第1節 第3-1話 『強き者・弱き者』
遠くで鐘の音がした。それは、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーンと5回鳴った。その後、ガランガランという音がしばらく鳴っていた。
「もう5時ね。」
カンナは言った。
7月の夕方5時、ナーディストラスクはまだ明るい。しかし、ナーディストラスクを囲む外壁は徐々に影を伸ばし、夜が近づいていると感じさせた。
ああ、ここに来てから4,5時間経ったのか。長かったな。でも、これからの方がもっと長いのか。なんたって、何年になるか分からないんだからな。
あれ?そういえば、何処に向かってるんだっけ?…………あ、そうだ、第3スラムだ。そうだったよね?
「第3スラムだっけ?そこに行くんだよね?」
「うん、そこの違法商店よ。この辺りで、禁書を扱える店なんてそことさっきの所くらいしかないから。」
「禁書!?」
その瞬間、周りを歩いていた人々がコウの方を一瞬見た。
「しぃっ、あんまり大きい声出さないで。さっきみたいなことになるわよ。」
「え、あ、ああ、ごめん。」
禁書って……てってきり憲兵が調査してるだけかと思ったら、あの本が禁書なのかよ。通りで、本屋も変だったわけだ。普通、あんな路地裏に作らないもんな。
俺ってもしかして、とんでもない子の従者になっちゃった?もしかして、野垂れ死ぬのが数週間遅れただけ?いや、でも、この子、今までこれで生きてたみたいだし、修羅場をくぐり慣れてるのか?切り落とされないことを祈ろう。少なくとも、1年後に生きている確率は、何もしないより高くなったんだから。
カンナは大通りをどんどん下っていった。4車線の道路である。馬車がガラガラと走っていた。
王城と外壁を結ぶその道は、王城から見れば真っ直ぐな下り坂である。歩道もかなり良くできていて、歩きやすい。アスファルトと比べれば、と、初めは思っていたコウだったが、この世界の技術力にしては良くできている方なのだと思うようになっていた。
隣を走る馬車を見て、ふとコウは思った。
「ねえ、乗り合い馬車は使わないの?」
「え?ああ、使っても良いけど、コウ、痛そうだったから。」
そう言われて、コウは本屋に行くときに乗った乗合馬車を思い出した。
「いや、あれにはもう乗りたくない。」
歩く方がまだましだ。あの馬車、バンパー付いてないんじゃないか?車輪もゴムじゃないし、空気なんて入ってるわけないし……せめて、もう少し、クッションをどうにかしてくれよ。
「ふふ、コウって結構子供よね。」
カンナはくすくすと笑っていた。
カンナに軽く怒りを覚えながらも、嬉しそうに笑うカンナに好感というよりも、安心感のようなものを感じるコウがいた。良かった。笑ってる。……って、出会って数時間なのに何考えてるんだよ!
外壁はどんどん近づいていた。このままではナーディストラスクの外に出てしまいそうな勢いである。
「スラムって町の外?」
コウは聞いた。
「ええ、そうよ。壁外に出るときは通行許可証が必要だから、私に付いてきて。従者なら通行許可証いらないから。」
カンナは言った。
あ、従者だと、町の出入りにも通行許可証いらないのか。これまた随分とお粗末なセキュリティーだな。だって、通行許可証を持ってる貴族か准貴族が「この人は私の従者です。」と言えば入れるんだからね。
二人が壁に着くと、門があった。高さ4メートルほどの門だ。槍を背負った兵士がそのまま通れる程度の高さである。
ただ、その門は通常は閉めてあるようで、開いていなかった。代わりに、その隣の通用門が開いていた。
通用門に立っていた兵士が、二人が近づいてくると、前に立ちふさがった。
「通行許可証を見せてください。」
兵士は温厚そうだった。小太りだが、身長は170センチメートルはある兵士である。憲兵よりもシンプルな格好で、飾紐は付いていなかった。
てっきり、「見せろ」って言われるかと思ったけど、そうでもないんだな。まあ、さっきのは禁書の件でピリピリしてただけなのかもしれないけど。
カンナは通行許可証を出すと、兵士に見せた。
「はい、分かりました。こちらの方は?」
兵士はコウを見た。
「ああ、私の従者ですよ。」
「了解しました。」
兵士はそう言って、二人に道を開けた。
門をくぐり、壁外に出たとき、コウの頭に一つの疑問が浮かんだ。
「カンナ、なんで、従者って通行許可証が無くても良いの?」
「ああ、そのことね……」
カンナは、また、唇に指を当てた。多分、考えるときのカンナの癖なんだろうな。と、コウは思った。
カンナは
「そうね……誤解しないでよ。私はそういうのじゃないからね。」
と前置きすると、言った。
「貴族によっては従者が町から逃げ出さないように通行許可証を持たせてないのよ。だからかしらね。あ、でも私はそういうのじゃないからね。違うからね。」
「うん、分かった。むしろ、何度も言われると嘘っぽく聞こえるんだけど。」
「いや、本当に違うのよ。違うのよ。」
カンナは更に言った。
カンナ……墓穴を掘ってることに気づいてないのか?まあ、別にカンナがそんなことするとは思えないんだけど。
必死に「私は違う。」と主張するカンナを弄りたい気持ちを抑えつつ、コウは「はいはい。」と言っておいた。
第3スラムはナーディストラスクの東側にあるスラムである。第3という名だが、ナーディストラスク周辺のスラムとしては最大である。そして、治安については最下位争い真っ只中だ。それもこれも、町のど真ん中にある違法商店が原因だと言われているが、定かでない。
スラムは鬱蒼としたジャングルのようであった。ジャングルの木々が家になったようなものだ。そのくらい家々が密集していたのだ。
スラムには独特の臭気が漂っていた。汗臭さでも無ければ、腐った匂いでも無い。糞尿だけでなく、もっといろいろな物が混じった匂いであった。心地よい匂いでないことは確かである。
そして、このスラムにおいて、一つだけ異質な物を上げるとしたら、コウ達だろう。なにせ、他の人達とは明らかに身成りが違うのだ。おかげで、コウとカンナは人とすれ違うたびに横目で見られるのだった。
「ねえ、本当にこんな所に本があるの?」
コウは不審そうに聞いた。カンナを信用していないのではない。だが、さすがに、こんなスラムの中に店があるとは思えなかった。
「ええ、この先よ。それと、あんまり他人と目を合わせないで。あと、私から離れないで。脅されても出すお金、無いでしょ。」
言われなくても、合わせないよ。とコウは思いながら、
「うん、分かった。」
と答えた。
スラムの道は比較的平らであった。左手には外壁が赤くなりかけた日に映しだされていた。
20分ほど歩くと、木造の建物ばかりのスラムの中に、突如として、石造りの建物が出現した。所々に苔や蔦が生えている。窓は殆ど無く、あっても小さかった。
その建物の前でカンナは立ち止まった。
「ここね。」
そう一言だけ言って、カンナは建物に入っていった。そして、コウもそれを追うように建物に入った。
陰湿な店内には、一酸化炭素中毒になりそうなほど不完全燃焼真っ最中な松明が燃えていた。それがゆらゆらと揺れながら、店内をぼんやりとオレンジ色に照らしていた。
店は入ってすぐの所にカウンターがあった。その奥には暖簾のような物がかかって、中が見えないようになっていた。
「いらっしゃぁ~い。」
暖簾の奥からねっとりとした女の声がした。
暖簾をかき分けて出てきたのは、20後半に見える妖艶で婀娜な女だ。黒髪を肩まで伸ばし、所々に穴が空いたローブを着ている。穴から見える皮膚が、また、いや、より彼女をエロチックに見せるのである。
コウは女をみてドキッとした。性的興奮を覚えたのではない。コウはこういうタイプの女は苦手だった。コウはただ単に、中から出てきたのが女であることに驚いただけなのだ。
「あらぁ~可愛らしいお客さんねぇ~。」
そう言った後、女はカンナの胸に着いた徽章に目を止めた。そして、カンナの顔を確かめるように、カウンターに置いてあった蝋燭をずらした。
下から照らしだされたカンナの顔を見て、女はあからさまに怪訝そうな顔をした。
「ちっ、ラドリガスの魔法士さんか。それもハーフエルフね。何かしら?森から追い出されたハーフエルフの保護なんてしてないわよ。」
女はさっきまでのねっとりとした喋り方を豹変させた。
カンナはボソッと
〈ハーフエルフ、ハーフエルフってどいつもこいつも。〉
と呟いた。
え?ハーフエルフ?よくファンタジーで出てくるやつ?そう思いながら、コウはロウソクに映しだされたカンナの耳を見た。確かに、ほんのりと尖っていた。
「何かしら、ハ~フエルフさん?」
女は言った。
「ちっ。」
カンナはそれに舌打ちで返した。
「ふん、話もできないのかしら。魔法士なんてロクでも無いわね。地位に執着した魔法使いの成れの果てね。」
女はあからさまに軽蔑の眼差しをカンナに向けていた。
隣からカンナの声が聞こえた。
「コウ、あなたは軽蔑するの?」
カンナは俯いていた。表情は分からなかった。
「え?いや、するも何も、俺はカンナのこと全然知らないし……とりあえず、人種がどうのこうのって差別はしないつもりだけど。」
「そう、その言葉、嘘じゃないと信じるわ。」
カンナのその声は冷たく硬かった。氷のような澄んだ冷たさではない。それは冬のコンクリート壁のように、どんよりとした冷たさだった。
女はトントントンと指でカウンターを叩いていた。カンナとコウの会話が終わると、しびれを切らしたように言った。
「早くしてくれる?で、何の用なのかしら?用がないならさっさと出て行ってちょうだい。面倒事は持ち込まないでほしいの。ハーフエルフの魔法士さん。」
女は魔法士の”士”を強調して言った。
「ええ、ごめんなさい。今日、このくらいの本は持ち込まれてないかしら?」
カンナは手で四角を作って、本の大きさを示した。
女はカンナが言い終わるが早いか吐き捨てるように言った。
「そんなんじゃ分からないわ。ほら、さっさと出て行って。しっ、しっ。」
「分かったわ。皮表紙で、題名の無い本よだから、持ち込まれた取って置いてちょうだい。また来るわ。」
「はいはい。ほら、さっさっと帰りな。」
コウは女の対応にイラッとくるのだった。しかし、カンナが特に何も言わずにさっさと出て行ってしまったので、それに付いて行くのであった。
コウは店の外に出ると言った。
「良いの?あんな言い方されて。」
カンナは無感情に言った。
「あれがこの国じゃ普通よ。ハーフエルフは災いの象徴なのよ。」
「ラドリガス?そこだと、違うの?」
「あの国はこの国の王政に反対して独立した国だからね。それに、ラドリガスは実力主義だから、血筋なんて関係無いのよ。それでも、ハーフエルフは良い顔されないけどね。」
カンナは『血筋なんて関係無い』という部分を強調して、少し熱っぽく言った。
ハーフエルフか……雑種強勢って言うし、差別するよりも、推奨した方が良いと思うんだけどな。人は人と、エルフはエルフとなんて考えない方が良いと思うんだけどね。まあ、もっと根は深いのかな。この世界に来たばっかりの俺に口出しする資格は無いか。
コウは腕を掴まれたのを感じた。すぐにカンナの手だと分かった。
「カンナ?」
カンナはしばらく何も言わなかった。そして、口だけ動かした。声は聞こえなかった。ただ、口だけが動いていた。
「え、何て言ったの?」
コウが聞き返すと、カンナは言った。
「ちょっと、来て。」
カンナはコウの腕をぐいと引く。その力は、コウが抱いていた、可憐な少女のイメージとは程遠かった。おかげで、コウは危うく転びそうになった。