その1 親友の来訪
前回から四か月ほど間が空きましたが、お待たせしました、第二弾です。
また長い話になると予想されます。読者の皆々様、辛抱強くお付き合いください。
何気にハイスペックな女子中学生たちの華麗なる(?)活躍、しかとご覧あれ。
なお、作中における登場人物の言動の一部は、実際に行うと軽犯罪となる可能性があります。この作品はあくまでフィクションですので、断じて真似をしないでください。
<1>
今、目の前にある“もの”の事を考えてみよう。それはこの地球上の誰かが、ある程度の時間をかけて作ったものだ。その過程の中に作成者の思いがあり、その思いの存在に気づいた時、人は初めて“もの”の歴史を知ることとなる。
例えばカレンダーを見てみよう。旧来日本で使われてきた暦の言葉が、いくつも散りばめられている。これらはいずれも、突然現れて常識になったわけではない。誰かが、人々の生活が豊かになる事を願って考え出し、徐々に人々に支持され、浸透し、生活の中に根付いたものだ。それは言われれば当然の事なのに、カレンダーを眺めて、「ああ、今日は二十四節気でいう大雪なのか」と思った時、その言葉が生まれた歴史的経緯にまで思いを馳せる人が、果たしてどれほどいるだろう?
歴史という言葉を聞いて、人は何を思い浮かべる事が多いだろうか。動乱の時代で戦功を立てた歴戦の覇者や、あるいは時代の逆風に耐えながら体制に挑んだ革命児……教科書やドラマで見るような華々しい世界を、真っ先に想起するかもしれない。でもそれは、歴史の一部分にすぎない。身近にあって誰もがよく見るカレンダーひとつ取っても、その陰には様々な歴史がある。同じく身近にあって今や人々の必需品であるスマホも、開発の経緯を知れば誰もが歴史を感じるかもしれない。
だが、暦はともかくとして、スマホに歴史を感じる人はいるだろうか。どう考えても一朝一夕に誕生したものじゃない。これほど便利なものが人々の生活に浸透するまで、数多くの困難や挫折があったはずだ。それらは間違いなく歴史と呼ぶにふさわしい。結局のところ、人間が歴史に思いを馳せるのは、感覚的に古いと思えるものだけなのだ。
……わたしは何を一人で語っているのだろう。
ここは、東京の都心から少し離れた所にある、四ツ橋学園中学校。星奴町唯一の私立中学校である。わたしがいるのはその中学校の図書室。時は十二月の上旬、金曜日の昼休みのこと。当然ながら、そんな時間帯に図書室で本を読んでいる生徒は少ない。
わたしの手元にあるのは、石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史』。わたしの愛読書の一つである。もう何度読み返したことか分からない。実は少し前から、また一巻から読み返していたところなのだ。二学期の定期テストが終わって、体に余裕ができたからかもしれない。
坂井もみじ、十四歳。読者諸賢の予測にたがわず、歴史好きである。
「おっと、もうそろそろ戻るか」
壁にかけられている時計を見て、ふと口に出す。言わないとなかなかこの場を離れそうにない、なぜかそう思えたのだ。
マンガ本を元あった棚に戻し、昼休み終了まで残り五分を切ったところで図書室を出た。本を借りるための手続きをするのに、実は五分もあれば事足りるのだが、計画的に読み進められる自信がなかったのだ。基本的に、図書室の本は図書室で読んでいる。
歴史マンガを読みながら、歴史という言葉の曖昧さを考えた時、友人の山本あさひが以前に話してくれた事を思い出した。それは、数学者の極端に厳密さを要求する性質を皮肉ったジョークの一つだ。
スコットランドのある牧場のそばを走る列車に、天文学者と物理学者と数学者が乗っていた。窓の外に、全身が黒い羊がいる所を目撃する。天文学者いわく「なんと、スコットランドの羊はみんな黒いのか」、物理学者いわく「だから君ら天文学者はいい加減だと言われるんだ。正しくは、スコットランドには毛の黒い羊が少なくとも一頭いる、だ」、数学者いわく「だから君ら物理学者はいい加減だと言われるんだ。正しくは、スコットランドには少なくとも片面の毛が黒い羊が少なくとも一頭いる、だ」
……馬鹿馬鹿しいと思われるだろう。
厳密さを誰よりも好む数学者は、とりわけ言葉の定義に対して厳しくなる。だから、歴史という言葉ひとつ取っても、きっと数学者は厳密な意味を最初に求めるのだろう。そして、国語辞典などに掲載されている“歴史”の項目の内容を認めたら、歴史を持たないものなどこの世に存在しない、という結論に至るはずだ。
もちろん、そんな結論をいちいち引き出していたらきりがない。世間的には、最低限の常識として知っておくべき一部分を、歴史という言葉でくくっている。だから本や人の話によって、その内容や守備範囲は異なる。数学者様は我慢ならないだろうが、これで納得しないと時間や我が身がいくらあっても足りないのだ。
ところで歴史といえば、よく『歴史が塗り替えられる』という種のフレーズを耳にしないだろうか。これも歴史という言葉を、曖昧な定義のままで乱用している典型例だ。歴史というのはそもそも過去の事実の連なりなのだから、後になって塗り替えられる事などあるはずがない。歴史に変更の余地はないのだ。
とはいえ、歴史の全てを確信的に知っているという人はいない。当然、わたし達が常識として知っている歴史には、至る所に空白がある。それは起こった事実より、むしろその事実が成立した過程である事が多い。後世の人たちは、その過程を“真実”と呼ぶ。
新たな史料が発掘され、これまで想像で補完していた空白を埋める。見つからなければさらに想像は膨らみ、有象無象の伝説を生みだしていく。それらは、あるいは小説やドラマの形で再現される事もある。
「あ、ドラマっていえば、今年の大河ドラマはなかなかの良作だったなぁ」
自然と口を突いていた。歴史好きなら必見であろう。
最近になって、真田幸村の直筆の手紙が見つかり、九度山での蟄居生活の劣悪ぶりが明らかとなった。大坂の陣に向かう過程も、また違う視点が必要になるだろう。とはいえ、内容の解釈はいくらもできるというものだ。だから空白の埋め方も多様になる。
歴史は決して塗り替えられない。後世の人々が想像で埋めていた空白に、正しいピースが填め込まれるだけだ。過去の事実を積み重ね、連ねたものに変わりはないのである。
では、後世の人たちがやたらとこだわる“真実”とは何だろう。
曖昧な言い方をすればそれは、事実の内面だとか、因果関係だとか、ただ事実を言葉として目に焼き付け耳に入れた程度では分からない、陰に隠れがちな側面も含めた、その全てを指す概念なのだろう。……この考え方が正しければ、必要に迫られない限り、真実を知ることに意味などない事になる。極端な例でいえば、明智光秀が織田信長を討った動機が分からなくても、日常生活を送るのに不自由はない。公言しても何ら問題はない。他のあらゆる真実について、同じ事がいえるだろう。
真実は追究して初めて価値が生じる……穿ちすぎた見方かもしれない。実を言えば、最近までそんな事を真面目に考えた事はなかった。
きっかけは先々月に起きた、とある事件にあった。それも、立派な刑事事件。友人の一人である鈴本みかんが誘拐された事を発端とする、十四年前の未解決事件も絡んだ、複雑で凶悪な事件……普通ならば、一介の中学生が首を突っ込めるレベルじゃない。
ところが、思い切り首を突っ込むどころか、警察に先んじてあらゆる事実を見抜き、犯人確保に全幅の貢献を果たした中学生がいた。ただ、友達のためという単純な理由のために、冴え渡る論理的思考と天性の閃きでもって……。
その名はキキ。わたしの一番の友人にして、天衣無縫を地でいく少女。
「あ、もっちゃん。待ってたよぉ」
純真な笑顔で手を振るキキ。わたしは別に待たせたつもりなどない。あと、もっちゃんと呼ぶな。
…………。
鏡で今のわたしの顔を見ても、この心境を上手く説明するのは難しいだろう。何しろわたしも、この状況をまるで理解できていないのだから。
「……なぜここにいる」
キキが通っているのは、同じ星奴町内、同じ地区内の、公立の燦環中学校である。忘れた人のためにもう一度言おう。ここは、私立四ツ橋学園中学校だ。今は昼休み終了間際であり、わたしがいるのは自分が所属する二年D組の教室の前の廊下。
何がおかしいのか、もう言わなくてもお分かりであろう。わたしもこれ以上説明する気力がない。
「いやぁ、実は数学の問題で分からないのがあって、もっちゃんに相談しようかと」
キキは屈託の一切ない素振りで言った。そのためだけに、わざわざ別の学校にいる友人の元へ来たというのか。数学の問題はただの口実ではないかと疑いたくなる。……まあ、頼られる事に悪い気はしないけど。
時間は押していたが、廊下にいるとそれだけで騒ぎが大きくなるので、とりあえず階段の踊り場へキキを連れだした。大人しくしていれば割とどこにでも馴染めるが、ひとたび素の振る舞いを見せると途端に目立つ存在になる、それがキキだ。
艶のある透き通った長い黒髪と、目鼻立ちの整った小さめの顔、綿菓子の如き柔らかな物腰と朗らかな笑みで、男女問わず虜にする『高嶺の花』である。かく言うわたしも、こいつの笑顔にはどう転んでも勝てないという事を自覚している。
こんな人が、凶悪な刑事事件を解決に導いた名探偵だと、一見して信じられる人は恐らく一人もいないだろう。わたしも同感である。
「で? 分かんない問題って何よ。言っておくけど、わたしも胸を張れるほど数学が得意なわけじゃないからね?」
「知ってるよ。もっちゃんの数学の成績って、今まで3と4しかなくて、わずかに4の回数が多いくらいだよね」
「なんで評点ごとの回数まで把握しているのよ」
「もっちゃんのことでわたしに分からない事なんてないよ」
なまじなストーカーより恐ろしいわい。それともう一つ。
「だからわたしをもっちゃんと呼ぶな」
ツッコミついでにデコピンをお見舞いしてやった。
キキは昔からわたしの事を“もっちゃん”と呼んでいる。これまで何度、その呼び名を使うなと言ったことか分からない。キキの事は友人として好きだけれど、唯一これだけは閉口している。
さて、時間がないのでさっさと問題を見せてもらおう。なんだ、連立方程式の問題じゃないか。一学期で習った内容なのに、今さらつまずいていて大丈夫なのか……。
と思ったら、甘かった。
(1)1/x+2/y+1/z=1
(2)4/x+6/y−5/z=2
(3)3/x+8/y+6/z=4
文字が三つ、しかも全て分母に入っている。……わたしも分からない。
「キキ、これどこの問題?」
「本屋さんに売ってた問題集からランダムに取り出しただけだから、分かんない」
うん、さすがは天然だ。気持ちいいくらい意味不明だ。
「今から考える時間はないから、放課後にあさひにでも訊けば? どうせこのあと一緒に帰る約束だし」
「そうだね、あっちゃんなら簡単に解けるかも」
「分かっていたなら初めからそっちに行けばいいものを」
「だって別の地区だから遠いし、早くもっちゃんに会いたかったし」
聞いても理解できない答えをどうもありがとう。
「で、そっちの昼休みが終わるのはいつ? こっちは今しがた終わったけど」
「えーと」キキはスマホを取り出して画面を見た。「あと十分だね」
「おいおい……ここから燦環中まで十分で行くのは厳しくないか?」
この時わたしは、キキが天性の閃きでもって、学校に戻るための突拍子もないアイデアを思いつくのではないかと、淡い期待を抱いた。一瞬だけ。
「うーん……とりあえず、走る」
一瞬だけ抱いた期待は、一瞬で裏切られた。まあ、キキの閃きにムラがある事はよく知っていたけどね。
「あっそう。担架が必要な事態にならないようにね」
投げやりな態度を見せると、キキは頬を膨らませて言った。
「もっちゃん、わたしのこと何だと思ってるの!」
天然ボケで運動音痴で頭の働きにムラがある、それでもちゃんと信頼できる大切な親友です。もちろんそんな事は言わない。親友として、付け上がらせることはしない。
キキは笑顔で手を振りながら去っていった。そして、恐らくキキの視界にわたしが入らなくなっただろうというタイミングで、わたしは素早く階段の上を向いた。案の定、多数の野次馬が群がってわたしを見ていた。話の初めから見ていた事を、わたしは気配で察していた。
話が終わったと知るや、計ったようにクラスの男子が冷やかしを始めた。
「仲良しだな〜、もっちゃん」
「十秒以内に撤回しないと顔面に靴跡つけますよ?」
つま先で床を軽く叩きながら言うと、全員が一言も発することなく一目散にその場を離れた。肝っ玉の小さい連中である。
白けた気分で階段を上っていると、一人だけその場に残っていることに気づく。同じクラスの男子生徒だった。
「よっ」
外山功輔は軽く手を挙げながら言った。今さら挨拶ですか。特に意味なく声をかけただけだろうけど。
「あんたは逃げなかったのね」
「お前が本気で顔面に蹴りを入れるわけがないだろ。幼馴染みをなめるな」
「あんたは別に蹴ってもよかったけど」
わたしは功輔の太腿に靴底をつけながら言った。
「俺だけ扱いが悪いってどういうことだ」
「男子の中で気を許せるとしたら、功輔くらいしかいないし」
「喜ぶべきなのか微妙なラインだな……それより、さっきの子があれか、お前がよく自慢しているキキって」
先々月の事件について、わたしは幼馴染みの功輔にも事情を話していた。あまり他言すべきことではないけれど、功輔は割と鋭い奴だから下手にごまかせないのだ。あの事件には功輔も少しだけ関わったけれど、わたし以外に功輔の存在を知っている関係者は、たぶんいない。
「言うほど頻繁に自慢しているわけじゃないけど……そうだよ。そういえば、ちゃんと顔を見るのは初めてだったね。小学校は同じだったけど」
わたしとキキは、今は別々の学校に通っているが、小学生の時は同じ燦環小学校に通っていた。そして功輔は、幼稚園の時からずっと同じクラスの腐れ縁である。キキとは別のクラスだったため、互いにあまり交流を持っていなかった。
「どう? 実際に自分の目で見て」
「そうだなあ……少なくとも、お前が言っていたほど頼りになる奴には見えなかった」
よかった、功輔もその辺は普通の感覚を持っていた。
「他の奴らは揃って『可愛らしい』って言ってたけど、まあ……確かに可愛らしいと言えばそうだけど、正直言って、積極的に関わるのはなんか大変そうな気がした」
「珍しいね。大抵の人はあの可愛らしさに幻惑させられるんだけど」
「幻惑って……」
「まあでも、実際あの子と付き合うのはなかなか大変だけどね」
何しろ、キキと一番付き合いが長いはずのわたしでさえ、キキの行動の全てについていくのは難しい。突然思いついたように、予測不能の行動をとるのだ。この先、十年の濃密な付き合いをしても、彼女と常に対等に渡り合えるようになるとは思えない。
「そんな奴とよく親友でいられるな」
「あの子がどういうわけかわたしを気に入ってるのよ」わたしは頬をぽりぽり掻きながら言った。「まあ、キキから友達と認められて、悪い気はしないけどね」
「ふうん……」
功輔は気のない返事をするだけだ。面白くないと感じただろうか。
キキと功輔は、どちらもわたしにとって気の置けない間柄ではあるけれど、信頼の程度でいえば功輔はキキに劣ると言わざるを得ない。気安く話のできる異性は功輔くらいしかいないけど、そこはやはり同性の友人には敵わないのかもしれない。それ以前に、功輔を友人と意識した事は一度もないけれど。
いわば彼は、幼馴染み、腐れ縁、話し相手。それ以上の認識はない。本人がどう思っているかは知らないが……。
ところで、功輔は先ほどから何か言いたげに体を揺すっている。もう昼休みも終わっていい加減に教室へ戻りたいから、用件があるなら早く言ってほしいものだ。つか、言いたい事があるなら教室に戻ってからでよくないか。
「なあ、もみじ……」
功輔は目を合わせずに、やっと口を開いた。おもむろに懐から何かを取り出す。どこかのチケットらしき、長方形の紙片。それも二枚。
「これ……親戚からもらった遊園地の一日無料券。期限が今月末なんだ」
「今年中に使わないと損だね」
「そう」ようやく功輔は目を見て言った。「せっかくだから、俺たちで行かないか」
おっと? それは要するに、遊園地へのお誘いという事ですか。ここしばらく遊園地なんて足を踏み入れた事もなかったな。わたしの場合、結構早い段階で子供だましだと割り切るようになってしまったからなぁ。
「わたしと功輔で? 予定が空くかどうか分からないけど」
「冬休みに入ってからでも」
「うーん……まあ、いいけど」
断る理由もないし、わたしはそれほど迷うことなく承諾した。提案した本人は少し戸惑い気味だけど。
「……あっさりOKしたな」
「功輔と遠出して遊ぶなんて久々だし、たまにはいいかなと。じゃあ、冬休みの予定はそれも含めて互いに調整するってことで」
「お、おう……」
断られる可能性も考えていたのか、功輔はどこかほっとした素振りを見せた。まあ、この歳で男と一緒に遊園地というのは、よく考えれば即答すべき話ではなかったかもしれない。とはいえ、功輔が相手ならそれほど抵抗はなかったのも事実だ。
しかし……なんかしっくりこないものを感じる。
「んじゃ、話は済んだからこれで」そう言って功輔は先に歩き出す。
「いやいや、同じ教室に戻るのに『これで』って……」
わたしは苦笑しながら功輔の後を追った。
それでもわだかまりが消えたわけではなかった。さっきの功輔の表情……せっかく了承の返事をもらったというのに、それほど嬉しそうには見えなかった。何か、思う所があるようでもある。
この時点で、わたしはちゃんと尋ねておくべきだったのかもしれない。たとえ、功輔に言いたくない事情があったのだとしても……知った時、それが真実としての価値を持つようになる、その可能性は否定できなかったのに。