第1節 第2-1話 『禁書』
デジャヴ、もしくは既視感、どちらでもニュアンスは違えど意味はさほど変わらない。大事なことは、コウが今、それを感じていることである。
瑠璃色のカチューシャがコウの目の前を上下に動いていた。コウはこの少女にどこか見覚えがあるような気がしている。つまり、既視感というやつだ。
それは、少女の顔とか声とかそういうものではない。もっと真髄にある『何か』に対してだ。それがコウに既視感を与えているのである。
しかし、その『何か』が何なのかは分からなかった。だが、コウはこの少女に会うのが初めてでないと、根拠の無い確信を持っていた。
「あのさ、変なこと聞くけど――」
そう言いながらコウは前を歩く少女の肩を人差し指で突っついた。
少女が「何?」と言いながら振り向いた。髪はふわりと弧を描いて回った。
まるで妖精の様だった。いや、それどころか妖精の様な幼い美しさの中に、大人びた凛とした美しさを内包しているのであった。
「――俺に会うの初めてだよね?」
少女は唇に指を当てると、少し俯いて、考えるようにした。
あ、考えさせちゃったか。やっぱり、変な質問だよね。どうせ、答えはYesなんだろうし、悪いことしたな。
コウが「ごめん、変なこと聞いた。」と言おうとして、息を吸った瞬間、少女が言った。
「うん……」
少女の答えはコウが思った通りだった。
その後、少女は付け足すように「多分……」と小声で言ったが、それがコウの耳に届くことは無かった。
ナーディストラスクは坂道の多い町だ。丘の上に一際目立つ白い壁の王城が建ち、その周りに街がある。そのため、町の半分近くは丘の斜面上にあるのである。そして、町の周りはぐるりと高さ10メートル程の壁で囲まれていた。
少女は階段をひょいひょいと上っていた。左右を家の壁に挟まれた、幅1.5メートル程度の、細い階段だ。傾斜は30度近くある。おかげで正面から見ると、もはや壁であった。
コウはよいしょよいしょと階段を上っていた。上るにつれて次の一歩が重くなる。まだ、半分も上っていないのにだ。
ヤバい、日頃の不摂生が災いしたか……ここ最近、運動なんてめっきりだったからな。まあ、文化部だしそんなもんかな。
それにしても、この階段キツい。何でこんな急なんだよ。全然バリアフリーじゃねぇよ。せめて手摺くらい付けろよ。
コウがは後ろを振り向いて上った距離を確認した。20メートル程度だった。うわぁ、この階段長すぎ。こりゃ疲れるわけだな。
「ねえ…… ちょっと…… 待って。」
コウは息も絶え絶えに言った。
「あ、分かった。」
少女はそう言うと、くるりと回って、階段に腰掛けた。そして
「よく言われるのよ。私、体力はあるのよね。」
と、付け加えた。
コウは20秒ほど遅れて、少女が座る場所に着くと
「よいしょっと。」
と16歳らしくない疲れた声と共に少女の隣に腰掛けた。
少女はコウの方を見ると、心配そうに聞いた。
「まだ登るけど、大丈夫?」
コウには空元気を出す余裕も無かった。そのため、歩きたくないという雰囲気を、何の躊躇も無く、全面に押し出して言うのであった。
「あと…… どのくらい?」
子供だと言われても仕方が無い様な発言である。それはコウも自覚していた。まるで、遠出を嫌がる子供の様なのだから。
少女はそんなコウの子供っぽさが可愛らしかったのか、くすりと笑った。
「ふふ。あの、坂道を上って終わりよ。その後は乗合馬車で丘の裏側に回るわ。」
少女は後ろを指差した。考えないようにしていた残りの階段がそこにあった。
笑われたことにムッとするコウであったが、反論の余地が無いことはよく分かっていた。
「分かった。もう少し、休んで良い?」
「うん、良いけど…… 本当に大丈夫?」
心配そうに聞く少女に、若干の空元気を取り戻してきたコウは
「うん。」
と頷いた。
本当はもう歩くのなんてゴメンだった。だが、自分とほぼ同い年である少女にこれ以上弱いところを見せたくなかったのだ。
コウは階段に座ったまま前を見た。家の壁によってトリミングされた町並みが見下ろせる。赤瓦の屋根が所狭しと並んでいた。
「ナーディストラスク……」
コウは呟いた。何故か懐かしさのある響きだった。まるで、何回もこの町に来たことがあるような気がした。
もう帰れないのかな。そう思うと、少女に会って和らいでいた不安感は、ノスタルジックな悲しみと共に襲いかかってくるのであった。
ふと、コウの頬に風が当たった。カラリと乾いた温かい風だ。コウは、その風に誘われる様に、特に意味も無く少女の方を向いた。
少女はこっくりこっくりと眠そうにしていた。
暇させちゃったか。俺に合わせてくれてるんだもんな。そう思ったコウは言った。
「そろそろ行く?」
少女はあくび交じりに言った。
「ん…… ふあぁぁ…… そうね。行きましょうか。」
少女は立ち上がると、コウに向かって手を出した。
「いや、さすがにそこまでしてもらわなくても立ち上がれるよ。」
コウは少女の手は掴まずに立ち上がった。
掴んでも良いけど、申し訳ない気がする……いや、恥ずかしいよ。さすがに、会ったばっかりの子と手を繋ぐなんて。
コウがへーへーとしながら坂を登り切ると、馬車が通る道と人が歩く道に別れた広い道路に出た。馬車はガラガラと音を立てて走っている。石畳の路面は時折、馬車を数センチほど跳ね上げていた。
少女は坂と道が合流する場所で立ち止まった。
コウがいるせいか、人があまりに近くにいない。おかげで、少女が急にが立ち止まっても誰も少女にぶつかることは無かった。
「通行許可証はある?」
少女は振り向いた。少女と目が合ったコウはとっさに目を伏せた。しかし、別に何ら問題は無いじゃないか。と思い、目線を戻すのだった。
「持ってないよ。」
コウは言った。通行許可証なんて単語は初耳だった。
「あちゃー、持ってないのか……」
少女は額に手を当てて、空を仰いだ。
「――分かったわ。まあ…… 何とかなるわ。」
そう言うと、少女は歩き出した。
コウは突然歩き出した少女を慌てて追いかけた。
少女は道路脇にできた列の最後尾で立ち止まった。いかにもな人間から、猫耳まで何かのイベントかと思うほどに多種多様な面々がコウと少女を含めないで4,5人列んでいた。
「どうしたの?」
「乗合馬車に乗るって言ったでしょ?」
「ああ、ここで待つのか。」
「そうだけど…… 知らないの?」
「うん。」
特に隠す様子も無くアッケラカンとコウは言った。
少女は呆れが一周回って感心になってしまった様な調子で言うのだった。
「はぁ…… でも、どう考えても密航者ではないのよね…… あなた、何処の家?」
密航者という単語で、そう言われればそうかもしれないと思ったコウだった。しかす、通報されるわけでもなさそうで安心したのだった。
「家? 苗字ってこと?」
「ええ、そうよ。」
「カリガワだけど?」
少女は一瞬、眉をピクリと動かした。
「そう…… 知らない家ね。」
そうだろうね、と思うコウであった。何と言っても、この国では異世界の苗字なのだから。
しばらくの間沈黙が続いた。繁華街を思わせる雑踏と馬車のガラガラという音はコウにとってはBGMと化し、少女との間にある沈黙ばかりが聞こえた。
しかし、少女はそんなことは何ら気にしない様子でぼうっとしているのであった。
「ねえ、通行許可証って何?」
沈黙が気まずくなってきたコウは思いついた質問してみることにした。
「ああ、そうだった。知らないのよね。」
すると、少女は左手の袖の中からパスポートのような物を出した。
「こういうのだけど、本当に持ってないの? ナーディストラスクにいるなら住民も全員持ってる必要があるんだけど。」
「うん。」
実物を見せられてもやはりコウには見覚えがなかった。
「うーん、まあ、さっきも言ったけど、何とかするわ。」
「何とかなるの?」
「なるでしょ。」
少女はそう言いながら、通行許可証を袖にしまった。
んな、無責任な。というのがコウの率直な心情であった。
馬車はその後すぐに来た。列が動き出すと、少女は
「行くわよ。」
と言ってコウの手を引いた。
別に、手を繋がれなくても大丈夫なのに……と思うコウであったが、振りほどくのは少女に悪いと思いそのまま手を引かれて馬車に乗り込んだ。
馬車は2階建てであった。1階に10人、2階に10人が乗れる馬車である。黒を基調としていて、2階はオープントップだ。
コウと少女は2階に上がると、並んで座った。
「ちょっと、代金払ってくる。」
少女は席を立つと、御者の方に行った。そして、先の通行許可証を見せると、袖から財布を出し、硬貨を払った。
「この辺りは人が多いから、御者もテキトウなのよ。いちいち確認してる時間が無いからね。」
少女はコウの隣に座ると言った。
馬車はすぐに出発した。コウが思っていた以上に馬車は揺れて、申し訳程度に着いている椅子のクッションでは到底衝撃を吸収できなかった。
おかげで、馬車を降りる頃にはコウは尻が痛くなっていた。
馬車を降りると、少女は表通りから、1本、脇道に入って、更にそこから迷路の様な路地へと入っていった。
道幅3メートル程度の道は左右を高さ10メートル近い壁に挟まれている。ゴミこそ捨てられていないものの、石畳ではなく、土はむき出しで、陰湿な雰囲気である。
所々に生えている雑草が陰湿さを強調していた。
「こんな所に本屋があるの?」
騙されたかと思いコウは聞いた。無論、騙されていたとしてもコウに対抗手段は無いのだが。
そして、少女が立ち止まったはコウが聞いた直後だった。
「ここよ。」
少女の横には煤けた家の裏口のような扉があった。
これが本屋か? これはいよいよ騙されたか? でも、この子がそんなことする様には思えないだよな。
そんなコウの心境を知るよしも無い少女は
「ここで待ってて。」
と言った。そして、少女はコウの回答は聞かずに扉を開けて、中へ入っていった。
「え、あ、ちょっと!」
コウは慌てて少女を追いかけたのだが、扉が重たくて開けられなかった。
「え…… なにこれ。」
コウが、体重をかけようともその扉はびくともしなかったのである。
結局コウは諦めて大人しく少女を待つことにした。今、ここを離れてもどうせ言葉が通じず、通行許可証とやらも持ち合わせていない以上、事態が好転するとは思えなかったのである。
少女が出てきたのは10分ほど経ってからだった。
扉の開く音を聞いてコウは振り向いた。すると、少女は普通に扉を開けて出てくるところだった。
「買えたの?」
どう開けたのかと聞きたい所だったが、鍵がかかっていたのだろうと勝手に結論付けて、聞かなかった。
「ええ、買えたわ。」
少女は懐から1冊の本を出した。大きさは文庫本程度だが革表紙で重厚な見た目をしている。
「何の本なの?」
コウは興味本位で聞いた。
「え? これ? うん……まあ……ね。」
少女は答えなかった。
余りにも分かりやすい誤魔化し方だった。しかし、別に深く追求する気も無かったコウはその回答を気にすることは無かった。
少女が歩き出そうとした瞬間、少女の背後に何かがぶつかった。少女と同じか少し小さいくらいの塊だ。
少女の小さな「あっ。」という声を聞いてコウが振り向くと、まさに少女が倒れようとしているところだった。
「あっ!」
コウは少女に駆け寄った。
倒れかけの少女を支えて、コウは言った。
「大丈夫?」
少女はコウの腕から起き上がりながら言った。
「え、ええ、大丈夫よ。 ……それより本が。」
はっと、コウが辺りを見回すと、一人の少年が少女の本を持って何処かへ駆けていくところだった。