009 齟齬
巨大な敵をものともしないライザとグラウに触発され、自分も参戦しようと駆け出してはみたが、ミミズの暴れる音と二人の怒号は戦意を挫くには十分な圧がある。
気を抜くと足が竦みかけるが、腿を拳で叩いて森を走る。
俺が何をしても、役に立たないかも知れない。
下手をすれば、邪魔にしかならないかも。
頭では理解しているのだけれど、自分一人だけが逃げ隠れしている最中に、もし取り返しのつかない何事かが起こったら――
そう考えてしまうと、傍観者の立場でいることはできそうもない。
ミミズと二人が対峙している場所の周辺は木々が薙ぎ倒されていた。
なので俺は、苔生した大岩の上に攀じ登って身を伏せ、その体勢で戦闘の推移を窺う。
「うぉおおおおおおおおおおぉおおっ!」
グラウが咆哮と共に繰り出した重量感のある斬撃は、ミミズの黒い表皮を裂いて赤黒く粘った体液を飛び散らせている。
雑な拵えの安い山刀にしか見えなかったが、中々どうしてグラウの得物は切れ味が鋭いらしい。
「ふっ!」
ライザが短く強く吐いた息に、気合の声が混ざる。
長剣の切先がミミズの体に突き立てられるも、筋力が足りないのか刺さりが浅い。
効果の薄さを察したのか、ライザは体重をかけて傷口の深度を深め、ミミズの胴体を蹴って汁塗れの剣を引き抜く。
ミミズの巨体を挟んでグラウは右側、ライザは左側から攻撃を仕掛けているようだ。
巨体のせいで反応が鈍っているのか、ミミズはロクに避けることもできずに、ライザとグラウの波状攻撃を片っ端から食らい続けている。
しかしながら、相手が声を出さず表情もないせいで、攻撃が効いているのかどうかイマイチ判断できない。
擡げた頭をフラつかせていたミミズが、また動きを止める。
恐らくこれが、攻撃に移る前の予備動作だ。
「攻撃、くるぞっ!」
声を張り上げての警告の途中、大鎌を振るうような軌道でもって、ミミズの巨体の前方部が半円を描いた。
素早く察知したライザは飛び退いて避けたが、自分も攻撃のタイミングに入っていたグラウは反応が遅れ、巨人の棍棒の如きミミズの胴体に撥ね飛ばされた。
宙を舞わされた豚人の巨躯は、四ケン(八メートル)ほど離れた場所の木立に衝突し、幹を盛大にひしゃげさせる。
「グラウッ!」
「大丈夫かっ!」
ライザと俺の声が同時に発せられるが、グラウからの応答はない。
ヴゥン、ヴゥン――と、低く短い音がどこからか響く。
数秒後、地面に伸びて動きを停めていたミミズは再び頭部をゆらゆらと持ち上げ、それを動かないグラウの方へと向ける。
まずい、と思うと同時に右手が半自動的に動き、ミミズに向かって麻痺毒のナイフを立て続けに放っていた。
ナイフは三本とも、文句ナシの速度と角度で投げることができた。
なのにその全てが弾かれた、という事実は少なからぬ衝撃でもって心を抉ってくる。
傷一つ付けられないどころか、コチラに注意を引きつけることすらできない。
ミミズの防御力が高いというのはあるが、ライザもグラウもダメージを与えてはいた。
腕力か、技術か、重量か――俺に足りないものは何だ。
頭に血が上って、もう一度ミミズへの投擲を繰り返しそうになるが、同じ距離からの同じ攻撃では同じ結果にしかならない。
そう思い至れる程度に落ち着いた俺は、ランプ用の小さな油壺の蓋を開け、そこに包帯用の布を捻じ込む作業に入る。
この用途に使うには壺が頑丈すぎるのが気になるが、とりあえずやるだけやってみるとしよう。
「離れろっ、ライザァアアアッ!」
早口に怒鳴り、俺は火の点いた布を挿し入れた油壺をミミズの後頭部――だと思しき辺りを狙って叩きつける。
二つ続けて投げた壺は、上手い具合に割れて中身を飛び散らせた。
だが、投げる時に勢いを付けすぎたせいか、導火線代わりにした布の火が消えてしまったようで、俺の攻撃は単にミミズにヌルヌル感をプラスしただけに終わる。
ミミズは余裕たっぷりに見える緩慢な動作で、動けないままのグラウとの距離を詰める。
ライザが再び斬りかかるが、二度三度と突き入れられる刃に反応することなく、ミミズはターゲットに定めたらしいグラウに向かっていく。
焦りのせいで強張った指先でどうにかナイフの刀身に包帯を厚く巻き、そこに携帯発火具で火を点ける。
大丈夫だ、的はあんなに広い。
両目を閉じていようと、余裕で当たる。
外す方が難しいとか、そんなレベル。
そう自分に言い聞かせて、緊張で跳ねる心臓を宥める。
そして、大きく息を吐いてから肩の力を抜いて、燃え盛るナイフを放った。
こちらの動きを察知したライザは、すぐさまミミズとの間合いを大きく空ける。
ミミズの背面に達したナイフは、刺さりはしなかったが撒き散らした油に狙い通り引火し、広範囲を炎で包んだ。
しかしミミズは何の反応も見せず、まだ動けないでいるグラウの眼前へと涎に塗れた口を突き出す。
「ダメだっ、ここは一旦逃げ――」
「待つんだリム、奴の動きがおかしい」
大岩から滑り降り、戦略的撤退を進言した俺を制止し、ライザがミミズを指差す。
見れば、さっきよりも炎を纏った範囲が拡大しているミミズが、不規則に身を捩りながら、グラウに顔を近づけたり話したりと珍妙な動きをしている。
頭は悪そうだが、本能的な反応として火を消そうと地面を転がる位してもオカシくはないだろうに、コイツは一体何をしているのか。
「実は効いてない……ってのはないよな?」
「私やグラウの斬撃より、よっぽど深手を与えてると思うが」
「ぐぁ、はっ――べふっ、おぅふっ、うぅ……う? おぉお?」
ライザとそんな言葉を交わしていると、咳き込みながら意識を取り戻したらしいグラウが、目の前の炎上ミミズに気付いて驚愕の声を弱々しく上げる。
逃げようとするのを手助けするつもりか、ライザがグラウの方へと駆け出す。
俺も行くべきか――と足を踏み出しかけたところで、無視できない違和感を察知する。
さっきから何度か耳にした、聞き慣れない低音の響き。
それがまた、どこからともなく聴こえてきたような。
『検訝の成否を分ける鍵は、不自然と違和感を掬い上げられるかどうか』
教官のカイヤットが、教練中に何度も繰り返して語っていた言葉だ。
こちらの目的を気付かれないよう、ミミズの不規則な動きに翻弄されているフリをしながら、耳を澄ましつつ目も凝らして音の発生源を探る。
どこかに何か、引っかかるモノはないか。
周囲に溶け込めていない、そんなモノがありはしないか。
「ん……?」
忙しく移動させていた視界の端に、軽い違和感が残された。
凝視しないように注意を払い、そこに何があるのか確認してみる。
古木に生えている、宿木の類であろう緑の球体だ。
この辺りの森ではよく見かける、のだが――密集して生えすぎていないか。
変な色の煙を出しながら燃えているミミズの背中を見つつ、意識を古木の方へと集中させる。
ヴイイイィン、ヴイイイィン――
低い怪音の出所は、やはりここだ。
俺は視線をミミズに合わせたまま、宿木の密集地の中央を狙って二本のナイフを投げる。
塗ってあるのは、致死性は低いが即効性の高い、呼吸困難を招く毒だ。
「なっ? ――う、だぁああっ!」
予期せぬ攻撃に慌てふためく男の声と、木の葉を乱雑に揺らす音が生じる。
数秒後、暗緑色に染められた服で全身を固め、覆面をかぶった何者かが落下してきた。
俺はそいつの正体を確かめようと、落下地点へと小走りで向かう。
やや小柄な体型は少年か女性を思わせたが、僅かに露出された肌の色から緑人だというのが分かる。
「がっ――かっ――」
毒が回って息が詰まりかけているのか、緑人は喉の周囲を両手で掻き毟りながら足をバタつかせている。
その手を掴み、ロープで縛り上げて拘束した後、開いたままの口に解毒剤を放り込んだ。
一仕事終えた感じでフッと強く息を吐いたと同時に、ドタバタとやかましい戦闘の騒音の中に驟雨が地面を打つのに似た音が混ざる。
振り向いてそちらを見ると、激しくのたうっているミミズから頭部が消え去っていて、口ではなく傷口から赤黒い体液を盛大に撒き散らしていた。