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アザレア  作者: 有智子
第五章
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結末(2)

 あれこれ世話を焼くのに部屋にやってくる使用人はころころ変わったが、皆とても愛想がよかったのでアザレアは驚いた。本館勤務の人たちは貴人のお世話に慣れているというのもあるのだろう。優雅で品があった。

 治療を受け、ご飯も食べ、しっかり寝たおかげで、翌日は普通に朝目が覚めた。今日からでも働ければと思っていたが、朝食を持ってきてくれた使用人からは、旦那様に伝えておきますねとだけ言われる。


 上げ膳据え膳の居心地の悪さといったらない。アザレアは低賃金長時間労働が体に染みついていたので、いくら住み込みとはいえ、働き始めたばかりの蓄えのない状態で休んでいるのはそわそわして落ち着かなかった。第一今まで働いたところでは、労働していない間は問答無用でお金は貰えなかった。働かないと食えない。治療を受けさせてくれたこともまだ信じられない。後で請求が来たらどうしよう?

 昼前に、耐えきれずこっそりと扉を開けて外の様子を探った。別に出てはいけないと言われてるわけじゃないが、夜間着同然の姿で本館を出歩くのはちょっと恥ずかしい。一応部屋にあったストールを軽く羽織ったものの、足元はスリッパだし、使用人棟まで戻るのは難しそうだ。見えている範囲で、遠くを歩いている使用人たちや廊下の様子から、ここが三階なのだと気付く。


「どこに行くんだ?」


 声をかけられてぎくりとしながら振り返ると、アスタロトが立っていた。

 なんだかひどく懐かしい感じがした。こうして明るい日中にきちんとした格好で見る彼は、今までの印象とはまた異なった、立派な公爵様だった。執務中だったのだろう、髪をざっくりとまとめただけのラフなシャツ姿だったが、暗紅色の髪は相変わらず絹糸のような輝きで、気品ある出で立ちだった。

 髪を払った拍子に耳飾りが揺れるのが見えた。瞳の色と同じ翠緑の石。

 彼に気付いた使用人たちが直角にお辞儀をしてから去っていく。アザレアも思わず頭を下げた。

「あ、あの、元気になったので、部屋に戻ろうかと……」

「本当に? もうしばらく養生したらどうだ」

「それについては、あの、すみません。三日も寝てたなんて、私も驚いていて。もうほとんどよくなりました」

「そうか? まだ顔色がよくないような気がするが……」

 まじまじと見つめられてどぎまぎする。彼はあんなことがあったなんて夢みたいに、とても元気そうだった。そのことに安心した。

「あ、そういえば、指輪……」

「しっ」

 言いかけたところで制されて口を噤む。

「その件だが、説明しないといけないことがある。話ができるなら、この後ちょっといいか?」

 彼が着いてくるよう手で合図したので、アザレアは一緒に執務室に向かった。執務室の中に入るのははじめてだ。外の不在の火が、アスタロトが扉をくぐると同時に実際に消えるのを見て感嘆する。

 執務室こそが、秘密の部屋のモデルだったらしい。壁紙から、かかっている絵画まで同じで、アザレアはひょっとして再びあの部屋に足を踏み入れたのかと思ってつい足を止めた。その様子を見てアスタロトが笑う。

「似てるだろう? 馴染みのある部屋がよくてな」

 執務室の机の前に見覚えのあるローテーブルとソファがあり、促されてソファに座る。

 折よく、使用人がお茶の用意をして入ってきて、手早く出してくれた。目の前で高級そうなティーカップに淹れてもらったお茶は、あたたかくて美味しかった。

 部屋にふたりきりになったところで、アザレアから切り出した。

「あれから一体、何がどうなったんですか?」

「そうだな……」

 アスタロトが優雅にティーカップに口をつけた後、机の上に戻してから話し始めた。

「何から話そうか? ああ、まずは礼を言う。お前がいなかったら、この屋敷はもっと深刻な被害を出していたはずだ。わざわざ人間界から来てもらったわけだし。モーリスが何と言って魔界まで呼んだのかは知らないが……」

「ああ、いえ、それほどでも……」

 直球のお礼にアザレアは謙遜した。

「いや、モーリスさんは半ば詐欺めいてましたけど……」

「そうだろうと思った」

 が、モーリスの所業についてはしっかりと進言しておいた。アスタロトは笑いながら立ち上がると、机の引き出しから小箱を取り出して開けた。アザレアはあっと思った。あの指輪がそこに収まっていたからだ。

「どこまで覚えているかわからないが、あの後、調律は失敗した。指輪が砕けたんだ。逆流した魔力が破裂して、お前は倒れた。モーリスの持たせた魔道具が発動したから、怪我が無かったのが幸いだ。この指輪は見た目だけは復元できたが、もはや魔力封じとしては機能しない。意思も消えている」

「ああ……」

 アザレアは、それを聞いて腑に落ちた。

 もう終わりにしよう。彼女はそう言ったのだった。

「あの時、わずかに逆流させた地脈の魔力を使って、自らの設計を書き換えて自壊を引き起こしたようだ。指輪にそんなことができるとは信じがたいが……」

「多分、そうだと思います」

 アザレアは自分が夢に見たことを話した。アスタロトがその話を聞きながら頷く。

「なるほど。あの時は疑似的にお前と指輪とが繋がっていたから、最後の意識みたいなものが流れこんだのかもしれないな」

「……あんな、寂しくて激しい感情があるなんて、思いもしませんでした」

今思い出しても体が震えそうだ。叫びだしたくなるような衝動。闇の中を歩き続けるような閉塞感。終わりのない絶望。

「俺はあくまでも、あれは作られた意識に過ぎないと思っている。〈遺物〉は、いまだに設計の全容がわからない特殊な魔道具だからな。だが、お前が見たものが真実なら……自壊することでこいつなりに安息を得たんじゃないか? ……俺には理解しがたいが」

 アスタロトは嘆息して、小箱を机の上に置いた。

「指輪の影響下にあった魔力はすぐ霧散した。俺はお前を運び出した後、屋敷を片付けて正常化し、モーリスが人員の誘導を。昼にはすべて終わったんじゃないか? そこからはマチルダが指揮してくれた。それから俺はずっと始末書を書いている」

「ずっと?」

 彼は机の上の書類の山を見やって肩を竦めた。

「貴重な〈遺物〉を一つ完全に破壊したからな。事故で片付けるには作文が必要らしい」

「ええ……」

「気にするな」

 指輪が壊れたその瞬間に着用していた者としては肩身が狭い。

「それから、これを」

 次に彼は、割れた手鏡とアザレアの眼帯を返してくれた。ここにあったのかと思ってほっとする。治療などのためにいったん外して、そのままだったらしい。眼帯については新しいものを手配済なので、それも渡すと言ってくれた。びりびりに裂けて血まみれになったため、代わりのメイドドレスも。

「これ、役に立ったので、取っておきたかったんです」

 すっかり私物として馴染んでいた手鏡を手に取った。真ん中に一本きれいにひびが入っていたが、アスタロトが直してやろうか? と言った後、アザレアが返事をする前に手のひらで覆って、次の瞬間には直っていたので驚く。もう護身用の術式はいらないよな? と確認されて、頷いた。

「今回のことは、俺が不在の間に屋敷の魔力の制御が効かなくなって起こった事故ということにしてある。実際そういうことは起こらないでもないからな。事の顛末は他言無用で頼む」

「わかりました」

「お前のことは功労者だと言っておいたから、皆に労ってもらうといい」

「ええ?」

「わざわざ魔界まで来て、人間だからとひどい目に遭ってばかりじゃ、割に合わないだろう?」

「それは、まあ、誤解もあったでしょうし……」

 話は終わりかと彼の顔を見たら、上機嫌に笑っていて思わずたじろぐ。

「決めたか?」

「え?」

 アスタロトがにっこり笑って言った。

「願い。これが片付いたら、何かひとつ願いを叶えてやると言っただろう? 報酬は手厚いぞ」


***


 本館の客間から一刻もはやく出たいと思っていたものの、そううまくいかなかった。

 執務室を辞して、もう少し療養した方がいいと言われて客室に戻った後、翌日になってからアザレアは熱を出した。それも結構な高熱で、数日間ひたすらベッドの中で丸くなることしかできなかった。過労かとか、心労がたたってとか、風邪引いたとか、思い当たる節もないではなかったが、大慌てで呼び戻された魔界の医者の治療もあまり効果がなく、当然ろくな薬もなく(一応、解熱効果のある薬草を煎じた飲み物などもらったが、需要がないらしくすごい味がした。蜂蜜を溶いて柑橘系の実を絞った白湯が一番ありがたかったくらいだ)ただ寝ていることしかできなかった。見舞いに来た全員に、とにかく仕事のことは気にしないで、ゆっくり休むように言われて、アザレアはもどかしかった。

 これまで右目以外には大きな病気もせずに生きてきたが、思い返してみれば、それは母娘ふたりで生きていくのに、常に極限の状態で精神が張り詰めていたせいだった気がする。衣食住を心配しなくてもいい公爵邸の生活には安らぎがあった。もうこれ以上耐えなくていいと、体の方が先に気が付いたのかもしれない。

 それが母を失った代わりに手に入れたものだと思うと複雑な気持ちだった。

 細切れにしか取れない睡眠の間隙に、意識が浮かび上がる。熱があるとき特有の皮膚のひりひりした感覚に目を閉じて震えながら、アザレアはなんとか眠ろうと努力していたが、直後ベッドの傍に人の気配を感じて、うっすらと目を開けた。

「具合が悪いらしいな」

 落ち着いた声が上から降ってくる。

 それで、そこに立っているのがアスタロトだとわかった。偉い人の前で見苦しい姿でいるわけにはいかないが、起き上がろうにも体に力が入らない。結局ベッドの上でのそのそと顔を向けることしかできなかった。

「旦那様、あの……」

 かすれた声で何とか言い訳しようとした時、手がにゅっと伸びてきて顔に触れた。指先はひんやりとしていたが、熱があるせいで相対的にそう感じるだけかもしれなかった。

「もっと眠った方がいい」

 そう言われると急に悪寒が和らいで、アザレアは再び目を閉じた。アスタロトが何かしたんだろうと思ったが、それを口に出す間も無く、眠気が襲ってくる。

 冷たい感触が頬を撫でていった。

 それは幼い頃の記憶にある、母の手のぬくもりとは全然違っていたが、同じように優しかった。

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