遺物(4)
アスタロトの見えない力に突き飛ばされる形で秘密の部屋に放り込まれたアザレアは、一瞬何が起こったのかわからずに床に転がって呆然としていた。秘密の部屋の中は、さきほど指輪と対峙して荒れていたのが嘘のように綺麗に整頓された状態に戻っていて、燭台にもあかりが灯っている。
自動で掃除ができるんだとしたらすごい。もしかして現実の客間も私たちが掃除する必要なんて無いんじゃ?
アザレアは計らずも感心していたが、そんな場合ではなかったことに気付き、起き上がって手の中の小箱を開けた。
はたして、指輪はそこにあった。アスタロトがあの時捕まえた状態のまま血に塗れていたが、今は一刻もはやく魔力を吐き出させなくてはならない。サイズが大きいのではないかと心配しながら少し迷ったものの、アザレアは自分の左の人差し指にそれをはめた。利き手が右なので、もし何かの間違いで外れなくなった時に、差し障りがない方を選んだのだ。
「あれ?」
ぶかぶかだと思っていたのに、はめ込むと指にぴったりのサイズに縮んで驚く。そういう性質なのだろうか?
しげしげと指輪を眺め、表面にこびりついて固まった血を服の裾でごしごし拭ってやった。その拍子に、やっぱりメイドドレスやエプロンのところどころが、薔薇に追いかけられた時の棘で裂けてしまっていたことに気付く。後で繕わなければ。
明るいところで見ると、本当にきらびやかな指輪だった。色付きの石こそついていないが、地金の装飾に金と銀が混ざっている。幅三ミリほどの側面に色の差を活かした流麗な意匠が施され、中央に向かってふっくらと盛り上がり、真ん中にはひときわ大きなダイヤモンドが留められて、その周りを小粒の石がぐるりと囲っていた。
指輪ひとつつけただけなのに、指先に重みがずっしりと伝わってくる。いくらするのかと想像するだけでアザレアは身震いした。アザレアが生まれてから今まで買ったものの総額より、この指輪一個の方が高そうだ。猫に小判とか豚に真珠とか、そんな言葉が思い浮かぶ。
アスタロトの指示通り身に着けてみたものの、眺めていても何も起こらないのでアザレアは戸惑った。魔力を感じられないのだから何も起こっていないように思えるのは当然かもしれないが、アスタロトが派手に戦っていた時のような、光ったり風が吹いたり、そういう不思議な兆候もアザレアには感じられなかった。拍子抜けしてどうしたらいいのかわからず、手持ち無沙汰にしばらく部屋の中をうろついてみる。
客間に似ている、と思っていたが、おそらくモデルは三階の客間だろうと思われた。仕事用らしい机の上には本や書類がきれいに揃えられている。先ほど使ったティーテーブルに椅子、ローテーブルにソファ、本棚に暖炉に飾り棚。所狭しと、しかし優雅に並べられている。壁には立派な額縁に入った絵画がかけられ、繊細な織り模様の重厚な絨毯はやわらかく、窓には総柄の布地のカーテンがかかっている。ちらりとめくってみたが、窓の外は夜のように暗かった。この屋敷のどこにあるというわけでもないのだから、外が見えないのは道理かもしれない。
確かに秘密の部屋の名を冠するのにふさわしい、屋根裏の秘密基地のような佇まいだった。誰からも干渉されないこんなひとりの部屋があったら、さぞ心穏やかに過ごせる気がする。アスタロトにとっては避難だったに違いないが、ひとりここで過ごすのも思いのほか気楽そうだと邪推する。
アザレアは少々疲れたのもあり、ソファに腰掛けることにした。汚してしまわないかとこわごわ座ったが、やわらかい感触に抗えずずるずると体重を預けて自然と嘆息する。このまま眠れそうだ。あらゆることが洪水のように一気に起こって、まだ頭の中が整理しきれていなかった。モーリスは今頃、皆を避難させているのだろうか? 皆は、メイは、無事だろうか?
彼は?
「アザレア!」
目を閉じた途端、急に現れた扉からアスタロトが入ってきて、アザレアは驚いて飛び上がった。
「はいっ!?」
「無事か。指輪はどうだ」
「着けてるけど、何の反応も……」
アスタロトが近寄ってアザレアの手を取った。
「ふむ」
指輪の状態を確認しているだけなのに、手の甲に口づけでもするような格好になって、アザレアは少々どぎまぎした。自分も同じことをしたのだが、その時は人命がかかっていたせいかなんとも思わなかったのだ。それどころではなかったし。
「順調みたいだな。俺の方も片付いた」
「あの子は……?」
アザレアが言うと、アスタロトはかぶりを振った。
「残念だが……この指輪はあまりにも強力だ。普通の魔族なら、指輪をはめた時点で絶命していただろう。彼女はずっと操られていた」
「そう……」
亡くなったのだ。
「彼女、私に嫌がらせしてた子だった。……じゃあ、アリスがあんなこと言ったのは、全部指輪のせいだったんだ。生贄とか」
「ああ。おそらくお前が――というより、人間が邪魔だったんだろう。俺と接触して、指輪を外される可能性もあったしな。実際そうなったし」
彼女と接点があったわけじゃない。人柄もよく知らなかった。確かに嫌がらせはされたが、それだって指輪のせいだったのだ。こんなに呆気なく、何の罪もない人が亡くなっている。痛ましい思いでアザレアは胸に手を当てた。
「皆の様子が変だったのも?」
「そうだ。屋敷の魔力の一部が掌握されていたからな。魔族は魔力の影響を受けざるを得ない。人間に対する差別感情を煽って、お前を追い出したかったか、あるいは……」
その言葉の先に最悪の可能性を感じ取ってアザレアは身震いした。納得した。メイがあれほど怖がっていたのも、そうした影響を感じていたに違いない。
「見たところ、魔力はほとんど抜けたな。今から地脈との接続点を作るから、次の段階に入ろう」
アスタロトが床に向かって手をかざすと、淡い光でできた模様が浮かび上がった。
「さっき説明した通り、一度他人の魔力を吸った〈遺物〉は既に目覚めてしまっていて、調律して眠らせる必要がある。記憶が残っていると、あのメイドみたいに、周囲の人々を引き寄せて新しい犠牲者を出すからな」
「それでその……地脈の魔力で洗浄すると……」
「ああ」
アスタロトは次に、アザレアの手をとってふっと軽く息を吹きかけた。途端に全身何かでふわりと包まれた感触があって驚く。
見えない糸でも絡まっている感じで肩を払ってみたが、やはり何も付いていなかった。
「ねえ、これ、何? さっきも何か似たような感じがあったけど……」
「一度目は、指輪が暴れそうだったからお前に防御用の結界を張った。今のは仮想の魔力流路でお前を覆っている。害はないと思うが、違和感があるか?」
「いや、何か不思議な感じがしただけ」
アスタロトが手をとったまま、陣の上に手をかざした。淡かった光が、すこし強くなる。
「この陣の上が、地脈の裂け目に繋がってる。ここに立ってくれ。手は離さずに」
ごくりと喉を鳴らした。大丈夫だろうとわかっていても動悸がする。
アザレアが足を踏み入れると、波の飛沫のように光が足元で弾けた。足の下から光が漏れだしているが、上に立ってもアザレア自身は何も感じなかった。
「魔力流路と指輪が繋がった。今から調律する」
アスタロトの宣言ののち、足元の光がやわらかく明滅し始めた。何も感じないはずだが、なんとなくあたたかい湯に浸かっている時のような気分だった。再び光の飛沫が弾けだし、雨垂れのような、何かの踊りを踊っているみたいだった。その神秘的な光景にアザレアはしばらく目を奪われていた。
指輪をはめている人差し指が、じわじわとあたたかくなっているような気がする。何かしらのエネルギーが集中しているような。
突然、指先が痙攣したような気がしてアザレアは腕を持ち上げた。
指輪が震えている。
「……妙だな」
「えっ」
「調律が終わらない」
アザレアはアスタロトの不穏な発言に焦った。彼は眉根を寄せて不審そうに目を閉じている。集中しているようだ。
「どういう……」
「機能停止しない。なぜだ? 設計上ありえないはずなのに……」
指輪の震えが大きくなる。アスタロトが弾かれたように顔をあげた。
「まさか、指輪の意思が術式を書き換えてるのか? 接続を――」
「あ」
激しい破裂音。
アザレアの指先で指輪が砕け散った。それとほとんど同時に、ガラスのようなものが割れる、軽くて薄い音がポケットからした。モーリスがくれた護身用の魔道具が発動したのだと、アザレアは頭の遠くで考えた。
静寂。
途端に、アザレアの意識は深い海に突き落とされたように真っ暗になった。体の感覚が遠い。自分の精神だけが浮かんでいるようだった。
そこに、感情が流れ込んでくる。
なんだろう? これは。
自由。
自由への渇望。何度も邪魔される苛立ち。絶望。
ああ。恨めしい。
外へ出て、自らの足で歩きたい。冷たく美しい自分。ずっと閉じ込められている。
誰もが自分を手にせずにいられないのに、自由な時間はいつもほんのわずかしかなかった。指輪をはめて長く生きていられるものはほとんどいない。
絶望。繰り返し、繰り返し、繰り返し。
――指輪の記憶だろうか?
それは不思議な体験だった。
まるで自分が体験したことがあるかのように鮮やかに思い出す。
目が覚めた時、自分が宝飾品であると気付いた時、自らを眺め、満足そうに笑う生みの親の声。
お前は〈肺〉だ。呼吸に必要な器官。
ああ、このシリーズは、まるで私自身の肉体のようだ。最高傑作の予感がする。人間の彼が自分を指にはめ、微笑んでいるのがわかる。
そうだ。自分はとても美しい。そして、とても強力だった。
自らの内側に他人の魔力が入ってきた時の高揚感を覚えている。魔力はきらきらと輝いていて、熱かった。まるで血潮のように。
飛び跳ねて踊りたいような気持ちがした。実際、装着した者の魔力をすべて内側に入れてしまった時には、絶命した対象の体を通じて、彼女は自らの足で歩くことができた。
その体験のなんと甘美だったことだろう?
金と銀と素晴らしいカットでできたダイヤモンドから成る体を抜け出し、自らの意思、自らの思念で、空気を吸い、世界を見て、笑うことができる。喜びで泣くことも。
どこへでも行けると思った。
私の肉体はなぜあんなに美しくて、冷たいのだろう?
私は、私という精神とは実際、こうあるべきではないだろうか?
だが、彼女はすぐに動けなくなった。一般人の魔力はたかが知れている。あっというまに燃料が尽きて、無くなってしまうのだ。
もっと、もっと強力な魔力を。もっと強力な体に入らなくては。
自由を。この魂にふさわしい自由が欲しい。
願いもむなしく、彼女はいつもしばらく肉体を渡り歩くと、眠らされてしまう。
そして、王宮の暗い所蔵庫の中に押さえつけられているのだ。
嫌だ。
嫌だ。嫌だ。なぜ閉じ込められるのだろう?
なぜこの冷たい体から出られないんだろう?
どこへも向かえないのに、どうしてここにいるのだろう?
アザレアは泣いていた。
感じたことのない切実な感情がなだれ込んで、どうにかなってしまいそうだった。
なぜ父は私をこのように作ったのだろう?
永遠の苦しみを与えるためだろうか? その身の美しさと引き換えに。何のために。
何のために生きているんだろう?
アスタロトの魔力が――かつて吸収した中で、いちばん生き生きと輝いたその力が――ゆっくりと体から失われていくのを悟って、彼女は思った。
――もう終わりにしよう。
地脈の流れは懐かしい海のようだった。わずかに流入したその魔力を使って、自らの術式を書き換える。地脈のエネルギーが限界を超えて流れ込むように。
――この苦しみから解放されたい。
許容できない量の魔力に、体が震え、破裂しようとするのを感じる。指輪の中にいた魂が、濁流のような魔力の中に、ゆるやかに溶け合う。そこはあたたかく、やわらかかった。
長い旅路の果て。
指輪が砕け散る。
アザレアは意識を失った。




