結末(1)
目を開けると豪奢な天井が見えた。
アザレアは決して信心深い方ではなかったが、天国で目覚めるときれいな部屋で起きられるんだなあ、とぼんやりした頭で考えていた。ゆっくりと視線を横にずらす。部屋の中は薄暗かった。重そうなカーテンの隙間から光が漏れている。それが夕暮れの残光なのか、夜明けの暁光なのか判断がつかなかった。
しばらくぼんやりとまどろんでいたが、ふと指先が不随意運動でぴくりと動いた後から、急に自分の身体感覚が意識の表層に浮き上がってきた。
――生きてる。
ハッとした後、すぐに右目に手をやった。そこには普段の眼帯の感触はなく、かわりに布の包帯のようなものが目の上を覆っていた。それでいったん安堵する。
一体何が起こったのだろう?
秘密の部屋に入って、地脈の接続点の上に乗った後までは鮮明だ。覚えているのは、アスタロトの焦った声、指輪が砕けた瞬間、割れた鏡の音。そこからはまるで夢を見ていたように曖昧で、起きた瞬間ははっきりと夢の内容を覚えているのと同様に、指輪の記憶としか言いようのないあの切ない感情もまだ自分のもののように感じられた。あたたかい魔力の流れの中に体が溶けていくあの感覚も。
ある意味、臨死体験に近かったかもしれない。
アザレアは横たわった状態のままもぞもぞと四肢の動きを確認し、ゆっくりと起き上がってみた。体が鉛のように重く感じられて難儀した。
よく見てみれば着ているものも、あの時散々走り回って、裂けた上に血だらけになったメイドドレスではなく、清潔な綿の、簡易なドレスだ。両手を見てみたが怪我はない。指輪をはめていたはずの左手にも、特に怪我をした痕跡はなかった。
それにしても、どう見ても使用人棟の自分の部屋ではない妙に豪華な部屋に寝かされていたことに気付いて、アザレアは落ち着かなかった。
ここはどこだろう? 本館のどこかである気はするが、皆は? 仕事は?
戻らないと。
のっそりとベッドから出て、傍に置いてあったお客様用らしい豪華なスリッパをこわごわ借りて立ち上がった。しばらく横たわっていたせいか平衡感覚が定かでなく、体がふらつく。
窓辺に近寄って外を見る。薄闇の中、いつもと変わりない薔薇園が眼下に広がっていた。生垣の合間で庭師が働いているのが見えて、今は夕方なのだと気付く。人が働いているのを確認してアザレアはほっとした。では、無事にやりおおせたのだ。
突然扉を叩く音がして、アザレアは心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。慌てて返事をすると、知らない顔の使用人が顔を覗かせた。
「あら、起きたのね! 体は大丈夫? まだ無理しなくていいのよ」
「あ、ええと……」
彼女が近寄ってきて、手を取ってベッドに誘導してくれる。アザレアはおとなしく従って、再びベッドの端に座った。
「私は本館の使用人で、マーガレットよ。あなた、三日も眠ってたの。旦那様の裁量で、この部屋に寝かせてあげてって」
アザレアはぽかんとした。なんだって?
「み、三日?」
「そう。待ってて、皆に伝えてくるわ。お医者様もいらしてるの」
彼女は驚いたアザレアの様子が可笑しかったのか、笑って言った。
知らせてくる、と言って彼女が部屋を出て行った後、ほどなくして、まずメイとマチルダが、慌ただしく見舞いに来てくれた。部屋に入って目が合うなりメイはアザレアに飛びついて泣きだして、なだめるのが大変だった。彼女の肩越しに見たマチルダも、安堵の表情をしている。
メイはあの日の朝、地震で使用人棟が騒然とした時にアザレアがいないのに気付いたという。驚かせてしまって申し訳ない。
「あの後、旦那様に緊急事態だって呼び出されて。伝言する暇もなくてごめん」
「本当にびっくりしたよお! いつまで経っても帰ってこないから何かあったのかと思って、探しに行こうとしたら、地震だし! その後モーリスさんに旦那様と一緒だって聞いて安心してたのに、ずっと目を覚まさないし! アザレア、死んじゃうんじゃないかって……」
「縁起でもない……」
「そうでもありません」
マチルダが静かに言った。
「そうなのよ。結局あの時、避難が遅れたらしくて、アリス……アザレアと言い争ってた子がいたでしょ? 彼女が……残念だけど、ひとりだけ亡くなったのよ。あの時、行方がわからなかったのが、あの子とアザレアだけだったの」
「あ……」
どうやらそういうことになっているのかと気付いて、アザレアは控えめに頷いた。胸に手を当てる。
「そうだったの。本当に……残念だわ」
アザレアがそう言うので、メイはちょっと驚いていた。
「流石に、亡くなった人を悪く言えないけど……あんな目に遭ったのに、アザレアって寛容ね。ともかく、本当によかった! 旦那様が間に合って。目が覚めて……」
メイに力強く抱きしめられてやや体が痛かったが、何から何まで心配させたことを反省し、甘んじて受けることにした。
使用人棟の部屋に戻りたいと言ったら、しばらくここで静養するよう旦那様から言いつけられているとマチルダが説明してくれた。全然落ち着かないのだが、意識が戻ったことだし、この後は多分そう長く滞在することはないだろう。仕事も当分様子見だと、ぴしゃりとマチルダに言われたので、アザレアはおとなしく従うことにした。
それから、メイたちと入れ替わるように、なんとモーリスが医者を連れてやってきた。医者はおっとりしたおじさんだった。公爵邸お抱えの人材だそうだが、はじめて見た。体の感覚について当たり障りのないことを聞きながら治癒魔法をかけてくれたが、やはり人間を見たことはなかったそうで、アザレアが人間であることにひとしきり驚いた後、魔族以外の怪我を診るのははじめてかもしれないと言って、比較的弱めに設定してくれた。
アザレアは自分が犬や猫にでもなったような気がしたが、多分、実際そういう扱いなのだろうと思った。治癒魔法は、おじさんが肩のあたりに手をかざして何やら唱えると、アザレアはなんとなく血行が良くなって体がぽかぽかした、という感じで、劇的に元気になるわけではなかったが、体のこわばりも取れ、動かしやすくなった実感がある。
医者がメモなど片付けている横でモーリスが話しかけてきた。
「いやあ、よかった。お手柄でしたね」
この男がアスタロトの前で這いつくばらんばかりに跪いていたのを目撃したアザレアとしては若干気まずさが隠せなかったが、モーリスはいつも通りだった。こっちが素なのだろうか?
「モーリスさんこそ。皆を助けてくださってありがとうございます。あっ」
ポケットにいれていた手鏡のことを思い出す。
そういえばあれはどこに行ったんだろう。
「あと、いただいた手鏡。おかげで助かりました」
「お役に立ててなによりです。我が君とご一緒なら無用の長物かと思いましたが……」
アザレアはふと気になって尋ねた。
「旦那様は、戻ってきたんですよね?」
「ええ。しばらくご不在だったので、今は集中して執務を。屋敷は元通りですよ。ご心配なく」
モーリスが満足そうに笑っていて、ちょっとぞっとした。嬉しいんだろう。
「我が君も何度かあなたの様子を見に来られてましたが」
「え、そうなんですか?」
「無理をさせてしまったからと。なんと思いやりに溢れておられることか」
目をきらきらさせているモーリスから、このままじっとりと旦那様の賛美が始まりそうだったので、アザレアは早々にお引き取りいただくことにした。
医師とモーリスが帰ると、また入れ替わりで本館の使用人が食事を持ってきてくれた。あたたかいスープに麦粥の、消化によさそうなご飯だった。美味しそうな匂いを嗅ぐと、すっかりお腹が空いていたことに気付く。
「ゆっくり食べてね。おかわりもあるから」
さすがにおかわりを食べるほどではなかったが、久々の食事は本当に美味しく、少しずつ味わって食べた。何か胃に入れるとそれだけでずいぶん回復したような気がする。




