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待って。
今すぐに、鉄之助と別れるというのか。心の準備がまったくできていないのに。鉄之助のことをもっと知りたかったのに。
柚は、込み上げてくる涙をどうにかおさえながら、鉄之助の荷造りを手伝った。出会ったときに着ていた戎服も、柚が丁寧に洗ったため、今ではすっかりきれいになったから、着替えの単衣とともに包んでやる。下穿きや草履、それに弁当と水。往来の多い道を堂々と歩けないことも考え、保存食も多めに。
動かされるがまま、柚は鉄之助を誘導した。鉄之助は旅籠の着物を脱ぎ、子どもの単衣に着替えている。父のものでは着丈がまったく合わなかった。縫い詰める時間がなかったから、柚の弟の単衣を身につけた。さすがに、子ども用では短すぎて、脛が半分ほど覗けてしまったが、顔立ちが幼いぶん、歳をごまかして道を進めるはずだ。
……幸い、裏口には誰もいない。
雨上がりの水溜りがひとつ、ふたつ。陽射しを受けて、水面がきらきらと輝いている。
さらに時間を稼ぐため、父は表の騒ぎを焚きつけに行った。後日、きついお咎めを受けるだろうことも承知の上で。
「これから、どこへ行くの」
「日野。甲州街道に出たかったんだ。横浜から八王子方面に向かうべきところを、誤って東海道に入ってしまって、ここに倒れてしまったんだ。急な長い坂が続いて、体力を奪われた。武士が空腹に負けるなんて、情けない」
それで、先日は帳場で熱心に地図を読んでいたのか。
「権田坂ね。難所で有名なのよ。東海道を、保土ヶ谷の先まで戻ると追分というところがあるから、そこを八王子道に入れば甲州街道のほうに行けるわ。行き先の、日野には目的があるのね」
「うん。土方副長の家族に、預かりものを届けに行くんだ。直々の、隊命だから」
「朱鞘の刀と、革袋の中身を?」
「気がついていたのか」
「ごめんなさい。偶然、見てしまって。あんな大金を持って行き倒れるなんて、あぶないじゃないの」
「副長には、多摩までの路銀にしろと言われて渡されたけれど、多過ぎるし、たぶん、ふるさとで残された人たちが今後困るだろうから、届けておいたほうがいいんだ」
「それが終わったら、どうするの」
「まだ、なにも。箱館から命からがら引き揚げてきて、自分のことは考えられなかった。新政府兵のあいつらも言っていたように、土方さんの安否だってよく分からない。いまだに遺体が見つかっていないのは、喜ぶべきことのような、悲しむべきことのような、複雑な心境だよ。いつか、箱館に戻るかもしれない。けれど今はまず、預かったこの刀と、文。それにお金を、土方さんのふるさとに。親父さんに、どうぞよろしく」
鉄之助はやさしく笑った。
「落ち着いたら、また遊びに来てよ。馬を飛ばせば一日で来られる距離だわ、絶対」
「そうだね」
「いつまで待っても、鉄之助がここに来ないなら、私が日野まで行くから。いいわね、約束よ」
鉄之助は柚の威勢のよさに、思わず釣り込まれて笑った。
「俺、お尋ね者だよ。あの騒ぎで、よく分かっただろう。下手に関わりを持つと、面倒なことになる」
「そんなの、新しい政府が勝手に決めたことじゃない。鉄之助は、鉄之助の師……土方さんと、自分の信念に従って、箱館に行ったのでしょう。私は、鉄之助の『誠』を信じる。箱館や京で、どんなことをしていたのか、今度会ったときはゆっくり聞かせて」
「ありがとう。柚だけには、ほんとうの名を教えておくよ。俺は、新選組・市村鉄之助」
「それはさっき、やつらが言っていたから、聞いたわよ」
「あ、そうか」
照れる鉄之助の、短い前髪が揺れた。
「生まれは、美濃の大垣。今日は途中で水が入って、俺の剣の腕前のすべてを見せ損ねたから、今度親父さんに試合をお願いしてみたいね。こう見えても、けっこう使えるんだ。さっきの、空威張りしていた兵ぐらいなら、全員余裕で倒せたよ。あいつ、虚勢ばっかりでたいした腕ではなかった。初太刀だけだ。あとは、がら空き」
「大きく出たわね」
次に会えるのは、いつになるか分からない。脱走絡みの騒ぎが起きたことで、宿場に対する監視の目も厳しくなるだろう。しばらくは鉄之助、戸塚近辺を近づかないほうがいい。
別れがたいのは同じらしいが、鉄之助は笑みを消す。決心したようだった。
「……柚。行き倒れた俺を、助けてくれて感謝する。極秘の隊務遂行上、誰とも関わりを持ちたくなかったから、ひとりで辿り着くつもりだったけど、やっぱり差し伸べられた手って、いいものだね。ありがたいし、あたたかい」
そう言って、静かに柚の手をほんの一瞬だけやさしく包むように握った。
「それじゃあ、いずれまた」
ふたりはだらだらと歩き続け、宿場の外れの吉田大橋まで来てしまったが、いよいよ別れのとき。もっと一緒にいたいとは、言えなかった。柚は急いで自分の袂を探る。
「鉄之助、お守り。これ、あなたの髪」
「髪?」
「切った髪。箱館で、新選組で、過ごした時間が刻まれていると思うから」
必死に柚は食い下がったが、鉄之助は首を左右に振った。
「柚にやる。思いは全部、胸の中にあるから。俺にはもう、必要ないんだ」
鉄之助は笑顔を残して走り去った。
梅雨の晴れ間を飛ぶように。
(了)
読了ありがとうございました。
本作品はオール讀物新人賞で一次通過したものに、タイトルなど若干修正を加えてあります。