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 見てしまった。

 どうしようもなく、鼓動が早まる。驚きのあまり、悲鳴を上げるどころか、喉に自分の声がべったりと張りついてしまい、とっさに叫べない。

 はじめに見たときは、冗談かと思った。

次には、ふざけているのかと、つい腹立たしくなった。辺りを何度も見回しても、こういうときに限って、街道沿いなのに誰も通らないから、助けも呼べない。

仕方なく、もう一度振り返って確認してみることにした。もしかしたら、単なる見間違いか、幻かもしれない。錯覚ということも、ある。

しかし、それでも。

やはり、人が倒れている。よりによって、人の家の前で。店先を軽く掃除しようかと思って出たのが、運のつきだ。他人に箒を持たせておけば、少なくとも最初の発見者にはならなくて済んだのに。

冷えた固まった指先で、かろうじてつかんでいた箒を使い、倒れている人の腕をつついてみた。肩がかすかに上下しているから、たぶん呼吸はしているはずだが、いつまで待っても起きてこない。土肌色の両手が、力なく道に投げ出されている。

行き倒れだ。

 自分の家の前に、人がうつ伏せに倒れていた。

 外見は、自分と同じくらいの歳ごろの少年。着ているものは洋装。しかも、筒袖の、黒い戎服(じゅうふく)だった。この辺でも稀に通る異国人が着ているものによく似ていたが、少年の顔つきはまったくの日本人。困ったことに、少年は服も顔も薄汚れ気味。

背中に、朱鞘の長い刀をくくりつけている。相当使い込まれたらしく、柄はところどころ装飾が剥げ落ち、痛んでいた。使った痕跡がある、ということは人を斬った、ということだ。想像しただけで、鳥肌が立つ。ただの少年にしか見えないのに、剣の腕は相当なのだろうか。いや、長過ぎる。近頃では、長い刀が流行していたとはいえ、少年の体格には合わなさそうだ。

 このまま、放っておくわけにはいかない。家の前。ごほん、とひとつ気合いをつけるために、ため息をこらえ、咳払いをしてみる。情けないことに、少年に触れる勇気もない。ましてや、かかえ上げてどこかへ運ぶなんて、考えただけでも震え上がる。十五歳の自分たったひとりでは、どうすることもできなかった。

 箒を投げ捨て、走って家の中に戻ろうとする。梅雨時期の、なまぬるい風が頬にぶつかって、まとわりついてきた。手で、無理やりこすり落とす。

「ねえ。外に、人が倒れているの。早く、父さまっ」

 ようやく自分の声を取り戻し、大きく張り上げることができた。

 (ゆう)は着物の袖を振り乱しながら、家族で営んでいる旅籠に飛び込んだ。



 柚の家は、戸塚宿で旅籠を開いている。

東海道の宿場町、戸塚。東海道は、東京と改称されたばかりの江戸・日本橋から、京都を結ぶ、重要な道筋。戸塚は、その東海道五番目の宿場町。

京方面を目指して夜明けに日本橋を旅立てば、初日の宿場にもっともふさわしいのは、ここ戸塚。武蔵国から、お隣の相模に入った最初の宿場で、否が応にも漂泊への気分が高まる。旅籠の数も多いほうだ。東海道のほかに、鎌倉や大山方面に抜ける道もある。

開港して間もない横浜村など、比較にならないほど、かつての宿場は栄えていた。途切れることのない、賑やかな人馬の流れ。大仰な大名行列。ごみごみしていると非難する人もいるけれど、柚は雑多な感じの戸塚宿が好きだし、自慢だった。町が静まり返っていたりしたら、どうにも落ち着かない。

しかし、横浜が開港されて早十年。人とモノが横浜一点に集中し、珍しい舶来物が入ってくるようになったが、高価な絹や銀などが安価な価格で海の外に流れてゆく。ものの値がどんどん上がり、追剥に山賊、夜盗と物騒になった。東海道から人がまばらになるのとほぼ同じころ、暮らしがいっそう苦しくなっていった。往来がより盛んな横浜や品川まで、戸塚から出稼ぎに出る人もいた。

「この子、助かる? ねえ。助けてあげてよ、父さま」

 柚は、少年を旅籠の中にかかえて運んだ父に問いかけた。父は、汚れた少年を見るなり、無言で迷わず背中の刀を慎重に外して柚に預け、少年をかかえた。そのまま、二階のもっとも奥まった、静かな客室に上げる。まるで知り合いの子どもを救うように、父の動きには澱みがなかった。

「もっと静かに看ていなさい。起きたら、知らせるように」

 父は、足音を立てないように、そっと部屋をあとにして仕事に戻った。

 どこか遠くから流れて来た者や、身寄りのない者、宿賃すらない者もよく泊めてやった。

「関内で働いていた子かな。それとも、外国船? 働くことがつらくて、逃げてきたのかしら」

 突然の闖入者に興味津々の、柚。

ひとりごとにしては、やけに大きな声を出したせいか、少年はううっと呻き、目を醒ました。両目を、袖口でごしごしと数度、こする。なんとも子どもっぽい仕草をするものだ。寝ぼけているからだろう。焦点の定まらないとろんとした目で、柚に向いて言う。

「お……おなか、減った」

 喋った。きちんと、話ができるのか。どうでもいいことに感心していると、重ねて少年が切望する。

「恐れ入りますが、なにか食べる物を、お願いします」

 ぽかんと口を開いたまま、少年の顔を眺めていた柚は、ようやく我に返った。

「あ、ああ。食事ね。そうね、待っていて。すぐに、もらってくるから」

 少年の覚醒を伝えようと帳場に急いだが、父の姿はなかった。ならば先にと、柚は台所にすっ飛んで、お粥を運んできた。数日はなにも食べていない様子だったから、やや薄めに作ってもらった。

部屋に戻ると、少年は身を起こし、きちんと正座して蒲団の横にいた。身なりはともかく、折り目正しい少年だった。起きているのか、寝ているのか、判断がつきかねるほどに目が開いていないが、食べる準備は万端だった。

「はい、お粥をどうぞ。お椀、持てますか。熱いから、気をつけてね。でも、いきなり食べないで、白湯を先に飲んだほうがいいと思うわ。ねえ、どこから来たの? 名前は? どうして倒れていたの?」

 いくら話しかけても、いっさい語ろうとしない。柚が教えたように、少年はまず白湯を口にしたあと、おなかの中にかき込むというか、流し込むような勢いでお粥を一気に食べ終わると、また蒲団の上に倒れ、ぐうぐうと寝てしまった。

「よっぽど、減っていたのね」

少年の体に、そっと蒲団をかけ直してやる。蒲団にくるまってあたたかくして寝たほうが、熟睡できるだろう。とにかく空腹で、疲労がたまっていそうだ。つけ加えるならば、体の垢もひどく積もっている。次に少年が起きたら、その隙に蒲団を一式、取り替えなければ。雨天が続かないと嬉しいが。

 ふと、寝返りを打った少年の細い首に、紐が絡みつきそうになっているのが見えた。

「あぶない。首に絡まったら、大変」

 柚は少年を起こさないようにそっと、紐を緩めた。紐の先は、懐に忍ばせた革袋に続いていた。丈夫そうな革の袋。かなりずっしりと重そうで、毎日首から下げっぱなしにすれば、体には負担になるかもしれない。多少引っ張ったぐらいでは動かない。肩が凝りそうだ。現に、首もとにはすでに紐の痕がついている。

 なにが入っているのだろうか。

悪い、とは思うけれど、袋の中身への好奇心がむくむくとわきあがる。素直な好奇心だった。ほんの一瞬だけ考えたけれど、いいえ、人のものを勝手に触るなんて、だめだという心の声が聞こえた。甘い誘惑に良心が打ち勝ち、柚を諌める。

それなのに。

 袋を、もとの懐へ無理に押し込もうとしたとき、少年が再度寝返りを打ったため、計らずも、中身の一部がこぼれ落ちた。不可抗力だった。

 百両? 

ううん、もっとあるかもしれない。

見たこともない小判の枚数に、柚は腰が抜けそうになった。黄金色の小判のほかにも、小さな金銀の粒。柚は慌ててお金をかき集め、革袋にしまい直した。幸い、少年に目を覚ます気配はない。残らず、全部しまえただろうか。

ほう、と柚はため息をついた。鼓動の高鳴りが止まらない。こんなにたくさんの金銀を触るどころか、目にしたのは初めてのこと。身なりの目立つ少年が、大金を所持して街道を歩いていたなんて、危険過ぎる。

 この子。解せない。

 お金を持っているくせに、少年の身なりはひどく汚く、行き倒れとは。



 日本がふたつに分かれた、大きないくさが終わったばかりの、明治二年五月。

 薩摩や長州をはじめとする新政府軍が、完全に国内を制圧したのは、今月のこと。もっとも、最後の戦いは遠い蝦夷地だったから、大きないくさになったという印象はあまりない。江戸湾に大きな船が浮かぶ光景も、黒船以来すっかり恒例。西からやってきた新政府の軍隊が東海道を続々と通過した去年の春は、さすがに緊張したが、江戸の近郊では大きないくさは避けられた。旧徳川幕府側の抵抗があったのは、上野山。それに箱根。甲府や千葉方面でも小さな衝突はあったらしいが、新政府軍にあっけなく撃破されている。

 目の前の少年に、再び視線を落とす。

ところどころ擦り切れていて、しかも土埃や汗で汚いけれど、どこからどう見ても、戎服だった。戦から、逃れてきた? 戦といえば、蝦夷の箱館。箱館に渡った旧幕府軍の兵……となれば、新政府の反勢力。きっと、お尋ね者。

新政府軍の兵なら、堂々と道の真ん中を歩けるし、食べるものや寝るところに困ったりなんかしない。店や民家に押し入り、新政府の威光をちらつかせながら、腕づくで徴発すればいいだけの話。柚の旅籠の前で行き倒れる必要は、まったくない。

 戎服の肩には、『誠』の一文字の腕章が縫いつけられている。

「まこと」

 どこかで聞いた気もするけど、柚には思い出せない。

 着ているものが珍しくて、おとなびていたせいか柚自身よりもやや歳上に見えたが、少年をよくよく観察してみると、自分より幼く映ってきた。しつけは相応にあるけれど、あどけない顔に、規則正しい寝息。よく寝ている。

柚は、ほっとしながらも首を傾げつつ、忍び足で部屋を離れて父に報告を入れるために、再度階段を下りた。



 どこにいるのかと、柚は父の姿を探した。旅籠にはおらず、珍しく、父は自分の部屋で刀の手入れをしていた。柚が入ってきたのを認めると、丁寧に刀をしまった。もちろん、父の刀は血に濡れたこともない。まっさらで美しい刃紋を保っている。観賞用だった。今後もずっと、この刀が人を斬ったりするようなことはまずないだろう。

「あいつは、脱走さんだな」

 刀を片づけた柚の父は茶をすすりながら、つぶやいた。

「だっそうさん? あの子、やっぱり脱走さんなのかしら」

 新政府を認めずに、叛旗を翻して江戸を出て行った旧徳川幕府の兵を総称し、こう呼んでいた。本来ならば、静岡に下った徳川宗家に従うべきところを、己の意思で江戸を脱していくさを続けた者たち、という意味だろう。

「でも、あの子はどう見ても、私と同じ、歳は十五ぐらいよ。そんなに若くても、いくさについて行くものなのかしら」

「名前も歳も聞いてねえが、まあ、いくさは無理だろうな。刀ではなくて、使いやすい銃がいくさの主流になったとはいえ、練習と実戦ではまるで違う。ひととおり銃を扱えても、肝がついていかねえ。いくら背中に銃をくくりつけていたって、人は撃てねえだろう。敵をやっつけるということは、人を殺めるってことだ。やらなきゃ自分がやられる、理屈は分かっていても、たった十五そこそこで、他人がまっとうするはずだった人生の続きを背負えるか? 俺は、この歳でもいやだね。重過ぎる」

 柚も頷く。自分にもできない。

「おそらく、偉い人の身の回りの世話とか、食事の支度とか、雑用全般をしていたんだろうな」

「この騒々しい時期に、あの身なりで現れたってことは」

「箱館で、最後のいくさが終わったばかりだ。おそらく、蝦夷から逃げてきたんだろう。おい柚よ、あいつのことを、他人に、うかうかと喋るなよ」

「喋らないわよ。せっかく助けた子がお縄にかかったら、寝覚めが悪いわ」

「新政府のやつらは、脱走さんをくまなく探しては、かたっぱしから牢にぶち込んでいるっていう噂だ。ここからは推測に過ぎないが、もし、ほんとうに、箱館で脱走の幹部についていたとなれば、あいつへの詮索も厳しくなること間違いない。箱館に籠った兵は、ほとんどが降伏したが、幹部の何人かが見つからないらしい。戦死したのか、逃げたのか。とにかく、あいつはここで少し路銀を貯めたら、すぐに出て行くだろうよ。余所者だ。深く関わるな、そっとしておくんだ」

 このあたりの土地は、江戸に近接しているため、敗れた徳川贔屓の人間が多い。父も、柚もそのうちのひとり。働きたいと言われたら、認めるつもりらしい。けれど少年は路銀を貯めるまでもなく、お金を隠し持っている。柚は少年の革袋の話をしようと思ったが、やめた。出所不明の大金を持っていると言いつける形になるから、どうしても後ろめたい。できれば、自分は知らなかったことにしておきたい。

父は話を続ける。

「あいつの背負っていた刀、見たか? 朱鞘のあれ、相当高価な業物だ」

 柚は曖昧に頷いて、唇を噛んだ。

「確かに立派そうだったけど、父さまのものよりも?」

 父自慢の一振りに、視線を送る。旅籠の主人の持ち物にしては上等だ。実は、お金に困ったとある侍が、宿賃の代わりに置いて行った品だった。武士の魂とも称された刀が、宿賃の代わりになってしまうほど、権威は堕ちている。

「莫迦。うちのなまくら刀を十振り集めたとしても、あれほどの刀はきっと買えないだろうなあ。古いものではなさそうだが、いい拵えだ。あいつ自身は凄腕に見えねえから、預かった品だろうな」

「箱館の、偉い人、から?」

「たぶんな。形見分けとして。目覚めたら、見せてもらおうとするか」

 そうすると、少年が従っていた箱館の幹部とは、囚われているか、すでに亡くなっているかもしれない。革袋のお金も、どこかへ運ぶように頼まれたのか。大金を携えているのに、一銭も手をつけず、行き倒れるまで我慢するなんて。忠義で生真面目で、融通のきかない少年。

読了ありがとうございました。

2へ続きます。4章構成予定です。

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