噂(2)
いつものように、自室のベッドメイキングを終えて使用人棟から本館へ向かって歩いている途中、視界の端を何かがかすめた。
ガシャン。
「え?」
次の瞬間、鈍い音がして、アザレアから少し離れたところで陶器の鉢が割れていた。咄嗟に上を見たが、すでに下手人の影も形も見当たらない。鉢は空で、そう重いものじゃないが、直撃していたら結構な怪我をしていたはずだ。
アザレアはその可能性に思い至って、血の気が引いた。
誰かがわざと落とした。
自分に当たるか当たらないかくらいの悪意を持ってだ。
アザレアはしばらく建物の上階を注視していたが、動きがないのを確認してから割れた鉢を片付けようと屈んだ。集めたかけらを使用人棟の厨房まで持っていって処分を頼んだ後、少々回り道をして、急いで本館に向かった。
アザレアはその場で犯人の手がかりがつかめなかったのもあり、メイに会っても何も言わなかった。優しい彼女を心配させるのも嫌だったし、すこし度が過ぎてはいるが、ただの嫌がらせだ。これまでの人生、こんな扱いを受けるのははじめてではなかったし、幼稚でくだらない挑発に乗る方が癪に障ったのだ。
それから、アザレアがぎりぎり気付くか気付かないかくらいの、巧妙でちまちました嫌がらせを受けていることに気付いた。
通りすぎる時に肩がぶつかるとか、話しかけようとして一度目は無視されるとか。
無論、心の中ではかなり憤慨していた。子供じゃあるまいし、幼稚すぎやしないか? アザレアは何も言わなかったが、さすがにメイも傍にいて何か変だとは感じていたらしく、何なのあの子たち、と言って眉をひそめたが、アザレアが放っておこうと言ったのでとりあえずは従ってくれた。
次の日、人手が足りないから手伝ってくれと言われ、三階の客間の清掃に回ることになった。三階にあがるのは、マチルダに屋敷を案内してもらった初日以来だ。バケツの水を取り替えてくるねと言ってメイが部屋を出ていったのを見送り、アザレアは一心不乱に客間の窓を磨いていた。すこし埃の溜まった桟を神経質に水拭きしていたので、背後の気配に気付かなかった。
「あんたさあ」
急にぞんざいに声をかけられたので手が止まる。
「何、居着こうとしてんの?」
アザレアがびっくりして振り向くと、なんとなく見たことのあるメイドが数人、あからさまに敵意を剥きだしにして立っていた。顔は見覚えがあるが、名前はわからない。普段やりとりする顔ぶれではないのは確かだ。
「馴染めたとでも思った?」
「どうせモーリス卿に取り入って、入ってきたんでしょ。人間のくせに」
彼女たちはにやにやしながら、あるいは苛ついた声で挑発してきた。
アザレアは黙って立ち上がった。
頭の中がぐらぐら煮立ったお湯みたいだった。今まで嫌がらせしてきたのはこの女たちなのだろう。投げつけられた言葉に咄嗟に冷水でも浴びせられたような気持ちだったが、顔を直視したら途端に怒りが湧いてきた。だいたいメイがいなくなったところを見計らって接触してくるようなやり口が気に入らなかった。
自慢じゃないが、人のものを欲しがらずに生きてきた。ねだったところで手に入らないのは自明のことで、よその子供がやるように駄々をこねて無闇に母を困らせることはしたくなかった。体の弱い母がなんとか働いて得た金が、精一杯の食糧にしかならないのを見て育てば嫌でもわかる。
人には人の身の丈にあった暮らしがある。いつか、一緒に働いていたおばさんが、領主様の大きなお屋敷の末端で、洗濯や雑用をして働いて、半端に残ったご馳走の残りや不要になった古いリネンをもらったと自慢していたことすら、夢に見るような贅沢だった。
それなのに。
自分はいつだって何も持っていないのに、それだけじゃ飽き足らず、さらに何かむしりとろうとする。アザレアにとって大抵の他人はいつもそうだ。平気で人を踏み躙り、着ているものまで汚そうとする。
乾いた笑いが出た。
私が何をしたっていうの。言葉も交わしたことがないこの女たちに?
「何笑ってんの?」
そう、アザレアは元来、理不尽な嫌がらせに黙って耐えるような性格ではなかった。やっと目の前に現れてくれて、怒りを覚えるとともに、ありがたく思ったくらいだ。
直接やり返せる。
先頭に立っていた女の前に立つ。突然近寄ってきたアザレアに一瞬身構えた相手の頬を、アザレアは渾身の力でひっぱたいた。
「なっ……」
驚いている間に横から脇腹に向かって蹴りを入れる。脛に体重の乗った感触がして、胴にしっかり入ったのを感じる。相手がバランスを崩したところで素早く体重をかけて胸元に掴みかかり、馬乗りになった。誰かの悲鳴が聞こえる。取り巻きたちが散り散りになるのを視界の端で捉えた。
「何すんのよ!」
「今までのお返しよ!」
再び手をあげるアザレアを抑えようと抵抗するので激しく揉みあう。相手の振り回した手が顔を掠め、頬に鋭い痛みが走った。
「ちょっと、何やってんの!」
メイが悲鳴をあげて走り寄り、間に入ってふたりを引き剥がした。メイはとんでもない怪力の持ち主で、後ろから引っ張られて、馬乗りになっていたアザレアは簡単に立ち上がらされた。
「落ち着いて!」
「メイ、もう一発だけ殴らせて」
「アザレアったらあ!」
メイを振りほどこうとするが、ぎゅっと抱きしめられて徐々に暴力衝動が収まってくる。倒れていた女が上体を起こして叫んだ。
「あんた、なんでここに連れてこられたか、知らないんでしょ。人間の心臓が必要なのよ!」
金切声に近い叫び声に驚いたメイが庇うようにアザレアの前に立つ。
彼女はぶつぶつと呟いていた。光のない目でこちらを睨みつける。
「あんたは生贄よ。なんでずっと旦那様がいないか知らないの? 地脈に捧げる生贄が必要なのよ! 聞いたもの! 生贄を探しに行ってるの!」
「何言ってるの?」
「それしか考えられないじゃない! 薔薇園のことも、屋敷のことも――」
「そこまでです」
ぴしゃりとした声に振り返ると、マチルダが立っていた。尋常じゃない悲鳴の数々を聞きつけて、誰かが呼びに行ってくれたらしい。
女はマチルダの姿を見てハッと我に返ったようだった。顔に生気が戻ったが、苦々しい表情を隠そうともしない。
「あなたがた、何をしてるんですか」
「その人間があたしを打ったんです!」
「その前に、ずっと嫌がらせされました」
マチルダが、じろりと全員を睨み据える。鋭い眼光と目が合うが、アザレアはたじろがなかった。被害者は自分だし、正当防衛だ。先に手は出したが。
「仕事の後、話を聞かせてもらいます。全員予定を開けて待っていなさい。部屋まで伺います。アリス、あなたは救護室へ行くように」
不貞腐れた様子で、取っ組み合った女が出ていく。外で待っていた取り巻きたちに迎えられていた。
「アザレア、メイ。あなたがたは怪我は?」
「ありません」
「私も、さっき戻ってきたところなので」
「結構です。ではまた後ほど。この部屋の仕事が終わったら、彼女たちとは会わないように。メイ、わかりますね」
「はい、二階に行きます」
そう言ってマチルダは足早に去っていった。
残されたふたりで、顔を見合わせる。
「びっ……くりしたあ……」
メイは気が抜けたのか、へなへなと座り込んだ。
「ちょっと、アザレアったら、取っ組み合ってるの見て、私がどれだけ驚いたかわかる? びっくりしたあ! 案外血の気が多いんだから……あ! 頬、怪我してるじゃん! 痛くない?」
そわそわするメイに対し、アザレアは心ここにあらずだった。
「どういうことだと思う?」
「え?」
「人間の心臓が必要って……生贄って……」
彼女が言ったことが妙に引っかかった。
興奮していて気付かなかったが、落ち着くとじんじんと頬の傷が痛んだ。手の甲でそっと押さえる。
「旦那様がいないのが、生贄を探してるって。どういうこと?」
「アザレア」
メイがアザレアの両肩に手を置いて、真正面からアザレアに相対した。
「あの子、なんか変だったと思わない?」
「え……うん。そうかも。私に殴られて変になったのかと……」
「そういう感じじゃなかったよ。なんか……」
メイはなんと表現したものかとしばし逡巡していた。
「錯乱してた。何言ってるのか私もわかんなかったもん。ねえ、まともじゃなかったよ。そんな話聞いたことない。人間の心臓だとか、本当にそんなものが必要なら、十年もここで働いてる私が一度くらい人間を見てるはずじゃない?」
アザレアはゆっくりと頷いた。メイの言うことももっともだ。
「かなり被害妄想入った感じだったじゃん」
「聞いたって言ってたけどね。誰にだろう?」
「なんか変な噂を吹聴してる人がいるのかな? ていうか、最近態度悪かったの、やっぱりあの子たちだよね?」
メイに心配させると思って気にしていないつもりだったが、アザレアは言葉に詰まった。
「さっきの子たちが犯人ってことだよね。じゃあさ、正当防衛だよ!」
メイ自身が渾身の力でアザレアを押しとどめたにも関わらず、もう一発殴ってやればよかったじゃん! と言って憤慨しているので、アザレアは笑ってしまった。
夜になって、マチルダが訪ねてきた。主犯たちには先に会ってきたらしい。何があったのかふたりの言い分を聞いてもらったが、あまり齟齬は無かったのか、相槌を打ちながら聞いてくれた。
「……すみません。あなたには悪いことをしました。監督が行き届かず……」
はあ、とため息をついて、マチルダは額に手を当てた。彼女もまさかこんなことが起こるなんて思いもしなかったのだろう。その気持ちはわかる。アザレアは慌てて言い繕った。
「あの、まあ、いじめみたいなことは、人間界でもあったし……」
「そういうわけにいきません。あのまま気付かず助長させていたら、あなたの身の危険もあったんですから」
マチルダが険しい表情で続けるのに、ぎくりとする。それで思い出したようにアザレアが使用人棟の上から鉢を落とされた話をすると、マチルダもメイもぎょっとした顔になった。危うく怪我をするところだったのだ。事態は思ったより深刻だった。
「……これはあなたがたには話しておきますが」
マチルダがため息をひとつついて話し始めた。
「近頃、屋敷内の雰囲気が悪くなっています。ちょっとした諍いが大きな喧嘩に発展することがよくあるようです。今日のことも」
「なんでですか?」
「……旦那様の不在で、皆落ち着きがなくなっているんだと思いますが」
まただ。
旦那様。
「旦那様は、いつ帰ってこられるんですか?」
「私たちにはわかりません。長期の出張ですから」
「あの子、人間は生贄だって……」
マチルダの目が鋭くなる。
「アザレア。いいですか? 我々は、間違っても人種の違いで、あなたを不当な目に遭わせることはありません。偉大なる公爵邸に仕える者として、そのような倫理に悖る行いはこの私が許しません。この館において、魔族でないという理由で誰かを何かの生贄にしたことなど一度もありませんし、これからもそんなことを許すことはありません」
真摯な言葉だった。丁寧だが、威厳がある。
アザレアは、自分が疑っていたことを少々恥じた。小さな声で、はいと返事をする。
「とはいえ今のような状況で、あなたを今まで通り本館で働かせるのは少々不安があります。明日から、使用人棟での下働きに移ってもらえますか? メイも一緒に」
メイが横で元気よく了承し、マチルダはようやくほっと安堵の表情を見せて、部屋を出て行った。
「アザレア、大丈夫?」
マチルダがいなくなった後も、アザレアはしばらくベッドに腰かけてぼうっとしていた。
彼女の厳しいが、それでいて冷たさはないまなざしを思い出す。
信じてもいいのだろうか?
「あ、うん。あの子たちと顔合わせずに済みそうで、よかったよ」
ほっとしたのは事実だ。深く息を吐いて、アザレアはぽつりと呟いた。
「人間って、そんなに違うんだね」
自分が無知なだけだったのかもしれない。
言葉が通じるのなら、それだけでうまくやれるような気がしていた。そんな甘い期待がべしゃりと地に落とされたようで、アザレアは珍しく、落ち込んでいた。アザレアみたいなちっぽけな存在には、どうすることもできないみたいだった。ようやくその存在を認識したばかりの、魔族と人間との断絶の計り知れなさが、今は不安だった。
メイがエプロンを外しながらアザレアの傍に寄り、ベッドに腰かけた。アザレアの手をとって握り、神妙な顔で呟く。
「ねえ、アザレア、その……辞めたいとか、思う?」
「えっ」
辞めるわけないよ、と即座に否定すると、メイはよかったと安堵のため息をついた。




