遺物(2)
アザレアは驚いて振り返った。蔵書室の入り口に、感極まった様子のモーリスが立っている。
「モ……モーリスさん?」
今までアザレアの前で見せていた穏やかな姿が嘘みたいに取り乱しているモーリスは、本当に同一人物なのか疑いたくなるほど様子が変だった。アザレアの横にいる男を見て、今にも泣きだしそうに顔を歪めている。
「お戻りになったのですね」
モーリスは足早に近づいてきて、服が擦りむけそうな勢いで片膝をつくと、騎士のように首を垂れた。その大仰な仕草にぎょっとする。
「魔力反応を辿ってまいりました。ご無事でよかった。心配いたしました」
「悪い。苦労をかけたな」
変だ。
「……ねえ」
アザレアの理解ではこのふたりは同僚のはずだったが、ただの同僚にしては、明らかに距離感がおかしい。モーリスはもはや、這いつくばって足の甲に額づかんばかりだ。
馬車の中で、屈託ない賛辞を躊躇うことなく口に出した時の彼を思い出す。この男が跪く相手というと、思い当たる限り、ひとりしかいないのではないか?
「どうした」
「ちょっと待って」
アザレアの中で最悪の想像が頭をもたげ始めた。
そんなはずはない。そんなはずはないが、昨夜秘密の部屋で、名推理で繋がったと思っていた一本の糸が急に解けて、まったく新しい可能性が急に、しかもかなりの確信とともに浮上してきた。まさか。
「ねえ、まさか、あなたが公爵様……?」
目の前の男が片眉をあげた。この数時間で何度も見た彼の癖。
「ついに気付いたか?」
否定して、と思っていたアザレアの希望はあっけなく潰えた。
頭の中が真っ白になる。
「まっ……えっ……ええっ!?」
「このまま黙っているのも悪くないかと思っていたんだが。自己紹介がまだだったな」
彼は目を白黒させているアザレアを心底面白そうに眺めて、完璧な笑顔を浮かべて手を差し出した。
「この屋敷の主。序列三位の大公爵、アスタロトだ。よろしく」
血の気がさーっと引いた。
軽くめまいがして、アザレアはその場にへたりこんだ。
ついでに平身低頭、地面に額をこすりつける寸前まで頭を下げる。
「ちょっ……あのっ……とっ、とんだご無礼を……」
背中に冷や汗が流れる。アザレアはこれまでのざっくばらんな会話の中で、「旦那様」について失言していないか、必死になって記憶を探っていた。少なくともあけすけな悪口を言った覚えはないはずだ。今まで息もつかせぬ怒涛の出来事の連続で、彼と雑談していた瑣末な内容なんて、とっくに頭から吹っ飛んでいた。
誰も旦那様の見た目について詳しく説明してくれなかった、いや、アザレアが旦那様の容貌に興味がなさすぎて、別段聞かなかったともいえる。アザレアは今までずっと、この屋敷の旦那様というのは気性が荒くて使用人を次々クビにするようなどうしようもない年寄りの神経質なオッサンだと思っていたのだ。
目の前のきらきらしい男はアザレアの想像していた旦那様像とははるかにかけ離れている。たしかにこの風貌を見れば、使用人たちをはじめとした魔界の一般人とは明らかに一線を画していると納得できる。だが。さっきまでは、長い黒髪が表情を隠していた上、部屋も薄暗くてよく見えなかった。おまけにしおしおとやつれていたのだ。
ああ。
思い返せばおかしなことも多かった。
外から隔離された秘密の部屋。
あれだけ血を流して平然としていたこと。怪我が一瞬で治る尋常じゃない治癒力。
魔族になった人間。
突然大富豪になった男の話。
一度気付いてしまうと、なぜあの時点でその可能性に思い至らなかったのかと自分を殴りたい。いっそ地面に額を叩きつけたようとした時声が降ってきた。
「構わんぞ。お前のおかげで助かったんだ、そう畏まるな。今まで通り接してくれ」
アスタロトが腕を取って立たせてくれる。信じられないほど軽い調子で免罪符を得たアザレアは、どうしてもこれだけは言わせてもらわないと気が済まないと、深く息を吸い込んだ。
「なんで! 最初っから言わないのよっ!」
「正体を明かせない頃合いだったんだ。許せ」
アスタロトがにやりと笑う。アザレアと主君の間の思いがけず気安い雰囲気に面食らってぽかんとしているモーリスに、アスタロトが向き直った。
「モーリスが連れてきたんだろう? 彼女のおかげで助かった。お前の功に礼を言う」
「恐れ入ります。我が君こそ、よくぞご無事で。一体何が……?」
「〈遺物〉の魔力封じを調律していて、失敗した」
モーリスがハッとする。
「〈遺物〉ですか。それはまた、ご無事でなにより」
「とんだじゃじゃ馬でな。吸収された魔力が俺の制御を離れて暴走している。この魔力濃度では皆には毒だろう。屋敷の人員は急ぎ避難させてくれ。数時間以内に収拾する」
「かしこまりました」
「こいつは置いていってくれるか」
アスタロトに突然肩に手をおかれ、アザレアは心臓が飛び出そうになった。
「へっ?」
「まだ手伝ってもらいたいことがある。お前にしかできない、例のやつだ。な?」
例のというと、指輪のことだろう。ぶんぶん頷く。
「承知いたしました」
モーリスが心得たとばかりにお辞儀をした瞬間目の前から消えて、アザレアは唖然とした。
「あっ!? き、消え……」
「移動の許可を出したからな。俺たちも行こう」
「行くって……」
「上だ。そういえば、お前の名前を聞いてなかったな。名前は?」
この流れで自己紹介するのはなんだか間抜けな気がしたが、ひとまず従っておく。
「あ、アザレアです」
「アザレアか。今までお互い、名前も知らずに会話してたわけだが、それも悪くなかったな」
笑いながら、蔵書室を出てずんずん歩きだすアスタロトの後ろを着いていく。場にそぐわない緊張感のない会話に毒気を抜かれてしまう。
「なんで黙ってたんです?」
「先に言ってやれなかったのは、お前が誰かわからなかったし、屋敷の者にあの姿を見られるわけにいかなかったからだ。すべて秘密の部屋の中で済ませるつもりだった」
あの姿というのは、黒髪のことだろうか? たしかに別人のようにやつれていたし、モーリスのさっきの様子からいって、病気かと思って心配したに違いない。
「どうして……ですか」
彼が片眉をあげてちらりとこちらを見る。
「おいおい、今まで通りでいいぞ。話しづらい」
「そうは言っても……」
「今だけ特別ってことにしてくれ。……なぜかって? 《《死にかけてた》》からだ。魔族の前では威厳を示さないとまずい。お偉い公爵様だからな。言ったろ? この世界は弱肉強食だ。弱ってるところは見せられない」
「そんな。でも、あんな状態で。助けてって言えば、皆助けてくれま……くれるでしょ」
「器として失格だと、不安になって中央に告げ口されたら困るからな」
ウツワ、の意味がわからなかったが、そういうものかしら、と思いながら着いていく。
あんなに好かれているのに、思ったよりドライな関係なのだろうか。
「私は……?」
「お前が人間じゃなかったら入ってこられなかったし、指輪も外せなかっただろう? 不可抗力だから、黙っていてくれればいい」
「はあ」
「とはいえ、そうだな。他言無用の代わりに、何かひとつ願いを叶えてやろう。約束だ」
「願い?」
「ああ。この騒動が全部終わったら聞くから、考えておいてくれ」
なんだか軽い調子だが、何を隠そう、この男は天下の公爵様なのだ。その漠然とした言葉の裏に、望めば本当になんだって叶えてくれるに違いないという確信を感じ、空恐ろしくなる。アザレアはぼそぼそと答えた。
「考えておきます」
気付けば、中央階段に近づいていた。薔薇園を覆っていたのと同じ黒い靄が、タール状になってぐにゃぐにゃとそこかしこに及んでいた。美しい装飾で彩られた中央階段が、無残にも黒ずんでいる。下を見ると、使用人が何人か倒れているのが見えた。
アスタロトが手を一振りすると、先ほどの秘密の部屋と同様、あたりの燭台に一斉に火が灯った。
「内部がかなり侵食されてるな」
「一体、どうするの?」
「まずこいつを処理しに行く」
「皆は?」
「モーリスが避難させている」
アスタロトが踊り場で不意に足を止める。
「柱の魔力は一般人の魔力とは違う。器である俺の制御下にあるときは問題ないんだが、今は指輪の中に吸収されて、疑似的に器を失ったのと同じ状態だ。さっきみたいに」
急に広間の調度品がガタガタと揺れ始めた。
「えっ」
「侵入者を排除しようと襲い掛かってくる可能性がある。後ろにいてくれ」
階段の上にかかっていた風景画や調度品がいくつか浮き上がった後、すごい速度で飛来してくる。アザレアは咄嗟に身を守ろうとしたが、さきほど秘密の部屋で見たように周囲に透明な膜が張られていて、ふたりにぶつかる前にそれを跳ね返した。それを見てほっとする。
「上だ」
アスタロトが階段を上っていくのに着いていく。大広間から続く階段を上るのははじめてで落ち着かなかった。多分これから先、二度と歩くことはないだろう。彼は歩きながら、指輪の入った小箱を持ち上げる。
「この指輪に操られているぶんの俺の魔力を吐き出させる必要がある。屋敷もそれで自然と落ち着くはずだ」
アザレアはおそるおそる尋ねる。
「まさかまた着ける気?」
「まさか」
アスタロトがにやっと笑った。
「お前が着けるんだ」
「へ!?」
アザレアは驚いて自分を指さした。
「私が!? それって、大丈夫なの!?」
「この〈遺物〉に限って言えば、着用した者に魔力がない状態で魔力封じが発動すると、刻まれた術式の効果が反転するはずだ。つまり大丈夫だ」
「何を言ってるのかさっぱりわからないけど……」
「ふむ。詳しく説明しようか? 魔力がまったくない人間がこの魔力封じを着けると、逆に吸収した魔力を吐き出すと推測される。近代になって開発された魔力封じは装着時に使用者の魔力があるかを判定した後、使用者の魔力流路の一部を閉じることで制限をかける設計が大半だが、この〈遺物〉のような古い型の場合は、対象者の魔力そのものを物理的に装置の中に貯めこんでいて、いわゆる安全装置が存在しない。人間の場合、吸収する魔力自体をもともと持ってないだろう? だから指輪が魔力を吸収しようとしても何も入ってこないが、それをおかしいと思って止める機構が無いわけだから、圧力差で逆流が起こるはずだ。それを狙う」
アザレアはごくりと喉を鳴らした。
本当に何を言っているのかさっぱりわからない。
「わかった。やっぱりよくわからないってことが。悪いんだけど説明されても理解できないかも。人間なら可能ってこと?」
「ああ。お前にしかできない」
三階にあがる。ここまでの調度品たちも、傍を通りすぎようとする気配を感じた途端、反応して飛びかかってきたが、やはり見えない壁に跳ね返されて床に転がっていった。大丈夫だとわかっていてもひやひやする。
「ここには、秘密の部屋の通常の入り口があるんだ」
「また戻るの?」
「そうだ。秘密の部屋に、地脈の裂け目がある。お前が指輪の魔力を全部放出させて空になったら、お前を疑似的な魔力流路で覆って地脈と接続させた上で、〈遺物〉を調律して眠らせる」
「なんて?」
途中から話が難しすぎてついていけなかった。アスタロトが笑う。
「聞いたことがあるか? ここは特殊な地脈の上に建っている。世界中に漂う根源的な魔力が、井戸水みたいに湧いてると思えばいい。調律は……説明が難しいな。指輪から魔力を抜くだけじゃ足りないんだ。今回は特に、俺に対する恨みの記憶が残る。それを消すのが、調律だ。魔力がまったく存在しない状態だと指輪自体が起動しないから、空にした後で一度地脈と接続して、混ざり気の少ない魔力を少しだけ流し込んでから行う」
「……その、調律っていうのが、どうしても必要なわけ? 魔力を抜くのと、たいして差がないような気がするけど?」
「大ありだ。お前、夢も見ずに寝た後と悪夢に魘されながら寝た後で、目覚めに差が無いのか?」
「はあ、そういわれるとなんか想像はつくけど……」
「察しがいいな」
本当に察せているのかよくわからなかったが、雑に言語化されたことで想像できた気がする。話が難しすぎる。この男こんなことを考えていたのか。
「こいつが今回俺の魔力の味を覚えた以上、記憶を消しておかないと、次に目覚めた時に最短経路で俺に辿り着こうとするはずだ。そのままにしておいたらまた被害が出る。それを防ぐ」
アザレアはふと疑問に思った。
「その、地脈? と接続させたら、また暴れるんじゃ?」
「地脈の方が低位だから基本的には吸い上げられないはずだ。接続した時に意図的に最低限だけ逆に流す。暴れられるほどの力は与えない」
「とりあえず、必要なのはわかった」
「で、だ。なぜ秘密の部屋に地脈の裂け目があるのかというと、魔力濃度が高すぎて気が狂うから、裂け目には普通の魔族は入れない。うっかり入って死人が出ると困るから、『繭』で覆って、魔族には簡単には入れないように細工してある。実際に扉が存在していたら、入るなと言っても入りたくなる奴が出てくるからな」
「つまり」
アザレアはこめかみを押さえた。
「魔族には触れない汲みたての井戸水で指輪を洗うのに、私って、うってつけの人材ってわけね」
「ご名答」
「それって本当に、本当に私、平気なの?」
「人間だからな。お前には何の影響もない。実際今も高濃度の魔力の中にいるが平気だろう?」
アスタロトが愉快そうに笑っている。まるで実験だ。他人事だと思ってないか?
「今更断るつもりはないけど、人のこと、都合よく使いすぎなんじゃ?」
「報酬は弾むつもりだ。お前を死なせはしない。約束した通り」
ふたりで三階の踊り場に立った。どうやらここから繋がるらしい。
「秘密の部屋を開くぞ。行こう」




