・後編
昭和20年8月13日、昼。
軍需工場はちょうど休憩時間だった。
「それにしても、大丈夫かねえ」
「大丈夫って?」
「ほら、広島と長崎に新型爆弾が落ちたっていうだろ? あんなのが東京に落ちてきたらどうなるか、ってね」
「確かにねえ。なんでも原子爆弾とかいうそうじゃないか」
「まだ広島や長崎での状況も詳しい話が入ってきていない、っていうじゃないか」
「そうそう、それで変な噂を聞いたんだけどね」
「変な噂?」
「うん。なんでも広島でおかしな男を見かけたっていうんだ」
「おかしな男?」
「うん。なんでも何やら演説をやっていたとかいうだけどね」
それを聞いていた義明は、
「…おばさん、ちょっといいですか?」
その話に割って入った。
「あれ、どうしたんだい?」
「いえ、ちょっと気になったもので。その男ってどういった人物なんですか?」
「さあねえ。私もちょうど仕事で関西のほうに行っていたという知り合いに聞いたものだから」
「あっちも大変だったでしょう」
「そうだね。さすがに仕事にならないっていうんで、帰ろうとしたんだけどなかなか電切符が取れなくってつい2~3日前に帰ってきたんだけどね」
「それで、なんでその知り合いの人が…」
「…そうだったね。なんでも同じ仕事仲間から聞いた話っていうんだけれど、広島にその原子爆弾ってのが落ちてから大混乱だったらしいけれど、その次の日にはなんか広島の人に向かって今の政府がだらしないからこんなことになるんだ、とかなんとか言っていたらしいんだよ」
「まさか…」
もしかしてその男が父の知り合いである軍人から聞いた男と同じ男なのだろうか。
「どうしたんだい?」
義明の様子をみてその女性が尋ねた。
「あ、いえ、何でもないです。…それで、その男はどうしたんですか?」
「それが、急に姿を消してしまったらしいんだよ」
「姿を消した?」
「実は、それでちょっと気になったことがあったんだけど」
「気になったこと?」
「つい2~3日前の夜だったかなあ、何やら変な男がこの辺の道を歩いていたんだ」
「変な男?」
「うん。ほら、空襲なんかの危険があるから今はあまり夜は出歩かないだろう? でも、どうしても用事があって近くに行った帰り道に見かけたんだよ」
「それで、その男の人相とかはわかりますか?」
「いや、それがねえ。ちょっと気味が悪くて近寄れなかったんだよ。だからチラッとだけしか見ていないからよくわからないんだよ」
「そうですか…」
「それでこんな話もあったんだよ」
「…どんな話ですか?」
「知り合いに軍人さんがいるんだけれどね。その知り合いの軍人さんも私と同じ晩にその男を見かけたっていうんだよ」
「なんですって?」
「さすがにその知り合いも気になってその男に話しかけたっていうんだけれど、驚いたんだって」
「驚いた?」
「ほら、9年前に陸軍のクーデターがあっただろ。あのときに陸軍に来た男とよく人相が似ているっていうんだ」
「なんですって?」
9年前のクーデター事件――後の世でいう「二・二六事件」だが――の時は義明はまだ10歳の子供だったが、なんとなく記憶に残っている。そしてその事件についてはのちに両親から話を聞いていたが、その時にも「あの男」がかかわっていたのではないか、というのが、彼の母親である智佐登が言っていたが。
「その知り合いもまさかと思っていろいろと話しかけてみたんだけど、向こうの答え方も要領を得ないものだったらしいんだけどね。ただ、なんかおかしなことを言っていたっていうんだ」
「おかしなこと?」
「なんでも数日前に新型爆弾が落ちたばっかりの広島にいたとか、長崎にいたとか…」
「まさか…」
「そうだよね。あんなことがあった広島や長崎から無傷で帰ってこられる、なんてことはないよね」
その女性はそういったが、義明は別のことを考えていた。
「あの男」――阿那冥土に関しては母親の智佐登から話を聞いていたが、もしかしてまた日本に現れたのではないか、と。
ここ数年はドイツにいたらしいが、4月の終わりにそのドイツが降伏し、そのドイツの総統であったヒトラーが自殺をしてから姿を消していたこと、そして8月になって広島と長崎に姿を現した、となれば時期的にも納得がいく。
そして3日前に義明のところにやってきた軍人とその女性の知り合いという軍人の言っていることに共通点が多いこと。それだけでも十分な状況証拠だ。
「…まさか、ヤツが東京に来たのか。だとしたら…」
「おい、どうしたんだい? 防人君」
「いや、なんでもないです。すみませんでした」
義明はそういうとその女性に一例をする。
そしてちょうど休憩時間が終わったので義明は持ち場に戻った。
*
「ただいま」
「おかえり」
その夜、工場から義明が戻ると智佐登が義明を出迎えた。
「母さん」
「どうしたの、いきなり?」
「…アイツが、ここに来ているらしい」
「アイツ、って…まさか?」
「ああ、そうらしいんだ」
そして義明は昼間の話をかいつまんで聞かせる。
「そう、そんなことが…」
「あいつが、阿那冥土がドイツにいたって話だろ? そして4月の終わりにヒトラーが死ぬと同時にドイツが降伏してから行方知れずになって、最近日本に現れた、と言っても時間的にはあるし、それにちょっと気になることがあるんだよな」
「気になること?」
「母さんが阿那冥土と戦ったのって今から22年前に大震災があったときだろ?」
「ええ、確かにそうだけど」
「それで曾祖父さんが戦ったのが80年前の幕末、日本が開国か攘夷かでもめていたころで、祖父さんが戦ったのが40年前、日露戦争の講和を巡って焼き討ち事件が起こっていた時。そして今は戦争中で広島と長崎に原子爆弾が落ちた…」
「それがどうかしたの?」
「なんかヤツは日本が混乱に陥ってる時に現れている気がするんだ」
「…確かに言われてみればそうだけれど、それじゃなぜドイツに…」
「祖父さんが言うにはフランス革命のころのフランスや、阿片戦争の頃に清国にも現れていたって噂があるんだろ? それはその時にフランスや清国、ドイツが混乱していたってことじゃないか?」
「確かにね」
「そうでなくても今年に入って空襲が激しくなって、日本は毎日のように混乱しているんだ・そこを狙ってヤツが出てきたとしても不思議じゃない」
「…それで義明はどうしようって言うの?」
「…オレが、アイツと戦わなければならない時が来た、ってことだよ」
「そういうと思っていたわ」
*
昭和20年8月14日。
その日、義明は工場を休むと、神剣を片手に家を出た。
別にどこへ行こうという目的があったわけでもないのだが、昨日の話が気になっていたのだ。
しかし、なかなかこれといった情報はつかめなかった。
ほとんどの人が阿那冥土と思われる男をほんの一瞬見ただけで、しかも近寄りがたい雰囲気を感じていたというのだから。
それにこれまでも祖父や母は決して自分が何の目的でその男を一部の者にしか話していないのだ。変に深入りすると怪しまれてしまう。
そうこうしているうちに夜になった。
一日歩いたがほとんど手がかりになるようなことはなかった。
「…帰るか」
そして義明が帰ろうとしたとき、義明の脇を何者かが通り過ぎた。
「…!」
なぜかはわからなかった。ただ、義明は何やら不思議な「気」を感じたのだ・
義明は後ろを振り向くとその人物の後をつける。
どのくらい歩いただろうか、義明は不意に立ち止まった。
なぜかはわからなかった。もちろん話に聞いただけで、顔なども見たことはない。しかし、今目の前を歩いている人物が目指す相手である、という確信があったのだった。
「…待て、阿那冥土!」
義明がその男に向かって叫ぶ。
「…なぜ、私の名を知っている」
男が義明のほうを振り向いていった。
そう、義明の目の前に立っていた男は間違いなく阿那冥土だった。
「誰だ、お前は?」
「防人…義明」
「防人だと? まさかお前…」
「そうだよ、防人智佐登の息子だよ」
「そうか、あの小娘に息子がいたのか。そう言われれば、お前は私があった頃の防人忠孝に似ているな」
「そう言われるとありがたいな。それより、おまえ、いったいドイツで何をやっていたんだ。広島や長崎で何をやっていたんだ!」
「…何のことだ?」
「とぼけるな。22年前に、お袋がお前と戦ってからお前は行方をくらましていたがそれから10年経って突然ドイツに表れてヒトラーと接触した。ちょうどそのころにヒトラーが首相になってドイツを独裁者として操り始めた。偶然の一致とは思えねえな」
「それで?」
「そして、ヒトラーのドイツが軌道に乗り始めた9年前、日本で陸軍がクーデターを起こした時に陸軍関係者と接触し、クーデターを起こさせ、お前は日本とドイツを同時に混乱に陥れようとした。しかしクーデターは失敗してしまい、再びドイツに戻った」
「…」
「しかし、それからほどなく日本で戦争が始まり、1年後には欧州で戦争が始まった。お前はしめた、と思っただろうな。しかし一時は欧州にその範囲を拡大したドイツも敗戦を重ねるようになった。…そして4月にドイツが降伏した後姿をくらませていた。違うか」
「…確かにそうだ。ちょっとドイツに長居しすぎたかもな」
「そしてお前は1週間前に新型爆弾が落ちた広島に突然現れた。そして人々をあおろうとしたが、広島はそれどころではないほどの混乱だった。そしてその3日後、今度は同じ新型爆弾が落ちた長崎に現れた。…いったい、お前は日本を混乱に陥れてどうするつもりなんだ?」
「…」
「…そればかりではない。爺さんやおふくろが言っていたが、仏蘭西革命のときのフランスやアヘン戦争の時の清にもお前らしき人物がいたっていう話らしいな。もし、そうだとしたらお前はいったい何歳なんだ? おふくろが言っていたが、祖父さんやひい爺さんがお前と戦ったときとまったくと言っていいほど容姿が変わっていないっていうじゃないか? 一体お前は何者なんだ?」
「それを知ってどうする?」
「どうするって? 相手がだれであろうと、世の中を混乱に陥れるようなヤツを許すわけにはいかねえ。それが防人の家に生まれた者の使命だからな!」
そう言うと義明は鞘から神剣を抜いた。
「…面白い、私とやろうというのか」
「行くぞ!」
そう叫ぶと義明は神剣を上段に構え、思い切り打ちおろす。
すんでのところで阿那冥土が躱すと、近くにあった棒を拾い、義明の刃を受け止めた。
そして今度は阿那冥土が横殴りに払いかかい、義明がそれを防ぐ。
「…なかなかの腕前だな」
そしてしばらくの間一進一退の攻防が続く。
と、阿那冥土が棒を義明に向けると、その棒の先端を義明に向けて突く。
義明がそれを交わした。
「…なにっ!」
その一瞬のすきを見逃す義明ではなく、次の瞬間、義明の剣が阿那冥土の棒を二つに切り落としていた。
残された切れ端を阿那冥土が捨てる。
「てやあああっ!」
義明が叫ぶと最上段から神剣を振り下ろした。
その次の瞬間、
「…なにっ!」
そう、頭上数センチのところで阿那冥土がその真剣を白刃取りしていたのだった。
義明は何とか振り下ろそうとするが、阿那冥土の力は思っている以上に強く、ピクリとも思わなかった。
そしてにらみ合いがしばらく続いた時、
「…ここまで!」
阿那冥土が神剣を離す。
予想もしなかった行動に義明が躊躇していると、阿那冥土が義明に背を向けると走り去ろうとする。
「待て。逃げるのか! 勝負はまだついていないぞ!」
「…またいつか、会うかもしれないな」
そして阿那冥土は義明の目の前から走って去っていく。
「待て!」
義明が後を追うが、すでに姿は見えなくなっていた。
そう、それはまるでその場から姿を消したかのようにどこを見ても姿かたちは見えなかったのである。
「…どこへ行ったんだ…」
義明は神剣を鞘に収める。
「…阿那冥土、いつか必ずお前と決着をつけてやる…」
この日、御前会議はポツダム宣言の受諾を決定。
真珠湾攻撃から4年8か月に及ぶ長かった戦争が終わろうとしていた。
(エピローグに続く)
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