澱と麻酔
※この話と次の話は鬱展開になります。ご注意ください。
アリスがアーサーの求婚を受け入れたことを知った両家の面々は揃って喜んだ。
アーサーの母セッティンガム男爵夫人は「最初は静かなミス・クレアを望んでいたけれど、あなたには元気が良すぎるくらいのミス・ブルームフィールドが良いのでしょうね」と溜息をつきつつも微笑んだ。
当初こそアーサーの醜聞を懸念していたブルームフィールド家の両親と姉妹も、アーサーの人柄に触れるうちに「若い紳士によくある“冒険”が少し行き過ぎたのだろう」という見解で大方一致するようになっていたので、元々未婚を貫くつもりだった長女の思わぬ幸せを祝福した――とはいえ、夫妻には男爵家と縁ができれば他の娘たちの嫁ぎ先も見つかりやすくなるだろうという打算もあったことにはあっただろう。
そして、末の弟ジェフリーはそれは喜んだ。
表立って認めたことは一度もないが、彼がずっと兄を欲しがっていたことは誰もが知っていた。
アーサーは幸せだった。
あの実り多い<オーチャード・グレンジ>で、あの賑やかなブルームフィールド家で、そして、何よりケントの豊かな土の上で生きてきたアリスが自分の側にいてくれるなら、彼はもう安全だった。
アリスがいてくれれば、世間の“構造”に押しつぶされることなど恐れなくても良かった。
もう二度と生きているかどうかを心配されることもないはずだった。
しかし、話はそう単純ではなかった。
その頃のことで、アーサーがまず思い出すのは、二人の婚約が正式に発表される直前のクリスマスに、セッティンガム男爵家で開催されたハウスパーティーのことだった。
男爵家はいつもの客人に加えて、婚約が内定しているアリスとブルームフィールド家の年長の面々を招待していた。
クリスマス・イブのパーティーの途中、アーサーはブルームフィールド夫妻と他の客人とのブリッジを終え、何気なくテラスに出た。
すると、少し前に外の空気を吸うと言って庭に出て行ったアリスと次女ベアトリスがテラスの階段のすぐ下で寄り添いながら話しているのが聞こえた。
「あのね、アリス。セッティンガム卿は良い方よ。でも、あんな不品行のあった方の妻になって本当に大丈夫なの?」
規範を重視するベアトリスらしい発言だった。
アーサーは思わずテラスの柱の陰に身を隠し、彼女たちの様子を窺った。
「あら、いつだったかお母様が上流階級の殿方にはそういうこともあるっておっしゃっていたじゃない?」
アリスは冗談めかして言った。
「それにしたってよ。一人や二人じゃなかったそうじゃない……彼の愛人は」
ベアトリスは「愛人」の部分だけ囁くように言った。
「そうね、良くないことよね。でも、過去のことよ。もう決めたの」
ごく自然にそう言ったアリスから室内へと視線を逸らしたとき、アーサーは窓際の客人が飲んでいた赤ワインがグラスの中で揺れたのを見た。
アーサーの底に黒いものが一つ沈んだ。
その次にアーサーが思い出すのは、年が明け、二人の婚約披露パーティーも終わった後のある日のことだった。
その日、アリスと彼女の母ミセス・ブルームフィールドが男爵家の屋敷を訪ね、アーサーと母セッティンガム男爵夫人と午後のお茶を楽しんでいた。
双方の母親は早くも二人が結婚した後のことに思いを巡らせていた。
本当に母親らしい何げない会話だった。
「アリス、とにかく早く男の子を産むことよ。うちは最後にジェフリーが生まれたから良かったけど、それまで不安で仕方がなかったわ。特にセッティンガム男爵家には爵位の問題もあるのですから」
きっとミセス・ブルームフィールドは娘に苦労をさせまいと言ったのだ。
「あら、焦ることはないわよ。それよりアーサーに良い父親になるよう努力してもらう方が先よ。ねえ、ミス・ブルームフィールド?」
きっと母はアリスに重責を負わすまいと言ったのだ。
「ええ。でも、私はセッティンガム卿は今のままでもきっと良い父親になると思っていますわ」
きっとアリスはアーサーを信じていたからこそ言ったのだ。
アーサーはカップの中の砂糖がすっかり溶けてからもまだ動かし続けていたスプーンをようやく止め、彼女を見つめた。
アリスはただ微笑んでいた。
何の衒いもない微笑みだった。
微笑む彼女の後ろの窓に凍てつく冬の池が見えた。
そうして、アーサーは真っ黒な澱でいっぱいになった。
あの夜の淀んだテムズのように――。
***
アーサーは、それから数日以内にケントから逃れるようにロンドンへと向かった。
1909年1月下旬のことだった。
ほぼ2年ぶりのロンドンは、以前と変わらず石炭の煙とテムズの湿気が混ざった黄色い霧に覆われていた。
夕方にケントを発ったアーサーがロンドンに着いたときにはもう午後8時半を過ぎていた。
アーサーは友人ハーコートがブルームズベリーにある彼の二番目の兄の屋敷に一時滞在しているのを知っていたので、そこに顔を出すことを口実にしていた。
ハーコートと彼の兄妹は、数日中に避寒旅行に出かけることになっていて、その前に皆でロンドンに立ち寄るのだと聞いていた。
ただ、その夜、彼は一人だった。
屋敷を訪ねたアーサーが通された書斎では、ハーコートが食後のポートワインを嗜みつつシガーを燻らせていた。
「地中海に発つ前に会えて嬉しいよ、スタンリー。先日の婚約パーティー以来だな。兄と妹も君を歓迎しただろうが、二人はコヴェント・ガーデンに出かけてしまった。君があと2時間ほど早く来ていたら、我々もまとめて当家のボックスに連れて行かれるところだったな。しかし、君がロンドンにいるのを珍しいと思うようになるとは人生何があるかわからないものだね」
ハーコートはアーサーにもシガーを勧めながら皮肉に笑ったが、アーサーの様子に気づいて眉を寄せた。
「何かあったのか?いつも以上に顔色が悪い気がするが……」
「ああ、そうかもしれない。折角だがシガーの気分じゃないんだ。なんだか息苦しい。スコッチだけもらえるか?」
アーサーがそう言うと間もなく屋敷のフットマンがスコッチウイスキーを用意した。
彼はそれを喉に流しこみ、顔を顰めた。
「本当に大丈夫か、スタンリー?」
「大丈夫だよ。ただ……去年、私がテムズ川に落ちた後、君が言ったことを考えていた」
――スタンリー、君は……本当に生きているのか?
アーサーはあのときのハーコートの言葉を今更ながら何度も反芻していた。
黙り込んだアーサーを見て、ハーコートの眉間の皺が深くなった。
「まさか気にしていたのか?あのときは余計なことを――」
「いや、君が正しかったよ、ハーコート。私は今まで本当には生きていなかった。ずっと劇を観ている気分だったんだ。『アーサー・スタンリーの愉快な人生』――社交界の紳士淑女の記憶には残らないが、永遠のようなロンドンの夜の暇をつぶせる程度には面白い喜劇だ」
アーサーは自嘲して、手元のグラスの琥珀色の水面を見つめた。
「しかし、今ようやく私は自分が観客席に座っているのではなく、舞台の上に立っていることに気がついた。正直、恐ろしいよ。自分の一挙手一投足が自分にも他人にも影響する。私はその重さに耐えられないんだ」
「スタンリー、どうしたんだ?」
「だからこそ、私はこれまで無意識に誰からも期待も信頼もされることがないよう振る舞ってきたんだろうな」
「……スタンリー、一体何の話をしている?」
「ハーコート、わかっているだろうけど、君には何もできない。オックスフォードで私が君に何もできなかったのと同じさ」
「オックスフォード?君が私に?ちょっと待ってくれ、スタンリー。君は少し――」
「でも、アリスなら私を救えると思ったんだ。しかし、彼女が私を救うということは、これまで私が背負うことを拒否したものを彼女が代わりに背負うということだった。私の過去、現在、未来――全て淀んでいる。このままでは彼女は私と共に沈むだけだ」
「アーサー!頼むから聞いてくれ!」
ハーコートがサイドテーブルに置いたグラスの中で赤黒いポートワインが揺れた。
アーサーは淀んだテムズとそれと同じくらい淀んでしまった自分のことを思った。
「ああ、そのつもりだった。私より遥かに頭の良い君の話を聞けば何とかなると思ったんだ。しかし、君を前にしてよく分かった。やはり私は君のようにはできない。私は世間の“構造”に“適応”しているつもりだった。しかし、実際は沈んでいるだけだった」
それを最後にアーサーは立ち上がった。
あの日、マルタに発つ前に彼を訪ねたときと同じようにハーコートの灰色の瞳が彼を刺すように見つめていた。
アーサーはただ書斎の扉へと歩いて行った。
「……君は一体どこへ行くつもりなんだ、スタンリー」
ハーコートの問いが背中に刺さった。
しかし、今夜、アーサーは振り返らなかった。
***
ブルームズベリーの屋敷を後にしたアーサーは、ドラリー・レーンをひたすらに歩いていた。
ロンドンの汚れた黄色い霧のせいかどうにも上手く呼吸ができず、思わずコートの下のディナージャケットのタイを緩めた。
ふとテムズ川を見たくなった。
あの淀んだ川の美しさを知っているのはアーサーだけだ。
ところが、ドラリー・レーンとストランド通りの交差点に着いたとき、霙が降り始めた。
観劇後に深夜の食事に向かうために馬車を待っていた人々が一斉に傘を差し始めた。
傘を持っていないアーサーのコートと帽子は冷たい霙に濡れた。
霙の冷たさでアーサーの顔は更に青ざめ、水を吸ったコートの重みで窒息しそうだった。
顔を上げると、ある劇場の裏口が目に入った。
アーサーは考える間もなく慣れた手つきで、守衛にハーフクラウン銀貨を握らせ、扉を開けた。
扉の向こうは別世界であり、懐かしい世界でもあった。
公演を終えた役者たちが煙草を吸いながらけたたましくお喋りに興じ、衣装係が目に沁みるほど鮮やかな衣装を運び、舞台の方からは賑やかな音楽が聞こえてきていた。
そして、アーサーと同じような身なりの紳士がさも楽しそうに若い女優をからかっている――テムズ川に落ちる前のアーサーの日常だ。
すれ違う人々はずぶ濡れのアーサーを避けるように歩いていた。
中には彼が醜聞によりロンドンを離れていたセッティンガム男爵だと気づく者もいたが、「ああ、お戻りになったのか」と頷くだけだった。
当てもなく進んだアーサーはいつの間にか廊下の行き止まりに辿りついていた。
この一角は主演級の役者に割り当てられる楽屋がある。
何気なく僅かに開いていた扉の隙間から楽屋を覗くと中にいたのは、あの日アーサーをテムズ川に突き落とした女性の内の一人、女優のリリーだった。
舞台衣装ではないゆったりとしたドレスを纏い、少し疲れた顔で煙草を吸っていた彼女は、扉の隙間の人影に気づき、「どなた?」と尋ねた。
アーサーはすぐに立ち去ろうとしたが、先ほどから感じている息苦しさのせいで足が上手く動かなかった。
その内に扉を開けたリリーの声がした。
あの夜と変わらない甘やかな声だった。
「あら、男爵様じゃない。お久しぶりね。もうロンドンにいらして良かったの?」
彼女はその美しい顔に笑みを浮かべ、彼を楽屋に招き入れた。
***
「――去年のことは本当にごめんなさいね。メイジーもネリーも私もすっかり頭に血が上っちゃって。それにまさかあなたが泳げないなんて思わなかったの!でも、男爵様には感謝しているんですよ。私たちにとっては、あれが“箔”になったのね。メイジーは単独公演をやったし、ネリーはバレエ団のプリンシパルになったわ。そして、私はこの通り、この公演の主役!」
薄暗い楽屋の中で僅かな照明に照らされたリリーは舞台上にいるかのように笑った。
彼女の傍らには舞台用の輝くようなワインレッドのドレスが掛けられていた。
アーサーも釣られて笑ったが、楽屋の埃っぽさと強い香水の香りに咽返りそうになった。
彼は増していく息苦しさを誤魔化しながら言った。
「それは良かったよ。こんな私でも少しは……他人の役に立てたようだ」
「まあ、どうなさったの?なんだか以前のあなたと違うわ」
リリーは怪訝そうに眉を寄せた。
アーサーはもう息が続かなかった。
「少し……休みたい……」
アーサーは何か考える前にずぶ濡れのコートと帽子を脱ぎ、近くにあった固い木の椅子に腰を下ろした。
いよいよ誤魔化せないほどに息が上がり、抑えようとしても肩が上下してしまった。
楽屋の鏡に映った顔はいつになく青白かった。
「男爵様?一体どうなさったの?今、水を――」
そう言いながらリリーは楽屋の奥に行き、グラスに注いだ水を運んできた。
アーサーは彼女が差し出したグラスを受け取ろうとしたが、受け取り損ね、溢れた水がディナージャケットとシャツを濡らした。
皮膚に感じた水の感触にあの夜テムズ川に沈んだときの記憶が蘇った。
あのときも苦しかった。
しかし、一方で安堵している自分もいた。
ようやく劇が終わる。
喜劇のまま終えることができる――。
「やだ、本当に具合が悪いのね。しっかりなさって。今誰か呼んできますから」
早足で出て行こうとするリリーの腕をアーサーの手が掴んだ。
リリーの大きな瞳が更に大きく見開かれた。
アーサーはそれに構わず彼女を引き寄せた。
甘さはなかった。
ただ痛みを止めるための儀式だった。
しかし、リリーは受け入れてくれた。
そこで記憶は途切れた。
タイトル回収回でした。
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Q.侯爵家の兄妹は毎年避寒旅行に出かけているの?
A.毎年ではないかもしれません。もしくは、例年は個別に出かけるかもしれません。
この年は前年に第1部外伝「侯爵家の恩寵」(https://ncode.syosetu.com/n2323kk/31/)の出来事があったため、「グレイスを励ます会」として企画されたようです。
父と長兄は議会と長兄の婚約準備で忙しいので資金援助だけして、次兄と三兄が連れて行きました。
(議会については、スタンリーもセッティンガム男爵なので貴族院議員なのですが、おそらく数回しか出席したことがないはず……)




