パブロフの犬のように
目が覚めたとき、周囲はぼんやりとしていた。
ひどく身体がけだるく、視界が不明瞭な感じがする。幾度か瞬きして、わたしは現状を認識しようとした。
身体のあちこちが痛む。
特に、後ろ手に縛られた両腕と、椅子につけたお尻が痛い。
椅子が硬いせいもあるが、もともと肉付きがよくないからだ。長時間、どこかに腰を落としていると、いつも鈍い痛みをおぼえる。
「ここは……?」
ゆるく首を傾げると、頭の上にのせられたものがずれるような気がした。
なんだろう、これ……。
まるで、ヘルメットでもつけているみたいだ。
けれど、そのヘルメットみたいなものには色とりどりのコードがついていて、わたしの肩口に流れ落ちている。コードは、そのまま床に伸びて、四角い機械みたいなものに繋がっていた。
――ようやく、現状が認識できるようになってくる。
わたしの両足は開くようにして、椅子の脚に縛り付けられていた。スカートは膝下まであるから中は見えないが、こんなに大きく脚を開くような格好をすることは、まずない。一瞬で、目が冴える。
そこは、薄暗い研究室のような場所だった。
いや、研究所だろうか。
長机や、いくつかの椅子が整列されていて、さまざまな機械が置いてある。
左の窓から見える外は、真っ暗だ。夜なのかもしれない。
監視カメラのようなものが右の壁面にあって、この研究所の内外のようすを映している。その映像を見て、わたしは目を剥いた。
「ランゲン、ベルグ……研究所?」
ここは、先週、大学の友人たちと見学にきたばかりの研究施設だ。
わたしの通っている大学は、地元ではちょっと名の知られた名門大学だ。
ノーベル科学賞を頂いた有名な学者も多く輩出し、わたし自身、将来は研究者になりたいと思っていた。教授からも推薦をもらい、卒業後の進路のひとつとして、この研究施設も考えていたくらいだ。
――だからこそ、監視カメラに映された施設内のようすにも、既視感をおぼえたのだが。
「え……っ、なんで……」
頭が混乱して、震える唇から吐息が漏れた。
ふいに、扉の脇にある赤色のロック画面が消えて、緑色の合図をともす。直後、軽い音と共に自動扉が横に動いた。
そこに立っていたのは、わたしのよく知る人物だった。
誰もが見惚れるような甘い顔立ち。背がとても高い。整った鼻梁、抜けるように白い肌、蜜色の髪に、紺青の瞳。白衣を着ているのに、身体は鍛えられているのか、軟弱な印象はなかった。
彼はすぐにわたしの元まで移動してくると、わたしの足元に膝をつく。
「クラウス……っ」
「目覚めたんだね、愛しいひと。拘束して、すまないと思っている。だって、きみが僕を遠ざけようとするから。こんな乱暴な手段をとるしかなかったんだ」
そのまま、顔が近づいてきそうになる。
わたしは小さく悲鳴をあげて、身体をねじって彼を避けようとした。だが、椅子に縛り付けられていたら、逃げるにも限界がある。
彼の唇が、わたしのこめかみにふれるのを感じた。熱い吐息がかかる。恐怖心が込みあげてきて、涙があふれていく。
「あ……、な……なんで?」
疑問符が、脳内で飛び交う。
どうしてこんな状況に陥っているのか、さっぱりわからない。そもそも、クラウスはわたしと同じ大学に通っている青年だ。同じ講義で、たまたま会話をする機会も数回はあったけれど、ただそれだけ。特別仲がいいというわけではない。
――彼は、学内では有名な存在だった。資産家の家に生まれ、その年でプール付きの一軒家も与えられているという。交友関係もひろく、その類まれな容姿もあって、彼の周りにはつねに人がいた。持って生まれたものだけではなく、彼自身も努力を惜しまない性格で、図書館でひとりで勉強しているところを、わたしも何度か目にしたことがあるくらいだ。
成績も優秀で、生徒たちの羨望のまとになっている。人気者にならないはずがない。いつも地味な格好をして、できるだけ目立たずに生きていたわたしとは対照的だ。
普段の接点もろくにないというのに、どうして……。
首筋を撫でられ、背筋に悪寒のような痺れが走る。奥歯がカタカタ鳴っている。上の歯と下の歯が小刻みに震えて重なり、不快な音を放つ。
こんな状況なのに、クラウスは穏やかな笑みを浮かべている。
「ここはね、僕の家が出資している研究所なんだ。僕は、フリーパスで入れる。きみの家からも近いよね。ご両親は、しばらくアラスカに旅行に行っているらしいね」
……何故、そんなことを知っているのだろう。
わたしは、仲のよい友人の数人にしかそれを話していない。フェイスブックなどもしていないから、知られているはずがないのに。
疑問が伝わったのか、クラウスはにっこりと微笑んだ。
そして、彼がリモコンらしきものをポケットから取り出して、操作する。壁に設置されていたモニターの画面が一気に切り替わった。
そこに映っていたのは、可愛らしいシーツやカーテンのある部屋だ。電気がついたままになっているので、夜でも室内がよく見える。
友達とアメリカに旅行に行ったときに買ったネズミのぬいぐるみが置いてある棚。分厚い専門書。机の上にあるパソコンには、書き途中の論文が照らされてある。
わたしの部屋だった。
どこから映されているのだろう。天井の角や、床の一点、パソコンと同じ視点上にあるものまである。
クラウスがリモコンを操作すると、そのパソコンの画面がアップになった。
パソコン画面にある末尾の文字は、dddddddddddddddddで途切れている。
――そうだ、思い出した。
両親のいない静かな家で、ひとりで論文の続きを書いていた。
そのときは脳内がひどくクリアな感じがして、いくらでもタイピングできるような気がしていた。だから、玄関で誰かが慣らしていた呼び鈴が、わずらわしく聞こえて――。
苛立ちのあまり、キーボードのボタンを長く押してしまった。
脱いでいた靴を適当に履きなおし、二階から乱暴な足音をたてながら玄関扉まで向かった。どうせ、親が頼んでいた宅配か何かだろうと思った。けれど、扉を開けたときに目の前にいたのは、目を見張るようなきれいな顔で……。そうだ、そのときに会ったのは、目の前にいるクラウスだった。
何だか、色んな衝撃を受けていた。
何故、すぐに思い出せなかったんだろう。あまりにショックで、一部の記憶が飛んでいたのだろうか?
クラウスがわたしの前で腰を落とし、わたしの頬を両手で包みこむ。彼の横顔は、明るいモニターの色で照らされている。その映像に映されているのは、わたしの部屋だ。ひどく現実感のない光景に、しばしのあいだ、呆然となる。
「きみは、いつも僕を避けるようにしていたよね」
「避ける……?」
そもそも、会話もろくにしたことがない相手に。
緊張で、口内が渇いている。冷たい汗が湧いて、まとっていた服の脇がしめっているのを感じた。気持ち悪い。服を着替えたい。
目の前にいる男の発言が、まったく理解できない。
「わかっているよ。きみは慎ましいから、目立つのが嫌なだけだ。だから、僕が話しかけると、周囲を気にするように視線を泳がせるんだろう? そして、早々に話を切り上げて、立ち去ろうとする。――でも、僕は気にしない。僕のまわりの奴らが邪魔なだけだよね。僕のことを嫌っているわけがない」
何を……言っているのか。
「きみと僕は両想いなのに、周囲の奴らのせいで、僕たちは引き離されてしまう。こういうのって悲しいことだよね。ねえ、そう思うだろう? だから、僕は考えたんだ。僕らが人前でイチャイチャするようになれば、誰も何も言わなくなるだろうって。『また、あいつらがやっているよ』と思うようになればいい。――でも、きみは恥ずかしがり屋さんだから、それもできないよね。だ・か・ら、ね? 僕の研究所で、いましている最先端の研究なんだけど、頭に電極をつけて、恥ずかしいと思う感情を消せばいいんじゃないかなって」
「な、にを……?」
クラウスの瞳が、陶然としている。空に溶けてしまいそうな青色だ。普段だったら、うっとりと魅入ってしまったかもしれない。けれど、いまは得体が知れない相手が目の前にいるような恐怖が込みあげる。
「感情は電気信号だから、僕を見るたびに『快感』を感じるようにしておけばいいんだって気づいたんだ。しばらくのあいだ、僕のすがたや写真をみるたびに、性的に興奮するように頭をいじってしまえばいいかなって」
そうすれば、コードを外されても強制的に相手を好きになってしまう。まるで、パブロフの犬のように。
「や、やぁ……っ、だれか……! 誰か、たすけて……っ!」
歯の根が噛みあわない。わたしは必死に、手足を動かした。だが、硬い紐みたいなもので拘束されているせいで、動くこともできない。
ぼろぼろと、涙があふれていく。
視界が涙で歪んだ。
こわい。
どうして、わたしがこんな目に?
こんなことをされるほど、悪いことをしたのか。
彼が蕩けるような笑みを浮かべて、近づいてくる。わたしが開いた脚のすきまに、彼の膝が乗り上げてきた。お気に入りの花柄のスカートが、硬い椅子と彼の膝のあいだで、ぐしゃりと歪む。
涙にぬれた頬を舐められた。
こわい。
わけがわからない。
ガタガタ震えるわたしの肩を、慈しむようなしぐさで撫でて、クラウスは優しく笑う。
「――大丈夫、僕がきみを殺すわけがない。ただ、ちょっと頭をいじるだけだよ。たとえ、きみが生きた人形になっても変わらず慈しむから。ね?」
◇ ◆ ◇
わたしは大学の構内で、待ち合わせをしている相手を見つけた。明るい陽光が彼の蜜色の髪をまばゆく照らしている。
彼のすがたを目にしただけで胸が高鳴り、どうにかなってしまいそうなほどの喜びが込み上げてくる。
「クラウス……っ」
わたしは、彼のもとへ駆け寄った。
彼は構内のベンチに腰掛けていた。分厚い本を読んでいたらしく、わたしに気付いて顔をあげた。その表情がほころぶ。
「クラウス、会いたかった……!」
「僕も、会いたかったよ」
耐えきれず、わたしは彼の胸に飛び込んだ。
柑橘系の良い香りが鼻腔をくすぐる。あたたかな人肌の温度。
ああ、どうして、彼といるとこんなに胸がときめいてしまうのだろう! 好きすぎて、つらいくらいだ。このまま死ねるのではないかというほど、気持ちいい。
クラウスが抱きしめかえしてくれる。
「まさか、こんなに情熱的になってしまうなんて……予想していたより、ずっと良い効果だ」
「え……?」
「何でもない」
ただの呟きだったらしく、彼は苦笑をして首を振った。
わたしは首を傾げつつ、彼の言葉の内容を考えていた。情熱的になってしまうなんて……とは、わたしの性格の話だろう。確かに、これまでのわたしは、どちらかというと大人しい性格だったはずだ。
わたしは顎に手をあてて、考えながら話しはじめた。
「ほら、一週間前の事故のこと。覚えているでしょう?」
「忘れるはずがないよ。だって、僕たちが深く知りあえたきっかけだからね」
そう穏やかな笑みで言われて、無意識のうちにわたしの頬が熱くなる。
「わたし、記憶がないんだけど……家の前の車道に倒れていたらしいのよね。宅配がきたと思ったら泥棒だったみたいで、相手に何かで気絶させられて。気づいたら、相手が逃げようとしていたから、外に追って走って出たら、対向車に引かれてしまったみたいで……?」
みたい、というのは、記憶がはっきりしていないせいだ。
ショックで、記憶が一部飛んでしまっているらしい。犯人の供述で、そうだったとわかるくらいだ。
「そのときに、たまたま通りかかったクラウスが、わたしを助けてくれたのでしょう? それからも心配して、毎日のようにお見舞いにきてくれて……とても優しい人だなって」
紅潮した頬が恥ずかしくて、つい俯いてしまう。
そう、彼の優しさに惚れたといってもいい。
しかも、彼の家が経営している病院だったらしく、個室をあたえられて、手厚い看護までされてしまった。
両親は恐縮していたが、「同じ大学の友人が苦しんでいるところを見過ごせなかったんです」とクラウスに言われて、いたく感動したらしい。「なんて素晴らしい青年なんだ」と、父親なんかは彼を誉めてばかりだ。
「わたし、あの事件のショックなのか、性格が前より明るくなったみたいなの。そういうのって、たまにあるらしいじゃない? 殴られた衝撃とか、輸血したせいで、性格が前と変わってしまうって……そういうのかも」
わたしがそう言うと、クラウスは肩をすくめた。
「僕に対して大胆になってくれるのは嬉しいけれど、社交的になるのはあまり歓迎できないな。きみは魅力的だから、他の男たちをたぶらかせてしまいそうだ」
「も、もう……、クラウスってば。そんなこと、あるはずがないのに」
まぶしいほどの容姿の彼と違って、わたしが地味であることは自覚している。最近は、彼とのデートもあるから、おしゃれに気をつかっているが、いつ魅力的な彼が他の女性に取られてしまうだろうか、と気が気ではない。
彼は困っている相手を放っておけないような性格だから、いまはわたしの相手をしてくれているだけなのだ。それを恋だと勘違いしているだけ。――たまに、そんなふうに自虐してしまいそうになることもある。
クラウスの指がわたしの首筋を撫でると、ぞくぞくとした快感が背筋を駆けぬけた。声を漏らしそうになって、唇を引き結ぶ。
「……っ」
どうして、こんなに気持ちいいんだろう。
彼とひとつになりたくて仕方がない。
講義のあいだも、考えているのは彼との淫らな情事ばかりだ。わたしは、こんなにふしだらな娘だっただろうか。
ああ、でも、これが恋だというなら、素直に受け入れるしかない。
「クラウス……抱いてほしいの」
抱きしめられているだけでもうれしいけれど、もっと彼を感じていたい。わたしが熱をおびた目で訴えると、彼は満足げに笑った。
「もちろん、幾らでも。――ふたりきりになれる場所に行こうか。ここは、やはり他人の目があるからね?」
周囲から、「お熱いねえ!」と、野次のような声があがる。口笛を吹いている男もいた。こちらを眺めている女たちは、みんな悔しそうな表情をしている。
人々の視線が向いていることにも、わたしは、全然気づかなかった。それくらい、クラウスに夢中でいたことに気付いて、羞恥心が込みあげてくる。けれど、彼の嬉しそうな表情を見つめて、「まあ、別にいいか……」とも思い直した。
――ああ、もう。
本当に、幸せすぎる。