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テムズ川の男爵

 それは1907年のことだった。

 ロンドンは社交シーズンの真っ只中にあった。

 

 ある暑い夏の夜、とある実業家の紳士が所有するテムズ河畔の屋敷の広間で、爛熟しきったエドワード朝の享楽と喧騒の集大成であるかのようなパーティーが催された。

 新しいもの好きの主人の趣味により設えられた最先端の電灯がパーティーに参加する人々の顔をやけに青白く照らし出していた。

 パーティーのゲストの女性たち――女優や歌手、踊り子などだ――は、顔色を悪く見せるこの電灯の灯りを内心嫌っていたが、ここでパーティーが開催されると聞けば喜んで駆け付けた。

 このテムズ河畔の屋敷で開かれるパーティーには、毎回多くの上流階級や中産階級の裕福な紳士が集まるのを知っていたからだ。

 良いパトロンが付けば、生活が安定するし、より質の良い仕事を紹介してもらえるかもしれない。

 一方の紳士たちも、女性たちの品定めに余念がなかった。

 今を時めく舞台女優、美人で有名な歌手、婀娜っぽい踊り子――そんな女性たちが彼らの視線を集めていた。

 とはいえ、彼らの多くは恋愛がしたいわけではない。

 暫く暇がつぶせる玩具がほしいのだ――。

 

 そんな喧騒の中、アーサー・スタンリーは窓の外にぼんやりと視線を向けていた。

 電灯の白い灯りが生まれつき悪い彼の顔色をより悪く見せていた。

 アーサーは、去年オックスフォードを卒業したばかりの23歳で、このパーティーに参加する紳士の中では際立って若かった。

 しかし、彼の財産といえば莫大なものだった。

 彼は3歳のときに父を亡くし、セッティンガム男爵の爵位を継いでいたが、一昨年成人したのを機に男爵家の財産をある程度自由に使えるようになった。

 とはいえ、彼自身は自分の財産は貴族の中ではごく少ない方だと考えていた。

 それでも多少の享楽に身を委ねても有り余るほどの財産だった。


 そして、今、アーサーが見つめているのは、屋敷の窓の外に見えるテムズ川だった。

 水面が窓から漏れる電灯の灯りを反射して輝いていた。

 アーサーはそれをいつまでも見ていられるくらい美しいと思った。

 しかし、彼以外の人々は窓の外になど少しも目をくれていなかった。

 彼は広間の隅で男性のみで固まっている紳士の一団の中にいたが、皆、「男同士」の話に夢中だった。

 

「――それで、まあ、厄介なことになったんだが、遠縁に誰でも良いから妻が欲しいと言う男がいてね。彼にすべて押し付けたというわけさ」


 そのとき、ようやくある紳士の話が一つの結末を迎えたようで、アーサーの周囲の紳士たちは一斉に笑い出した。

 ほとんど呼吸困難になりそうなくらい笑い転げている者もいた。

 アーサーはもちろん話は聞いていたし、内容も理解したが――正直なところ、何が面白いのかさっぱりわからなかった。

 それでも、彼はテムズ川から目を離して笑った。

 彼は笑うべきときには笑うことにしていた。


 そんな彼の背後に近づいてくる影があった。


「こんばんは、男爵様。少しよろしいかしら?」


 彼はその甘やかな女性の声に覚えがあったので、相変わらずの青白い笑みを浮かべて振り返った。

 しかし、彼の背後にいた女性は一人ではなかった。

 そこにはここ最近の彼の”恋人”だった三人の女性たち――女優のリリー、歌手のメイジー、踊り子のネリー――がいた。

 非常に嫌な予感がした。

 しかし、笑うべきときに笑うことにしているアーサーは笑顔を崩さなかった。


 ***


 その一週間後、アーサーは珍しく昼間の内に友人を訪ねていた。


「――それで、怒れる三人の女性たちにテムズ川に突き落とされた、と……」


 例のテムズ河畔の屋敷のパーティーでの事件の顛末を聞いた友人ハーコートの深い溜息が重厚な図書室に響いた。

 彼は名門ウェクスフォード侯爵家の三男で、正式にはアルバート・モントローズ=ハーコート卿と呼ばれる身分にあるが、アーサーは彼を姓で「ハーコート」と呼んでいた。

 ハーコートの方でも、セッティンガム男爵であるアーサーを正式にセッティンガム卿とは呼ばず、単に姓で「スタンリー」と呼んでいる。

 彼らは8歳のときにプレップスクーの同級生として出会って以来の付き合いで、その後イートンでもオックスフォードでも一緒だった。

 学生時代から引き続いて対等に付き合える友人同士というわけだ。

 ただ、オックスフォードでは、アーサーが標準的な3年で卒業したのに対し、学問に熱心なハーコートはつい先月までの4年間在籍していた。


「そういうことだ。どうやら私は全員に『パークレーンの屋敷をあげる』と約束してしまったらしい。記憶にないし、しかも私はパークレーンには屋敷を持っていないのだが……まあ、きっと約束したのは事実なんだろうな。それにしても、同じ約束をしたというだけで怒るとは……女心というのは難しいな、ハーコート」


 アーサーはソファに沈みながら、意味ありげな視線をハーコートに送った。


「いずれにしても、君も知ってのとおり私は泳げないものだから、ただただ溺れた。すると、かわいそうな彼女たちはすっかり慌ててしまって、一番体力のある踊り子のネリーと一番体重のある女優のリリーが私を引き上げ、一番声の通る歌手のメイジーが屋敷全体に響き渡る声で助けを呼んだのさ」

「……だから、私はイートンで君をボート部に誘ったんだ」 


 ハーコートは頭痛でもするかのようにこめかみに手を当てた。

 

「おや、泳ぎの練習ができるからか?」

「違う。規律というものを学べるからだよ、スタンリー」


 ハーコートは苦々しく言った。

 アーサーはそんな彼に対して笑って見せたが、彼は笑わなかった。

 こんなときに笑わないことを選べるハーコートを自分が密かに羨んでいることに、アーサーはずっと前から気が付いていた。

 アーサーの男爵家とハーコートの侯爵家では、爵位の格も違えば地代年収も十倍以上違うが、それが理由だろうか。

 あるいは、兄弟もいなければ姉妹でさえいないアーサーと違って、彼には上に二人も兄がいるからだろうか。

 それとも――。

 

「ともかく、この件はすっかり世間に知れ渡ってしまった。一番まずいのは、女優のリリーの夫を怒らせたことだ」


 アーサーはできるだけ何気なく言った。

 「夫」と聞いたハーコートはあからさまに眉を寄せたが、気づかなかったことにした。


「運の悪いことに、その夫は流行(はやり)の劇作家でね。貴族の権威など少しも恐れず、この一件をモチーフにした新作劇を書いた――タイトルは『テムズ川の准男爵』さ。来週にはガイエティ劇場で上演されることになっている」

「『男爵』ではなく『准男爵』にしたのは、彼の温情だろうな」


 ハーコートは皮肉に言ったが、アーサーはただ笑った。


「そうなると、我が愛しの母上――母は3歳で男爵になった私を憐れんで今までずっと甘やかしてくれていたんだ――の我慢も遂に限界を迎えてしまってね。オックスフォード時代には門番を買収するための追加の小遣いをくれたほどに優しい母なのだが……さすがに今回はお怒りだ。私は数日中にマルタに赴任中の叔父上のところに送られることになった」

「なるほど。あの厳格な海軍の叔父上か。道理だな」

「そうなると私は向こう一年はロンドンに帰ってこられないだろう」


 そう言うとアーサーはソファから立ち上がった。

 その座り心地のよさが少し名残惜しかった。


「そういうわけで、一年と少しは君を訪ねることもできないが、まあ、マルタから手紙でも送るさ」


 座ったままのハーコートが彼を刺すように見上げていた。


「スタンリー、君はオックスフォードで私のことを心配してくれていたな。私のような世間に上手く収まれない人間は、その内に世間の"構造"に押しつぶされると……」

「そうだったか?もう忘れた」


 アーサーはただ肩を竦めて、図書室の出口へと向かった。

 背後でハーコートが立ち上がる気配がした。


「今は君のことの方がよっぽど心配だ。一体君はこの先どうなりたいんだ?」


 アーサーは控えていたフットマンが開けたドアの前で一度だけ友人を振り返った。

 ハーコートの灰色の瞳が彼を真っ直ぐに見据えていた。


「スタンリー、君は……本当に()()()いるのか?」

「……私の顔色のことを言っているのか、ハーコート?青白いのは元々だよ」


 アーサーは笑った。

 しかし、彼が思った通り、ハーコートは少しも笑わなかった。

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