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オーチャード・グレンジ

 翌年1908年の夏、アーサーは謹慎先のマルタからケントの領地に戻った。

 マルタの火傷しそうな熱気とは対照的に、真夏のケントの風は穏やかだった。

 

 温暖な気候と肥沃な土地に恵まれたケントは「イングランドの庭」と渾名される。

 セッティンガム男爵家のカントリーハウスがある高台の麓には、そんなケントの宝ともいうべき豊かなホップ畑が広がっている。

 広い畑で風にそよぐホップのカーテン、ホップの乾燥小屋の円錐形の屋根、秋の収穫の時期になると大挙して押し寄せる季節労働者のテント――雑多でどこか歪でありつつも瑞々しい――アーサーはそれらを見下ろしながら育った。

 しかし、広大なホップ畑は全て彼の土地であるというのに、アーサーはそこに足を踏み入れたことがなかった。

 正確には父の存命中に連れて行かれたことがあったかもしれないが、記憶には残っていなかった。

 その後も寄宿制の学校に入っていた幼少期はともかく、成人後はその気になれば自由に畑を見回ることだってできたはずだが、ロンドンでの暮らしを好んだアーサーは、ホップの青々とした香りとは全く無縁の生活を送っていた。

 

 しかし、謹慎を終えたばかりのアーサーがこれまで通りロンドンの屋敷に滞在することはなかった。

 何より世間と母が許さなかったし、その年のロンドンでは夏から秋にかけてオリンピックが開催されていたので、アーサー自身もそんな活気づいたロンドンに戻るのは気が進まなかった。

 そういうわけで、アーサーはケントのカントリーハウスに戻った。

 そんな彼を迎えたのは母の温かい抱擁ではなく――険しい顰め面だった。


「アーサー、あなたは結婚しなくてはなりません」


 帰宅したばかりの息子を応接間に呼び出した母、セッティンガム男爵夫人は息子の方を見ずに言った。

 応接間の壁に掛けられた歴代のセッティンガム男爵の視線がアーサーに突き刺さった。


「なぜでしょう、母上?私はマルタの叔父上のところですっかり生まれ変わりました。結婚なんかしなくても醜聞沙汰なんて二度と起こしませんよ」


 アーサーは真剣な口調を作ったが、母は深くため息をついてから静かに言い渡した。

 

「結婚して後継者を儲けることに集中なさい。あなたが更生する道はそれしかありません」

「『更生』だなんてひどいな。何も犯罪を犯したわけじゃないのに」

「家名に泥を塗るなんて、貴族にとっては犯罪を犯すよりも悪いことです」


 アーサーは大げさに眉を上げた。

 一方の母は眉一つ動かさなかった。

 そこで彼は肩を竦めて言った。


「しかし、こんな私と娘を結婚させたい家などありますか?例の『テムズ川の准男爵』の興行はロンドンで大成功したそうじゃないですか。その評判と裏にある醜聞は英国中に届いているはずです」


 そのアーサーの問いを待ち構えていたかのように、母は僅かに目を細めた。

 

「あら、アーサー、私がこの一年を無為に過ごしてきたとお思い?」


 母の問いにアーサーはただ首を傾げた。

 

「このケント内に一つだけ希望があるのですよ。ある地主の家が娘を6人も抱えてお困りです。私が半年かけて夫人を説得して、姉妹の中で一番物静かな3番目のご令嬢をご紹介くださる約束をとりつけました。階級の釣り合いとしては際どいところですが、最近あなたのような若い紳士がどこぞの劇場の歌手なんかと結婚する例もあることを考えれば……まあ、悪くはないでしょう」

「ご冗談でしょう」


 アーサーはさも可笑しそうに笑ったが、現実は変わらなかった。


「冗談ではありませんよ、アーサー。明日、あなたは私とそのブルームフィールド家の屋敷を訪ねます。逃げようなどと思わないでちょうだい。あなたのお父様が私の持参金については、賢明にもこの私に権利を残したことを忘れないでね」


 アーサーは大きなため息をついた。

 母の言う通り、今、この男爵家の財政は母の持参金を元本にした信託財産の利子所得に支えられている。

 将来その元本をアーサーが相続できるかは、母の心づもり次第だ。


「わかりましたよ、母上。しかし、さすがに嫌がる相手と無理やり結婚するなんてことはしませんよ」

「ええ、私だって無理やりなんて考えていませんよ。……だからこそ、私は文句を言わない物静かな令嬢の紹介を頼んだのですから」


 そう言って母はアーサーの背後の肖像画に視線を遣った。

 アーサーは頷くしかなかった。

 母の言葉の厳しさのせいではない。

 彼女の瞳に隠しきれない不安が滲んでいたからだった。


 ***


 そして、翌日、アーサーは約束通り母とブルームフィールド家に向かった。 

 馬車に揺られながら母に聞いたところによると、ブルームフィールド家はケントの中でも有数の歴史ある地主の一族だという。

 今はブルームフィールド夫妻と6人の娘、末の息子が一族の屋敷<オーチャード・グレンジ>に暮らしている。

 6人姉妹は上から、アリス、ベアトリス、クレア、ダイアナ、ユージェニー、フローレンス、そして、一番下の弟がジェフリーだ。

 ブルームフィールド夫妻がアーサーに紹介することに同意したのは、3番目の娘クレアで、彼女は彼より一つ年下の23歳らしい。


「まあ、本来はもう少し年下の方が良いのでしょうけどね。あなたを上手く扱ってもらわないといけませんから、一つ下くらいがちょうど良いでしょう」


 そう言って今朝から数えてもう何十回目かのため息をつく母に、アーサーはただ肩を竦めることしかできなかった。

 

 ブルームフィールド家の屋敷は、大きな川から少し離れた低い丘の麓にあった。

 馬車の窓から赤いレンガ作りの屋敷<オーチャード(果樹園)・グレンジ()>が見えたとき、アーサーは思わず目を見張った。

 <オーチャード・グレンジ>の周辺には、ホップ畑と並ぶケントの宝である果樹園が広がっていて、今はちょうど瑞々しいさくらんぼが収穫の時期を迎えていた。

 アーサーはその赤々とした実からさり気なく視線を逸らした。

 

 <オーチャード・グレンジ>の玄関前に馬車を着けた彼らは、まずミセス・ブルームフィールドに出迎えられた。

 彼女は、40代後半の血色の良い幸せそうな黒髪のレディで、落ち着いたモーヴのアフタヌーンドレスを身に着けていた。

 彼女は礼儀正しくもにこやかに挨拶したが、その頬は緊張のせいか微かに引き攣っていた。

 

 そうして、彼らはミセス・ブルームフィールドの案内で応接間に通され、そこで令嬢を紹介される――はずだった。

 彼らが応接間の前まで進んでみると、その扉の前には何やら人だかりができていた。

 そこにいたのは、5人の若い女性と1人の少年だった。

 女性たちは皆、運動用の白のコットンドレスを着ていて、少年は明るい色のラウンジスーツを着ていた。

 全員がミセス・ブルームフィールドと同じ色調の黒髪なので、アーサーも母も一目見て彼らがブルームフィールド家の姉弟なのだと理解した。

 おそらく、今日紹介される予定の三女クレア以外の姉弟6人だ。

 彼らは一番年上の長女と思われる背の高い女性を先頭に応接間の扉の前に立ち塞がっていた。

 そして――何故か全員クロッケー用のマレットを手にしていた。


「ちょっと、アリス!これはなんなの?」


 ミセス・ブルームフィールドは慌てた様子で、先頭の女性に話しかけた。

 しかし、アリスと呼ばれた彼女は何も答えず、ただ前を見据えていた。

 アーサーは彼女が自分を睨んでいるのだと気が付いた。

 というより、5人の女性全員が彼を睨んでおり、一番後ろに庇われるように立っている少年だけがマレットを握りつつも困惑しているように見えた。


「申し訳ありませんが、お帰りください。レディ・セッティンガム、そして、セッティンガム卿」

 

 先頭に立つアリスははっきりと告げた。


「アリス!」


 ミセス・ブルームフィールドの悲鳴にも似た声が響いたが、アリスも姉妹たちも退かなかった。

 アリスの暗い色の瞳には何かが燃え、頬は紅潮していた。

 アーサーは自然と目を細めて彼女の中の何かを見極めようとしている自分に気がついた。


「アリス!開けなさい!」


 応接間の扉の向こう側からは一家の父ミスター・ブルームフィールドと思われる声がしたが、どうやら扉は開かないように細工がされているらしい。


「どうかお帰りください、セッティンガム卿。私たちは皆あなたの噂を知っています。姉妹の中で一番心優しいクレアをあなたのような男性に渡すわけにはいきません」


 その言葉を合図にアリスと姉妹たちは一斉にマレットを構え、一番下の男の子ジェフリーも遅れてそれに続いた。


「『私のような男性』?どういう意味です?ミス・ブルームフィールド」


 アーサーは一歩前に進み出た。

 この事態にすっかり狼狽えている母が囁くような声で「アーサー!」と言ったのは聞こえないふりをした。

 彼と距離が近づいたことで、アリスのマレットを握る手に力が込められたが、彼女は一歩も退かなかった。


「あなたのような空っぽな男性という意味ですわ、セッティンガム卿」


 アリスのやや低い声が廊下に響き、全員が沈黙した。

 ミセス・ブルームフィールドの頬は羞恥で赤く染まり、セッティンガム男爵夫人の視線は周囲を彷徨っていた。

 一方、アリス以外の姉妹たちは姉に倣ってアーサーを睨み、一番下のジェフリーはこの後の展開を恐れるようにきつく目を閉じていた。

 

 しかし、アーサーに込み上げてきたのは怒りではなく、笑いだった。

 彼は何年かぶりに「笑うべきとき」以外に笑った。

 そんな彼を見て一番戸惑ったのは、先頭に立っていたアリスだった。

 アリスは何か言おうと口を開きかけては言葉が見つからないまま口を閉じるのを繰り返し、いつの間にかマレットを下ろしていた。


 そして、アーサーは彼女の前に跪いて言ったのだ。


「ミス・ブルームフィールド、失礼を承知で申し上げます。どうか私と結婚していただけないでしょうか?」


 アリスの手からマレットが滑り落ち、音を立てて廊下に転がった。

 しかし、当然ながら、彼女の答えは決まっていた。


「……嫌です」


 アーサーはこのわかりきっていた答えに再び笑った。

 笑い過ぎて赤みが差した彼の頬は、屋敷の周囲に実っていたあのさくらんぼのようだった。

ヒロイン登場まで連続で投稿しました。次話まで時間がかかるかもしれませんが、気長にお付き合いいただければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
なにもしなくても生きていけるからこそ、からっぽのまま生きてこれてしまったスタンリー卿… アルバート卿のような友人がいるだけ、まだ幸運な気もしますが、この人この後どうなるの?と思っていたら、んが、きょう…
 アリスの気持ちは、それはもうよく分かります。悪名高い男の元に、とにかく心優しい妹を嫁がせたくなんてありませんよね。  しかしまさか、姉弟五人で武装(?)して出て来るとは思いませんでした。確かにこれは…
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