その11 悪夢
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夕飯を終えて、わたしは自分の部屋に戻った。今日の主菜はサケとブナシメジのホイル焼き。まだ一昨日の事件のショックが抜けきらないわたしにとっては、大助かりのメニューである。早く立ち直れるといいのだけど。
机の上を見ると、置きっ放しにしていたスマホが点滅していた。どうやら不在着信があったらしい。普段から夕食時にスマホを持つことがないから、電話の着信に気がつかないという事がよくあるのだ。まあ、そもそもほとんどの友人とはラインを通じて会話しているから、電話を受けるという事があまりないのだけど……。
発信元は美衣だった。これは珍しい。友人との関わりさえ最小限で済ませようとする彼女が、わたしに何の用だろう。留守電の一つも入れてくれたらよかったのだが。……というか、相手が美衣だと、一回目の電話に出なかったのは少しまずいか?
「うぅむ……とりあえずかけ直すか」
こちらから美衣のPHSに電話をかけようとしたが、寸前で着信が入った。
「おおっと……ん? また美衣から?」
時間を置いてもう一度かけてきたようだ。電話に出る。
「もしもし、美衣、どうしたの?」
「やっと出てくれたか……夜分にすまない。どうしても早く伝えたかったんだ」
美衣の口調は沈着そのものだが、わたしにはどうも、感情を押さえ込んでいるように聞こえる。わたしは妙な胸騒ぎを覚えた。
「……何があったの」
「どうか落ち着いて聞いてほしい。さっき……」
それから、美衣の口から語られた話に、わたしは背筋が凍りついた。心臓の鼓動が早くなる。視界が次第に回転し始める。平衡感覚を保てなくなり、椅子の背もたれに手をついた。電話越しに流れてくる美衣の声が、徐々に聞こえにくくなっていく。
慄然とせざるを得ない。落ち着いて聞くなど、どだい無理だった。
「……いま、どこにいるの」
「流成大附属病院。外科病棟、二階の治療室だ」
通話を切る。全身の感覚が戻った瞬間、わたしは脇目も振らず部屋を飛び出した。
ドタドタと足音を立てて階段を駆け下りる。素早く防寒着を纏い、未だ役目を果たせていないスノトレに足を突っ込む。騒音に反応して母親が台所から出てきた。
「もみじ、どこ行くの?」
「病院!」わたしは短く答えた。
「え?」
正確に伝わっているとは思えなかったが、正確に伝えるだけの精神的余裕はなかった。わたしはその勢いのまま外へ飛び出し、庇の下に置いていた自転車に跨り、家の前の車道に出て流成大附属病院の方角へ疾走した。ワゴン車のエンジンにも匹敵する脚力で、わたしは、人気の少なくなった夜の道を駆け抜けていく。
不安がなかったわけじゃない。今日、もしかしたら同じような事件が起きるかもしれない、そんな予感はあったのだ。そしてそれが、わたし達の身近に起きる可能性だって、全く考えていなかったわけでもない。
でも、本当にそんな事態になってしまうなんて、想像もしなかった。……いや、想像したくなかった。頭をよぎるものを、振り落としたかった。
ものの十分で、わたしは流成大附属病院に到着した。表の入り口は八時半で閉鎖されるため、少し離れた所にある夜間通用口から入るしかない。わたしは駐輪場に自転車を停めて、駆け足でその場所へ向かっていく。……鍵を抜き忘れたかもしれない。
もういいや。夜中の病院から自転車を盗む奴もいまい。
「あ、もっちゃん!」
夜間通用口の前にキキがいた。今しがた入っていく所だったようだ。
「キキ、あんたも美衣から?」
「うん……とにかく急ごう。酷い事になっていないといいんだけど」
キキも、いつもの天然な雰囲気は消え失せ、神妙な顔つきになっていた。まるでこっちが素の姿であるかのように。
美衣が電話で言っていた内容では、ふくらはぎに大きめの傷を負って、プールの冷たい水の中に浮かんでいたそうだが……そんな状態で長時間放置されたら、危篤に陥る事はわたしでも想像がつく。美衣の口調から、命が危ういかどうかまでは読み取れなかったが、深刻な事態になっている事は理解できた。
せめて手術が無事に終わっていればいいのだが……。
本部棟から外科病棟に移ったところで、わたし達を待ち構えていたらしい美衣と遭遇した。普段と変わらない、一切の感情を込めない冷めた表情だ。
「美衣……!」
「ついさっき手術が終わって、病室に移された。こっちだ」
美衣はわたし達の反応を見ることなく踵を返し、早足で歩き始めた。平静を装ってはいるが、彼女も気が急いているらしい。わたしとキキは何も言わず、美衣の後に続いた。
辿り着いた病室に入ると、一つしかないベッドの脇で誰かが椅子に座っているのが見えた。こちらに背を向けて俯いているが、みかんだという事は一目でわかった。あからさまに引き戸を開ける音がしても、みかんは全く反応しなかった。意識の全てが、ベッドに横たわっているその人に向けられているのだ。
真っすぐに歩を進めていくと、次第にその姿が見えてきた。美衣の話に、何一つ偽りはない。酸素マスクをつけられ眠っているのは……あさひだった。
「あさひ……」
「ねえ、あっちゃんは大丈夫なの?」キキは不安そうに尋ねた。
「左のふくらはぎに銃撃を受けた後、プールに落下している。出血も多かったし、傷口から水中の細菌が入り込んで軽く感染症を起こし、多量の水を飲み込んだだけでなく、冷たい水の中に曝されて低体温症を起こしていた。が、幸い輸血と点滴で事なきを得たよ。体温も正常値に戻っている。今のところ脳にも異常は見られないが、現在は経過観察中だ。まあ恐らく明日辺りに目を覚ますだろうというのが、医師の見解だ」
美衣にしてはずいぶん要領を得ない説明だが、どうやら命の危険はないらしい。目が覚めるまで油断はできないだろうが……。
「よかった、大事には至らなかったみたいだね」と、キキ。
「発見が遅れたら大事に至っただろうがな」
一段と暗く沈んだ口調で美衣は言った。あらゆる感情をシャットアウトしているかのように、彼女は無表情のまま、ベッドの上のあさひを見つめていた。
「冷たい水の中で長時間放置されたら、心臓の拍動は当然弱まる。末端から血液の循環が行き届かなくなり、凍傷、行き過ぎれば壊死して、切断を余儀なくされるかもしれない。それと同時に、傷口が塞がる事もないから出血が止まらず、失血によるショック症状を起こす事だってありうる。どちらにしても命はなかっただろうな」
「ちょっと!」
わたしは我慢が限界に達し、美衣の胸倉を掴んだ。美衣は表情を変えない。
「さっきから不安をあおるような事ばかり言って! 見なさいよ、みかんがさっきより震えてるじゃない。この事であの子が精神的に参っているのは美衣も分かるでしょ? なんで追い打ちをかけるような事をするのよ!」
美衣はわたしを見返さない。顔を見せないようにしているみたいだ。
「……よく、悪い夢を見るんだ」
「は?」わたしは眉をひそめた。
美衣はゆっくりとわたしの手を離した。重い足取りでわたしから離れて歩き出す。その背中を見ていると、少し項垂れているせいか、ただでさえ低い背丈がさらに低く見える。そんな事は言わないけど。
「その夢の中では、わたしばかりが痛い目に遭うんだ。夢の中で頬をつねっても痛くないって話、あれは完全に嘘だね。痛いと思い込めば夢の中でも痛く感じるんだ。殴られる、蹴られる、髪の毛を引っ張られる……酷い時には投げ技を食らうなんてものもあった」
顔や態度には出さないけど、美衣も結構ストレスが溜まっているのかな。他人事で済ませたくなくなるのだが。
「寝覚めの悪くなる夢なんて、今までたくさん見てきた。でもその中に、わたし以外の人が傷つけられるというパターンは一つもなかった」
それを聞いて、ずっとあさひを見ていたみかんが、初めてこちらを向いた。
「友達が……どんな形であれ、傷つけられる所なんて想像できなかったし、想像したくもなかった。自分の目で実際に見るのはそれ以上に嫌だった。自分で負った傷の痛みが分かるから、他の誰かが同じように痛みを抱えること自体が、わたしには耐えられない。その痛みを理解してしまう事が、つらい……だから」
美衣は突然、近くにあった壁を、拳で強く叩いた。
夜中の病院は静謐が過ぎて、予想外に音が響く。肩をびくりと揺らしてしまう。何ひとつ話しかけられない雰囲気を、美衣は放っていた。
「だから……少しでも自分に現実を見せつけて、冷静さを保っていないと、わたし自身がどうかしてしまいそうなんだ」
そう、美衣は必死に、冷静になろうと自分を押さえている。だけど完全じゃない。絞り出すようなその声も、歪みそうな顔を押さえつけているもう片方の手の震えも、拭いきれない怒りの感情を体現していた。
わたしだって、気づいていたはずなのだ。平気なはずがない。どんなに無遠慮な言葉を発していても、美衣が友達を大切にする子だという事は、知っていたはずなのに……。
「……でも、そうだな。不快にさせる事ばかり言っていたのは事実だ。悪かった」
「そ、そんなこと……」
「ねえ」キキが真剣な眼差しを向けた。「あっちゃんを最初に見つけたの、美衣なの?」
「そうだが……」美衣はようやく振り向いた。
「なんで夜中に外に? 偶然って事はないよね」
いきなり尋問を始めたぞ。まさか、キキはもうショックから立ち直ったのか。
……いや、間違ってもそれはないな。立ち直っていないから、こうして美衣に質問を始めたのだ。悔しい事に、キキの事だとよく分かってしまう。
「あさひからメールをもらったんだよ」
「メール? パソコンに?」
「ああ……」美衣はそう言って目をつむった。「『今夜七時に、外で会って話したい事があるんだ。大事な話。できれば二人だけで、事前に誰にも言わないでおいてほしいかな。場所は能登田中学校のプール。ナイスフォローよろしくね』と書かれていた」
全文きっちり覚えているのか……。
「ナイスフォローって事は……」
「あさひは、あの場所で何かが起きると予感していたんだ。その対処をわたしに委ねるために、呼び出したと考えるべきだ」
「その何かって……」と、わたし。「自分がトラブルに遭うこと?」
「あいつがそこまで想定していたかどうかは分からないが、少なくとも、自分があの場所に行くことで何かが起きると思っていた……いずれにしても、あさひが自発的に夜の学校のプールへ行った事は間違いない。自分が思い立っての事か、あるいは別の誰かに呼び出されたか……どちらかによって、今回の事態の原因が変わってくる」
どちらも同じくらい考えにくいような……勝手な印象だけど、あさひの性格を例えるならば、人でごった返している道を通り抜ける時、効率的な裏道を探すのに時間と脳味噌を費やすような奴だ。ややこしい事態を回避するためなら労力を惜しまない、そんなあさひが自分から危険に首を突っ込むだろうか。
「美衣。さっき、あっちゃんは銃撃を受けたって言ったけど……」
「手術を担当した医師の見解だよ。傷跡の形状から見て、たぶんそうだろうと」
「という事は、美衣があっちゃんを発見した時点で、あっちゃんの怪我の原因はパッと見て分からなかったんだね?」
「それがいちばん論理的な解釈だな。でも、それが何だと?」
「もしあっちゃんのそばに銃弾が転がっていたら、その時点で銃撃だと分かるでしょ? でもそうじゃなかったのなら……」
「!」わたしはキキの言いたい事を察した。「それって、やっぱり……」
「ああ、間違いないよ」
突然によく知った声が聞こえてきた。病室の出入り口に目を向けると、友永刑事と、オールバックの男性刑事・木嶋が揃って入室した所だった。