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鉄之助が旅籠に住み込んで、十日。
柚たちの提案通り、鉄之助はある程度の路銀を作るまで、旅籠に留まった。まさか表には出られないから、内々の配膳、風呂焚き、荷運びなどを任せたが、文句をひとつもこぼさずにせっせと働いた。旅籠の人手は常に足りないので、柚も助かってはいる。柚もいちいち見張っていなかったものの、短髪の頭は休むことなく動き回っている。懐には大金を持っているのに、一向に所持金を使う素振りはなく、なんとも不可解なことだ。
ぐずぐず雨の切れ間。
ところどころ、道はぬかるんでいる。それでも往来は梅雨の貴重な晴れを利用して、荷や旅人が盛んに行き交っており、いつになく街道全体が賑わっている。
旅籠を手伝う柚も、朝からなかなか忙しい。しかも、じめじめしていて蒸し暑い。夏が近い。誰もが無口になって、仕事をこなしている。
「おい!」
店先に立って京に上ってゆく旅人を見送っていると、柚は背後からいきなり肩をぐぐっと強く、乱暴につかまれた。ためらいも、遠慮もない力で。
「娘。ここに、脱走を匿っているっちゅう噂やけど、ほんまか」
柚の肩をつかんだのは、大柄の兵だった。見上げるように背が高く、肉厚で横幅も広い。柚の顔の上に男の影が落ちた。
年は若いが、決して美男ではない。ぞっとするほどに毛深い男だった。毛むくじゃらの手が自分の肩の上に乗っているだけで、嫌悪を覚えるほどに。
「やだ、痛い! 放しなさいっ」
突然の狼藉に、柚は怒りを露わにした。しかも、男はひとりではない。後ろに三人、部下を引きつれている。全部で四人。黒い、筒袖の洋装。柚にも分かる。薩摩か長州、新政府の兵だろう。さっそく、鉄之助の存在を嗅ぎつけて来たのか。早過ぎる。柚の背筋に汗が流れる。一気に緊張を高めた。
「おるんか、案内しろ」
「……知らない」
素っ気なく、柚は兵を振り切ろうとした。
「知らん、とはどういう意味だ」
「いたたたた」
さらにぎりぎりと、肩を潰されそうになり、柚は苦しくて顔を歪めた。助けを呼ぼうにも、声が出ない。満足に息も吸えない。
こいつら、鉄之助を探している。
必死で柚は痛みに耐えた。
鉄之助、とりあえずの路銀の確保や、これから行くべき場所は、決まったのだろうか。革袋の大金に手をつけなくても、逃げられる目論見はついただろうか。
時間を、稼がなくては。
自分が兵を食い止めている間に、騒ぎを聞きつけて逃げてくれれば。でも、そうなったら、鉄之助には二度と会えないだろう。ああ、でもあの子は、旧幕府軍の偉い人から特別に逃がされた身。形見以上に、なにか重大なことを託されているのかもしれないのだ。
頭の中でとりとめもないことが、ぐるぐると旋回する。
「ここにおるのか、おらんのか。はっきりしろ! 娘っ」
「脱走はどこだ」
「おるんやろ」
「もっと痛い目に遭わなきゃ、分からないのか」
「いないったら、いない! しつこいわね」
下卑た目つきで、柚は顔を覗き込まれた。いやだ。思いっきり面を背ける。
「強情な娘だ」
「おい、逃がすなよ。聞き出す方法はいくらでもある」
新政府兵の目色が変わった。あからさまに舌なめずりをする者もいる。
「あ、あんたたち、そうやって、いろんな町や村を制圧してきたのかもしれないけど、ここ戸塚宿は、そう簡単には落ちないわよ」
震える肝に鞭を打ち、柚は声と勇気を振り絞って啖呵を切った。こうなったら、大げさに騒いでやろう。
「な、なんじゃと、生意気な」
「ただの娘のくせに」
旗色があやしい。柚は、兵に四方を取り囲まれた。怖い。けれどもう、逃げることもできない。
なんだなんだと、騒ぎを聞きつけた者がだんだん集まってきて、遠巻きに人垣をつくりはじめたが、騒ぎを止めようとする気概ある者はいない。誰だって、新政府の輩を敵に回すのは恐ろしい。相手は、勝利を収めた官軍だ。多少暴れたって許される。多少ならば。
「どうした、柚」
人波を掻き分けて前に進み出たのは、鉄之助だった。今、もっとも出てきてほしくない人なのに。
「て……」
鉄之助。ちょっとあなた、どうして逃げないの。騒動を聞けば、己の身が危険だって分かるじゃない。あなたのために恐怖と戦っていた自分は、なに? ただの徒労? 思わず声がこぼれそうになったが、唇を引き結んでどうにかこらえた。兵は、鉄之助の名前を知っているかもしれないから、名を口にしてはならない。絶対に。
「なんじゃ、坊や」
「旅籠で働いている者だ。ここに、脱走兵などはいない。柚を解放し、お引き取り願おうか。脱走を見つけたら、知らせよう」
鉄之助は、普段父が剣術の稽古に使っている、例の木刀を腰に下げていた。帳場の壁にかけてあったものだ。いざというときは、やるつもりらしいが、袖から覗く腕の細さを見ると、とても期待できない。
「額に傷を持つ、脱走を探しておる。箱館から逃げた少年だ。歳は十六。そうだな、お前と同じぐらいだろうな」
「いない。いないと言ったら、いない」
面と向かって自分の特徴を述べられても、鉄之助は動じなかった。むしろ、胸を張って堂々としている。見ている柚のほうがはらはらとした。やはり、兵は鉄之助を探しているらしい。
「ほう、いないと言い切るか。五稜郭で降伏した箱館軍の幹部どもに聞いても、新選組副長・土方歳三の行方だけが掴めん。新選組は、京でわしらの同胞を殺しまくった。やつだけは放っておけん。土方とほぼ同時に、市村という側近の小姓も姿を消しておる。土方を探すために、その小姓も追っておる。んん、お前……傷が」
鉄之助が柚をかばう形で、兵の前に出た。思い切り兵を睨みつけている。静かにたたえられた鉄之助の闘志に、のまれる格好になり、大柄な兵のほうがたじろいだ。
「お前のそれ、傷じゃないのか。よく見せてみろ」
「違う。どうしても拝みたかったら、俺に挑んでくるんだな」
「やるのか、その細っこくて白い腕で」
それでも、安っぽい挑発には乗らない。あくまで冷静な微笑を崩さない。秘策でも隠しているのか。勝つ自信、あるのだろうか。柚は不安になった。早く逃げてほしい。早く遠くへ。
「坊や、ちっとは使えるようじゃな。わしの凄みを目の当たりにしても、動じないとは。剣の流派はあるか。ちなみに、わしは薩摩の示現流じゃが」
「天然理心流」
「聞いたことないな。天然なんたら、か。わははっ」
「どうせ、田舎百姓の手習い剣法だろうよ」
「は。交えるだけ、刀が穢れるわ」
「威勢だけだ」
兵の間に、乾いた失笑が広がる。
けれど、柚は気がついた。
天然理心流といえば、お隣の武蔵国・多摩で盛んな剣術。下手ながら、父も習っている。天然理心流を修めた人たちの多くは、京都に上がり、新選組を作って都の安全を守ったというが、幕府の崩壊とともに消滅。ただし、新政府を認めないごく一部の人間が、北の蝦夷地で最後まで抵抗した。
天然理心流。新選組。蝦夷地・箱館・五稜郭。土方歳三。小姓。額の傷。導き出される答えは、ただひとつ。
鉄之助は、新選組の生き残り。
田舎者は新政府兵、あんたたちのほうだ。天然理心流も知らないで、この剣術が盛んな場所をほっつき歩いているなんて。柚は毒づきそうになった。いけない。侮蔑のことばを発しそうだ。慌てて口を押さえる。
兵は力づくで、鉄之助を取り囲むつもりらしい。刀に手をかけた。鉄之助の木刀とは違い、男たちは誰もが真刀を差している。打ち込みが決まれば、怪我どころではない、命にかかわる。手加減など、してこないはずだ。鉄之助は新政府兵を愚弄しているのだ、容赦ない剣が振り下ろされるに違いない。
「久々の獲物だ、儂が出てやろう。刀を新しくしてから、まだひとりも斬っていない」
兵のうちのひとり、最初に柚の肩をひどくつかんだ男が鉄之助に間合いを取るよう、促した。一歩、踏み出しかけた鉄之助の袖を強く引っ張ったが、簡単に振り払われた。ふたりは互いを軽く見やって、距離を保つ。どう見ても、小柄の鉄之助のほうが不利。それに、男は鉄之助よりもずっと長く稽古を積んでいるに違いない。
柚は泣きたい気持ちをこらえ、叫ぶように訴える。
「やめて、お願いだから」
「だいじょうぶだ。下がっていて」
「あいつ、強そうじゃない」
「見かけだけだ。体が大きくなれば威力は増すけれど、そのぶん素早さが減る。初太刀は交わすから、俺は二撃目で勝負だ」
「でも、いやだ。相手は本身じゃない。あなたの差し料は、ただの木刀。しかも、丸太みたいな木の棒」
「これが、天然理心流の木刀でよかった。稽古熱心なんだね、きみの父上。使い込んであって、よく手になじむよ。さ、お喋りは終わりだ」
鉄之助は草履を脱ぎ揃え、勝負の途中でたすきがけが解けないように強く結び直し、身構えた。息も整えている。
人垣が、三歩ほど後退した。冷やかす者も、お喋りも消えた。あたりはただ、静まり返っている。
柚の手のひらには、冷たい汗が次々と浮いてくる。ひどく寒い。晴れているのに、視界が暗くなりかけた。
「きええええええええーっ」
鉄之助と対峙した男は大きな奇声を上げ、刀を振った。声はただの脅しだと分かっていても、柚はおなかの底まで恐れを感じた。
すべて、見切っていた。
鮮やかに、男の剣を交わした鉄之助は、木刀で敵の咽喉を突いた。その速さに、柚は呼吸を忘れるほどだった。男は目を白黒させつつ、握っていた刀を落とし、道の上にどうと倒れた。気を失っている。
「次に恥をかきたいのは、誰だ」
全員の始末をつけたいらしい鉄之助は、残りの三人を一喝したが、仲間のひとりがやられたため、どれも躊躇っている。
そのとき、人垣の奥から石が投げ込まれた。石は見事、ひとりの薩摩兵の額に的中。一気に、緊張が崩れた。
「木刀相手に、まだ刀を出すのか」
「もう、勝負はついただろうに」
続いて、野次も飛んだ。人垣が厚過ぎて、声の主はどこにいるのか、まったく見えない。
「ど、どこのどいつじゃ、投石したのは!」
怒りに任せて兵は低く唸るように叫んだが、人垣を形成している者たちは、明らかに野次を支持した。
「そうだ」
「そうだ」
「卑怯だぞ、勢い任せにそんな少年と対決するなんてよ」
「まだやるのか」
「恥ずかしくないのか、おとなのくせに」
「薩摩の芋侍めが」
やんややんやと罵声が相次ぐ。柚と鉄之助はしばし茫然。新政府兵の関心も、野次に移ってしまい、鉄之助と柚は放置されている。
「こっちだ」
ごった返す人波をどうにか左右に掻き分けて出てきたのは、柚の父。
「父さま」
「しっ。黙っていろ」
父は柚を短く制し、ふたりを人垣に隠し、旅籠の中に連れ戻した。
「怖かった。父さま、助かったわ」
柚は畳の上に、へなへなと崩れ落ちた。
「けがは、なかったか」
「肩が少し痛かったけど、だいじょうぶ」
「この、莫迦者が。あんなの、知らぬ振りで通せ。おかげで、えらい大騒ぎになってしまったじゃないか」
「知らないって、言ったわよ。でも、あいつらの尊大な態度が許せなくって、つい」
ごまかそうとするが、父の鋭い視線は衰えなかった。
「助太刀、ありがとうございます。それに、柚さんを危険にさらしてしまい、申し訳ありませんでした。あんなやつらに、柚を傷つけられて、頭に血がのぼってしまって」
恭しく木刀を父に返し、礼儀正しく素直に頭を下げる鉄之助に、柚は臍を曲る。先に下手に出られては、ますます硬化するよりほかない。
「ほら、鉄之助に礼を。柚よ」
「勝手に飛び出してきたのは、鉄之助のほうよ。私は、鉄之助に助けてほしいなんて、ひとことも言っていない。騒ぎの間に、逃げればよかったのに」
「柚、お前まさか、時間稼ぎのためにわざと兵を挑発したのか」
「知らないってば、もう。どうでもいいじゃないの」
「意地を張るな。さあ、お別れのときがきたぞ。鉄之助、今日までの給金だ。十日分。これでしばらくは持つだろう」
柚の目の前で、父は鉄之助に給金を渡した。
「ありがとうございます」
何気なく、そっと袋の中を確かめた鉄之助は、包まれていた金の多さに驚いた。
「こんなに。いただけません」
「いいんだ。受け取ってくれ」
「ですが」
「同じ剣術を学んだ誼だ。戸塚宿、門弟一同からの餞別でもある」
それを聞いた、鉄之助の顔色が変わった。
「鉄之助。お前さんは箱館から落ちてきた、新選組の一隊士だろう。『誠』。新選組の旗印。戎服の腕章で、最初から分かっていたよ。新選組をつくった天然理心流の人たちには昔、よく出稽古に来てもらって、世話になったからね。私には、旅籠や家族があったから、新選組に参加できなかったが、せめてもの恩返しだ。鉄之助は志高き、立派な同門だ。やたらな横暴にも屈せず、私は誇らしい。『薩摩の初太刀は必ず外せ』。新選組の局長副長の言いつけをしっかり守っている。しかも、天然理心流が得意とする、見事な突きだった。うつくしかったぞ」
鉄之助はまだなにかを考え込んでいるが、父は柚を促した。
「荷を持って、急いで裏口に回りなさい。今ならまだ、やつらの脚を食い止めていられる。気がつかれる前に、さあ早く」
「早くって、言われても」
4に続きます。次話で完結します。