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EVIL TARGET~標的の宿命~  作者: 深井陽介
第一章 生者を弄する死者の罪
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その10 夜のプール

 <10>


 ほとんどの都道府県の条例で、深夜徘徊による補導の対象となる時間帯は、午後十一時から午前四時の間と定められている。東京都も例外ではない。また、補導の対象となる年齢、つまり条例における少年の年齢も、ほとんどの都道府県で十八歳未満となっている。ただし、警察庁から発表されている指針では二十歳未満となっていて、どちらに従うかは完全に現場の警察官の判断に委ねられている。そのため、十八歳以上でも深夜徘徊を咎められないとは限らないのだ。

 今は夜の七時、少し前。何も悪いことをしなければ、補導の対象にはならない時刻である。とはいえ、出不精を自覚している中沢美衣は、そんな緩い制約の中でわざわざ外出をしようとは思わなかった。よほどの理由がない限り、コンビニにも行かないだろう。

 そんな美衣がこの時刻に家を出たのは、当然ながら重要な理由がある。友人の山本あさひから、外で会いたいという内容のメールをもらったからである。夜の七時に外で会うこと自体が億劫(おっくう)にならないのかと、疑問に感じる人もいるだろう。美衣も当初は厳しい言葉で断ろうかと考えたが、数少ない友人の頼みでもあるし、今日は両親の帰りが遅く、暇な時間が確保できたから断らなかったのだ。美衣の場合、仲のいい友人との付き合いを大事にすることを、内心で義務のように感じているのだ。

 ちなみにあさひからのメールは、スマホからパソコンに送られていた。美衣はPHSを愛用しているため、規格の異なる携帯電話と互換性がなく、電話以外の通信手段は全て、自室にあるパソコンに頼っている。不便だとは思っていない。むしろ、やたら多くの機能を詰め込んでおいて、ほとんど使わず金ばかり取られるより、何倍も理に適っている。美衣は理に適わない物事が大嫌いだった。

 そのためか、美衣は人付き合いというものに消極的だ。周囲の大人は、手広い付き合いが人間性と良識を高める一助になると声高に言うが、美衣自身はそれを欺瞞だと考えている。この世にある非行や悶着のうち、人付き合いの果てに生じたものが、どれほど高い割合で存在している事か。人間の利己的な側面に否定の余地はない。中身を伴わない儀礼的な付き合いとか、一時的な感情に流されて構築した関係など、ちょっとした歪みで簡単に崩壊してしまうのはもはや自明の理といえよう。社会生活の中で波風を立てない事が理想の人物像だというなら、人付き合いというのは根本的な矛盾を含む事になる。すなわち、まるで理に適っていない。

 人間性も良識も、個人が確固たる信条を持ち合わせていれば、人付き合いによって高める必要などない。善悪の判断基準は、親を始めとする大人たちが、幼少期に手間をかけて教え込むべきものだ。教わる側ではなく、教える側の義務なのだ。個人の人付き合いなどこの程度の、必要最小限のレベルで全く構わない。

 気を許せる友人との付き合いは、この最小限のレベルに相当する。いざという時に味方を確保できるからだ。とはいえ、美衣は味方の数さえ最小限でいいと思っていて、今以上に友人を作りたいという欲求もなかった。こんな事では、純粋な友達付き合いが大好きなキキに、叱られてしまいそうだが。

 与太話はともかくとして、日没以降は基本的に部屋に籠っている美衣が、夜中に外出するきっかけを作った本人は、メールで詳しい事情を話さなかった。友人とはいえ、他人の事を分かった気になるのは傲慢というもので、美衣はそれほどあさひの事を理解しているわけではなかった。だから、ただ日時と場所を指定して会おうという内容でも、特に突っ込んで尋ねようとは思わなかった。あさひが美衣の事を苦手にしている事は、美衣自身も何となく分かっていて、簡潔で素気(そっけ)のない文面もいつものことだ。

 しかし、ろくな事情でない事だけは察せられる。美衣は夜の道を歩きながら考えた。そばを通過する車のライトや、周りの建物から漏れ出る明かりで、夜の道でもそれほど暗くはない。歩道を歩いている人だって他に何人もいる。

「そういえば今日……あさひは何かのお祭りの下見に行ってたはずだよな」

 美衣もみかんから誘いを受けたので知っていた。昨日と今日の二日間で、都内のどこかで来年開かれる催しの下見に行かないか、という話だった。持ち出されたのは一昨日の夕方である。馬鹿野郎、と言いたくなった。みかんは意外に繊細な性格なので、言わないでおいてあげたが。

 もう夜だし、すでに星奴町へ帰ってきているだろう。しかし帰ってきて早々に、夜の学校に呼び出すとはただ事じゃない。それも美衣が住む璃織(りおり)区ではなく、あさひが住む地区の能登田中学校である。何かあるとしか思えない。その事も含めて、断るべき案件ではないと判断した。

 今日は日曜日なので職員も残っておらず、校舎から光が漏れている所はない。頼りになる光源は、敷地の外にある歩道脇の街灯くらいだ。それも敷地内を照らしてはいない。とはいえ、あさひが先に来て待っているというプールの場所を探すのに、支障があるほど暗いわけではなかった。ただ、あさひがプールの近くに立っていれば、真っ暗でも容易に辿り着けたのだが……あさひの姿はおろか、人影の一つも見当たらない。

 更衣室の中だろうか。だとしても、休日の夜に学校の施設に忍び込むなんてことを、あさひがするとは思えなかった。彼女は無難と中庸をモットーとしているのだ。実際、更衣室に入るための引き戸は施錠されていた。

 ふむ……美衣は考えた。あさひはとぼけた所のある奴だが、友人を夜中に呼び出してドタキャンするほど、人間の出来が悪い奴ではない。メールの来たパソコンは自室にあるため、今さらメールの内容を確認する事はできないが、たぶん読み違いはしていない。今日の午後七時、能登田中学校のプールに来てくれないか―――――何をどう読み違えたらこんな文面になるというのだろう。

 もうちょっと調べてみよう。美衣は更衣室の前を離れ、金網越しにプールの様子を見ようとした。しかし、プールサイドは通常、地面よりも高い位置に作られているもので、高低差は美衣の目線の高さとほぼ同じだった。つまり覗き込もうとしても、プールサイドを真横から見る事しか出来ず、ほとんど何も分からない。

「くっそ、自分の低身長が今は恨めしい……」

 美衣は中学二年生ながら、小学校高学年程度の身長しかない。普段はあまり気にしていないのだが、こういう時に低身長はなかなか不便である。

 足下を見る。昨日の夜に降った雪で濡れて、曇っていた昼間のうちに乾ききらなかった地面は、夕方を過ぎて氷点下になっても、シャーベット状に柔らかくなっている。そんな状態で跳躍すれば泥が飛んでしまうが、致し方あるまい。美衣はその場で飛び跳ね、金網に手をかけた。かなり下の方だが。

 金網の下にある外壁はセメントなので足場はない。腕の力だけで金網を登っていくしかない。出不精の美衣にそれほど体力はないのだが、なんとか内部の様子が分かる高さまで上昇を果たした。ようやく両足が金網の下のでっぱりに乗り、安定を得た美衣は、薄暗い中でプール内の状況を観察した。

 誰もいない。しかし、金網越しで視界が狭い中でも、はっきりと分かる異常があった。

「あっ……表面の氷が、割れてる……」

 反射的に口を突いた。ここ数日の寒波の影響か、プールに溜められた水は一面に氷が張っていた。水の量は通常の使用時と変わらない程度だ。この時期に水を溜める事が、そもそもあるのだろうか……。そして、更衣室に近い所で表面の氷が割れて、大きな穴が開いている。風に揺れる水面が見えるという事は、割れてまだ時間が経っていない。

 まさか……。美衣は悪い予感を覚えた。

 今度は足もかけながら金網を登り、一番上に到達してすぐにプールサイドへ飛び降り、着地した。その穴が開いている所へ急いで駆け寄ると、動揺せざるを得ない光景が目に飛び込んできた。

 冷たい水の中に、足から血を流しているあさひが漂っていた。

「あさひっ」

 美衣は何も考えずにプールへ飛び込んだ。しかし、あまりにも水温が低すぎて、とても長時間入っていられず、すぐに水から上がってしまった。

「くっ、この……!」

 美衣は、水を吸って重くなると思われる防寒着を脱ぎ捨て、心臓への負担を減らすために直立の姿勢で飛び込んだ。プールの底に足がついたところで、素早く前方に向かって、膝をバネのように伸ばした。あさひの衣服に手が届く。零度近い水の中では、目を開く事さえ難しい。手の感触だけで判断するしかなかった。

 あさひを引っ張って水面から出した。唇が紫色になっていた。低体温症を起こしているのは明らかだった。美衣はあさひの体をなんとかプールサイドに上げて、水を吸った上着を外して、自分の防寒着を着せた。脇の下を重点的に温めたいところだが、必要な道具が確保できるとは思えなかった。

 PHSを取り出し、救急コールセンターに電話をかけた。

「はい、こちら119番、通信指令センターで」

「救急車を一台お願いします!」美衣はコールスタッフのセリフを遮った。「プールに落ちて低体温症を起こしていて、左のふくらはぎに出血があります。年齢は十四歳、女性、場所は能登田中学校のプールです。急いでください!」

 それだけ言って美衣は通話を切った。緊迫した状況は伝わったはずだ。救急車が到着するまでは平均しておよそ八分。それまでに必要な措置を施したい。

 美衣はあさひの体を揺らしながら、耳の近くで叫んだ。

「おいあさひ、起きろ! 目を覚ませ!」

 ……目を開かない。心臓の拍動がかなり弱い。濡れて体が冷えている状態では、AEDなど使えない。傷口は塞がりつつあるが、念のためにハンカチで押さえておこう。まずは人工呼吸で空気を送り、体温を少しでも取り戻さなければ。

 よもや自分が、友人のためにここまで必死になるとは思わなかった。たぶん、義理とか恩情とか、そういうレベルじゃない。心底から失いたくない存在だと思っている。

 頼む、あさひ、その息の根を止めるな……!

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