噂(3)
「前に同室だった子もねえ……トラブルがあって、もう続けていけないって辞めちゃったの。だからまたそうなるんじゃないかって……」
「ああ……」
そういうこともあるよね、と相槌を打つ。労働に一番重要な因子は、賃金とか場所よりも、実は人間関係ではないかとアザレアは思う。毎日毎日、顔を合わせるのも嫌な人と長時間一緒に働くなんて、考えただけで気が滅入りそうだ。そういう状況に耐えられなかった子もいたのだろう。もっともアザレアの場合は、辞めたくても辞められないのだが。
「私は働けさえすれば、今のところは、別に……続けるつもり」
「そうなの?」
「うん。どっちみちここを辞めても、行くところないし」
「ああ、渡りの日に来たんだもんね」
「そう。家族もいないし」
「そうなの? 出稼ぎじゃないんだ? ……あ、余計なこと聞いた?」
「ううん。いいの。……もう家族は誰もいないの。みんな死んじゃったから」
言葉にしてしまうと、なんだかあっさりしていた。メイはそれを聞いてちょっと目を見開いて、驚いていた。唇が何か言おうと動いた後、なんと言ったものか悩んだのか、声にならなかった。
何気なく言葉にしたつもりだったのに、アザレアはじわりと目頭が熱くなって、止める間もなく涙が頬を伝い落ちた。慌てて目元を拭う。母の葬式からずっと慌ただしくて、自分の喪失の傷を振り返る暇もなかったことに気付く。ああ。そうだった。
もう自分の帰りを待っている人なんて誰もいない。たったひとり、異邦人のアザレアの気持ちをわかってくれる相手なんて、もう誰もいなかった。
この世界にひとりきりみたいだった。自分だけが人間で、自分だけが異物で、自分だけ疎まれていた。ここに来たくて来たわけじゃないのに。
「ごめん。ちょっと……」
一度泣き出すと、ずっと張っていた緊張の糸が切れてしまったのか、堰を切ったように涙が止まらなくなる。メイは自分のポケットからハンカチを取り出して、アザレアに渡してくれた。ありがたく受け取って目元を抑える。
「ちょっと、心細くなっちゃって。ごめん。大丈夫だから。メイ、ありがとう」
メイはアザレアの肩をそっと抱いて、落ち着くまで少しの間、抱き寄せてくれた。彼女はいつもよく喋る方だが、今は何も言わなかった。それが彼女の優しさなのがわかって、アザレアはまた泣きたくなった。
しばらくして、お腹すいただろうから何か食べにいこっか、といってメイは立ち上がった。マチルダが来るまで夕食もお預けだったのだ。食堂に何か残り物があるのを期待して、ふたりで連れだって部屋を出て行った。
翌日からは、使用人棟での仕事となった。主に厨房や、洗濯の仕事だ。
本館よりも楽かと思えばとんでもない、もっとずっと、単純に肉体労働だった。アザレアは一日目の仕事が終わってすぐ、配置換えに付き合わせてしまったメイに少々申し訳なく思ったほどだ。
料理長は屈託のないおばさんで、あんた、なんかやらかしたのかい? と言って笑っていた。本館勤務に比べて使用人棟の仕事に人気がないことは自覚があるようだ。だがそのぶん、関係する使用人たちの仲は良く、終始軽口を叩きあっていた。たしかに仕事場としては、人数も少ないし、余計な人間関係のぎすぎすした感じがなくて雰囲気がいい。アザレアのことも人間だと知っているはずだが、変な目で見る人はひとりもいなかった。マチルダから何か言われているのかもしれないが、それもありがたい。
というよりも、アザレアは生まれ育った街の印象に似ているこの空気が、嫌いではなかった。口の達者なおかみさんや、気心の知れた隣人たち、時間がある時だけ集められて一時的にともに働く女たちと、屈託なく世間話していた頃のような朗らかさがある。むしろ気楽だった。
無論メイは仕事がきつければきついほど楽しめるタイプらしく、燃えていた。メイが心の底から労働が好きでよかったと、アザレアは内心胸を撫でおろした。
人員が少ないのもあって、野菜の下拵えからシーツの洗濯まで、やることは多く、ひっきりなしに降ってきた。しかもどれも重労働の類だ。アザレアは体躯のせいで心配されることも多かったが、なんとか捌くうちにそれなりに要領を掴んできた。
厨房の向こうから、傍に積まれた荷物を地下の倉庫に物を運ぶよう頼む声がして、アザレアは大きな声で返事をした。メイにはひとりで大丈夫か聞かれたが、それほど重くなかったのもあり、ひとりで引き受ける。
ほとんど倉庫としてしか使われていないが、本館だけではなく、この建物にもしっかりした地下室がある。一番奥の雑多な木箱が壁に寄せて積まれている倉庫に、持ってきた荷物を下ろした後で、アザレアは一息ついて大きく伸びをした。
ふと、室内に違和感を抱いて、周りを見回して気付いた。
部屋の隅に、鏡が置いてある。それもこんな場所には似つかわしくない、本館の客間に置いてありそうな、きれいな姿見だった。
こんなところに、鏡なんてあったっけ?
誰かが片付ける場所を間違えたのかもしれないと思いながら近づき、奇妙なことに気付いた。
鏡の向こうが暗い。倉庫の中はあかりに照らされていて明るいのに、明らかに鏡の中にそれが映っていないのだ。これも旦那様の魔法という奴なのだろうか? 確かに、アザレアには思いもよらないような不思議なことが起こってもおかしくはない。
アザレアはおそるおそる近づいてみた。鏡の中に目を凝らす。調度品といい、壁にかかった絵といい、絶対にこの倉庫の様相ではない。やはり本館の、それも結構上の階の客間のようだった。しかも、鏡の中はすっかり夜中だった。
「ん?」
蝋燭のあかりが、今ここにないはずの机の上に置かれているのが見える。その小さな光源の照らす範囲だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
「……ともかく、屋敷の方はいつも通りにやらせています。皆には悟られぬよう」
突然、マチルダの声がした。
「えっ」
驚いて振り向くが、当然周囲には誰もいない。鏡の中から聞こえているのだと気付いた。姿は見えないのに声がして落ち着かない。
「だが薔薇園に影響が出始めているなら、いずれ屋敷にも波及していくはずだ。一体、どこへ行かれたのか……明日から、屋敷内に何か手がかりが残っていないか、探してみます。あなたは引き続き、使用人たちの監督を。何かあれば教えてください」
「ええ」
「あなたの言った通り、これは、ただしく失踪でしょうね」
会話の主はもうひとりいた。聞き覚えのある声だ。
何の話だろう?
アザレアは困惑しながら耳をすませる。
「しかし、弱ったな。頼まれたことがあったんだが――」
「頼まれたこと?」
「そう。人間を連れてきてくれと伝言が」
モーリスだ。
その瞬間アザレアは雷に打たれたような衝撃を受けた。
人間を。連れてくる?
「妙ですね。何でしょう。人間である必要が?」
マチルダの応答が続く。
「こちらに戻る前に急に一報が入ったので慌てたよ。幸い当てがあってよかったが。普段、我が君が人間界に干渉してまで知らせを送るなんてことはないし。急ぎかと思って、はやく報告したかったんだが」
「なるほど。それも旦那様に伝える方法があればいいのですが。困りましたね……」
ふたりの声が遠ざかる。話は終わりのようだ。どちらかが持ち上げた鏡の中の蝋燭の火がゆっくりと扉へ向かって移動していき、揺らめいてふっと消えた。
鏡の中の部屋が真っ暗になる。
次に瞬きした時には、鏡の中には元通りの倉庫と、蒼白な顔をして鏡を覗きこんでいるアザレアが映っていた。
ドッと冷や汗が吹き出す。
今見たものが信じられず、立っていられなくなってへたりと座った。
モーリスが言った言葉が、何度も頭の中で反響した。
――幸い当てがあってよかった。
自分がここへ来たのは、偶然なんかじゃなかった。
モーリスは、ちゃんと意図があって、自分に接触してきたのだ。旦那様の命令で、人間を連れて魔界に帰るために。それを、マチルダも知っていた。
――なぜ?
今まで信じてきたものが、積み上げてきた小さな期待たちが、がらがらと崩れ落ちてしまいそうだった。震える手で口元を抑える。息がうまくできない。体を折り曲げて、深呼吸を繰り返した。
――あんたは生贄よ。
頭の中で響く声を否定する。
「うそよ。嘘。そんなわけ……」
アザレアはもう一度確かめるように顔をあげて、今度こそ悲鳴をあげて卒倒しそうになった。
さっきまでそこに立っていた鏡が、影も形もなくなっていた。
――どうして?
ついに幻覚まで見えるようになってしまったのだろうか?
アザレアは一瞬たりともここにいたくなくて、なんとか立ち上がって倉庫を出た。あの鏡がまた現れたらと思うと恐ろしくて、時々ぎゅっと目を瞑りながら、階段の方へ向かう。
鏡に映っていた自分のひどい顔を思い出す。
「何、何? 何だっていうの?」
ふらふらしながらなんとか階段を登った後、踊り場でしばらく座り込んだ。
今のは一体? 自分は本当におかしくなってしまったのだろうか?
皆には悟られぬよう。手がかり。失踪。
もしかして、旦那様は、長期の出張から帰ってこないんじゃなくて、本当に行方がわからなくなっているんじゃないか?
呼吸を整えているうちに、入り口の方が騒がしくなってくる。いつもと様子が違うのでそっと近づいてみると、何人かの使用人たちが集まってざわついていた。本館の担当が何事か伝えに来たらしい。
「二階の花瓶が割れたんですって。昨日までなんともなかったのに」
途端に皆がざわつく。
割れるわけがない。メイが言っていたはずだ。屋敷の調度品には、旦那様の維持魔法がかかっていると。
「アザレア、ここにいたのね」
「メイ」
後ろから声をかけられてびくりとしたが、メイだった。彼女も焦った顔をしていた。
「今本館で花瓶が割れたって、大騒ぎなのよ。いったん厨房に戻りましょ」
「でも、割れるわけないのよね」
「そうなのよ。緊急事態! どうなってるんだろう。皆、もうぞんざいには扱えないわ」
私も変な鏡を見たの。
アザレアはメイにそう言おうとしたが、躊躇った。まだ見たものを消化できておらず、うまく説明できそうになかったからだ。
あの会話は、本当にあったことなのだろうか?
日が落ちて闇があたりを覆う時のように、じわじわと不穏な空気が漂っていた。いつもと変わらないはずの屋敷のそこここが、牙を剥くようにどこか攻撃的に見える。アザレアはぎゅっと目を瞑った。
これが悪夢なら、はやく覚めて。
その頃本館では、マチルダが指示を出して解散させた使用人たちが、仲のいい者同士で集まって、仕事の合間にひそひそと囁きあっていた。花瓶を割った張本人は蒼白な顔をして意気消沈していて、誰も声をかけられないでいた。
「最近、おかしくないか?」「こんなこと、今までになかったのに」「旦那様も戻ってこないし」「そういえばさ」
誰かが思い出したように、薔薇園の異変を口に出す。
「ここだけの話、薔薇園の一部も枯れかけているらしい」「庭師が言ってた」「旦那様の薔薇が? そんなことありえる?」「つまり――旦那様の魔法が効いていないんじゃ?」
どうして旦那様は、帰ってこないのだろう?
誰も理由など思いつかない。口にも出さなかった。屋敷の異変と旦那様の不在を結び付けてしまったら、引き返せなくなるのではないかと、誰もが心の中で思っていた。この屋敷につとめているものは皆、屋敷の主に対する変わらぬ愛と忠誠があるのだ。
「ねえ、それっていつから始まったんだっけ」
誰かが呟く。
「人間のせい?」
その呟きに、はて、聞き覚えのない声だなと違和感を覚えた使用人もいた。
今、一体誰が言ったんだろう?
しかしその考えはすぐ、沸き上がったざわめきに掻き消される。
「そうだ」「そうじゃない?」「新しい使用人が来てから、屋敷が変」「アリスもそんなこと言ってたっけ」「彼女、殴られたって言ってたけど」「人間の子に」「どうして?」「人間なのに」「そもそも、どうして人間が、ここにいるんだよ?」




