・前編
昭和20(1945)年8月6日、朝。
その日の東京はいつも通りと変わらない朝を迎えた。
昨日の買い出しで買ってきた食料で朝食を終え、義明は身支度を整え、軍需工場に働きに出かけるところだったのだ。
「それじゃ行ってくるよ」
そして義明が家を出た時だった。
「あ、防人さん、大変です!」
近所の家に住んでいる女性が血相を変えて飛び込んできた。
「…どうしたんですか?」
奥から智佐登が顔を出す。
「今ラジオのニュースでやっていたんですが、爆弾が落ちたそうですよ!」
「爆弾?」
それを聞いた義明はあたりを見回す。
「どこからも火の手は上がってようだけど。大体空襲警報だって…」
「いえ、ここではなくて、なんでも今、広島に新型爆弾が落とされたそうですよ」
「なんですって?」
「広島に…ですか?」
義明が聞くとその女性はうなずいた。
「…それで、その爆弾ってどんな爆弾なんですか?」
「いえ、まだそこまではわからないんですが、一瞬で何万人という人が死んだとか」
「何万人も? たった一発で、ですか?」
この日午前8時15分、アメリカが広島市に世界で初めてとなる原子爆弾を投下。
しかし、これはまだ悲劇の始まりに過ぎなかった。
*
その日の夕方のことだった。
「只今」
義明が工場から帰ってきたところを母親の智佐登が出迎えた。
「お帰り。…どうだった?」
「うん。工場へ行っても、工場では広島に落ちたという新型爆弾の話題で持ちきりで仕事にならなかったよ」
「…そう。あれからお母さんもラジオを聞いてたんだけれど、広島周辺は情報が乱れ飛んでいて被害の状況とかはよくわかっていないんだって」
「それにしても何万人という人間が死んだとかいう話だろ。そんな一発でそれだけの人間を殺せる爆弾なんてあるのかな…」
「さあ、それはわからないけれど。…ねえ義明。日本は本当に戦争に勝てると思う?」
「うーん…。正直言ってわからないね。でも、そんな新型爆弾が東京に落ちてくるなんてことになったらもう日本はおしまいだよ」
「そうならなければいいけれど…。義明、あなた本当に戦争はもうすぐ終わると思ってるの?」
「…心配ないよ、戦争はもうすぐ終わるよ。ただ…」
「ただ?」
「いや、なんでもない」
なぜか義明の心の中にごくわずかではあるが、得体のしれない不安はあったのだ。
8月8日、この日ソビエト連邦が日ソ不可侵条約を破棄し、日本に宣戦を布告。
第2次世界大戦はいよいよ最終局面を迎えようとしていた。
*
そして8月9日。
義明の勤める軍需工場。
時間はそろそろ昼になろうとしている時だった。
この時期ありとあらゆるものが不足していたとはいえ、やはり昼休みとなると労働から解放されることもあってか和やかな雰囲気になるのはいつの時代でも同じであったが。
「おい、大変だ!」
ふいに一人の男が工場の中に駆け込んできた。
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
義明が聞く。
「今から1時間ほど前に、今度は長崎に新型爆弾が落ちたそうだ!」
「…なんだって?」
「長崎に?」
「まさか、広島に落ちたのと同じような爆弾が?」
その部屋のあちこちから声が上がる。
「いや、まだ詳しいことは分かっていないんだが、長崎も混乱しているようで」
それを聞いた義明は黙り込んでしまった。
「…防人君、どうしたんだ? 難しい顔なんかしちゃって」
「い、いえ、何でもありません」
8月9日午前11時2分、3日前の広島に続いて長崎に原爆が投下される。
*
8月10日。
「…義明。義明!」
智佐登が話しかける。
「…あ? な、なに? 母さん」
「何、母さんじゃないでしょ? さっきからずっと考え込んじゃって。昨日からずっとその調子ね」
「…いや、なんでもないよ」
そういうと義明はまた考え込んでしまった。
「…ねえ、義明。もしかして、あのことを考えてるんじゃない?」
「あのこと、って…?」
「母さんにはわかるわよ。あなただって防人の血をひくものですもの」
「いや、母さん実は…」
と、その時だった。
「防人さん、ちょっとよろしいですか?」
玄関から声がした。
「はい、今行きます」
そして智佐登が玄関に行った時だった。
「お久しぶりです」
そこには一人の軍服姿の男がやってきた。そう、智佐登――というよりも彼女の父親である防人忠孝――の知り合いである軍人だったのだ。
「あ、お久しぶりです。ささ、ここで立ち話もなんですから」
「すみません、こういったものしかお出しできなくて」
そういって智佐登は茶の入った湯呑を差し出す。
「いえ、お構いなく」
「それで、今日はどのようなご用事で?」
「実は先ほどお父様の家を訪ねたのですが、その際にこちらにも寄ったほうがいいといわれましたのでお話ししますが…、6日に広島に落とされたのと同じような新型爆弾が昨日長崎に落とされたのはご存知ですな?」
「え? ええ。それは知っています」
「広島では翌日から救援活動が始まり、長崎のほうでも今日から本格的な救援活動が始まったのですが、いや、かなり現場はひどい様子のようで、あとからあとから死体が運び込まれるという有様何ですよ」
「いったいその新型爆弾って、なんなんですか?」
義明が聞く。もちろんこの当時の彼らにとってのちに言う「原子爆弾」などという兵器は想像すらできないものだった。
「我々も今情報を集めている最中でして…。なんでも情報を集めてみると、見たこともないような光を発した後にものすごい熱風が襲ってきたらしいと。昨日長崎に落とされたのも広島と同じような証言があったらしいですよ」
「そうなんですか…」
「一体、敵の兵器がどういうものなのかこれからも調べてみなければわかりませんが、ただ情報を集めているうちに気になった情報があるのですよ」
「気になる情報?」
「爆弾が落ちた翌日から広島でも長崎でも不審な人物の目撃例が相次ぎましてね」
「目撃例、って…、こんな時期ですから不審人物だってよく見かけるでしょう」
「いや、たとえばそれが空襲の空き家を狙って盗むこそ泥とかだったら我々の出る幕ではありませんが、どうもそうではないんですよ」
「そうではない、といいますと?」
「…防人さん、9年前に陸軍の一部将校が起こしたクーデター未遂(のちに言う「二・二六事件」)のことはご存知ですな?」
「え? ええ」
「それでは、あの時の証言の中に不審な人物と何人かの将校が会っていた、というのも…」
「ええ、知っています」
「ちょ、ちょっと待ってください。まさか…」
義明が言いかけると、
「いえ、まだそうとは断言できませんし、何分あの事件の後に19人が処刑されたし、陸軍をやめて今となっては連絡の取れない人物もいまして…。おまけにこのことに関するとなかなかしゃべらない将校もいましてなあ。そういったこともあって証言が少ないのですが…」
「でもちょっと待ってくださいよ。母から聞きましたが、確かその男は9年前にドイツで見かけたと…」
義明が言うと、
「ええ、確かにそういう証言はありましたが、今年の4月にドイツでヒトラーが死亡した頃の前後に急に行方が分からなくなっていた、という証言があったのですよ」
この年、1945年4月30日にドイツのみならず世界を混乱に陥れた張本人とでもいうべき独裁者、アドルフ・ヒトラーがベルリンで自殺。5月7日にはナチスドイツは連合軍に対し無条件降伏。すでにイタリアも連合国に降伏しており、三国同盟国の中で戦っているのはすでに日本だけという状況だった。
「いろいろと情報を集めてみたんですがね、その男は今から6年前の9月に欧州で戦争が起きた時前後にドイツにいたらしいという証言が取れたのですが、我が国が真珠湾攻撃を始めたころに一時行方がわからなくなっていたそうなんですよ」
第2時世界大戦の勃発とでもいうべきナチスドイツのポーランド侵攻は1939年9月1日で日本がハワイの真珠湾攻撃を行ったのはその2年後、1941(昭和16)年の12月8日である。
「行方が分からなくなっていたって…」
「それについては後程話しますが、その後4年ほどドイツにいたという証言が取れたのですが、先ほど話した通りヒトラーが死亡したころに行方が分からなくなっていたのですが、ここからがちょっと妙な話でして」
「妙な話?」
「ええ。実は新型爆弾が落ちた翌日の広島と長崎でその男を見かけたという情報があったんですよ」
「なんですって?」
「本当ですか?」
「いえ、何せいまだに広島も長崎も混乱していて情報がなかなかつかめないのですが、何人かの軍の関係者から同じような証言がとれまして」
「でも、だからと言ってその男が…」
「確かに私も信じられませんよ。その男は9年前に日本に現れた時と陽子が全く変わっていない、という話ですからね」
「…それで、一体そいつは何が目的なんですか?」
「さあ、そこまでは…。ただ、9年前の事件のときは何人もの将校に『昭和維新』の断行を訴えていたという話ですし、一部ではその男があの事件に関係していたのではないか、と言われているのですわ」
「それで?」
「ただ、あの事件が失敗に終わり、首謀者の処刑がされたころから見かけなくなったといううわさがありまして。まああくまでも噂ですがね」
「それで、広島と長崎に現れたというのは?」
「ええ。先ほども申しあげたとおり現場が混乱しているのですが、何でも避難してきた人たちを前に何やら演説をやっていたという話なんですよ」
「演説?」
「ええ。なんでもこのままでは日本は駄目になる、とか今こそ新しい日本を創ろうとか言っているといわれているのですが、ただ現地も警察とか軍が動いているのですが、なかなか尻尾をつかまらせないんですわ」
「…」
「それで、あなたのお父上がその昔その男にあった、という話を聞いたので、話を聞いてみたところ、あなたの家に報告するべきだ、と言われまして」
「それで、父はなんと?」
「いえ、こちらでも調べてみるが、お前たちも気をつけろ、と申しておりましたよ」
「そうですか…」
「それでは私はこれで。お邪魔いたしました」
そしてその軍人は家を出て行った。
それを見送る智佐登と義明。
「…母さん…」
しばらくして義明が口を開いた・
「…母さん、もしかしたら…」
「心配していたとおりね。阿那冥土が日本にやってきていたんだわ」
「でもどうして奴はドイツなんかに…」
「それはわからないわ。でも20年前に震災が起きてからしばらくの間日本は平和だったからね。おそらくそれを嫌ってドイツに潜伏していたと思うわ」
「それは聞いたことがあるよ。奴は日本が混乱するとその騒ぎに乗じて日本にやってくるんだろ?」
「そうね。ましてやあんなことがあった直後だもの」
「…いったい奴は日本をどうしようとしているんだ?」
「それはわからないわ。母さんも20年前にあの男と戦ったけど、あの男はなぜ日本を襲うのか、なぜ日本を混乱させようとしているのか最後までわからなかったもの」
「心配ないよ、母さん。今度はオレが奴から日本を守るよ」
「義明、あなた…」
「そうだろう、そのためにオレは生まれてきたんだから。絶対日本を奴の思い通りにはさせないよ」
「義明…」
そういう義明の顔は決意の表情が浮かんでいた。
その夜。
家の前で曽祖父の代から伝わってきている神剣を素振りしている義明の姿があった。
この剣を母親から受けついで以来、いつかこの日が来ることとは思っていたが、その日が近いことを薄々と感じ取っていた。
そして自分の地はそのために流れているのだ、ということも…
「…覚えてろ、阿那冥土。これ以上、お前に日本を混乱させるわけにはいかないからな…」
(後編に続く)
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