君と生きたい人生
セッティンガム男爵アーサー・スタンリーとブルームフィールド家の長女ミス・アリス・ブルームフィールドの婚約が解消されたことは、それからひと月以内に新聞の社交欄に掲載された。
通常であれば、こうした婚約解消は令嬢の評判に取り返しのつかない痛手をもたらすが、今回に限ってはあまり心配なかった。
相手が例の「テムズ川の男爵」とあっては、どちらに非があるかは明らかだからだ。
その婚約解消記事の掲載を待たずして、アーサーは外国に渡った。
この件を人々が忘れるまで数か月は英国を離れなければならないというのが、今回の母の判断だった。
ただ、自らの手で幸せを壊した愚かな息子を憐れんだ母は、今回はアーサー自身が行き先を選ぶことを許可した。
アーサーには行きたい国も場所もなかったが、ふとテムズ川よりも美しい川があるか探しに行こうと思った――。
そして、数か月後の1909年3月、アーサーはシチリアにいた。
「まさか、君がここに来るとは思わなかったよ、スタンリー」
ディナーの後で訪ねてきた彼をホテルの部屋に招いた友人ハーコートはいつも通り皮肉に言った。
兄妹と避寒旅行中のハーコートは、数週間前にリヴィエラからシチリアに移ってきていた――旅行中の貴族の動向は新聞の社交欄により筒抜けなのだ。
先週ナポリのホテルで数日遅れの英国の新聞をめくった際にその記事――「ウェクスフォード侯爵家のご兄妹、タオルミーナのホテルに到着」――を見つけたアーサーがここに寄らない手はなかった。
「まあ、シチリアの遺跡には全く興味はないね」
アーサーは笑った。
依然顔色は悪く見えるが、ヨーロッパを巡った彼は少し日に焼けていた。
「さて、君はスコッチでいいのか?」
「いや……」
アーサーはごく自然に使用人に合図しようとしたハーコートを止めて言った。
「折角シチリアにいるのだし、マルサラをもらうよ。甘口だと有難い。というより、私は本当はスコッチは好きじゃないんだ。先月ザルツブルクで急に気づいた」
ハーコートは少し眉を上げたが、深くは追及しなかった。
すぐに二人分の甘いマルサラ・ワインが用意され、彼らはその赤褐色のワインを味わった。
「婚約解消の件は残念だったな」
「ああ。君にも迷惑をかけたな、ハーコート」
アーサーはワイングラスを傾けながら言った。
リリーの夫は、あのロンドンの夜の件を世間に公表することまではしなかった。
しかし、きっとハーコートはあの夜に何かがあったのだと察しているだろうと思った。
「別に迷惑だとは思ってないさ。ただ、今日の君が思ったより元気そうで良かったよ」
「まあね、私は意外なほど元気だ。ここに至るまで何カ国も回っている割に疲れてもいない」
ここに来るまでアーサーは、フランス、スイス、ドイツ、オーストリア、イタリアを巡り、様々な川を見た。
セーヌやロワール、ローヌ、ライン、ドナウ、ザルツァッハ、アルノ、テヴェレ、ヴォルトゥルノ――都会の中でも自然の中でも見た。
ラインでは川下りさえした。
「でも、まあ、テムズ川より美しい川は見つからなかったなあ」
「おや、テムズ川が美しい?あんなに汚れた川はないと思うが」
ハーコートは訝しげに言った。
「だからだよ。工場の排水も家の排水も全部混じっている。だから、夜、街の灯りに輝く水面が美しいんだ。……それを見ていると昔、弟が池に惹かれた気持ちがわかる気がする」
アーサーが付け足した言葉に、ハーコートは微かに目を見開いた。
「君には弟がいたのか?」
「ああ、4歳のときに庭の池に落ちて死んだけどね」
アーサーは笑わなかった。
ただ、弟のことを思った。
弟が池に落ちたのは明け方だったのだろう。
きっと水面に朝日が反射していたのだ。
「それ以来だった。私が自分の人生を降りてしまったのは。弟を亡くした痛みも、弟という支えをなくして一人で背負った責任の重さも全て他人事にした。大人になって流石に誤魔化しがきかなくなったが、世間が用意した“麻酔”を打っておけば一時的には楽になった。それで、行き着いた先が美しくも汚れたテムズ川だ。あのまま沈んでしまいたかったが、結局引き上げられた。自分が“麻酔”として使っていた女性たちにね。そして、アリスに出会って、自分の人生の舞台にも引き上げられた。そして、今は自分の意思でそこに留まっている……」
アーサーは何気ない口調で言って、甘いマルサラをまた一口飲んだ。
そんな彼の横顔を見つめながらハーコートが神妙に言った。
「そうか……イートンで君をボート部に誘ったりなんかして悪かった、スタンリー」
「いや、いいんだ。最近まで誰にも言ったことがなかったのだから」
アーサーはサイドテーブルにグラスを置くと、さも可笑しそうに笑いながら続けた。
「それに私の方だって、オックスフォード時代の悩める君に“麻酔”を勧めてしまった。君には明らかに不要だったろうにね」
「ああ、確かにあれには閉口した。まあ、私たちはどこか似ているが、必要とするものは違うということだ」
「そうか?私は君と私とは全然違うと思っていたが」
「やれやれ、そう言われてしまうと、論理的には君が正しいことになる」
ハーコートはどこか楽しげに眉を上げた。
そして、話題は二人のここまでの旅行のことに移っていった――。
「じゃあ、私はそろそろ行くよ」
夜がすっかり更けたころ、アーサーは席を立った。
そして、部屋を出る前にハーコートを振り返り、からかうように言った。
「おや、今日は私に何も問いかけないのか、ハーコート」
ワインを片手に彼を見つめるハーコートの灰色の瞳は穏やかだった。
「そんな必要ないだろう?『アーサー・スタンリーの愉快な人生』はまだ上演中だ。私は大人しく席に座って続きを観るよ、スタンリー」
「おやおや、君もその喜劇の登場人物なんだけどね、ハーコート」
二人は目配せすると、彼らにしては珍しく声を上げて笑った。
***
そして、その年1909年5月、アーサーは社交シーズン真っ盛りのロンドンに戻った。
以前のように享楽に浸るためではなく、母セッティンガム男爵夫人の頼みで舞踏会に出席するためだ。
男爵夫人はまだ息子の結婚を諦めてはいなかった。
アーサーの方では結婚する気はなかったが、あの冬の日に母の涙を見て以来、無理のない範囲で母の願いを叶えることにしていた。
もしかすると、こういうことこそ生きるということなのかもしれないと最近のアーサーはそう考えるようになった。
それは、ある夜の舞踏会で、アーサーが二、三の令嬢と罪のないダンスを楽しみ、そろそろ帰ろうと思っていたときのことだった。
広間の隅で男女が揉めているのが目に入った。
どうやら男の方が令嬢をしつこく軽食に誘おうとしているらしい。
困ったことに令嬢のシャペロンは今席を外しているようだった。
そして、よく見ると令嬢の方は、なんとあのブルームフィールド家の四女ダイアナだった――ケントの社交界は望み薄と見て今シーズンはロンドンに出て来ているのだろう。
アーサーは心配になったが、彼女に見つからないよう少し遠巻きに彼らを注視するしかなかった。
この状況で姉を傷つけた男まで現れたら、ミス・ダイアナは動揺してしまうだろう。
しかし、そうこうしているうちに、男が彼女の腕を掴んだので、アーサーはいよいよ介入した方が良さそうだと一歩踏み出した――が、次の瞬間、姉妹の中で一番気の強いダイアナは迷うことなく男に張り手を食らわせた。
アーサーは驚いたが、正直に言って、同時に痛快さも感じた。
さすがアリスと共にあの日マレットを構えていた令嬢だ。
ところが、それで引けば良いものを男がわざとらしく痛がるので、周囲の人々の目は彼らに集中してしまった。
少し離れたところにいたらしいミセス・ブルームフィールドと姉妹の五女ユージェニーが慌ててダイアナのところに駆け寄って来た。
男は依然大げさに痛がりながら、聞こえよがしに言って笑った。
「なるほど。さすが娘ばかりの田舎地主の家では、紳士への挨拶の作法も随分と……健康的だ」
ダイアナの瞳は怒りで燃え、ミセス・ブルームフィールドとユージェニーの顔は真っ赤になった。
周りの紳士たちは笑った。
レディたちも扇で口元を隠していた。
もしかすると、あまり面白いとは思わない人もいたかもしれない。
しかし、まさに「笑うべきとき」だった。
アーサーはそれを理解していたが――笑わなかった。
彼は黙って例の非礼な男に視線を向けた。
非礼な男はアーサーの視線に気づいたが、笑うのを止めなかった。
しかし、周囲の人々はただ黙って男を見つめているアーサーに気づくと、軽く咳ばらいをしてその場を離れていった。
大方の人々が散ったところで、アーサーは会場を後にした。
ミセス・ブルームフィールドにも娘たちにも声はかけなかった。
それだけだった。
***
ところが、その翌週、アーサーのベルグレービアのタウンハウスに予想外の訪問者があった。
ミスター・ブルームフィールドと――アリスだった。
アーサーと母は驚きながらも彼らをテラスで迎えた。
ミスター・ブルームフィールドは先日の舞踏会でアーサーがブルームフィールド家のレディたちを助けたことについてお礼を述べた。
アリスは父の隣でただ微笑んでいた。
アーサーは突然の再会に戸惑う一方でもう一度アリスと会えたことが嬉しかったが、以前のようには彼女と親しくすべきではないこともよくわかっていた。
すると、アーサーの母がミスター・ブルームフィールドに庭を見せたいと言い、彼を連れてテラスの正面の庭に出て行った。
二人が行ってしまうと、アリスが口を開いた。
「改めて……舞踏会で母と妹たちを助けてくださってありがとうございました」
「いや、別に助けたわけでは……」
アーサーは戸惑いつつ言った。
ただ「笑うべきとき」に笑わなかっただけなのに感謝されるのも少しおかしい気がした。
「ええ、あなたにそこまでのおつもりがなかったのはわかっています。でも、母と妹は実際に助けられました。もちろん、それで田舎地主の当家の社交界での立場が変わったわけではありません。それでも、私たちはあなたのお蔭で今日も笑って暮らしています」
アリスの暗い色の瞳がアーサーを真っ直ぐに見つめていた。
「セッティンガム卿、最後にお会いしたとき私がお話ししたことを覚えていますか?私は『人が他人を救うことなんてできない』などと……今思うと随分と偉そうなことを言いました」
「もちろん、覚えているが……」
アーサーはあのときのアリスを思い出した。
顔は青ざめ、目元は赤かったが、一つの涙も零さなかった。
今でも彼女にそんな表情をさせたことを深く後悔していた。
「今回の舞踏会の話を聞いて気づきました。『人が他人を救うことなんてできない』というのはきっと間違いではないのでしょう。でも、それでも、人がお互いに影響し合っているのもまた本当のことなのですね。そう思えたのはあなたのお蔭です」
真っ直ぐな瞳でそう語るアリスの頬にはあの頃と同じように赤みが差していた。
それはテムズの複雑で淀んだ煌めきとは違うもっと明るくて澄んだ光だ。
あの日、アーサーはそれを求めたが、昏い観客席にいた彼にはその刺すような明るさが恐ろしかった。
しかし、今、アーサーはもうそれを恐れていない自分に気がついた。
「私たちがケントの土地を守り、そこで育った果実が誰かの手に渡る……それがその人の人生を決定的に変えることはまずありません。でも、その実がそれを食べた人に何かをもたらすとしたら。もちろん、ほんの小さなことかもしれませんし、良いこととも限りません。でも、それが何であったとしても、誰かの行動が誰かに影響するというのは、尊い営みだと思ったのです」
アーサーは頷いた。
アリスの言う通り、人が誰かを決定的に救うなんて無理だ。
結局、自分のことは自分で救うしかない。
でも、他人が一切無関係なわけではない。
誰かの言葉に傷ついて人生の舞台を降りたくなることもあれば、誰かの言葉に温められてもう少し舞台に留まっていようと思う。
そして、自分が他人にそんな影響を与えてしまうこともある。
人生そんなことの繰り返しなのだろう。
「影響といえば……アリス、あの日君に言われてから、私は『生きたい人生』についてよく考えたよ。そうしたら、まず、今までいかにしたくないことばかりしていたかが見えてきた。例えば、私はオペラを見るときは、私らしいと思ってブッファを選ぶようにしていたが、本当はセリアの方が好きなんだ。それから、毎晩、男らしくスコッチとシガーを嗜んでいたが本当はどちらも嫌いだった」
アーサーが吐き捨てるように言うと、アリスは少し笑った。
「それから、好きなものもわかった。やっぱりロンドンの街は好きだ。夜遅くまで明るくて、人々の思惑が行き交う。そして、何よりテムズがある。あそこには人間の暗部が詰まっている。なのに、夜の水面は美しいんだ。しかし、一方でケントも好きだ。あの後、遂にホップ畑に行ったよ。畑の土を踏みながら春風に靡くホップの音を聞くとこの世界に嫌なことなど何もないような気がした。そして、やはりあの――<オーチャード・グレンジ>。私はもう訪ねることはできないが、実り多い果樹園に賑やかな姉弟。あれほど素晴らしい場所を私は知らない」
アーサーは懐かしさに目を細めた。
アリスはそんな彼の横顔を見つめた。
相変わらず、どことなく顔色が悪いが、それでも、もう「空っぽ」ではなかった。
「アーサー、私、あなたと結婚します」
アリスが出し抜けに言った言葉にアーサーは持っていたティーカップを落としそうになった。
彼はカップを慎重にソーサーに戻してから言った。
「一体何を……?」
「あら、求婚は『いつまでだって有効』とおっしゃったじゃありませんか」
確かにアーサーはそう言ったが――。
「私はあの日、あなたを救うのをやめました。今でもそれは正しかったと思います。私はそんなことで自分の価値を証明するべきではないのです。ただ、私はこれからもあなたに影響を与え、影響されていたいと思いました」
アーサーの脳裏にふとあの日アリスが差し出した真っ赤な冬りんごが浮かんだ。
あの晩生種のりんごは収穫後に成熟させてから食べるものなのだ。
今の自分たちは十分に成熟していると言えるだろうか。
しかし、成熟していようがいまいが、選ぶのは自分だ。
自分の人生なのだから。
――あなたが生きたい人生が見つかることを祈っています。
あの日、アリスが言った言葉。
今ならそれに答えることができる。
「アリス、私は君をひどく傷つけてしまった。もう二度とあんな過ちを犯すつもりはないが、それでも不意に君を傷つけることはあるかもしれない。それでも――」
そして、アーサーはアリスの手を取った。
「ミス・アリス・ブルームフィールド、それでもどうか私と結婚していただけないでしょうか。君とお互いに少しずつ影響しながら生きていけるなら、何があってもきっと愉快な人生にすることができる。私はそういう人生を君と生きたいんだ」
アリスは微笑んで頷いた。
その瞳はあの日マレットを構えていた彼女と同じように燃えていて、その頬はあの日の冬りんごのように赤かった。




