冬りんご
その日――アーサーがブルームフィールド家の姉弟からクロッケー・マレットを突き付けられた日――、アーサーと母は当初の目的を全く果たせないまま<オーチャード・グレンジ>を後にした。
母は帰りの馬車の中でも自邸に帰ってからもひたすらに嘆いた。
息子の不行状のせいで爵位も称号もない地方地主の家の娘たちにさえぞんざいに扱われたのだから無理もない。
一方、当のアーサーはどこ吹く風だった。
翌日以降も、彼は折に触れてこの出来事を思い出して、口元に笑みを浮かべた。
実に愉快な出来事だった。
それから、彼は月に数回<オーチャード・グレンジ>に顔を出すようになった。
ブルームフィールド夫妻にとっては気まずいことこの上なかったが、無爵の地方地主の彼らは長女アリスの求婚者として訪ねてくる男爵を拒否することはできなかった。
アーサーは生まれて初めて自分が男爵であることを幸運に思った。
とはいえ、姉妹たちは依然として彼を警戒していた。
彼の求婚の対象であるアリスは礼儀として渋々必要な範囲の応対をしたが、規範にうるさい次女ベアトリスと物静かで堅実な三女クレアは明らかに彼と距離を置いていたし、血の気の多い四女ダイアナはもっと強硬に彼を拒否すべきだと考えているようだった。
五女ユージェニーと六女フローレンスからは無邪気な興味のようなものを感じたが、それでもやはり姉たちに従って関わりを持ちたがらなかった。
ただ、一番下の男の子ジェフリーのことは誰も止められなかった。
17歳のジェフリーは、本来であれば地主の息子らしく寄宿制のパブリックスクールで学んでいる年齢だ。
しかし、ブルームフィールド夫妻は、幼少期に病弱だった唯一の息子を安全に成長させるために、大学入学までは彼を家庭で教育することに決めていた。
そのため、これまで<オーチャード・グレンジ>に籠りきりで、同等以上の階級の若い男性との交流に飢えていた彼は熱心にアーサーと交流しようとした。
そして、アーサーの方でもそんなジェフリーを大いに歓迎した――彼との関係はどこかパブリックスクール時代の年下の学友との交流に似ていた。
すると、その様子を見ていた姉妹たちは徐々に態度を軟化させ始めた。
過日は先頭でマレットを構えていたあのアリスですら。
「アーサー、アリスが君の求婚を受け入れなかったのは君のせいだけじゃないんだよ」
アーサーがもうすっかり<オーチャード・グレンジ>の常連になった頃、彼を自分の部屋に案内しながらジェフリーが言った。
「へえ、そうかな?」
「僕のせいなんだ。小さい頃はすごく病弱だったし、今でさえ当主になるには気持ちが優しすぎるって言われる。だから、アリスはそんな僕が当主になったときに支えられるよう結婚せずに家に残るって決めているんだよ」
ジェフリーはそう言って暖炉の上の写真を見た。
幼いジェフリーがアリスに背負われ、その周りを姉妹たちが笑顔で取り囲んでいる写真だった。
「君の姉さんは弟思いなんだな、ジェフ」
「まあね。でも、アリスは……他人のために働き過ぎだと思うよ」
「おやおや、『お節介な姉さん』ってことかな?」
アーサーが冗談めかして言うと、ジェフリーは声を立てて笑った。
「そんなことは言ってないさ。実際、アリスが家に残ってくれるなら本当に心強いよ。ただ……それが本当に良いことなのかはわからない。アリスにとっても、僕にとっても」
そう言ってジェフリーは肩を竦めると、来年から通う予定の大学のことに話題を移した。
しかし、アーサーの脳裏には初めて会った日のアリスの姿が浮かんで消えなかった。
あの日、妹を守るためにマレットを握っていたアリスの燃える瞳と赤い頬が――。
***
そうして、1908年の秋、ホップの収穫がピークを迎える頃、アーサーはアリスの求婚者というよりジェフリーの友人としてブルームフィールド家に馴染み、姉弟たちと<オーチャード・グレンジ>の庭でクロッケーを楽しむまでの間柄となった。
姉弟がクロッケーを始めたのは、元々は病弱なジェフリーの体を鍛える目的だったそうだが、今や全員が並々ならぬ情熱を傾けていた。
クロッケーに使うマレットは、もちろん、アーサーが初めてこの屋敷を訪問した日に姉弟が構えていたものだ。
それを今や自分が使っているとは――これ以上に愉快なことがあるだろうかとアーサーは思った。
ある日、アーサーとアリスは、いつも通り姉弟たちとクロッケーを二戦楽しんだ後、テラスで紅茶を飲んでいたブルームフィールド夫妻の隣のテーブルに落ち着いた。
まだ満足できない年下の姉弟たちは早速三戦目を戦っていた。
三女クレアの重要な一打を成功させまいと、五女ユージェニーと六女フローレンス、一番下のジェフリーが様々な手を使って彼女の集中を逸らそうとし、次女ベアトリスに窘められていた。
しかし、結局は、内気ではあるが動揺しないクレアは見事なショットを決め、四女ダイアナが「ほらやっぱり!クレアの集中を乱そうったって無駄なのよ」と悔しがっていた。
姉弟の様子を眺めていたアーサーはふと呟いた。
「……この家は、やっぱり姉弟賑やかでいいな」
「あなたにはご兄弟はいらっしゃらないのでしたね、セッティンガム卿」
ティーカップを口元に運んでいたアーサーは、その手を止めてカップの中の水面を少しの間眺めた。
そして、それをそのままソーサーに戻してから、軽い口調で言った。
「いや、弟がいた。でも、死んだよ」
その答えにアリスは息を呑み、ただ俯いた。
アーサーは、自分の弟のことはこれまで家族以外には話したことがなかった。
彼は彼女を安心させるように微かに笑った。
「そんな顔しないでくれ、ミス・ブルームフィールド。悲劇と言えるほど劇的な話でもないんだ」
彼は一つ息を吐いてから続けた。
「あれは私が6歳で、弟が4歳のときだった。弟は夜中か明け方にふと池の魚が見たくなって屋敷の外に出た。まあ、結果からの推測だけどね。そして、池に落ちた。もちろん、当家の執事は玄関にきちんと閂を掛けていた……弟はいつの間にか自分で外せるようになっていたんだな。乳母は当家の伝統に従って子供とは別室で休んでいたし、私ももう子供部屋は卒業して自分の部屋で寝ていた。だから、別に誰のせいというわけでもない。ただそういうことが起こったというだけだよ」
それだけ言うと彼は今度こそ紅茶を飲み、クロッケーに興じる姉弟たちに視線を移した。
アリスは何も言わなかった。
彼女は薄く笑う彼の青白い「空っぽ」な横顔を見つめた。
まるでその「空っぽ」の中に何かを探すように。
***
それ以来、アーサーとアリスはよく話すようになった。
アーサーはアリスから<オーチャード・グレンジ>の思い出を聞くのが特に好きだった。
彼女が語る思い出は、騒々しくてどこか可笑しいが、生き生きとしていた。
一方、アリスもアーサーの話を聞きたがった。
アーサーは幼少期や学生時代の思い出、また、時々はマルタでの出来事を語ったが、ロンドンでの生活のことだけは決して話さなかった。
気が付けばロンドンでの日々が遠くなっていた。
彼は自分が世間の"構造"に巻き込まれるだけの存在ではなくなってきている気がしていた。
アリスは確かにこの世界に生きていて、世界の出来事に笑い、怒り、泣く。
彼女と共にいる自分もまたそうなのだと信じることができた。
そして、11月初めのある日、二人は<オーチャード・グレンジ>の果樹園を連れだって歩いていた。
アーサーが遂に自分のホップ畑に足を踏み入れたことがないことを白状し、それならばとアリスが連れ出したのだ。
果樹園はちょうど晩生種の冬りんごの収穫時期の終わりを迎えていて、地元の農家がほとんど最後といって良さそうな収穫作業をしていた。
「セッティンガム卿、あなたの領地にも果樹園の一つや二つありますでしょう?」
りんごの木の間を歩きながらアリスが尋ねた。
作業中の地元の農家たちが地主の長女を見て帽子をとって挨拶するので、彼女もまた一人ひとりに微笑みを返していた。
「ああ、ほとんどホップ畑だけど、それを越えたところに果樹園があるらしい」
「まあ、『らしい』ということは見たことがないのですね」
「まあね。都会に出て行くときに使う道も、その果樹園からは離れているから」
そう言ってアーサーは肩を竦めた。
すると、アリスは少しいたずらっぽく微笑み、何かを探すように辺りを見回した。
そして、近くにある木を指し示した。
「見てください。あそこに冬りんごが一つだけ残っています」
アーサーがアリスが指した方を見上げると、やや低い位置に赤い冬りんごが見えた。
「ああ、確かに――」
とアーサーが言いかけたときには、傍らにいたはずのアリスはもういなかった。
いつの間にか、彼女は近くにいた農夫にはしごを掛けさせ、深い赤のスカートを少し持ち上げてそれを上っていた。
スカートの裾から土を被った黒いブーツが覗いた。
「おやおや、落ちないでくれよ。受け止める自信がない」
アーサーは、りんごに手を伸ばすアリスに向けてからかうように言った。
一方、アリスは「大丈夫ですよ」と言ってりんごを優しくひねって収穫すると、それを持ったままゆっくりとはしごを降りた。
最後に少し勢いを付けて着地した彼女の足元に土が舞った。
彼女はアーサーの近くに戻ると、収穫したばかりの冬りんごを差し出して言った。
「これを差し上げます、セッティンガム卿。……それから、答えを訂正します。『はい』です」
りんごに手を伸ばしかけていたアーサーは目を見開いた。
「『はい』というのは……つまり、そういうこと?」
「ええ、そういうことです。それとも、もうあの求婚は無効でしたか?」
「いや、まさか。いつまでだって有効だよ」
アーサーはりんごを受け取りながら即座に答えたが、頭には一つ疑問が浮かんだ。
「でも、ジェフのことは良いのかな?君はこの<オーチャード・グレンジ>に残って彼を支えるつもりだったんじゃないのか?」
「ええ、ずっとそう思っていました。でも、考えてみればジェフはもう病弱だった子供時代を乗り切りました。来年は大学に通う立派な青年です。そうなると、私は今度はあなたの側にいるべきだと思ったのです。あなたもそう思ってくださるでしょう?」
「ああ、そう思うよ」
アーサーの言葉に微笑んだアリスの頬には赤みが差していた。
アーサーはその頬に触れたかった。
しかし、それを求めながらも恐れている自分がいた。
「ありがとう、アリス。私には君が必要だ。君といれば救われる気がするんだ」
それは紛れもない本心だった。
本心だったのに、彼自身の耳にはまるで嘘のように響いた。
ロンドンから遠く離れたケントの果樹園の土の上にいるはずなのに、今再びテムズ川のほとりに立っているような錯覚を覚えた。
アーサーは全てに気づかないふりをして、ただ、手の中にあった赤い冬りんごをそっと齧った。
越冬に備えて栄養を蓄えた冬りんごの鋭い酸味が舌に刺さった。
晩生種のりんごはすぐに食べるものではないのです。




