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翌日。
柚が起きようとすると、庭で薪を割るいい音が聞こえてきた。
「こんな朝早くに」
父はいつも昼下がりの空き時間にしか、薪を割らない。眠い目をこすって、窓から階下を覗き込んで見れば、例の少年が額に汗を浮かべて薪と格闘している。今朝は戎服ではなく、柚が見慣れた旅籠揃いの着物だった。
「おはよう。どうしたの」
柚の声に、少年は手を止めて旅籠の二階を見上げた。ふたりの視線が合ったけれど、それは一瞬だった。少年は、額に浮かんだ汗を首に巻きつけてある手拭いでおさえた。
「このあと、雨が降りそうだから。先に済ませておこうと思って。起こしたかな」
ひとことだけ発すると、少年は柚には無関心そうに作業に戻った。
「もう、起きる時間だったから」
朝だというのに、空には暗い雲が立ち込めている。これはそのうち、一雨くるだろう。今は梅雨。いつ降ってもおかしくない。雨になれば、よほどの用事をかかえている旅人以外、旅籠から動かない。仕事が滞るだけでなく、滞在しているお客の対応もしなければならない。一年前に母と死別したあと、女将の仕事を担っているのは柚だった。雨は、気が重い。
手早く薪を片づけてゆく少年に、柚は苛立った。
「そうじゃなくて。なんで、あなたが薪割りしているのかって、聞いているのよ」
興奮気味の柚の声にも、少年は冷静だった。
「昨日、倒れてしまったところを世話になっただろう。恥ずかしいけれど、金の持ち合わせがなくてね。宿賃も払えない。旅籠の親父さんにお願いして、ここで少しばかり、働かせてもらうことにしたんだ」
やはり、働くつもりでいるらしい。懐に、大金を隠し持っているのに。あれは少年のものではないのか。あれが自由に使えれば、汚い顔で道の真ん中に倒れたりはしないだろうに。
まさか、油断させておいて、盗賊、追剥ぎの輩? うちは小さな旅籠だから、お金なんか置いてないのに。いや、こういった小さい子に手引きさせ、あとで押し込むという一味もあるらしい。
「それは……なんとなく分かったけど、あなたどこから来たの?」
少年は斧を握り直すと、再び動かしはじめた。薪の割れるよい音が、辺りに響く。
「その手の質問には答えられない。言えば、旅籠にも迷惑がかかる」
もったいぶった言い方。生意気だ。柚はむっとした。
「じゃあ、名前だけでも教えて。『誠』?」
核心を突かれたように、少年は顔を強張らせては固まってしまった。『どうしてそれを』と表情が語っている。
「ちょ、ちょっと、あなたの着ていた戎服の腕章に、そう書いてあったから。深い意味なんてないのよ」
「俺は、鉄之助だ」
「てつのすけ……」
ふうん。『誠』とは関係ないのか。ならば、別にそれほど動揺することもないのに。まだなにかあるのだろうか。深いところまで勘繰ってしまう。
柚がそう思ったとき、鉄之助は割り終えた薪を両脇にかかえ、ついと向こうに歩いて行ってしまった。
薪は明日以降も充分使えそうな量。しかも、丁寧に割ってあった。
窓に頬杖をついて、柚は旅籠の庭を眺め続けた。父が心をこめて育てている、松の木の庭だ。さびれた旅籠には不似合いなほど、整っている。
鉄之助、感じの悪い子だ。かわいくない。自分が助けてあげたのだから、もっと感謝の意を示して、殊勝に、しおらしくしていればいいのに。まったく媚びないところが生意気だ。
柚には好印象ではなかったが、まめによく動き回るので旅籠の者にはすぐに重宝がられた。自分の名前しか読めない子どももいる中で、少年はよく勉学を積んだようで、すらすらと澱みなく字が読めるし、実際書けた。愛想がいいわけではない。どちらかというと、無口で静か。けれど、よく気がつくというか、配慮もあって控え目。以前、よほどいい師にでも、ついていたのだろうか。
いよいよ雨が降ってきた。長い雨になりそうだ。
父に言われた通り、鉄之助には近づかないようにしておこう。柚は決めていたけれど、そんなときに限って、再び遭遇してしまうのが世の常。
雨で出発を渋っている旅人も多い。
「この雨の中じゃ、新しいお客さんは来そうにないわね」
蒲団も干せない、もちろん洗濯も無理。足止めされているために人が多いので、掃除だって思うようにはかどらない。雨も、晴れと同じぐらいに大切だ。空を恨んでも仕方がない。暇を持て余した柚は、陰気な帳場の隅で鉄之助が紙に向かい、一心に目を凝らしているのを見つけた。姿を目の中にとらえるだけで、無性に腹立たしくなる。えい、からかってしまえ。
「なにを真剣に見ているの。もしかして、春画?」
「うわっ」
勢いよく顔を上げた鉄之助に、柚はぶつかりそうになった。雨のせいで帳場全体は薄暗いが、接近しすぎたお互いの顔はよく見えた。
鉄之助には、額に刀傷がある。だいぶ前についたものらしく、傷そのものは薄いが、髪の生え際から右の眉上まで、細く長く続いていた。特に、傷のせいで、髪が生えなくなっている部分があり、やや目立つ。
「ここ、髪が生えていないのね。若いのに」
からかい半分、意地悪半分で、柚は鉄之助の古傷に触ろうと何気なく手を伸ばした。
「触るなっ」
思いもよらない鉄之助の厳しい一喝に、柚の腕はびくっと震え、宙に止まった。ずっと無愛想ではあったが、人を拒否する素振りを見せたのは初めてだった。
「驚かせて、ご、ごめん。そんなに怒るつもりじゃなかったんだ」
「なら、どういうつもりよ。命の恩人に向かって」
鉄之助の動揺を知り、柚は悪態をついてみた。
「これ、大切な人に稽古をつけていただいたときについた、記念の向こう傷だから」
「つけていただいた、ですって。向こう傷が記念なんて」
実に奇妙な思い出だ。
「そう。貴重な」
柚が聞いてもいないのに、鉄之助は自分のことを初めて語った。
「もしかして、あなたが背負っていた刀の、持ち主さんなの」
「うん」
いやに子どもっぽく、鉄之助は返事をした。
「上司で、師で、もっとも尊敬する人。強くて厳しかったけど、ほんとうはやさしくてあたたかい人。俺を、わざと突き放して、横浜行きの船に押し込めた。勝ち目のない戦で死なせないために。最期までお供するつもりだったのに、自分だけがこうして今、生きている」
やっぱり、箱館の?
柚は聞いてみたかったが、鉄之助の顔を近くでもうしばらく見ていたかったから、聞けなかった。問えば、遠くに行ってしまいそうだった。代わりに、柚は鉄之助が手にしていた紙を素早く取り上げた。感傷にひたっていた鉄之助少年は意外と無防備だった。
「地図ね」
「わっ」
紙は、横浜周辺の地図だった。
「まだどこかに行くつもりなのね。故郷にでも帰る心づもり? 鉄之助の生まれはどこだっけ。徳川に与した者への風当たりはきついからね、親戚縁者にも迷惑がかかるでしょう。父さまも認めているし、しばらくうちで隠れて働きなさいよ。賄いに、寝床があれば充分でしょう。とりあえず。こき使ってあげるわね」
「どうでもいいだろ、そんなの。お前には関係ないや」
地図を力任せに奪った鉄之助は、たちまち拗ねた。かわいくない態度だった。脱走さんの、お尋ね者なのに、やけに自信満々で凛としている。正直な感想を述べてしまえ。
「自慢の向こう傷もいいけれど、そうやって頭の後ろで、ひとつにまとめて総髪にしていると、額の傷がよけいに目立ち過ぎるわ。いっそのこと断髪して、前髪を少し垂らしてみたらどうかしら」
地図を筒状にくるくると丸めながら、鉄之助は柚の目を窺った。
「断髪だと。髪を、切るというのか」
「うん。おとなっぽくなるかも。雨降りの今日なら、手が空いているから、いいわよ」
「『いいわよ』って、お前が切るのか」
「失礼ね。ほかに誰が切るのよ。こう見えても私、妹弟たちの髪を全部切っているのだから、腕は確かよ」
手で鋏を持つ真似をしてみた柚は、鉄之助の総髪に触れてみる。鉄之助は抗った。
「武士が、旅籠屋の娘に、髪を。せめて髪結いに」
「なによ。いやならいいわよ、無理しなくても。いやしい町人の娘には、触られるのもいやってことね。屈辱ってことね」
「そういうわけじゃないが」
「そういうことでしょ。鉄之助の顔が、人相書きの御触れにでもなったとき、真っ先に気がつかれるのは、目印の傷よ? せめて髪を下ろして、時間稼ぎをしなさいよ。徳川武士の誇りだけで生きてゆけるような、時流じゃないのよ。行き倒れるぐらい我慢した鉄之助なら、分かるでしょ」
思い当たるふしがいくつかあるのだろう、鉄之助は腕組みをして項垂れた。
「確かに……土方さんも、断髪していた」
土方さん?
耳慣れない名前に、柚はまばたきをして次のことばを待ったが、鉄之助は突っ込んだ昔の話には口を閉ざした。
「分かった。よろしく頼む」
逡巡することしばし。ようやく鉄之助は、髪に鋏を入れることを承諾した。
万が一、手元が狂ったら大変なことになる。柚は、倹約のために消していた灯りにこっそり火を入れ、帳場を照らした。辺りはようやく、ぼんやりと明るくなった。
「では、切ります」
そっと元結を解くと、鉄之助の髪は肩先までふわりと広がった。少年とはいえ、れっきとした武士の髪だ。柚は緊張を新たにした。鉄之助の髪は黒々としており、とてもしなやかで伸びがいい。量も、たっぷりとある。鋏は、髪の上を滑った。
柚の手によって、鉄之助の中に凝り固まっていた過去までもが削がれるように、髪は落ちた。はらはらと。ひらひらと。
はじめてしまえば早い。ものの三十分もかからずに仕上がった。
「できた」
柚は思い切って、短めに髪を揃えた。これなら額の薄い傷よりも、まずは短い髪が目に入るだろう。ほとんどの男子が髷を守っている中、これだけの短髪はまだ珍しい。なにより問題の額は、半分ほど前髪で隠れた。
「どうかしら」
当人の評価がもっとも気になる。柚は鉄之助に鏡を手渡しながら、意気込んだ。
「首が涼しい。寒いぐらいに。頭は軽くなったけどさ。へえ、なるほど。確かに、短いや」
鉄之助はくすぐったそうに、何度も鏡を覗き込み、短髪をつまんでいる。
「初めての断髪だから、慣れるまで妙な感じだろうけど、すぐになじむと思う」
「自分じゃないみたいだ」
実に不思議そうに鉄之助は鏡を見て、しみじみと呟いた。
「似合うよ。それに、これからぐんと蒸し暑くなるし、涼しくてちょうどいいんじゃないかなあ」
「なるほどね。蝦夷から落ちてきたときは、まだ肌寒かったけれど、そうだね。このあたりの夏は、暑くなるだろうねきっと」
鉄之助は笑った。大きな声で、表情を緩めて。不機嫌そうな顔ばかりしているから、てっきり心を許してなんかくれないと思っていたのに、初めての笑顔は意外に愛らしかった。その上、急に素直になった。
「ありがとう」
やけに従順な鉄之助を、柚は受け入れがたく感じた。
「それでも、すっかり安心はできないから。くれぐれも、正体を知られないように気をつけることね。私たちだけでなく、宿場全体が迷惑するから」
髪を切っているときは厭きるほど鉄之助の顔を見たのに、今はもう恥ずかしくて直視できない。柚は俯きながら、土間に落ちた髪の毛を、箒で寄せ集めた。双の頬がやけに熱い。灯りに晒されたくない。きっと赤くなっているだろうから。
「手伝うよ」
「い、いいから任せて。ここは私が。そろそろ、お風呂を沸かす頃合いよ。あっちを手伝いなさい」
「あ、そうか。じゃあ行こうかな。その前に、あの木刀、借りてもいいかい」
鉄之助は帳場の奥にあった木刀を指差した。父の稽古用のものだ。
「いいけど、あれは父の習っている流派独特のもので、とても扱いづらいのよ。ここからでも、見て分かるでしょう。普通の木刀よりも、握りが太いから。強盗除けの、護身剣術なの」
「丸太みたいな?」
「そうそう、まるで木の棒っきれ」
「歓迎、歓迎。お借りします。使い込まれていて、いい木刀だ。懐かしい」
後ろ暗いものがふっきれたのか、鉄之助は軽く口笛を吹きながら上機嫌で木刀を腰に差し、仕事に戻っていった。あんな重たい木刀が懐かしいとは、どういうことだろう。
鉄之助の頭から切り離されたばかりの髪を、ひとつまみ拾い上げる。柚は懐紙にやさしく包んで袂にしまった。
3に続きます