片羽の人形
頬を掠める風は、真夏にしては冷たかった。
それは、日陰に囲まれているせいか、人気のない裏通りにいるせいか。気持ち良いというよりは、寂しく冷たかった。
「鳥羽君、どうかしたの」
過ぎて行く風を目で追っていると、不意に後ろから声を掛けられた。凛とした女性の声――しかし、どこか機械じみた抑揚の少ない声。
「ごめん沖さん、なんでもないよ」
僕は、小走りに沖さんの後を追い、横に並んで歩く。
至る所がひび割れ、凸凹した地面。一日のうち、ほとんどの時間に日が差し込むことのない、暗く肌寒い細道。
そんな人気のない裏通り――男女二人の高校生が歩くには、あまり似つかわしくない裏通りを、僕と沖さんは並んで歩いていく。
「今日は、どこに行くの」
沖さんは、こちらを見ることなく真直ぐ前を向いたまま僕に尋ねる。まるで、正面に居る見えない誰かに話しているような、そんな感じだった。
「うーん、どこかの喫茶店とかかな」
別にどこに行きたいという目的を持って来たわけではない。だから、自然と歯切れが悪くなる。
沖さんも僕の返答で察したのか、それ以上の追及はせず、そうっと、一言だけ返した。
まったく盛り上がらない言葉のキャッチボール。歩いて数分、二人ともお互いがいないかのように、真直ぐ前を向いたまま話すことはなかった。
あっ、と思った。
不意に、真横の店のショーウィンドウに目が行って立ち止まる。
そこには、一体のフランス人形が飾られていた――いや、飾られているというよりかは置かれていたという表現が正しいだろうか。
なぜなら、そのフランス人形はボロボロだったからだ。顔は薄くひび割れていて、服も汚れている。酷いところでは、一部欠けているところも。そんなフランス人形が、ぐったりと気だるげに座らされている。この光景に、お世辞にも飾られているとは言えなかった。
「どうしたの」
数歩先を行ったところから、沖さんは声を掛ける。
「これ見てよ」
僕は、ショーウィンドウを指さして言う。
「何ここ、リサイクルショップ?」
店の外観を見ながら歩いてくる沖さんは言う。僕も言われて、一度人形から目線を上げて外観を見る。
リサイクルショップっていうよりジャンクショップかな
店は廃れたように汚れている。よく見ると、ガラス越しに中を覗けた。リサイクル品というよりかは、廃棄品ばかりを集めたように何に使えるのかも分からないガラクタで溢れている。
「この人形がどうかしたの?」
気付くと、沖さんは僕の背後から覗くようにフランス人形を見ていた。
僕は、沖さんからの位置からでも見えるように屈んで、フランス人形をまじまじと見る。
「いや、この人形――なんだか沖さんに似てるなって思って」
ショーウィンドウに写る二人の顔。食い入るようにしてみる鳥羽とは打って変ったように、沖は人形を見下すように見た。その表情にはどこか陰りを帯びていた。
「そう見える?……確かに、そうかもしれないわね」
沖さんはうっすらと笑いながら言った。
カランカランカラン
涼やかな鈴の音を鳴らしながらお店のドアを開ける。
たまたま見つけた小さな喫茶店。内装は、壁も床も木製で、よくありそうな喫茶店だ。ただ、年季が入っているせいか不思議とレトロな雰囲気がして、居心地の良い空間だった。
「ご注文は決まりましたか」
僕と沖さんが席に腰掛けると、お爺さんが注文を取りに来た。
背筋がスッと伸びた白髪のお爺さんからは、ダンディというか、大人のかっこよさを感じた。
自営業なのか、お爺さん以外の店員は見当たらなかった。
「僕はコーヒーで」
「……私も彼と同じもので」
沖さんは少し考えて答えた。
「少々お待ちください」
お爺さんは、注文を受けてカウンターの奥に入っていった。
「綺麗ね」
店の内装を見て沖さんは、口火を切る。
店主の趣味だろうか。店の棚や窓、カウンター上の空いた空間など、至る所にガラス細工が飾られている。
「あぁ、確かに綺麗だね」
透き通るガラス、さまざまな種類の形や色。
それらを眺めていると、自然に言葉が零れた。
「……私に似ているとは言ってくれないんだ」
頬杖をついて沖さんは言う。
「学校の皆だったら、あなた以外の人だったらそういうと思うけど」
その言葉に棘などは一切感じられず、むしろ茶化したようにさえ取れた。
「嘘は言わないからね」
にっと笑って返すと、沖さんもうっすら笑みを見せた。
傍から見ればどう映るだろうか。おかしなことを言いあう僕と沖さんは奇怪で不気味に見えるのかもしれない。
ただ、こんな僕たちのおかしな関係が、ほんの数か月前から始まったなんて、誰も想像しないだろう。
数か月前の放課後――その日たまたま日直だった僕は、担任の先生から倉庫整理の仕事を頼まれていた。
埃だらけで、たくさんの荷物が積まれている薄暗い倉庫。一人で整理するにはさすがに気が滅入る。
ああ、早く終わらせて帰りたいな
そう思いながらも、終わる気配のない倉庫整理に、やる気など出るはずもない。しばらくして、床に置かれている荷物に腰掛ける。
ガラッ
立て付けの悪い戸は、急に開いた。
夕日の光が、まぶしく僕の顔を照らした。
「沖……さん?」
戸を開けたのは、同じクラスの沖さんだった。沖さんは、長い黒髪と切れ長の目が印象的な綺麗系の女生徒だ。なんでもそつなくこなせて気が利く彼女は、クラスでも人気が高く、先生からの信頼も厚かった。
……しかし、僕は彼女が苦手だ。
「先生に頼まれて手伝いにきたの」
そう言って、沖さんは荷物整理を始めた。
「何でまた」
「私はクラス委員だから。それに、先生困ってたみたいだから」
彼女はうっすら笑って答える。
すごく立派な意見だとは思う。でも、僕はこういう所が苦手だ。彼女の笑みが嫌いだ。彼女の笑みは偽物だ。うっすらと笑う彼女の笑みは、感情からくるものというよりは他人のための笑み。だから何よりも嘘くさい。
「沖さんってさ……なんでそんなに自分を偽るの」
ドスン
思わず出てしまった言葉を聞くと、沖さんは、荷物を落とした。そして、ズンズンと僕に近づいてきた。
「どうしてそう思うの」
沖さんは、互いの鼻息が掛かり合う程顔を近づけて、僕の目をじっと見ながら聞く。それは、怒りというより、単純な疑問。いつも涼しげで落ち着いた目は、興味深気に爛爛としている。
そんな沖さんに、一瞬物怖じしてしまったが、僕は、沖さんの目を見返して答えた。
「いや、表面上はみんなの信頼も厚いし、綺麗な容姿だよ。正に、誰からでも好かれる完璧な人だと思う。でも、中身は違うんじゃないかと思った。初めて違和感を覚えたのは、人との接し方。誰とでも、平等な距離感で、特別仲のいい人もいなければ、関わりを持たない人もいない。こんなこと、普通はありえない。それから、僕の沖さんに対する印象は変わったよ。なんのためにかは分からない。でも、自分を殺して、自分の選びたい選択肢を捨てて、自分をボロボロにして生きている――まるで人形のように。沖さんの行動からは、沖さんの感情が感じられない。それだけは確信をもって言える」
「ふーん、そっか」
沖さんは何か納得したように言うと、ふいっと僕に背を向けた。
「ねぇ今度の日曜日さ、ちょっと付き合ってよ」
こっちを見ないまま沖さんは言った。
その口調からは、いつもより少し楽しそうな感情を感じた。
それからというもの、僕と沖さんは知り合いに見つからないような裏通りで、頻繁に会うようになった。
沖さん曰く、『あまり人に見られたくないから』らしい。
「あの人形かわいそうだったな……」
僕に言ったのか、独り言なのか分からなかったが、沖さんはつぶやいた。
「綺麗でも完璧な状態でもなく、誰からも必要とされないのに、あんな店先で晒し者のように置かれて……まるで――」
沖さんは、虚ろで寂しい目をして言葉を切った。
「そんな………」
「お待たせしました」
コーヒーが運ばれてきて、言葉を遮られた。
沖さんは、元の顔でコーヒーを受け取った。
コーヒーは、ブラックコーヒーとコーヒーフレッシュを横に添えられただけの簡単なものだった。
店員のお爺さんもいるし、さっきの話を続けるべきではないと判断して口を噤む。
……うん、なかなかうまいな
ブラックのまま、僕は一口コーヒーを口にして思う。
「うっ」
正面に座っている沖さんは、コーヒーのカップを口に付けたまま眉を潜めている。
「もしかして、コーヒー飲めなかった?」
「……別に」
そっぽを向いて、沖さんは曖昧に答えた。
「僕の分も使う?」
僕は、使わなかった自分のコーヒーフレッシュを差し出す。
沖さんは、何も言わず僕の手からコーヒーフレッシュを受け取って、自分のコーヒーに入れる。
「沖さんがコーヒー飲めないのって結構意外だった」
何でもそつなくこなせて、弱点なんて無さそうな沖さんの意外な弱点だ。
「でも、どうにか飲めそうだね」
沖さんは、少し恥ずかしいのか顔を赤くして、コーヒーカップを口に付けたまま動かなかった。
「……ありがと」
コーヒーカップから口を話さないで小さく言った。
「そろそろ帰ろうか」
「そうね、もういい時間だし」
帰り道――日も暮れてきて、来た時よりも一層薄暗くなってきた。
「そういえば、あの人形は誰かが買ってくれたと思う」
ふいな質問だった。
何の脈絡もなかったため少し考えた。
「……買ってもらったと思うよ」
「何で?あんなに壊れた人形なのよ。完璧な物じゃないのよ。誰も必要としないでしょ」
「何となく……かな。でも、どんなに壊れていても、やっぱり好きだと思う人はいるだろうし、必要とする人もいるはずだよ。だから、買ってくれる人はいると思う」
「じゃぁ、貴方なら買うの」
「……買うよ」
「そんなの詭弁じゃない?」
「詭弁じゃないよ。僕は……あの人形嫌いじゃないよ」
「へー、じゃぁ賭けてみる?」
「いいよ」
なんでそんなことを言い出したのか分からなかったが、僕には自信があった。なぜなら、あの人形には不思議な魅力があった。歩きながらでも人の目を引くような強い強い魅力。あれはきっと、あの人形だから――あそこまで壊れた人形だからこそ。しかし、沖さんにはそれは分からないみたいだ。人形の価値。そして、沖さん自身の価値を――
「そろそろね」
沖さんの声にはっとすると、もうジャンクショップが見えてきていた。
SOLD OUT
人形が置かれていた場所には、そう書かれた看板が置かれていた。
「賭けは僕の勝ちだな」
そう言うが、後ろに居た沖さんは返答しない。
沖さんは、顔を伏せている。肩をプルプルと震わせ、両手をお腹に当てる。
「沖さん?」
あはははははは
沖さんは、口角を上げてお腹を押さえながらどっと笑い出した。それは、体をくの字におらんばかりの笑い。清々しくまるで秋風のような心地良さのある笑い。
「やっぱり鳥羽君は、馬鹿で、失礼で、無神経で……本当に正直者ね」
なぜ罵倒されたのかわ置いておくとして、今の沖さんの笑いは本物だと思った。
口角を上げて、うっすら目じりに涙を浮かべて笑う沖さん。学校では――この関係がなければ見られなかった本物の笑顔。僕だけが知っている表情。
最初は、あまり気のりしなかった関係だった。でも、彼女の――沖さんのこんな表情が見られるなら、満更でもないと今は思っている。
「どうかしたの」
沖さんは、目じりに溜まった涙を指の背で拭いながら、こちらを不思議そうに見る。
「いや、何でも」
僕も、彼女と一緒に笑いながら言う。
店前の明かりは、僕たちを暖かく包み込むように、静かにポッと灯った――。
こんにちは、五月憂です。
このたびは、「片羽の人形」を読んでいただきありがとうございます。
実はこの作品は、五月が高校生の時に没にした話を作り直したものなんです。だから、展開が甘かったりするかもしれませんがそこはごめんなさい。改めて、昔の作品を読み返すと面白いような恥ずかしいようなそんな気持ちがありますね。
次の投稿は、5月28日予定です。
また、「桜花の舞」「ハイイロセカイ」「白の領域」も投稿しているので読んでいただけると嬉しいです。
今後も、五月憂の作品をお願いします。