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アザレア  作者: 有智子
第五章
21/22

結末(4)

 モーリスが自分を魔界へ連れてきた本当の理由を知るとともに、アザレアに期待されていた役目も、静かに終わりを告げた。


 給料もいいし、待遇もいいし、人間関係も改善されたし、仕事のやりがいもまあまああるしと、この屋敷にだんだん愛着は出てきたものの、そろそろ帰るべきところに帰ろうと、アザレアはちょっと前から、ぼんやりと考えてはいた。そもそもここで働くのも、次に門が開くまでの半年間だけのつもりではあったのだし。

 アスタロトの告白と、それを断るうまい口実は、そんなアザレアの背中をなかば無理矢理押してくれる、いい機会でもあった。


 辞めると言うと、マチルダにも他の使用人たちにもひどく残念がられて、意外だった。メイに至っては言うまでもない。ものすごく泣かれた。アザレアまでつられてもらい泣きするくらいに。

 自分の小さなトランクに荷物を詰めながら、私物なんて大した量ではないと思っていたのに、ここへ来た時よりも荷物がどさっと増えていて驚く。


 この半年間は、本当にいろいろなことがあった。


 マチルダに借りていた懐中時計を返すため、約束通り、はじめての給料で新調した小ぶりな時計。マチルダは、給料日に合わせて屋敷の出入りの業者にわざわざ時計を持ってきてもらえるよう頼んでくれていて、アザレアはお金が入ってすぐ、いくつかの意匠の中から好きな時計を選ぶことができた。時間を確認するだけだからなんだっていいと思っていたのだが、普段厳しく思えるマチルダのあたたかい気遣いが嬉しかった。

 文字を覚えるのに使った雑記帳。子供のように簡単な単語の羅列から始まって、本当に簡単な短い文章なら書けるようになった。魔界の文字に馴染みのないアザレアの字は「かなり独特」だとメイに言われた。お世辞にもうまくないらしい。

 メイとはじめての休日に街に出かけてお揃いで買ったリボン。それに、人間界から持参した服があまりに粗末だったのをメイに見咎められ、街で一番初めに目に入った洋服店に入っていって新調したドレス。あの時はひどかった。自然と笑みがこぼれる。


「アザレア、本当にその服で外出するつもり? 冗談でしょ?」

 公爵邸で働く使用人たちの、特にメイドの皆さんにとって、月に一度の外出というのはそれはもう、息抜きなんて軽い言葉では表せない、大切な時間だった。アザレアは鬼気迫るメイの圧力に屈して、ボロの服を着るのは諦めておとなしく彼女のドレスを借りた。

 確かに、複数人で着飾った上で、連れだって街まで繰り出すというのに、アザレアひとりだけ浮浪者みたいな格好だったら場違いもいいところだ。皆の士気も下がる。別にこの服だって、着られないわけじゃないのだが、楽しいお出かけに向いていないのは確かだった。アザレアは貧しい暮らしが長かったので、着飾ることにはほとんど興味がなかった。

 郊外のお屋敷なので、街に出るのには馬車を呼びつけて、何人かで運賃を折半するのが常だった。使用人たち御用達の一番最寄りの街はアザレアの地元よりずっと大きくて賑やかで、服飾品、雑貨、食べ物、遊び場など、ありとあらゆる様々な娯楽があった。

 街へ行く日が近づいて浮足立つ皆の様子を横目に、そんなに楽しみなのかとひとり不思議に思っていたアザレアだったが、到着してみると合点がいった。物欲の薄いアザレアはともかく、月に一度の休日しか外に出られない同僚たちにとっては街で仕事を見つけて暮らした方が楽しいんじゃないかと聞くと、もちろん街は楽しいが、街で見つけられる仕事の待遇は公爵邸とは比較にならないほど低いのだと言われた。公爵邸のメイドたちは、まずそれだけで箔が付く。それに僻地で働くぶん手当がつくのか、あれだけの人数がいても街中の同じ職に比べたらかなり高給取りだそうだ。アザレアも、最初の給料日にもらった金額を人間界の換算比率で計算したら想像の三倍くらいあったため、多すぎるのではないかとマチルダに相談しに行ったのを思い出す。合ってますよと言って、眼鏡を掛け直して明細をためつすがめつしていたマチルダが呆れていた。

 アザレアは先日のお礼(補償ともいう)として、願いを叶えるのとは別に、アスタロトから褒賞金をもらっていた。それがほとんどこの仕事の年収に匹敵するくらいの結構な額で、こんなに受け取れないとこれもいったん固辞したのだが、命懸けの仕事だったのだから当然だと言って押し切られたのでありがたく受け取っていた。屋敷から出ないので使う機会もなかったのだが、メイに気晴らしに街に出ようと言われてついていく気になったのは先立つものがあればこそだ。

 残念ながら、メイとは趣味の方向性が微妙に合わなかった。胸元にたっぷりフリルが付いているような、ふわふわの、パーティーででも着るようなドレスを、絶対似合う! とまで言っておすすめしてもらったのだが、アザレアはもっと地味なのがいいと言ってさりげなく遠慮した。結局、特に二の腕の袖も膨らんでないような、普段使いの落ち着いたドレスを二着買った。

 体型からいってあまりメリハリの効いたシルエットの服は着たくなかった。とはいえ、襟も比較的大きいし、濃紺と濃緑という落ち着いた色味ながら、小さな柄が入っていて、生地もたっぷりしている。仕立てもいい。下町のまじめなお嬢さんといった風情で、濃い茶色の自分の髪とも合っており、かわいらしかった。

 こんなに嬉しい気持ちになる、自分のためだけの買い物をしたのははじめてだ。胸の奥があたたかくなるのを感じた。メイには不評だが。

「せっかくなんだからさ、もっと思いっきりおしゃれしようよお」

「いや、全然いい。だいたい月に一回しか外出しないんでしょ? 清潔ならなんでもいい。洗いやすそうだし」

「もお、アザレアったら……洗いやすいかどうかでしか服を見ないんだから……」

 他に靴や下着などひとそろい新調したので、それだけでアザレアとしてはかつてない額の、結構な散財になった。メイのお気に入りの大衆食堂に行ってご飯も食べたし、有名な焼き菓子店でしばらくつまみにするためのおやつも買って帰った。

 一冊だけ本も買った。文字の学習に使っていた子供向けの絵本をずっと蔵書室から借りていたので、自分用に持っておきたかったのだ。

 その本も、トランクに入れる。

 ここにいた時間は、これまでの人生に比べたらほんの短い間だったのに、今までで一番、思い出すことが多そうな気がする。そう思うと、少し寂しい気もした。部屋のクローゼットにメイド服を吊るして、繕った跡をそっとなぞった。

 最初の頃こそ、人間だからという理由でよく思われていなかったこともあったものの、最後には夜中に集まって労いの言葉をかけてもらったほどだ。アザレアは社交的でない自覚があったので、むしろ皆がこんな風に気遣ってくれることに驚いた。

「アザレア……」

 最後の夜には、メイが涙でうるんだ目で名前を呼んだ後、腕を大きく広げて抱擁してくれた。いつでも明るく接してくれた彼女には感謝してもしきれない。

「寂しくなるよお。元気でね! ちゃんとご飯も食べて。それで、手紙も書いてちょうだい」

「うん。ありがとう。絶対書くからね。こっちの文字、忘れないようにしなきゃ」

 人間界にいながら、やはり故郷の人々と連絡をとりたい魔族というのはいて、実は郵便のようなものがひっそりと機能しているとモーリスに教えてもらった。門の開閉と同時に回収・配達される仕組みになっているらしい。どう書けば公爵邸に届くのかも書き留めて、本の間に挟んでおいた。寝る直前までめそめそ泣いているメイを慰めて言葉を交わしているうち、返事が途切れて、彼女が眠ったのがわかる。


 ふと、モーリスと祖父のことを思った。彼らもきっと、こんなふうに友情が芽生えて、長いこと交流していたのかもしれない。アザレアも、祖父と同じ側の人間になったのだ。そう思うと、感慨深いものがあった。


 半年に一度の、魔界と人間界がわずかな間だけ繋がる「渡り」の日。

 この日に合わせて退職の手続きを終え、来た時と同様、ふたつの世界をつなぐ「門」を通る馬車に一緒に乗せてもらう手筈になっていた。

 帰れるのだ。人間界に。あんなに望んでいたことなのに、当日になってもなんだか現実味がなかった。朝いちばんにマチルダに挨拶しに行った後、細々した処理を済ませると荷物を持って屋敷の車寄せへ向かい、馬車の手配が終わるのを待ってぼんやりと立っていた。

 帰ったらまずは母の墓参りに行かなくては。魔界と人間界では多少時間の流れが違うと聞いているので、きっと思ったより時間が経っているはずだ。

 アザレアはふと背後に気配を感じて振り向いた。

「旦那様」

 心なしか顔色の悪そうなアスタロトが立っていた。いつも通りのラフなシャツ姿に、上着を一枚肩にかけて、ズボンのポケットに手を突っ込んでいた。アスタロトのような高位の魔族は健康状態が悪くなることはないらしいので、本当に顔色が悪いわけがないのだが。若干憂いを帯びていると言った方が正しいかもしれない。


「本当に行くのか?」

 彼はちょっと拗ねたような声音でそう言った。彼に会うのはひさしぶりだった。辞めると言った後、マチルダと一緒に退職の挨拶をした時以来だ。あの時は横にマチルダがいて、私的な会話をする時間はなかった。

「本当にって。もう退職の挨拶も荷造りも済ませてますけど。お世話になりました」

 古びたトランクを持ち上げてみせる。いろいろあったが、この男に世話になったことは間違いない。本来なら気安く会話することすら許されないような貴人なのに、鷹揚に接してくれたことに今は素直に感謝の気持ちでいっぱいだった。

 気まぐれだろうとはいえ、気に入って傍に置こうとしてくれたことも。

 アスタロトが眉根を寄せて文句を言う。

「今からでも撤回すればいい。行くな。ここで働けばいいじゃないか」

「門に間に合わなくなるじゃないですか。帰らないと」

「お前、俺の気持ちを知っていながら、頑固な奴め」

 その話はもうとっくに終わったものと思っていたので、アザレアは苦笑した。

「まあまあ、絶対もっと、私よりずっといい人がいますよ、旦那様には。その美貌にお似合いの、きれいなお姫様とか、ほら、いないんですか? ともかく願いを聞いてくださって、ありがとうございます。このご恩は忘れません」

「わかってないな」

 長身のアスタロトが不意に屈んで、顔を寄せたのでびくっとした。頬に軽く、肌が触れる感触がした。チークキス。別れの挨拶だった。

 人の残り香は、離れる時にこそ強く香るのだと思った。幾度となく感じた薔薇の香り。彼の絹糸のような髪がふわりと揺れる。

「元気でな」

 その微笑みは少し苦々しくて、少し寂しそうで、そして、とても美しかった。

 アザレアははじめてどきりとした。

「旦那様も、お元気で。……不滅の魂に」

 こちらに来てはじめて覚えた口上で、感謝を込めて挨拶する。永遠を好み、魂の輪廻を信じる魔族の常として、よく使われる一種の慣用表現だった。少し畏まった、「栄えあれ」といった意味の。

 彼が片眉をあげた。そんな言葉よく知ってるな、とでも言うように。

「おお、我が君。お見送りですか」

 アスタロトの姿を見かけ、慌ててモーリスがやってきた。

「ああ。お前もいつも悪いな。頼んだぞ」

「お任せください。では、行ってまいります」

 アスタロトはひらひらと手を振って、馬車を見送ることなく、そのまま屋敷へと踵を返す。その背中をしばらく見送り、アザレアも背を向けた。

 モーリスが如才なく荷物を持ってくれて、そのまま軽やかにやってきた絢爛な公爵邸の馬車に乗り込んだ。来た時と同じように、座席に置いてもらったトランクを引き寄せて座る。

 モーリスが御者に声をかけ、馬車が出発した。

 景色が遠ざかっていく。遠くに、公爵邸が見える。果樹の林を通りすぎる。

「なんだか長いようで、短い間でしたね」

 モーリスが感慨深げに呟いた。

「ええ、本当に。昨日来たばかりみたいなのに」

 彼をはじめて見た衝撃でパニックになって、馬車から降ろせと勢いよく喚いたことを思い出すと、アザレアは少々恥ずかしくなった。

「モーリスさんも意地が悪いんだから。最初から魔界に来てほしい理由を言って連れてきてくださいよ」

「言ってご理解いただけたでしょうかね?」

「まあ無理だったでしょうけど……」

 お互いに顔を見合わせて、ふふっと笑う。

「もっといてもよかったのでは?」

「いえ、いいんです。お給金もたくさんいただきましたし。あちらでの生活も立て直せると思います。モーリスさんも長い間、ありがとうございました。またぜひ人間界にいらしたら、母と祖父のお墓に来てください」

 彼がにっこりと上品に微笑んだ。

「ありがとう。そうさせてもらうよ」


 とうとう、帰るのだ。

 日が高く昇り、広い草原が窓の向こうで、黄金の波のようにさざめいていた。薄青い空がどこまでも続いている。あの日見た、地脈の接続点の、光でできた泉のような幻想的な光景を思い出す。

 ここへ初めて来た時は、不安と恐怖しかなかったのに。

 この美しい風景を、ここで経験したことを、きっと生涯ずっと忘れることはないだろうとアザレアは思った。

 門を示す柱が、草原に黒々と立っている。

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