破滅のプロット
※前話から引き続き鬱展開なのでご注意ください。
それから先はあっという間だった。
気がついたときにはアーサーはリリーと共にほの暗い楽屋のソファに沈みこんでいた。
しかし、それだけでは済まなかった。
彼らがまだ息を整えない内に楽屋の扉が開いた――そこにいたのはリリーの夫、妻とアーサーの醜聞に怒り、例の「テムズ川の准男爵」を書いた劇作家だった。
彼は騒がなかったし、怒り狂ったりもしなかった。
ただ瞳から止めどない涙を流しながら言った。
「リリー……どうして……。またその男爵なのか……」
リリーはすぐに服を整えると、楽屋の隅に座り込んでしまった夫の元に駆け寄った。
「ティム、ごめんなさい。こんなつもりじゃ――」
「また金やら名声やらのためなのか――?」
「今度ばかりはそんなのじゃないのよ……」
アーサーは彼らの会話を聞きながら、できるだけ音を立てずにソファから起き上がった。
二人は彼の方を一瞥もしなかった。
アーサーはジャケット、コート、帽子を拾い集め、ジャケットの内ポケットから財布を取り出した。
これ以上の騒ぎにならない内に、せめて金を置いて出て行くべきだと思った。
「じゃあ、何だ?愛なのか?それとも、ただの欲望?」
「いいえ、愛でも欲望でもないわ」
「なら、どうして……?」
夫は声を荒げなかった。
しかし、その言葉が狭い楽屋に悲鳴のように響いた。
「……ただ、何だかすごく可哀そうに思えたの。それだけよ」
リリーは静かに言った。
楽屋の扉の前でそれを聞いたアーサーはサイドテーブルに置こうとしていた5ポンドをジャケットのポケットに捻じ込んだ。
憐れまれたことに傷ついたからではない。
ただ、彼らをこれ以上傷つけるべきでないと思った。
鏡に映る彼の顔は依然青ざめていたが、先ほどまでの息苦しさはなかった。
しかし、彼の底に溜まった真っ黒な澱は少しも減ってはいなかった。
アーサーは楽屋の扉を静かに閉めると、劇場の外へと歩き出した。
もう霙は止んでいた。
アーサーは立ち込める霧でぼやけた劇場の灯りを背に、来た道を戻っていった。
***
その後、アーサーはケントには戻れなかった。
間に合わせの用事を作り、ロンドンのベルグレービアにある男爵家のタウンハウスに籠っていた。
その暗いタウンハウスの中で、ロンドンでの出来事よりもケントでの日々を思った。
果樹園の土の香り、ブルームフィールド家の喧騒、アリスが差し出した冬りんご――。
しかし、ずっとそのままでいられるわけがなかった。
全てなかったことにできるわけがなかった。
リリーの夫は今度こそアーサーのことを許さなかった。
彼は相変わらず売れっ子の劇作家ではあるが、今回ばかりは喜劇に昇華してはくれなかった。
彼は劇作家らしく、アーサーを最も傷つけるプロットを選んだ。
今回の出来事を物語として書き起こし、それを送った――ケントの<オーチャード・グレンジ>に。
アーサーとアリスの婚約は、貴族の婚約の通例に従って新聞の社交欄で発表されていたので、彼女の居所を知ることは誰にでもできた。
その知らせを聞いてまずはケントの自邸に戻ったアーサーを迎えたのは、母だった。
母は帰ってきた息子を見るなり言った。
「アーサー、あなたは幸せになれたのよ……!それをどうして!」
アーサーが母の涙を見たのはそれが初めてだった。
父が亡くなったときも、弟が亡くなったときも、母は貴族のレディらしくただ背筋を伸ばしていた。
アーサーはすぐに<オーチャード・グレンジ>を訪ねなければならなかったが、母は同行を拒否したので、彼は一人で馬車に乗り込んだ。
<オーチャード・グレンジ>への道すがら、アーサーは馬車に揺られながら、窓の外に広がる果樹園を見つめていた。
冬の果樹園には何も実っていなかった。
アーサーは目を閉じ、さくらんぼが赤々と実っていたあの夏の日のことを思い出した。
アリスは、今日もあの日と同じようにマレットを構えて自分を待っていてくれないだろうか。
今度こそマレットで叩かれるだろうが、それだって構わない。
あの日の燃える瞳と赤い頬のまま、待っていてくれないだろうか――。
***
<オーチャード・グレンジ>でアーサーを迎えたのは一家の父ミスター・ブルームフィールドだった。
書斎でアーサーを迎えた彼は、品行方正であることを重んじる地主階級の紳士としてひたすらに困惑していた。
「セッティンガム卿、私は、家のため娘のために、怒るべきなのでしょうが……とにかくわからんのですよ。一体何故こんなことを?」
アーサーはミスター・ブルームフィールドの問いに答えられなかった。
世間の許容範囲に収まるわかりやすい説明をすることはできたはずだ。
責任の重さへの恐れ、若さゆえの衝動、家庭と恋愛の区別。
しかし、どれも本当の理由ではない。
本当の理由は複雑すぎて、アーサー自身にも全てを説明することが不可能だった。
いずれにしても、彼らの話はまとまった。
セッティンガム男爵家がブルームフィールド家およびミス・ブルームフィールドの名誉を損なわない形で婚約を辞退する。
それしかなかった。
最後にアーサーは断られることを承知でアリス本人への謝罪を願い出た。
ミスター・ブルームフィールドは気が進まないようだったが、結局はアーサーをアリスとミセス・ブルームフィールドが待機していた応接間へと案内した。
アリスは母親に付き添われて長椅子に座っていた。
あんなに生き生きと燃えていた暗い色の瞳には光がなく、頬も青白かった。
目の周りだけが赤くなっていた。
それでも、彼女は両親にはっきりと告げた。
「お父様、お母様、扉は開けておいて結構ですので、セッティンガム卿と二人でお話しさせてください」
事前に親子の間で合意されていたことだったようで、ブルームフィールド夫妻は廊下で聞いているとだけ釘を刺して応接間を出て行った。
二人きりになり、先に切り出したのはアーサーだった。
「アリス……ミス・ブルームフィールド、今回の件を心よりお詫びします。偏に私の弱さが招いたことです。しかし、あの日、あなたに求婚した私の心に嘘はありませんでした。それだけはどうかわかってください」
アリスはただ頷いた。
彼女は暫し考え込んでいるようだったが、やがて口を開いた。
「あなたのお気持ちに嘘がなかったことはわかっています。ただ、今回の件で思い知りました。私はひどく自惚れていました」
アリスはそう言って膝の上で組んだ両手を見つめた。
アーサーはその手に彼女の涙が落ちることを恐れたが、そうはならなかった。
「私はこの家に長女として生まれ、常に誰かを救ってきたつもりでした。病弱な弟を支え、内気な妹を望まぬ結婚から守り、今度は『空っぽ』を装って死んだように生きるあなたを救うつもりでした――しかし、全ては私の思い上がりでした」
アリスは自嘲するように言って、一度ゆっくりと瞬きをした。
「弟は立派な青年になりましたが、私の支えのためではありません。ジェフリーはただ成長しただけです。妹は望まぬ結婚を避けましたが、私が守ったからではありません。あなたもご存じの通りクレアは内気ながらも毅然としたレディです。彼女は自分で断ることができたでしょう」
「ジェフとミス・クレアのことはそうかもしれない。でも、私は違う。私は君のお蔭でもう少しで救われそうだった」
アーサーは言ったが、アリスは首を振った。
「いいえ、最初から私にあなたを救うことはできませんでした。そもそも、人というものは他人を救うことなどできないのでしょう。無理にそうしようとすると、どこかに歪みが生じます」
「いや、無理ではなかったはずだ。私はこれまで自分の人生を観客席から眺めていた――まるで他人事のように。でも、君は私を人生の舞台に引っ張りあげてくれた。これからもそうしてほしかった。君は救いたい、私は救われたい。私たちの気持ちは一致していた。私が台無しにしただけで、『私たち』は正しかった。そうだろう?」
アーサーは、秋の日にアリスから受け取った冬りんごの重みを思い出した。
あの晩生種のりんごはまだ熟していなかったが、あの赤さは本物だった。
彼らも同じはずだった。
アーサーがその重みに耐えられなかっただけだ。
「では、教えてください。今回のことはあなたが心から望んでしたことなのでしょうか?もし、そうだとしたら私は最終的には受け入れたでしょう。でも、私にはどうもそうには思えないのです」
アーサーは答えられなかった。
アリスは正しかった。
ただ、したくもないことをして、他人も自分も傷つけたなど認めれば余計にアリスを傷つける気がした。
アリスはその沈黙の意味を理解し、アーサーを真っ直ぐに見据えて言った。
「ごめんなさい、アーサー。やっぱり『私たち』は間違っていたのです。誰かを救うことで自分の価値を証明したかった私は、自分の都合にあなたを巻き込み、犯したくもない過ちを犯させてしまいました」
「アリス、私は――」
アーサーは何か言いたかったが、言葉が続かなかった。
何を言っても嘘になってしまう。
そして、最後にアリスは言った。
「さようなら、セッティンガム卿。どうかお元気で。不幸にだけはならないでください。あなたが生きたい人生が見つかることを祈っています」
アリスの赤い目元には涙が滲んでいた。
しかし、彼女はそれを決して零さなかった。




