022 伝説
今回から新章になります。
時間が過去に飛んでいるので御注意を。
いつの間にか、空が随分と高い。
遠くから降る音に反応し、そちらに視線を巡らせる。
雲のない青色の中に、いくつかの黒い影がゆっくりと飛んで行くのが見えた。
目を凝らすと、独特のシルエットが確認できた――あれは、螺旋鴉。
らせん状に捻れた嘴を持ち、翼を広げると普通のカラスより五倍近く大きい。
「山火事、かな」
この新生物には謎が多いが、火と煙を好む習性は知られていた。
普段の生息地は分からないのに、大火事が発生するとどこからともなく現れる。
市街地の火災にも反応して姿を見せ、群れを成して飛び回ることもある。
現場上空を旋廻しながら感情を逆撫でする金属的な鳴き声を喚くせいで、被災者が逆上して螺旋鴉を射落とそうとするケースも時々あるらしい。
「煙は見えませんが」
独り言のつもりだったが、背後から返答があった。
振り返れば、私のレゾナも空を見上げている。
「……目的地は、この辺りだったな?」
「正確な場所は不明ですが、おおよそ間違いないかと」
口調は丁寧だが、そこに私への敬意は込められていない。
別に、慇懃無礼というのでもない。
王族である私に対する物言いとしては、重要な何かが欠けているのは確かだ。
しかし、無駄に機嫌を取られたりするよりは、適度な距離を置かれた方が疲れなくていい。
「しかし、コロナ東方の森と言われても、どこも森ばかりではないか」
「簡単に特定できるのならば、今この場にいる事もなかったでしょう」
正論ではあるが身も蓋もない言葉に、苦味の強い溜息が漏れる。
この掴みどころのない男――ディスターとの旅を始めて、もう半年が過ぎた。
それだけの時間を共にしているのに、まだまだ知らない事ばかりだ。
長めの黒髪は旅の疲れを感じさせない艶やかさで、整った精悍な顔には黒い瞳が光っている。
材質不明のスケイルメイルを身に着け、ハルバードという長柄の武器を手にしている。
年の頃は二十代の前半から三十手前、といった辺りだが実年齢はわからない。
「次はあの森を探すとしよう」
「随分と広そうですが?」
「面倒になったらお前が焼き払ってくれ、ディスター」
「仰せのままに、姫様」
人の悪い笑顔で平然と返してくる、この優男にはそれが可能だ。
私と行動を共にしているディスターは、人間ではない。
求綻者として旅を続けるのを義務付けられた、レウスティ連合王国の第二王女たる私、ライザことエリザベート・ド・レウスティのレゾナであり、伝説上の存在とされている竜の化身だ。
数ヶ月前、求綻者養成所での訓練課程を終了した私は、その祝賀会を開催するという叔父――父であるフィリップ・ド・レウスティ四世の弟で、バレガタン公王のシャルル・ド・レウスティ二世に招かれ、公王の別荘があるルグダンの街に向かった。
公王が個人的に開くパーティということで、王族からの出席者は私と異母妹の第三王女ヴァレリーのみ、参加者も親族や旧知の貴族が主な気楽な宴席だ。
普通こういった催しには、何かしらの政治的な意図が絡む。
しかし公王は、私が無事に求綻者の資格を得たことを単純に喜んでくれていた。
諸般の事情に翻弄されて現状を受け入れるしかない、そんな立場の自分としては素直に喜べない部分も多かったのだが、叔父の優しさはささくれ立った心に沁みた。
ルグダンでの滞在を終えた私は、少数の護衛だけを連れてジューラ山へと登ってみた。
ジューラ山があるのは、バレガタンと聖ソニア教団領を隔てている山岳地帯だ。
レウスティ領内で最も峻険なこの山には、かつて竜が棲んでいたとの言い伝えがある。
それを信じたわけではないが、何となくこの場所でレゾナとの出会いがありそうな、そんな予感があったのは確かだ。
そして、その予感は的中する。
山の中腹での休憩中、護衛の兵たちが付近の安全確認に出払った僅かな時間。
道端の岩に腰掛けていた私の隣に、見知らぬ男がいつの間にか佇んでいた。
気付いた瞬間は、驚きよりも戸惑いが圧勝して声も出なかった。
明らかな不審者との遭遇だし、私は剣を抜くか大声を出すべきだったのだろう。
だが、そのどちらも選べなかった――隣にこの男がいる状況が、とても自然なものに感じられたから。
「……貴方は、何」
「誰、と訊かないのですね」
「だって、人ではないのでしょう?」
私の問いに、男はいかにも楽しげに笑った。
そして改めて向き直り、彫像めいた真顔を向けてこう告げる。
「我が名はディスター、世界の始まりと共に在るもの」
初対面での名乗りは、聞く者に失笑をもたらすであろう大仰さだった。
それを私が笑えなかったのは、ディスターの言葉が真実だと分かったからだ。
彼の言う『世界の始まりと共に在るもの』とは、竜を表現する古い言葉。
つまり、こちらに柔和な表情を向けているのは、伝説上の生物で――私のレゾナ。
ありえない認識が、微塵の違和感もなく心身に浸透していった。
後日、養成所で一緒だった少年――リム・ローゼンストックに共鳴の瞬間について訊かれたが、この感覚を説明するのは本当に難しかった。
考えあぐねて「とにかく一緒にいなければ、としか思えなかった」と答えたが、これは共鳴が起きたと理解した後の心境であって、その瞬間の感情とは少し違う。
ともあれディスターは私のレゾナとなり、ひと悶着では済まない紆余曲折を経たものの、求綻者に任命されて旅立つこととなった。
通常、王族や貴族出身の求綻者が検訝の旅に出る時は、大々的なお祭り騒ぎになるのが慣例だ。
なのに私が旅立つ時には、教官が三人とリムの他に数人の寂しい見送りだった。
竜をレゾナにしたという前例のない事態が、各方面に警戒心を抱かせた結果なのだろう――そう考えているのだが、今に至るも正解は教えてもらえていない。
異例と特例尽くしではあったが、とにかく私は求綻者となった。
検訝の旅の中で見る世界は、誰かの話や書物の中にあった、私の知っているものとは異なっていた。
かの綻びが影響してのことなのかどうか、それは分からない。
いくつかの解訝を達成したものの、私の心に居座る“ある想念”は消えてくれなかった。
――この世界は、やはり壊れかけているのではないか。




