を知らなかったようだし……。

「え、何か?」

「いえ……お初にお目にかかります」

 何事もなかったように、菜穂は軽く頭を下げた。何だったのだ。

「えっと……昨日あさひの身に起きた事は、ご存じですか?」

「知ってます。銃で撃たれたとか……今は先生方と生徒会のメンバーしか知らない事になっていますが、いずれは全校生徒に知らせる事になると思います」

「でも、五日前に別の生徒が銃撃で亡くなっていますよね」

「わたし達もあさひさんの一件を知らされた時に、初めてその事を知ったんです。普段から登校せずに街中を徘徊しているので、誰も気づかなかったのですが……どうも先生方の方で、わたし達生徒には知らせないよう口止めされていたようです」

 キキの推測通りだ。星奴署で出会った警察官は明言しなかったが、やはり被害者の少年は日常的に学校をサボっていた。そしてあらゆる情報が、管理職レベルでシャットアウトされていた。

「あさひさん、大丈夫でしょうか……朝に聞いた時点だと、まだ意識が戻っていないそうですけど」

 菜穂としては心配で気が休まらないだろう。学校からは十分な情報をもらっていないようだし、授業さえまともに受けられなかったかもしれない。

「大丈夫よ」ずっと無言だった紀伊刑事が告げた。「さっき病院から連絡があって、少し前に意識が回復したそうだから」

「本当ですか? よかった……」

 安堵する菜穂の目には、わずかに涙が滲んでいた。

「あ、でも」と、キキ。「あっちゃんの無事はまだ他言無用でお願いします」

「えっ……他言無用って、生徒会のみんなにも言っちゃ駄目なんですか」

「はい。後のことを考えると、なるべく情報は制限したままにしておきたいので」

 何か企んでいるな……。あまり目立つと今後の調査に支障が出かねないのだが。

「あの、お二人はどうしてこちらに?」

 やっと菜穂は、わたし達がここに来ている事の異常性に気づいた。遅すぎます。

「調査です」キキはきっぱりと言い放った。

「調査……ですか?」

「あっちゃんがこんな目に遭わされたなんて、許しがたい暴挙です。なんとしても、わたし達の手で犯人を特定したいと思いまして」

 キキが握り拳を見せながら言うと、菜穂は瞳を輝かせた。

「わ、わたしも、微力ながらお手伝いします!」

「おお、心強いです!」

 見ていて疲れる会話だ……。こうしてキキはまた味方を増やしたのであった。

「ではさっそく、菜穂さんに訊きたい事があります」

「何ですか?」

「現時点で、菜穂さんたちが事件について知っている事を教えてください」

「うーん……たいした事は知りませんけど。あさひさんが昨夜、プールで誰かに銃で撃たれて、病院に搬送されたけど意識不明の状態だとしか……」

「それだけですね?」

「これ以上のことは先生からも知らされなかったので」

「えっと……」紀伊刑事が口を挟んだ。「キキちゃん? あなたは鍵の保管庫が気になっていたんじゃなかったの」

「そうですよ」キキはこともなげに言った。「菜穂さん、ありがとうございます」

「えっ、質問一つだけで終わりですか」

 キキがここの生徒に尋ねたかった事は、さっきの一つだけだったようだ。

「では丹羽先生、保管庫を見せていただけますか」

「……分かったよ」

 丹羽はため息をつきながら、すぐ近くの壁に備え付けられている金属製の箱の、取っ手の下の鍵穴に鍵を挿し込んで開錠し、バコンという音を立てながら、扉となっている蓋を開いた。内部だけでなく、扉の裏側にもびっしりと鍵が並べて掛けられていた。

「箱の内部にあるのが特別教室、扉側にあるのが普通教室と外の施設の鍵です」丹羽は紀伊刑事に向かって説明した。「ここの鍵を持ち出す時は、下のテーブルに置いてあるノートに名前と学年、クラス、借りた時刻と返した時刻を記録して、ここにあるカウンターを押さなければならないのです」

 保管庫の下のテーブルの上には、開いた状態の大学ノートと備え付けのボールペン、そして卓上型の機械式クリッカーカウンターが置かれていた。ボールペンはテーブルに紐で繋がれているので、持ち去る事はできない。

「なるほど……」と、紀伊刑事。「カウンターの数値と、ノートに記録されている貸し出しの回数が一致していれば、誰かがこっそり借りていくのは不可能という事ですね」

「ええ。保管庫の扉は最終下校のタイミングで施錠されて、最初に持ち出す人が教頭先生に鍵を借りないと開けられません。この扉を開ける時はどうしても音が鳴りますし、手順は紙に書いて扉に貼っていますから、よほどの事がなければ押し忘れる事もありません。ちなみに教職員も同じように、ここの鍵を持ち出す時はノートに名前を書いてカウンターを押します」

 思いのほか隙のない管理システムだった……。キキは星奴署で、学校のセキュリティなんて高が知れているという趣旨の発言をしていたが、ここはそうでもないようだ。これでキキの推論が破綻するという事があるだろうか。

 わたしはキキの表情を見た。……全くと言っていいほど変わっていない。

「では、ここ最近でプールの鍵を借りた人の記録は?」紀伊刑事が尋ねた。

「直近の三か月間は一人もいませんね。というか、この時期にプールの鍵を借りる人なんてまずいないから、確認する前から分かっていましたけどね」

「ですよね……では、他にプールの鍵はありませんか」

「事務室に、用務員用の鍵束がありますが、あれは事務室のデスクの引き出しにあって、用務員だけが持っている鍵を使わないと開けられません。あとは……そうそう、水道設備の定期点検に来る水道局の業者なら、水道が通っている教室や施設の鍵は全て持っているはずですよ」

「ああ、水道局は公営ですから、役場繋がりで公立学校の鍵は入手できますね」

「といっても、最初に水道のメーターを調べて異常がない限り、その鍵を使うことなんて滅多にありませんけどね。もし異常が見つかれば、どの部位を検査するのかを事前に通達する事になっているので、こちらも無断で持ち出すのは厳しいですね」

「つまり、プールの扉を開錠するには、ここの鍵を使うしかないわけか……」

 キキはひとり呟きながら頷いた。何を考えているか知らないが、口角が緩んでいるという事は、次第に確信を深めているようだ。キキは丹羽に言った。

「先生、どれでもいいので鍵を一つ見せてくれませんか。プール以外で」

「プール以外? 例の事件のことで調べているなら、プールの鍵を優先したら……」

「いえいえ、たぶんこれから証拠品扱いになりますから、指紋とかをつけないようにしたいんですよ」

 慎重なのは結構だが、こいつは先々月の事件で証拠品を一つ、故意に破壊している。しっかり見張っておかなければ。

 丹羽は第一体育館の鍵を手渡した。鍵本体はよくあるピンタンブラー錠用の鍵で、リングで繋がっている楕円形のプレートには、対応する教室の名前を書いたシールが貼られている。シールの文字は印刷でなく、手間を省くためか手書きだった。プレートの色と形は全て共通しているようだ。

「…………」キキは鍵をじっと観察した後、丹羽に尋ねた。「あの、この鍵って全部置く場所が決まっているんですよね」

「そりゃそうだ。前にあった場所と違う所にあったら混乱するだろう」

「ですよね……どうやら事前の予想通りだったようです」

「えっ」紀伊刑事は声を漏らした。

「やっぱり犯人は、ここの鍵を使ってプールのドアを開けておき、あっちゃんを誘い込んだと考えるべきでしょう。たぶん、一番シンプルで気づかれにくい方法です」

 わあ……もう言葉にならない。いまキキが見聞きした情報のどこに、そのシンプルで気づかれにくい方法に辿り着くためのヒントがあったのだ。

「えーと」菜穂が口を開いた。「それはつまり、記録に残さず鍵を持って行っても、誰にも気づかれないっていう方法ですよね? ちょっと思いつきませんが」

「そう? 聞けば単純なトリックですよ。ただ……本当にこの方法が使われたという証拠はまだありませんし、プールを調べたらもっと別の方法があるかもしれません。というわけで、今度はプールに案内してください」

「刑事さん……」丹羽が苦言を呈した。「完全にこの子が主導しているじゃないですか。いいんですか」

「数撃てば当たる方式の警察と違って、彼女は枠組みに嵌まらない直感でずっと先へ進んでいるんです。早期解決のためには、従うこともやむなしと考えます」

 これは柔軟な対応なのか、それとも制止を諦めただけか……いずれにしても、紀伊刑事が味方でいてくれるならば心強い。キキも満足そうに微笑んだ。


 プールへの移動について来たのは丹羽だけで、生徒会の仕事が残っている菜穂は同行しなかった。臨時の職員会議には丹羽も出席すると思うのだが、会議が始まるまで二十分ほど余裕があるので、それまで刑事の案内役を務めるよう言われているらしい。

 更衣室とプールに繋がる引き戸は閉じられていたが、施錠されていない代わりに黄色のバリケードテープが二本、交差するように張られていた。すでに鑑識による捜査が終了していても、まだしばらく自由に入れるわけではなさそうだ。

 紀伊刑事がドアを開ける。正面に、男女別に分かれた更衣室。靴を脱着するための段差のそばには、靴を置くための棚。右方向に目を向けると、直接プールサイドに出られる階段がある。その階段の手前の床に、白い液体がこぼれて固まっていた。その近くにはペンキの缶らしきものが数個積まれているが、そのうちの一個は側面が凹んで横倒しになり、蓋が外れていた。こぼれている液体は、この缶に入っていたペンキらしい。

「あのペンキは何ですか?」と、キキ。

「ここの壁を塗装するためのやつだよ」丹羽が答える。「少し前からひび割れが目立つようになってきたから、塗装業者に頼んで補修してもらっていたんだ。ただ、溶剤が完全に揮発してにおいも気にならなくなるまで時間がかかるから、授業でプールを使わない冬の時期にやってもらっているんだ。秋ごろでも、水泳部とかがまだ使っていたし」

 確かにそのくらいの配慮は必要に思える。わたしは普通の人より嗅覚が鋭敏だから、溶剤の鼻を突くようなにおいが特に苦手なのである。今だって鼻をつまんでも溶剤のにおいが入ってきて、顔をしかめずにはいられない。キキはにおいが気にならないらしく、平然とテープの下をくぐって中に入る。……入っていいのか?

「あの倒れている缶は、誰かが蹴り倒したみたいですね」

「乾き具合から見て、蹴り倒されたのは昨夜あたりだろうというのが鑑識の見解よ」

 紀伊刑事も中に入って説明する。この人が入るのは何も問題ない。いざとなればいつでもキキを止められる位置にいる。

「という事は、犯人が逃げる際に缶を蹴ってこぼしたと見るべきですね。やっぱり共犯者はいたのか……ん?」

 こぼれたペンキを眺めていたキキが、何かを見つけた。視線の先には、こぼれたペンキの上から靴底で左右に擦ったような跡がある。振れ幅は三十センチほどだろうか。靴底の模様までは判別できない。

「何でしょう、これ……」

「まだ完全に乾いていない時に擦ったみたいよ。靴のサイズは二十五センチくらいだと見られているけど、種類までは分からなかったわ」

「計画的な犯人なら、普段使わないような靴を使っていた可能性もありますし、ペンキの付いた靴なんてすでに捨てているでしょうね。でも……」

 そう、何の目的でこぼしたペンキに靴を擦りつけたのだろう。その跡と倒れた缶は一メートル以上離れている。ペンキがこれ以上床に広がらないよう、反射的に足で止めようとした……という可能性はない。そんな余裕があるなら、缶を倒したままにはしない。

 キキは靴跡の近くにしゃがみ込んで、じっと考え込んでいる。やがて立ち上がり、振り向いて丹羽に訊いた。

「あの、このペンキって人が素手で触れても大丈夫なんですか」

「え? どうかな……学校の設備に使うものだから、ペンキも溶剤も人体には無害なものを使っていると思うけど。まあ、この通りにおいは残るけどな」

「そっか、やっぱり……」キキは少し考えた。「紀伊刑事、すぐに鑑識の城崎さんをここに呼んでください」

「鑑識を? 何を調べるの」

「あの出入り口の扉の」キキはそれを指差して言った。「鍵穴の内部を調べるんです」

「鍵穴の内部、つまり錠の機構を調べるわけか……時間はかかるけど、キキちゃんの頼みならあの人は軽く請け負うでしょう」

「お願いします」

 そう言って、電話をかけ始めた紀伊刑事を置いて、キキは外に出た。

「鍵穴を調べたら何か出てくるの?」と、わたし。

「出てくればいいなぁ、という希望的観測かな。正直、本当にわたしの考えているものが出てくるかは分かんない。でも出てくれば、ここに来て調べた甲斐があると思える」

 そんなに大事な証拠が浮かび上がるかもしれないのか。運任せの調査は今に始まった事じゃないけれど、キキの勘や閃きが、思いもよらぬ結果をもたらす事は多分にある。もしかしたら期待できるかもしれない。

 キキが呼び寄せる結果に胸を高鳴らせていると、わたしの携帯に着信が入った。この着信音は電話だ。取り出してみると、まだ病院にいるはずのみかんであった。

「みかん……何の用だろ」通話キーをタップする。「もしもし?」

「もみじ、大変なの! あさひが警察に疑われてる!」

「はあっ?」思わず頓狂な声を上げた。「どういうことよ。え、今どこにいるの」

 何事かと気になったようで、キキもわたしの携帯に耳を寄せた。

「まだ病院だよ。病室だと通話はできないから、一階の待合室に来てるの」

「そう……で、あさひが警察に疑われているって、どういうことなの?」

「よく分かんない。昨日も病室に来た二人の男の刑事さんが来て、オールバックの人がいきなり言ってきたの。『残念ながら、あんたの目論見は(つい)えたぞ』って……」

 間違いなく木嶋だ。げんなりするとはまさに今の心境だ。

「はあ、やっぱりそうきたか」

 キキは呆れながら呟いた。どうやらこの事態も想定済みらしい。

「わたし混乱しちゃって……電話だと要領得ないから、すぐに来てくれる?」

「分かった。たぶん今ごろ、病室がひどい修羅場になっているだろうから、なんとかして止めに入らないと……」

 通話を切る。目まぐるしい展開が続くが、キキが予測できていた以上、木嶋のろくでもない推測はすぐに否定されて終わるだろう。だから喫緊の問題は、木嶋に容疑者扱いされて確実に不機嫌になっているあさひが、木嶋の神経を逆撫でする発言を連発して醜い争いを展開する事だ。血の雨が降る事態に陥る前に、なんとしても止めなければ。

「一応確認しておくけど、キキ……」わたしはキキを見た。「木嶋刑事を黙らせる準備はできているのね?」

「うん、あの人が何を考えているのかも、大体。この予想が外れていたら、ちゃんと対処できるかどうかは分からないけどね」

 キキは控えめに笑いながら言った。しかし……これまで木嶋の誤った推理が、キキに先読みされなかった事が果たしてあっただろうか。彼が未だに、結論ありきの理論武装で誰かを容疑者扱いする、そんなスタイルを取っているのなら……。

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