再び、別れの挨拶
すっかり馴染みになった花屋でいつもの花束をお願いして簡単に梱包してもらっている間、アザレアは慣れ親しんだ大通りを行き交う人々の間に、知った背格好のシルエットを見た気がして思わず目を凝らした。
門を通過し、見慣れた街へ入ると、アザレアは途端に戻ってきた実感が湧いた。モーリスはアザレアが住んでいた例のアパートメントの前で馬車を止めて、降ろしてくれた。
何も変わっていない、懐かしい喧騒。
まるであの日の続きに戻ってきたようだった。
その頃にはすっかり灰色の髪の紳士に戻っていた彼は、にこやかに会釈して去っていった。道端で新聞を売っていた少年の頭越しに覗きこんで日付を確認したら、魔界で半年過ごしている間に、人間界ではなんと一年半も経っていた。以前暮らしていた貸し部屋には当然もう別の住人が入っているようで、バルコニーに洗濯物がかかっているのが見えた。
かつての階下の住人たちに挨拶しに行ったら、幽霊でも現れたような反応で、一体どこに行っていたのかと肩を掴んで問い詰められたのを思い出して笑ってしまう。やっぱり何も言わずにいなくなってしまったのはよくなかったようだ。
アザレアが生きていたのを知って、昔馴染みの人たちは心底安堵した表情で迎えてくれた。身の回りの品物を売り飛ばして葬式にありったけのお金を使い、喪服さえ借りもので、翌日賃貸を引き払って姿を消したのだから、まあ、自死を選んだと思われていてもおかしくない。アザレアはしばらく皆に謝って回るのに忙しかった。
魔界で得た全財産は、別れる前にモーリスが換金してくれた。しばらく働かなくてもいいくらいの金額になったものの、染みついた清貧根性は捨てられず、アザレアは以前母と暮らしていた時よりもっと狭くて安いひとり暮らし用の部屋を借りた。今は定職を探しながら、時々知り合いに呼ばれて、お針子だの雑用だの、日雇いの仕事を手伝って過ごしている。
まだこちらに帰ってきて一か月も経っていない。
いまだに、部屋の扉を開けたら、あの使用人棟の自分の部屋がその先に広がっているんじゃないかと、夢想することがある。ふたつ並んだベッド、鍵付きのクローゼット、備え付けの鏡台、窓の外の静かな森が、アザレアを迎えてくれるのを。メイがベッドに腰かけて、もお、やっと帰ってきたの? 遅いよおと笑って声をかけてくれるのを。
花屋の主人にできましたよと声をかけられて、アザレアはハッと意識を引き戻された。目を凝らしていたが、人影は、雑踏を行き交う人々に紛れてすぐに見失ってしまった。
不思議な感覚だった。既視感というのだろうか。以前にもこうして、街中で誰かを見失ったことがあるような気がした。夢で見たのかもしれない。
店主にお礼を言って料金を払うと、花束を抱いて墓所に向かった。墓所はアザレアの新しい家からはごく近い。教会の傍にあるので、遠くから聖歌隊が練習する歌声が聞こえてきた。
天気のいい日だった。よく晴れていて、外出は長袖でちょうどよかったが、これから数日かけて気温が下がりそうな予感があった。まだ上着を買っていなかったアザレアは、どこで調達しようかと思案しながら歩いていた。古着で構わないが、新調した普段着に合わせるとなると、今までのように着られさえすればなんでもいいというわけにはいかない。
墓所の管理人が定期的に掃除をしてくれているおかげで、墓は荒れ果てるということもなかったのだが、葬式の直後からずいぶん来ていなかったことを反省して、アザレアは週に一度はこうして花を手向けに来ることにしていた。アザレアにとっては、まだ半年前のことだ。この半年間にあったことをすべて、母に語って聞かせてあげたかった。
ねえ、信じられる? 悪魔のお屋敷よ。旦那様は手を使わなくても、燭台に火が灯せるの。いつでもお湯が出てくる蛇口なんて、ここにもあったら絶対便利だと思わない? 薔薇の花だって、買ったらずいぶんするけど、旦那様の庭には、いくらでも咲いてるの。おじいちゃんは、なんで話してくれなかったんでしょうね……
ローラ・オルセンと素っ気なく刻んである母の墓前に、赤い薔薇の花束を置いた。
アザレアにとってはなんだか象徴的で懐かしくて、いつも買うのは薔薇の花束だ。高いのでせいぜい数本だが、こうして花束にまとめられていると華やかに見える。先週持ってきたぶんが枯れているのを、持って帰ろうとしてしゃがみこんだ。
「薔薇の花とは、いい趣味してるじゃないか」
――え?
突然背後から聞き覚えのある声がして、アザレアは振り返った。
ゆるく巻いた、長い黒髪の青年が、コートを着て立っている。視界に入った途端、その瞳に目が釘付けになる。
到底忘れられそうにない、宝石のような緑の瞳。
「だっ……だっ……旦那様?」
アスタロトだった。そこにいたのは。
絶対人間界にいるはずがない人物の登場に、アザレアは自分が白昼夢でも見ているのかと訝った。
「ひさしぶりだな。元気だったか?」
文字通り腰を抜かしたアザレアの反応がお気に召したのか、彼はにやりと笑った。モーリスがそうだったように、人間界に馴染むために擬態したのが今の姿なのだろう。あの美しい赤い髪は、今は懐かしい黒髪だった。
「え!? 本物!?」
「こんなにいい男が何人もいると思うか?」
軽口で確信する。本物だ。
「どうやってここに……? 旦那様もあの時門を通ったんですか!?」
「序列三位まではな、渡りの日を待たなくても自分で非正規に門を作って開けることができるんだ。前回モーリスに伝言を飛ばしたのもそれだ」
「ええ!?」
アスタロトが近づくと、腕を取って立たせてくれる。その感触と体温で、本当にここに存在しているのがわかった。
信じられない。
まだ最後に会ってから一か月も経っていないのに、途端に思い出が蘇ってきて、アザレアは懐かしさで涙が出そうだった。
「な、なんで人間界に? 信じられない。どうしていらしたんですか?」
「それなんだが……」
アスタロトがため息をひとつついて、手元から一枚の紙を取り出す。
「これを見てくれるか?」
「なんですか?」
公文書のような体裁のしっかりした紙だった。魔界の文字が書いてある。一部だけうっすらと意味がわかる言葉があった。「損」だろうか?
「お前が壊した〈遺物〉があっただろう?」
「え?」
「魔界の王宮には歴史的価値のある魔道具や宝飾品なんかが所蔵されてるんだが、〈遺物〉もそのひとつでな。ごってごての指輪だったのを見ただろう? たびたび盗難に遭うんだが、ああいう性質だから、回収され次第上位の柱たちが調律を行って王宮に返上している」
「はあ……? それで……?」
「魔王陛下にな」
「はい」
「あれは歴史的に貴重な資料で、まだ内部設計の解読が終わってないから、絶対壊さずに調律が終わったら持ってこいと言われていたわけだ。それを、お前が着用して、粉々にしただろう?」
「……いや、でも、あれ指輪が、自分で設計を書き換えて自壊したって、言ってましたよね? 旦那様。事故だって。地脈の裂け目に入れって、私に言ったのも、旦那様ですよね?」
なんだか雲行きの怪しい会話に、自然と言い訳めいてしまう。
「俺も始末書にそう書いて送った。その後、公式の調査団がうちに来て、調べたことを洗いざらい陛下に報告した結果、これだ。損害賠償請求が来た。お前あての」
嫌な予感がする。アスタロトが澄ました顔で続ける。
「金貨三千万枚だ」
「さっ……」
絶句。
金貨三千万枚?
桁が違いすぎて、庶民のアザレアにはもはや金額の想像がつかなかった。
「じょ……冗談……冗談ですよね。冗談と言ってください」
「残念ながら事実だ」
「は……働いて返せばいいんですよね? 働けば。もらったお金と……ちゃんと働いて送金しますから……」
「この通知書が出ている以上、人間界への渡りは禁じられている。逃亡の可能性があるからな。今回は紙一重で渡ってしまったわけだが……」
「そっ……そんな……」
膝から崩れ落ちた。
「ちなみに魔界の一般庶民の生涯年収が金貨二千万枚程度だ」
頭の中を読んだかのようにアスタロトが追い打ちをかけてきた。わざわざ解説していただきありがとうございます。じゃあ、一生働いても返せなくないか?
「うそ……」
「気の毒だが……」
「だ、旦那様は、じゃあ、私を連れ戻しに……?」
アスタロトが神妙な顔でこくりと頷く。それでわざわざ、偉い人だというのに門を開いて渡ってきたのか。なぜこんなところにいるのかと思ったら、全然嬉しい再会なんかじゃなかった。
頭がぐらぐらして、目の前が真っ暗になる。
あんまりだ。一応、命懸けで働いたというのに、その対価が損害賠償?
生涯年収の、何倍? 払えるわけがない。
終わった。
咄嗟に臓器売買とか蟹工船とか逮捕とか懲役刑とか、アザレアの頭の中に不穏な言葉が渦巻き始めた時、アスタロトが屈んで手を差し出した。
「だが」
「え?」
「公爵邸に戻ってくるなら、その金貨三千万枚、俺が肩代わりしてやろう」
「は?」
その瞬間悟った。
この男、最初から、あれでお別れにするつもりなんて無かったんだ。
見上げた先に、アザレアが絶対断れない条件をぶら下げて、アスタロトがにんまり笑っている。憎たらしいほど美しく。
人間界に帰ってしまえば万事解決! いくら魔界の公爵様でも約束は約束、自分が叶えると豪語したお願いを断ることもできない以上、そのうち諦めるに違いない。あの時そう思って安堵していた自分が、こんなはずじゃなかったと頭を抱え始めた。旦那様って、見た目は美青年かもしれないが、狸のように執念深いな。
魔界での別れ際のあの、切ない別れの挨拶は何だったのか? 一体いつから、こんな計画を?
「やっ……約束したじゃないですか。何でも望みを叶えてやるって……話が違う!」
「したが。約束通り、人間界に帰してやっただろう? 墓参りもさせてやったし。だがお前の賠償金を払うとは言ってない」
その台詞に呆然とする。
メイが言っていたのを思い出す。
約束しなかったことで後から穴を突かれないように。
「お……鬼! 悪魔!」
「悪魔だな」
紛うことなく、そうだった。ぐうの音も出ない。
「どうする? 戻ってくるか?」
「こっ……この……っ」
差し出された手を、ひっつかんで立ち上がる。
怒りに任せ、ありったけ力を込めて。
「働かせていただきますとも! この極悪クソ悪魔ーッ!」
アザレアの罵声が墓所に響き渡り、墓参りに来ていた一般人がざわつく。
一拍おいてアスタロトが、子供のように声をあげて笑った。しかもよっぽどおかしかったのか、いつまでも笑っている。
墓所の入り口で馬車を待たせていたモーリスは、アザレアの絶叫を聞きながら、我が君があんなに楽しそうに笑ってるのを聞いたのはひさしぶりだと、にこにこしながら考えていた。
まったく、ここ一か月ほど、子供のように計略を巡らせて、わざわざ王宮からの調査団に彼女を悪く言い、魔界を留守にすることなんて滅多にないのに、門を開いて自らやってきて、頑固ものの彼女を有無を言わさず呼び戻そうと、言い訳の外堀を埋めているのが、微笑ましくもあり、また羨ましくもあった。
もちろん、我が君の言うことに異を唱えるなどありえない。
アザレアの母の葬儀の日のことを思い出してモーリスは微笑む。
飢えた野良猫のようだった、ぎらぎらしたアザレアの双眸。吹けば飛ぶようないたましい姿なのに、その生命力に溢れた瞳は、躊躇なくまっすぐこちらを射た。
彼女にあの時、声をかけてよかった。
枯れた花束を持って足早に歩くアザレアの横を、アスタロトが軽い足取りでついていく。
「まさかこの後、すぐ帰れって言うんじゃないですよね!?」
「そのまさかだ。荷物くらいはまとめる時間をやろう。モーリスも呼んであるから、後始末は任せるといい」
「はあ!? モーリスさんまで!? また人をだまくらかして……! どいつもこいつも!」
「おとなしく俺の恋人になるかどうか、考えたか?」
「だから、お断りしますって……友達!」
「友達と恋人とどう違うんだ?」
アスタロトをキッと睨みつける。
「友達と恋人じゃ全然違うでしょうが! ああもう、ほんとに腹立つ……バカみたい!」
「本当にバカみたいだな。魔界だとお前が帰ってからまだ一週間も経ってない」
「旦那様に言われるのがいっちばん腹が立つんですよ! 何だったんですかあの別れ際の小芝居は! 人を馬鹿にして……! 何が恋人よ!」
罵詈雑言を並べ立てているのに、一向に効いてない。澄ました顔で笑っているそのお綺麗な顔に、往復ビンタする想像でなんとか耐えているが、アザレアは怒りのあまり涙が出そうだった。憤死っていうのはこういう感情に違いない。
なのに、人の気も知らないで、なんだってこんなに嬉しそうに笑ってるんだ。
「絶対、旦那様みたいな人、好きになりませんから!」
涙目でぷりぷり怒っているアザレアを見下ろして、アスタロトはかつてないほど愉快な気持ちだった。なんだってこんなに面白いんだ、こいつ。
「面白い。絶対好きにさせてみせる」
「絶対! ならないっ!」
アザレアが怒りのあまり振り回した枯れた薔薇から、かさりと音がして。
落ちた花びらが一枚、一枚、風に乗って、晴れた青い空に舞い上がっていった。




