噂(1)
使用人の朝は早く、アザレアはまだ空が暗いうちに起こされた。
懐中時計を見たところ、多分朝の六時くらいだろうと思われた。昨日沐浴に使った蛇口からボウルのような洗面器にお湯をいれて(これが不思議な道具で、どこにも繋がっておらず蛇口しかないのだが、ひねると湯が出る。水が出るのもある)、顔を洗って髪を梳く頃にはうっすらと部屋の中も明るくなってきた。いよいよ仕事着に着替える。
メイドドレスはこれまで触ったことのないような厚みの上等な生地でできており、アザレアは汚さないか気が気ではなかった。あちこちにボタンがあり、先にそれらを外してすっぽりと被ってから留めなおす。生地のたっぷりしたスカートは足首の上まである。身頃はやはりアザレアにはすこしぶかぶかして大きかったが、着られないほどではなかった。適当に髪を結び、恐ろしく凝ったレースのついたエプロンをかぶって、だぶついたウエストをぎゅっとまとめた。エプロンの紐を後ろ手にざっくりと結んでいると、メイが手伝ってきれいに結びなおしてくれた。着る時内側に折り込んでしまった肩のレースを鏡の前で整えると、そこにいたのはすっかり格式高い屋敷のハウスメイドだ。思いのほか様になっている。
クローゼットに鍵をかけてメイと部屋を出た。同じようにそれぞれの部屋から出てくるメイド服の同僚たちにおはようと声を掛け合いながら、人の流れに紛れて階段を降りていく。
「いいね。似合ってる」
メイににっこり微笑まれてアザレアは悪い気はしなかった。
「ありがと。こんなにかわいらしい服だと、汚すのが気になって仕事に集中できない気がする……」
「かわいい服の方がやる気が出るじゃない?」
「でも、これで暖炉の掃除とか埃まみれの本棚とか掃くのよね?」
「そうそう。でもね、この服は特別な布でできてて、暖炉の煤まみれになってもほとんど汚れないのよ。汚れるのは自分だけ。便利でしょ?」
そう言われてアザレアは自分の服を見下ろした。見た目も触り心地も普通の生地と変わりない。
「そうなんだ」
「ただ切れたり破れたりっていうのはどうにもならないの。その時は繕うんだけど……針仕事したことある?」
「お針子の仕事をやってたから、針仕事は好きな方かも」
「すごい! 尊敬しちゃう。私は細かい仕事ってほんとに苦手なの。なるべく気を付けてるんだけど、結構あちこち引っかけるからねえ」
外に出ると、朝の冷たい空気が胸に広がって、爽やかな気分だった。本館に繋がる回廊を進むにつれて薔薇の香りが濃く漂う。
日が差し始めた薔薇の庭園は、朝露が光を反射して、まるで湖面のようにきらきらと輝いていた。物語に出てくる貴族の屋敷そのままの美しい光景に、アザレアは素直に感嘆した。
きれい。
こんな景色を、生きているうちに見られる日が来るなんて。
思わず足を止めそうになって、アザレアは慌ててメイについていく。
ぞろぞろと続いた人々が屋敷に吸い込まれていく。大勢の気配にだんだんと建物も活気づいてきて、息を吹き返したようだった。仕事の担当箇所はあらかじめ決まっているらしく、メイはアザレアと一緒に二階の客間へ向かった。同じように仕事を始める使用人たちの、見慣れぬメイドに対する好奇の目を感じながら、掃除道具を物置部屋から取り出してきて、いそいそと仕事に取り掛かる。
まずは窓を開けて換気するよう指示された。とにかく客室は部屋が多いので、泊まるお客様がいなくても日替わりで掃除をするらしい。泊まるお客様がいるとわかっているときはもっと大変だそうだ。
昨日簡単に案内してもらった時も思っていたが、どの部屋も信じられないほど広くて豪華だった。壁にかかっている絵画だけでも、一か所に集めたらとんでもない数になるだろう。さりげなく置かれている花瓶や照明も細かな装飾でいっぱいだった。以前、他人の家で子守りや掃除婦などの仕事をした時から、邸宅の高価そうなものにはできるだけ手を触れないようにしてきたので、皆がおかまいなしに水を取り替えたり移動させたりと手際よく取りまわしているのに少々驚いた。
「あんな風に触って、大丈夫なの?」
気になってメイに聞く。
「このお屋敷の調度品は、だいたい旦那様の維持魔法がかけられてるから、落としたくらいじゃ割れないんだよ」
「そうなの? 便利すぎる……」
「だよねえ。普通のお屋敷じゃこうはいかないよ」
それを聞いて心底安堵した。壊しても弁償できない。
メイによると、客間の掃除なんかをするのはまだ楽な方で、公爵様の生活空間を掃除する専用の使用人たちはもっと気を遣うらしい。
朝のお茶を淹れたり、必要なら湯浴みの準備をしたりと、朝食のタイミングを逃すほど忙しいこともあるという。
「私たちはとりあえず掃除が終わったら、いったん使用人棟に戻って朝ご飯を食べて、自分たちの部屋の掃除をして、あとは曜日ごとにいろんな部署のお手伝いかな。ハウスメイドの下っ端だと、今後いろいろ頼まれると思うから、結構お屋敷にもすぐ慣れるかも」
一通り仕事が終わると、来た道を戻ってきて慌ただしい朝食を済ませ、一度メイと別れた。自室のベッドメイキングをふたりぶん行って、使用済のリネンを運んでから再びメイの手伝いに行く。そこからあれこれ手伝いをこなし、仕事が八時頃終わると夕食をとり、沐浴をして、就寝までは自由時間だった。
はじめのうちはまだ体が慣れず、一日の終わりに部屋へ戻るとすぐさまベッドに潜り込んで眠っていたが、二日もするとだんだん習慣づいてきて、朝早く起きるのも苦ではなくなった。部屋での自由時間にすこしでも勉強しようと、アザレアは借りものの子供向けの教本を見ながらまずは文字を覚えることから始めた。さすがに図解付きで単語が載っているとわかりやすく感心する。
メイは出入りの業者に頼んで買っておいた秘蔵のおかしを一緒に食べようと言って譲ってくれたり、厨房までいって沸かしたお湯でお茶を淹れて飲んだりして、寝る前の自由時間を共に過ごした。
「他の人たちもこんな風に過ごしてるの?」
「そうそう。たまに集まっておしゃべり会したり、雑誌の回し読みしたり……私が頼んでる奴は当分回ってこないから、ひとりの時は適当に友達の部屋に遊びに行ってたんだけど」
話は尽きず、消灯前のわずかなあかりを残してでも、メイとは毎晩お喋りして眠った。メイはアザレアのことを知りたがったし、アザレアも魔界について、いろいろと聞いておきたいことがあったのだ。
メイは働き者だった。四六時中傍にいるとそれがよくわかる。一日中働けますといってこの屋敷に志願してきたらしく、とにかく働くのが好きという驚くべき勤労精神の持ち主だった。疲れの色を一切見せないし、仕事に忙殺されて不機嫌になるようなところを見たことがない。いつも溌溂として仕事に取り組む姿勢は見習うべきものだと思った。話のついでにそう伝えると、彼女は屈託なく笑って照れていた。
「それでかな? 新人が来るとだいたい最初の相部屋になるの。でも話しかけないでほしいタイプだと結構嫌がられるからなあ」
「私はありがたいけど」
「ありがと! もう十年くらい働いてるけど、はじめて言われたよ?」
アザレアは彼女を十九の自分と変わらないくらいの年齢だと思いこんでいたので驚いた。
「えっ。メイって十年もここで働いてるの?」
「そうだよお。今年で二十八だもん。公爵邸で働いてると、見た目の年を取らなくなるんだって。マチルダさんもああ見えて多分百は超えてるんじゃない? たしか先代のアスタロト様の時から働いてたって聞いたことあるよ」
「ひゃく!」
驚いて開いた口がふさがらない。人間だったらとっくに亡くなっているだろう。
メイが起き上がって懇願する。
「ねえ、でも、急にメイベル先輩! なんて年上扱いされたらショックで泣いちゃうからね。気持ちは同い年くらいだから。今まで通りにしてよ」
「ふふ。わかった。ねえ、マチルダさんのそれってほんとに? 魔族の人って、そんなに長生きするの?」
「ううん、このお屋敷が特別なの。なんだっけ? 立地と、あと、屋敷中に旦那様の魔法がかかってるから、魔族は影響を受けるみたい。人間だとどうなんだろうね?」
「立地?」
「そう。なんだったかなあ? 詳しい仕組みは忘れちゃったんだけど、地脈がどうとか……何かで聞いたんだけど……地脈の上に建ってるから、効果が高まるんだったかな?」
その恩恵のおかげで公爵邸の人々は病気や怪我にも強いらしく、体調を崩したり、大きな外科的治療が必要になったりすることはほとんど無いらしい。人間にも効くのかはわからないけどねえ、とメイがのんびり言う。
その話を聞いて庭園の薔薇を思い出した。
「そういえば、薔薇も……」
「ああ、旦那様の魔法の奴でしょ? 慣れちゃったけど」
「摘んだ後一瞬で生えてきて、あの……びっくりしちゃった。すごいねあれ」
「無くならないから便利だけど、はじめて見たらちょっと気持ち悪いよねえ。永続的に咲くようになってるんだって。毎朝庭師の人が摘んでお屋敷に飾ってるんだよ」
メイに説明してもらい、あの不安とも不快ともつかない気持ちが少し軽くなった。皆、ちょっとは気味悪がっているのだという安堵。
働きはじめてからしばらくは、メイをはじめとした限られた人とだけ接していたが、マチルダが全体の朝礼で紹介してくれたり、現場でこまごまとしたお使いを頼まれたりするうち、徐々に顔見知りも増えてきた。
一方で、一部の使用人たちから明らかに歓迎しない感情を向けられていることにも、アザレアは気付き始めた。単なる物珍しさだけではない負の感情。
「人間って、そんなにいないものなの?」
アザレアはある日メイに尋ねてみた。モーリスも同じようなことを言っていたが。
「少なくとも私が働き始めてから、人間がここで働いてたことってないかも。そもそも、魔界に来ることが滅多にないって」
「ああ、そうよね。私もモーリスさんがいなかったら門を通ってないだろうし……」
「モーリスさんはよく人間界と行き来してるって聞くからね」
「あの人、何なの? そういえば教えてくれなかったな……」
「使用人とかじゃなくて、旦那様の仕事の部下なんじゃなかったかな? こっちにいる間は本館に泊まってたし」
そういえば彼は公爵のことを我が君と呼んでいたっけ。
「人間はねえ……結構……おとぎ話の存在、みたいな感じかな……」
「一緒だ」
アザレア自身も、モーリスに悪魔の説明をしてもらってようやく概念が飲み込めたことを思い出した。魔族たちにしてみれば逆なのだ。
「私もその……来た直後は、魔族って言われても全然信じられなかったんだけど。実際会ったら、全然変わらない気はする」
「私もアザレアは言われないと人間だってわかんなかったよ! 普通だもん。ただ……」
メイは言いにくそうに口ごもった。
「アザレアはいい気しないと思うんだけど……やっぱり、魔族って結構プライド高いから、人間のことを認めないっていう思想もあるね。私はそういう風には思わないけど」
「ああ、でも、わかるわ」
向こうにいた時だって、親がいないとか片目が見えないとかで蔑まれたことがないわけじゃない。残念ながら、どこにいても同じような目には遭うんだなとアザレアは思った。
「ほんとにこういう言い方はいい気しないと思うんだけど……一応、安全のために一応言っとくね。最悪、人間のこと、家畜とかと同じだと思ってる魔族もいて」
「えっ」
「特に高位の、伝統的で保守的な魔族だと、血統とかすっごく重視するの。使用人みたいな階級でそんな思想の人、普通いないけど」
「……それって私、大丈夫かな?」
「一応公爵邸ではマチルダさんが使用人教育を徹底してるから、あれこれ言う人はいないと思うのよ。ただ、街に出るときは気を付けたほうがいいかも」
まだひとりで出かけたりしないでね、とメイが心配そうに言うので、しっかり頷いてみせる。
とはいえアザレアはまだこの時は、それほど気に留めてはいなかった。そうはいっても、使用人として同じ屋敷で働いている仲間同士なのだし、表面上はうまくやるものだろうと。
それが甘い考えだったことを、アザレアは翌日身をもって知ることになった。




