第1節 第3-2話 『強き者・弱き者』
前半の描写にやや過激な部分があります。苦手な方は後書きに粗筋がありますので、そちらをどうぞ。
カンナに引っ張られてコウは路地裏へ入っていった。とはいっても、スラムという時点で路地裏も糞もない。どの道も路地裏みたいなものだ。ただ、その中でも特に路地裏なのだ。路地裏中の路地裏なのだ。
とりあえず、道幅に関しては比較的あった。糞尿が飛び散っていて蝿がブンブン飛んでいること除けば、普通の道だ。刺激的で酸っぱい臭いがした。アンモニア臭をベースに腐敗臭と糞尿をブレンドした感じだ。端的には最悪だ。それこそがこの道を路地裏中の路地裏たらしめる理由なのだ。
コウは思わず袖で鼻を塞いだ。無理だ。臭すぎる。ていうか、カンナはよく耐えられるな……吐きそうだよ。
グチョ。時々、生乾きのsomethingを踏みつける。何を踏みつけたか確認はしなかった。きっと、茶色い例の物か、動物(人間も含む)の死骸か、——運が良ければ――生ごみかゴキブリに違いない。わざわざ、確認するまでもないし、確認したくもない。
カンナはそんなコウを一瞥する。ただ、心配をする様子はなかった。
「行くわよ。」
コウの答えは聞かずにカンナはその路地を突き進んだ。
ある程度進むと、何やらもめているような声が聞こえてきた。時々、ゴンと鈍い重い音がしする。そして、男の怒鳴り声が聞こえる。
カンナのお目当てはその揉め事の中心にいた。
本をひったくった少年である。出荷される養鶏場の鶏みたいに扱われていた。さすがに、バキュームで吸引はされていないが、それ以外は似たようなものだ。とりあえず、人間どころか動物として扱われているのかも怪しい状況だ。
少年は男達に囲まれていた。目つきの悪い男達だ。人数は全部で5人というところで、そこらの破落戸とは一味違う風格である。要はもの凄く相当柄の悪い奴らなのだ。
一人の男が少年を蹴飛ばす。
「おい、さっさと、本の、在り処を、教えろよ。」
男は怒鳴りつける。一言一言の間に、左右交互に蹴りつけた。そして、最後に一発、強いのを入れた。
少年は1メートル程飛び、壁にぶつかった。ゴスッと鈍い音がした。その後、地面に落ちた少年はピクリとも動かなかった。
一人の男が少年に近づく。少年の髪をむんずと引っ掴んだ。
「あのなぁ、俺らだって、わざわざこんなことしたくないんだよ。分かるよな?」
男は少年の頭を無理やり起こして、ニヤニヤと言った。
コウは拳をぎゅっと握りしめる。少年を助けたい思いと、関わりたくない思いが葛藤した。冷たいというのではない。関わったら自分も少年と同じになるのではないかという恐怖である。
だが、それと同時に助けたいとも思うのである。
その二つの相反する気持ちは、コウの心を板挟みにした。
最後には、理由は全く分からないが、泣きたくなってしまった。
カンナはコウの腕を握った。細くて、可憐で、女神みたいに白い、今にも折れてしまいそうな手からは想像できない力であった。
「カン……ナ?」
コウは思いがけないカンナの握力に戸惑った。
カンナの顔には怒りと悲しみが入り混じっていた。いや、もっと複雑で高尚な感情なのかもしれない。しかし、それを読み取るには、コウに社会経験が少なすぎた。悪く言えば、空気が読めなかった。
カンナは口を動かした。何を言っているのかは聞こえなかった。
「え?」
コウは言った。
「ごめんなさい。」
カンナは言った。その顔はひどく悲しそうだった。
音が消えた。そんなふうに感じた。不気味なくらいに静かに思えた。カンナの足音だけが、妙に大きく聞こえる。そんな音がするはずもないのに、コーン、コーン、コーンという足音が聞こえるような気がした。
男達は少年を扱うのに夢中のようで、カンナには気づく様子はない。
カンナはコーン、コーンと歩みを進めた。鬼――違う。例えるなら、鬼神、いや、竜だ。ドラゴンでもワイバーンでもない。竜だ。
美しく、見る者に畏れを抱かせる存在。
雷や雨を象徴し、日出ずる方角――東を守護する存在。
そんな竜にコウは思えた。そして、そう思った瞬間、自らが水の中に入ったように感じる。周りの音が一瞬にして遠くのものとなり、コポッという丸い音と静けさが支配する世界。そこに突然、迷い込んだようだった。
カンナが腕を伸ばせば触れそうな距離に来て、ようやく男達はカンナに気がついた。
「ん?あ?てめぇ、何だ?」
男の一人がカンナの胸ぐらを掴もうとしながら言う。
その途端、コウの意識は水から引きずり出される。
はっとした時には、カンナが壁に押し付けられていた。
「お前、”これ”の仲間か?」
男が少年を指差して言う。
カンナは静かに首を振った。
「舐めんてんのかぁ?」
男は更にカンナを壁に押し付ける。そして、余ったもう片方の手で、首を締めにかかった。
今度こそ、助けに行かなければ。コウは思う。
目の前には、道に捨てられた頭陀袋のような少年と、今にも絞殺されそうな少女である。
足が震えた。ふと、死が頭をよぎる。それを覚悟しそうになったが、しなかった。何があっても、死だけは自ら選ばない、そう決めていた。だから、絶対に、そんなものは覚悟しないと決めた。
震える足を1歩、また1歩と徐々に出す。そのテンポはだんだんに加速していき、トン……トン……トントントントントットットットットトトトトトトト――と走りだす。
もう止まれない。逃げられない。そんな当たり前をコウは再認識する。しかし、恐怖はなかった。怒りじゃない、もっと、単純で、単純すぎて言葉にできないくらい単純で、それでいて複雑に絡みあった感情に支配されていた。
真っ白な頭は、何も考えていなかった。
ドンッ。低い硬い音がした。コウはカンナを掴む男に体当たりをした。腕に衝撃が走る。男は不意を付かれて倒れる。そして、コウも男と共に倒れ、男の上に着地する。
直ぐに他の男達がコウを取り囲んだ。
クソッ。コウは目を瞑る。怖さじゃない。悔しさだった。結局、何もできなかったじゃないか。何が高校生になったらだよ。クソッ、クソッ、クソッ。瞑ったまぶたから涙が滲みだす。
男達からは既に、さっきの嫌らしいニヤニヤは消えている。誰がどう見てもマジだ。
だが、事は突然起こった。
男達が一斉に苦しみだしたのだ。
男達のうめき声にコウは目を開ける。
男達は、地べたをゴロゴロと転がっていた。涙でよく見えない視界に、この路地裏には場違いな白い、真っ白い何かがあった。
平野に広がる白銀の世界、もしくは雪解け水が流れる川に反射する木漏れ日、それとも夏の夜空に輝く銀河の断面、そんな白さである。
しかし、それは、コウが涙を拭いて、前を見た時には、既に無かった。その代わりに、コウに手を伸ばすカンナがいた。
「ありがと。」
コウはその手を掴む。
「大丈夫?怪我してない?」
「ああ、多分……それより、あの子は?」
コウは件の少年を見た。
そこには、もそもそと起き上がる少年がいた。
「治癒魔法で治しておいたわ。」
カンナが言う。
「そう……なんだ。」
コウは独り言のように言った。
「ところで……見えた?」
「何が?」
「んん、何でもない。」
カンナは首をフルフルとした。髪が反周期ほど遅れて左右に振れた。
コウは背後に人の気配を感じた。
「おい、そこで何をしている。」
コウのカンナは声がした方を見た。
肩章に飾紐、それとぶら下げたサーベル——声の主は憲兵であった。
とりあえず、マズいことになった。コウは直感した。
憲兵って警察みたいなものだよね?警察に声をかけられるって只事じゃないけど……やっぱり、禁書かな。そうすると、こんな所まで来るって、相当必死に探してるな。
……っと、呑気に考えてる場合じゃなかった。
カンナは服についた砂埃を叩き落していた。少年の方は、じりじりと後ろに下がっていた。しかし、残念なことにここは袋小路であった。逃げ場などないのである。
壁が少年の背中に触れる。少年は背後を確認した。そして、逃げられない、ということを悟ったのか、カンナに駆け寄った。
図々しいやつだな。コウは思う。でも、他人事ってわけでもないのかな。俺も、カンナに頼り切ってるし……
憲兵は地面にゴロゴロと転がる男に気がつくと、それを蹴り飛ばした。男はゴロンと転がる。
「これはなんだ?」
憲兵は男を突っつきながら聞いた。
「まあ、生きてるなら構わないが。」
しばらく男を突っつきましてから憲兵は言う。
生きてるんだ。コウは正直感心してしまった。てっきり、殺したのかと思っていた。そして、改めて考えたら、その状況に割と順応している自分がいることに気がついた。
再び憲兵はコウらを見る。
「禁書、何か知ってるな?さっきここの奴らが、この辺りから禁書がどうのと聞こえていたと話していた。」
嘘はつかないよな、と脅すように憲兵はサーベルに手をかける。
誰も何も言わなかった。嫌な沈黙が続いた。
「言え!」
憲兵はサーベルを引き抜く。
憲兵が攻撃をするまで10,9,8——とカウントダウンが始まっていた。時間は無い。しかしアイディアも無い。
カンナが小声で、コウに耳打ちする。
「大丈夫、なんとかするから。」
「え?」
カンナは小さく頷いた。
最初に口を開けたのは少年であった。
「俺だ。禁書は俺が持っている。」
憲兵はサーベルを戻す。そして、少年の腕を無造作に掴んだ。
「来い。」
憲兵は少年の腕をグイと引く。
コウは少年を擁護しようと、口を開けた。しかし、出てくる言葉は無かった。
「待って。」
そう言ったのはカンナだった。
「何だ?」
憲兵は不審そうに聞く。
「その本、私が買い取るわ。」
「え!?」
コウはつい、言ってしまった。
少年は分かりやすく驚いていた。
「何で、そんなことするんだよ。」
カンナはそれに応えなかった。
「ふん、そんなんでどうしようと言うんだ?どうせ、お前が捕まるだけだぞ。」
「そうかしら?」
カンナは徽章をちらつかせる。
憲兵は
「貴族だからといって……」
と、徽章を見た。そして、その徽章が表す意味に気がついた様子であった。
「ラドリガスの魔法士か……確かに、お前はこっちじゃ裁けない。……だが!」
憲兵は少年をグイと引き寄せる。
「こいつは違うだろ?どうせ、禁書を一時的にでも、所持していたんだ。来い!」
その時だった。聞き覚えのある声がした。あまりに喋り方が特徴的だから、コウはそれが誰だか、一発で分かった。
「あらあら、私の可愛い子がどうかしました?」
違法商店の女が出てきた。
「アイリーン姐さん!」
少年は言った。
「アイリーン、ああ、あの違法商店の……調度良い、お前も来い。」
憲兵はアイリーンの腕を掴もうとした。
アイリーンは、その手を、払いのけた。
「私を捕まえてどうするのかしらぁ?」
「ふん、そんなの決まっているだろ。」
「ええ、決まっているわね。捕まえても、数日で釈放よ。」
「は?」
「だって、憲兵隊の隊長さん、私のお客さんだもの。」
「それがどうした。」
憲兵は強気に言う。
「あら。」
そう言うや否や、アイリーンの袖口から、刃渡り10センチメートルほどの小刀を持った手が飛び出す。そして、それは憲兵の喉元に突き立てられた。
「そ、そんなことをしてただで済むと……」
憲兵は刃から逃げるように、のけぞりながら言う。
「私を捕まえると、あなたの隊長さんに殺られるわよ。」
「ちっ。だが、こいつは貰っていくぞ。」
憲兵は少年の腕を引く。
「置いていきなさい。」
アイリーンはニコリと笑った。
憲兵は、その笑顔の意味を悟ったのか、舌打ちをする。そして、少年をドンと突き出すと、さっさと、どこかへ行ってしまった。
粗筋
カンナとコウは本を盗んだ少年が暴行を受ける現場に遭遇する。その後、少年を救出したコウたちだが、憲兵に発見される。
連行されそうになる少年を前に、カンナは禁書を買い取ると宣言する。しかし、それでも、少年を憲兵は連行しようとする。
その時、違法商店にいた女(アイリーン)が現れる。彼女は憲兵を脅す形で、少年助け出す。