1912年4月10日、サウサンプトン港にて
時は流れ、1912年4月10日――。
結婚からもうすぐ3年が経とうとしているセッティンガム男爵夫妻は、サウサンプトン港で当代随一の豪華客船の出航を見送る群衆の中にいた。
セッティンガム男爵ことアーサー・スタンリーと彼の義弟ジェフリー・ブルームフィールドが乗る予定だった船だ。
「本当に行かなくて良かったの?アーサー」
セッティンガム男爵夫人アリスが船の航跡を見つめているアーサーに問いかけた。
「君に見つかったんじゃあ仕方あるまい」
アーサーは肩を竦めて言った。
セッティンガム男爵夫妻は先月から「お互いに礼儀正しくしていた」――つまり、夫婦喧嘩をしていた。
今思うと原因は実にくだらなかった。
アーサーの古い旅行鞄――1907年から1908年にかけてマルタに行ったときに使って以来しまい込まれていたものだ――の底に忘れ去られていたある可愛らしいモデルの写真をアリスが発見したのだ。
その件がこじれにこじれ、つい逃げ出したくなったアーサーは、折しもケンブリッジでは必要なことをやりきったと感じていた義弟ジェフリーを連れて共にアメリカに渡ることにした。
しかし、彼らはそれをアリスに隠れて計画していたにもかかわらず、今日彼女はサウサンプトン港に現れた。
一体どうやって知ったのかアーサーにはわからなかったが、とにかく彼女は一等客用の乗船口へと繋がる舷梯の側に立っていた。
それを見つけたアーサーとジェフリーは乗船を取りやめるしかなかった。
「昔、似たようなことを言いましたけど、今回だってあなたが本当にアメリカに行きたいなら止めませんでしたよ。でも、そうではなさそうね?」
アリスはわざと皮肉に応じた。
「君の言う通りだ。自分が情けなくなっただけだよ。君が止めに来なくてもすぐに英国に帰っただろうさ」
アーサーの素直な答えにアリスは呆れたように眉を上げた。
「やっぱり、そうだと思ったわ」
「おや、わかっていたならなぜ来たんだい?」
「それは……わかっていても、あなたに行ってほしくなかったからです。それに、万が一本気だったら無理に止めることはできないけれど、それでも、何か影響を与えられたらと思ったの」
そう言いながらアリスがアーサーを見上げると、彼もまた彼女を見た。
「本気ではなかったにしても、影響は大いにあったよ。君の姿を見た瞬間、やはり私はケントに帰るべきだとわかった。君はあのときと全く同じ顔をしていたから余計にね」
「あのとき?」
「最初に会ったときさ。<オーチャード・グレンジ>で妹と弟を引き連れてクロッケー・マレットを構えていたときだよ」
アーサーが冗談めかして言うと、アリスの頬が少し赤くなった。
彼女は一つ咳ばらいをして言った。
「もう忘れてくれたって……」
「いや、一生忘れることはないね。あのとき、私は君に人生の舞台に引き上げられた。それでようやく、自分の人生を生きるようになったのだから」
そう言ってにやりと笑うアーサーをアリスは恨めしそうに見つめていたが、そのうちに柔らかく笑った。
二人は暫し小さくなった船を眺めながら潮風を感じていた。
やがて遠くに船の汽笛が聞こえたときアリスが切り出した。
「さて、そろそろジェフを探しに行きましょうか。アメリカに行けず落ち込んでいるはずだわ。まあ、もっともジェフだって本当にアメリカに行きたかったわけではないのでしょう?」
「ああ、ジェフはただ人生に迷っているのさ」
「<オーチャード・グレンジ>からケンブリッジに行って急に世界が広がったのだから、無理もないわね」
アリスの口調に僅かに心配の色が滲んだのに気づいたアーサーは明るく言った。
「以前君が言った通り、私たちがジェフを救ってやることはできない。でも、きっと、彼が前進するための手がかりを与えてやることくらいはできるよ」
「ええ、そうね」
そう言ってアーサーを見たアリスの瞳は瑞々しく輝いていた。
それを見たアーサーの口から自然と言葉が零れた。
「愛してるよ、アリス」
「まあ、誰かに聞かれるわよ?」
アリスはそう言って辺りを見回して彼に目配せしたが、その口元には隠しきれない笑みが滲んだ。
「構わないさ。私はまた君への愛のために『アーサー・スタンリーの愉快な人生』の舞台から逃げずに留まったのだから」
「あなたったら、その喩えが好きね。全く……人生はお芝居なんかじゃないのよ?」
「まあまあ、いいじゃないか」
そう言いながらアーサーが差し出した腕をアリスはごく自然に取った。
そうして、セッティンガム男爵夫妻は、青い海の彼方のすっかり小さくなった船に背を向けて歩き出した。
二人の頬には赤みは差さなかったが、その顔には生き生きとした微笑みが浮かんでいた。
「それにしても、今回君はどうやって私たちがあの船に乗るって知ったんだい?」
「それは……今回ばかりは少々レディらしくないことをしました」
「おや、初対面の紳士をマレットで追い払おうとしたのと同じくらい?」
「だから、忘れてくださいと……でも、まあ、そうかもしれません」
二人の穏やかな笑い声はサウサンプトンの潮風に消えていった。
暫くしてジェフリーと合流した彼らは、果実が実る前の花盛り真っ只中のケントに戻るだろう。
その土の上でこれからも寄り添って、時々はぶつかって、しかし、結局は共に人生を生きるのだ。
彼らが生きるのはきっと、アーサー&アリス・スタンリーの愉快な人生――。
ご読了ありがとうございました!
無事本編次作(第4部)を公開することができれば、このスタンリーが生存ルートを選んだ一件にも少し触れられるはずです。




