遺物(1)
「じゃあ……外すからね」
「ああ」
アザレアは大きく深呼吸した。
彼はソファに横になった状態で、アザレアはその脇にしゃがみこんだ。
だらりと垂れた左手には、相変わらずあの指輪がある。心なしか、指輪だけは生き生きと光っているように見えた。
「抵抗するだろうが、躊躇うなよ……俺の方は、心配しなくていい……痛みは感じない」
心配なのは痛みだけじゃなかったが、アザレアは黙って頷いた。彼の手を取る。
昨夜、軽く指輪を引き抜こうとした時の傷は、確かにその指のどこにももう見当たらなかった。血まみれだったのが夢だったかのようにきれいに治っている。見た目は自分と何も変わらなそうな青年なのに、やはり人間ではないのだという事実に動揺しつつも、他人に怪我を負わせる負い目が軽くなることには少々ほっとしていた。
左手で彼の手を固定し、右手で指輪を指先でしっかりつまむ。鬱血していないどうか、指と指輪の間に今はまだ軽く遊びがあることを確認してから、アザレアは力を込めて引き抜き始めた。
途端に生温かさを感じ、同時に指先が血でぬめりはじめる。指先を伝って、血が手のひらに溜まる感覚にアザレアは背筋がぞわぞわした。
嫌な汗がこめかみを伝う。
指一本から指輪を抜き取るだけのことが、永遠に終わらないような気がした。
アザレアなりにかなり力をいれているのに、本当に少しずつしか進まなかった。膝の上から絨毯へと、徐々に赤い水たまりが広がっていく様子は惨憺たる有様だったが、部屋が薄暗いおかげでその様子は鮮明には見えない。その分想像が働いてアザレアは背筋がぞわぞわした。彼の皮膚はいつまでも傷口のままではなく、よく見れば皮膚はゆるやかに再生を始めていた。指輪が裂いた痛々しい傷跡が、徐々に薄くなっているのがうっすら見える。
痛覚は遮断していると言ったとおり、アザレアが一瞬目だけ動かして彼の様子を窺った時も、彼は青白い顔で目を閉じて、痛みを感じている様子はなかった。まるで眠っているようだ。
「ねえ、大丈夫?」
「大丈夫だ」
「あと少しだからしっかりして」
声をかけて励ましてやる。声は弱弱しいものの、意識はあるようだ。
「やっぱり昨日のうちに、外しておけばよかった。言ってくれたらよかったのに。余裕があるみたいに言うから、誤解して……」
後悔する。あの時、躊躇わずに続けていたらよかった。
「癖みたいなもので……」
「え?」
「なんでもないように、振舞うのが……」
「……見栄っ張りってこと?」
「そうかもな……実際、お前もつらそうだったし……指輪とも、紙一重で、競り勝てるんじゃないかと思っていたんだが……」
空元気にしては真に迫っていたと思ったが、自信がないわけじゃなかったらしい。ずいぶん楽観的だと呆れつつ、それがアザレアを不安にさせないためだったのかもしれないと思うと、気が咎めた。
「気を遣ってくれてありがたいけど」
幸いというべきか、血のせいでむしろ滑りはよく、引っかかりそうだった関節も比較的簡単に抜けた。指輪自体がしがみつくように抵抗しているような嫌な感触が強くなる。躊躇うなと言った彼の言葉を思い出し、極力無視して作業を進めていく。
集中していて、息をするのも忘れそうだった。とても長くかかっているような、案外時間が経っていないような、どちらなのかもわからない。どれくらいこうしていたのだろう。
「あと……もう少し……!」
彼の指が先にすっぽ抜けるんじゃないかと思うほど力を込めて引っ張ると同時に、ついに指輪が抜けた。
「抜けた!」
アザレアは手のひらまで血で濡れていたせいでそれを掴みきれなかった。指輪は勢いをつけて手の内側を滑った後、絨毯の上を何度か跳ねてから、ころころと少し先まで転がって、止まった。
指輪が抜けた瞬間、目を閉じていた彼がハッと目を見開いた。
さきほどまでぐったりしていたのに、彼はまるで唐突に夢から覚めたように、素早く上体を起こす。血まみれの左手を持ち上げて、確かめるように何度か拳を握った。
「よし。よくやった!」
彼が立ち上がり、アザレアの肩を叩いた。
それを聞いて、アザレアは大仕事をやり遂げた達成感で一気に脱力した。終わったのだ。
「よかった……」
ずっと力を入れていたせいで手が震えるのを、両手でぎゅっと握りしめた。床に座り込んだまま、ソファの座面に寄りかかって、体を預ける。
「指輪ごときが。手間をかけさせやがって……」
彼が指輪の方へ一歩踏み出した瞬間、寒気がするような禍々しい気配がして、アザレアは指輪の方を見た。
指輪が、宙に浮かんでいる。
「えっ、何……」
とたんに、獣の咆哮のような、低い叫び声のような音がして、アザレアは驚いて立ち上がった。
彼がアザレアの前に立つ。
「離れるなよ」
そう言うと同時に、血の匂いに混ざって、ふわりと薔薇が香った気がした。何かごく薄い、ベールのような膜がまとわりついたような感覚がして肩のあたりを見たが、当然何もかかっていない。
秘密の部屋の全体が、ガタガタと揺れはじめた。まるで嵐の夜に窓を揺らすように。部屋の中のどこからか強い風が吹き付けて、かろうじて灯っていた燭台の火が消えた。部屋の中が一気に暗闇に包まれて、アザレアは何も見えなくなる。
『よくも』
男とも女ともつかない声がした。
姿は見えないが、それが指輪から発されたのだと直感的にわかり、ぞっとして鳥肌が立った。
直後。
指を鳴らす鋭い音がして、部屋中の燭台に一斉に火が着いた。
一瞬、部屋が燃えているのかと思うほど明るくなる。アザレアは突然まぶしくなった部屋に目を開けていられず、顔の前に手をかざして何度も瞬きを繰り返した。
薄暗い時はわからなかったが、そこは本当に本館の客間にいるようだった。隅々に設えられた豪奢な燭台たちが、燃え上がる蝋燭の光を受けてつやつやと光っている。
目の前の背中を見つめた。
今のは、この人がやったに違いない。
『よくも。あとすこしだったのに……!』
「ハッ」
彼が吐き捨てるように嘲笑った。
「俺を苗床にしようなんざ百年早いぞ。さて、お前が小汚いヒルみたいに吸い取った俺の力を、返してもらおうか? 指輪ごときには手に余るだろう?」
『あと……すこし……だった……のに!』
怒りとも悲しみともつかない叫びのような悲鳴と共に、ごうっと風が強く吹き付けた。
「うわっ」
アザレアは反射的に両腕を構えた。髪が巻き上げられる。あまりに強い風に、家具がずるずると動き始めた。テーブルと椅子が倒れる。散乱していた紙が部屋の中を舞い上がる。カーテンがちぎれ、積み上げられた調度品が壁に叩きつけられて割れる音がする。まるで暴風雨の中にいるみたいだ。目が開けられない。
次の瞬間、急に耳栓をつけられたようにあたりがしんとして、アザレアはハッと顔をあげた。自分の周りだけが静寂に包まれている。部屋の中は相変わらず荒れ狂っているのに、何か薄い膜を一枚隔てたみたいに、突然様子が遠くなったのだ。
「こんな小手先の脅しくらいしかすることがないとは」
彼が静かに呟く。笑っているようでもあった。
そのまま、彼はすたすたと指輪に向かって歩きだした。指輪は相変わらず宙に浮いている。彼は部屋中を吹きすさぶ風などまるで意に介さず歩いていく。吹っ飛んできた椅子がぶつかりかけたが、彼の周りに透明な壁でもあるみたいに、不思議な力で跳ね飛ばされた。
魔法だ。
アザレアは目の前で起こっていることが信じられなかった。
これが魔法なのだ。理解を超えている。
「返せ」
彼が指輪に向かって手を伸ばす。まさかまた素手で掴むつもりかと一瞬焦ったが、光でできた鎖のようなものが指輪の下から上に向かって現れて、素早く直方体の形になって指輪の周りを覆った。彼の伸ばした手が、その箱を掴んだ。
途端に、地面が揺れた。
「えっ」
立っていられないほどの揺れにアザレアはバランスを崩して転びかけた。
「な、何?」
「まずいな。いったん様子見に出よう」
彼が指輪を封じ込めた箱を持って、アザレアの腕をとって歩きだした。部屋の中の風は止んでいたが、そこかしこに物が散乱していて、慌てて避けようとしたそれらが彼の歩みに合わせて先に動いて道を作った。どこへ向かっているのかと思ったが、近づくにつれて進行方向の壁に待ちかねたように扉が現れ、彼はそれを躊躇いもなく開けた。
「わあ……」
ふたりで外に出ると、扉を開けた先はまた別の部屋に繋がっていた。来た時は薔薇園から入ったのに、別の場所に出て驚く。まるで隣の部屋に歩いて来たように地続きになっていた。
本館二階の、蔵書室だ。
アザレアは、ここには掃除をするのに来たことがあったので、どこだかすぐにわかった。室内はしんと静まって誰の気配もないものの、先ほどの地震のせいで、書庫の本が飛び出して床に散乱していて、すっかり荒れてしまっていた。アザレアが振り返ると、自分たちが出てきた秘密の部屋の扉はどんどん薄くなってすぐ消えてしまった。
知っている場所に戻ってきた安堵から、アザレアはへたりと座り込んだ。
突然の展開に、頭がついていかない。
「あっ」
すぐにまた地面が揺れ始めた。かなり大きな揺れに、咄嗟に書架の柱にしがみつく。残っていた本が次々に床に放り出される音がした。どこか遠くで、家具が倒れる音がする。
揺れが収まると同時に、一緒に出てきた彼の方は大丈夫かとあたりを見遣って、アザレアは驚いた。
彼は窓際に立っていた。その、大きな窓から見える外が、夜のように暗かったのだ。空が赤黒い雲で覆われているのが見える。窓際に近づいて覗き込むと、薔薇園から黒い靄のようなものが湧き起こり、それが固まりはじめて、まるで生き物のように蠢いていた。
「な、なにあれ……」
突如、悲鳴が聞こえてそちらを見た。
窓から見える、本館の出入口からわらわらと人が溢れ出してきたのだ。先ほどの地震で、中にいた人たちが避難を始めたのだろう。揃いの制服の人々が、次々外に出てきた後、外の様子に驚いて散り散りになっていた。無理もない。
メイ。
彼女を使用人棟にひとり残してきてしまったことを思い出して、傍らの男を振り返る。
「ねえ、ルームメイトがまだ使用人棟にいるの。助けにいかなきゃ」
「待て」
彼がアザレアを制し、外を注視している真剣な横顔を見て、何かあるのかと、同じように外の様子を窺う。
屋敷を離れて走り出した人々が、走っている途中で次々倒れはじめた。そこかしこに人影が横たわり始めるのを見て、アザレアは自分が今、一体何を見ているのか理解できなかった。それに気付いて介抱しようと駆け寄った人まで、折り重なるように倒れている。急に糸の切れた人形みたいに。
「な……」
「今は行かない方がいい」
「み、皆どうしちゃったの? 何が……」
「指輪が吸収した魔力が具現化してるのがあの黒い奴だ。濃縮した魔力の霧を、薔薇園から瘴気みたいに撒きちらしてる」
「ええ……?」
「魔力が濃すぎる。彼らが倒れてるのはそのせいだ」
アザレアはハッとした。
魔力を受容する器官がない。
モーリスが言っていた。人間の自分には何も感じられない。
「ね、ねえ、どうにかならないの? 指輪はもう何もできないんじゃないの?」
「ここに隔離しただけだ。あの黒いのは、指輪に吸い取られた俺の魔力が暴走して、自律して動いてる。制御しないとまずい」
「まずいって……」
「まずいが、もう少し待て。自由に動けるようになるまで時間がかかるんだ。もうすぐ終わる」
時間がかかるとはどういうことかと問い返そうとして、アザレアは驚いて固まった。
髪が。
モーリスの髪が変わっていた時に似ている、とアザレアは思った。
だがそれは目で見ていてもわかるほどあまりにもはやい変化だった。
彼の長い黒髪が、毛先から、徐々に輝くような色彩を取り戻していく。まるで刷毛でさっと上から塗り潰すように。
鮮やかな赤。
淹れたての紅茶の褐色のように濃い、深い赤だった。内側からきらめくような不思議な光沢は、上質な絹糸の束を連想させる。そこだけ光っているみたいだった。
「ふう」
彼が大きく嘆息し、頭を左右に振って長い髪がぱっと広がった。
その残像に思わず見とれる。
「やっと感覚が戻ってきた。長かった、まったく」
「あなた、髪の色が……」
「ああ」
彼は手に持っていた小箱を持ち上げ、じっとりと睨みつけながら言った。
「こいつ、髪に溜まった魔力まで吸収しやがって……」
箱を持った手に力を込めているのがわかる。アザレアはその乳白色の箱が壊れてしまうのではないかとひやひやした。
たしかに彼の顔には生気が戻っていた。いや、生気が戻っているなんて生やさしいものではない。
漲っていた。
肌の張りといい、頬の血色といい、さきほどまでの彼は、水やりをすっかり忘れた植物のように、枯れてやつれていたのだということがよくわかる。造形は同じなのに、印象が全然違う。少し若返ったように見えるほどだ。これが彼の本来の姿なのだろう。
「髪に? 魔力が?」
「ああ。高位魔族はな」
「高位魔族……?」
その時だ。
「おお! 我が不滅の魂」
突然、蔵書室の扉が勢いよく開いたと同時に、闖入してきた第三者の声がした。




