秘密の部屋(4)
「突然手が血まみれになる方の身にもなってよ。ああびっくりした。……ちょっと、落ち着くまで待って……」
何か拭くものはないかとあたりを探したが、手頃な布地が見当たらなかったので、アザレアは自分の夜間着の裾で手を拭った。目の粗い生地に、べっとりと血糊がつく。テーブルに背を向けてしばらく強く両手を握り合わせていたが、手の震えが止まらなかった。
「……大丈夫か?」
「ええ……」
女性の生理現象でもあるし、血を見るのは平気だった。血液それ自体に抵抗はない。
だが、アザレアにとって、他ならぬ自分が他人に怪我をさせたという衝撃が大きかった。あの指輪を抜こうとするなら、彼を深く傷つけることからは免れない。指先に残った大きな抵抗が、他人の肉を裂くその嫌な感触が、まるで刻み込まれたように残り続けた。
「今日はここまでにしよう」
アザレアが手を握り合わせているのを見て、彼が言った。
「でも……」
「顔色が悪い」
彼が近づいて、自然な仕草でアザレアの前髪に触れた。思いがけずびくりとする。
「流石に無理を言った。一般人には負担が大きかったな」
「でも、あなた、困ってるんでしょう」
「まだ猶予はある。もうちょっと落ち着いてからでいい。今夜はもう遅いしな、明日にしよう」
アザレアは彼に申し訳ない気もしたが、一方で安堵もした。まだ、自分がやるべき仕事の重さをうまく受け入れられなかったのだ。
「さっきの鏡を出してくれるか?」
アザレアは言われた通りポケットから手鏡を出した。彼がそれをくるりと裏返し、なんの装飾もない裏面をすっと撫でると、その動作に合わせて鏡の縁に優美な模様が刻まれた。
「すごい。どうしたの?」
「この部屋が次に移動した時、お前には場所がわからないだろうから。この鏡で連絡できるようにした」
「あなたが連絡してくれるのね?」
「ああ。明日、また会おう。ただ、ひとつ約束してくれるか? 俺に会ったことは誰にも言わないでくれ」
彼が瞳の色を深めてアザレアをじっと見た。
「どうして?」
「今はまだ人目に触れるわけにはいかない」
「ああ、さっきそう言ってたっけ。……でも、誰か来てもらった方が手伝ってもらえるんじゃない? モーリスさんとか」
「駄目だ」
いやにきっぱりと拒否されたので、アザレアは両手を軽く挙げ、それ以上は言わないことにした。
「わかった。あなたのことは、誰にも何も言わない」
「約束してくれるか?」
「約束?」
「魔族は一度した約束は破らない。それは契約だからだ。人間にとっては煩わしいかもしれないが、お前に破るつもりが無いのなら、そう言ってくれ」
そんなものか、と思いアザレアは言った。
「約束する」
彼が頷いた。アザレアの手をとって、手鏡を手のひらに置く。
手鏡の上から念を押すように、指先でトントンと叩いた。
「その代わり、お前に危険が迫った時には、俺が守ってやる。これは約束だ。……さあ、部屋が繋がってるうちに帰るといい」
手鏡をポケットに入れ、釈然としないまま踵を返しかけたアザレアは、なんだか急に不安になって言った。
「……私たち、本当にまた会えるわよね?」
彼が笑う。
「当然だ。役者が揃っているのに、舞台の幕があがらなくてどうする?」
不思議だ。こんな状況で、彼だって切羽詰まっているはずなのに、どうしてこんな風に、冗談交じりに笑えるんだろう? まるでちょっとした手違いに鷹揚に対応するように。
それでアザレアは、やっと微笑み返すことができた。
「また会おう」
それからどうやって部屋まで戻ったか、あまりよく覚えていない。だからアザレアは自分のベッドの中で朝を迎えた時、昨夜のあまりに荒唐無稽な出来事に、ひょっとして夢だったのではないかと半分本気で思っていた。起きた後、メイから血で汚れた夜間着を指摘されてようやく、現実だったのだと再認識したくらいに。
「え、何か、寝てる間に怪我したとかじゃないよね……?」
「えっと、そういうわけじゃないんだけど……」
メイは口ごもるアザレアの態度で察したのか、深く追求することなく着替えの世話をしてくれた。合わせて、体調についても心配してくれる。月のものが突然来ることは珍しくない。女性が二人一部屋で生活しているのだから、メイはこうした場面も何度も出くわしたことがあるのだろう。アザレアとしては誤解してくれていた方が都合がいいので、言い訳はせずにおいた。心の中でメイに謝っておく。
お互いに朝の身支度を手早く済ませながら、アザレアは問いかけた。
「ねえ、メイ、モーリスさん以外にも旦那様の部下の人って見たことある?」
「え? うん、あるよ」
長い黒髪の男の人を知っているか聞こうとしたが、昨日の約束のことを考えて口を噤む。
「どうかした?」
「いや、旦那様の代わりに、帰ってこないのかなあって……」
「確かにね。でも、やっぱり旦那様の命令でそれぞれ任務があるらしいから、お屋敷に集まってるところってあんまり見たことないかも。大規模なパーティーの時くらい?」
「パーティーとかあるんだ」
「そりゃあるよ! アザレアもはやく経験したいでしょ? 私たちもご馳走が食べられるし、客室の準備とかもちろん大変だけど、本物のオーケストラが来て演奏したり、ダンスホールがお客さんでひしめいたり、すっごく豪華で楽しいんだから」
「へえ。見てみたい」
「ね! またそういう機会あると思うから、楽しみにしてて」
以前体験したのだろうパーティーの記憶に目をきらきらさせるメイに、あと、もうひとつ聞きたいんだけど、と前置きしてアザレアは言った。
「魔族は約束を守るって、本当?」
それを聞いてメイは目をぱちぱちと瞬いた。
「アザレア、よく知ってるね。モーリスさんから聞いたの? そうそう、魔族にとって約束は契約だからね。魔界では皆、約束事にはね、すごく敏感なの。契約書とかもかなり厳密に作るし。約束しなかったことで後から穴を突かれないように」
「そうなんだ……」
「どうかしたの?」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
彼の言っていたことの裏付けが取れて、つい嘆息した。
慌ただしく着替えながら、メイドドレスのポケットに手鏡を忍ばせる時、裏面に刻まれた模様に指先だけでそっと触れた。
約束がそれほど神聖な行いなら、彼はきっとアザレアを騙すことはないはずだ。非日常の隙間で出会った、名前も知らない男だったが、彼が魔族であるというその一点で、あの約束だけは確かな手触りがあった。
メイと厨房に降り、顔を合わせた使用人たちと挨拶を交わしながら、アザレアは思いがけず気持ちが楽になっているのを感じた。昨日のひりひりした雰囲気も、あの指輪さえ外せば解決するはずだと思うと、大したことではない気がしてくる。相変わらず怯えているメイに、真実を知らせることができなくてもどかしかった。
「なんかぼんやりしてるねえ」
どこかうわの空だったのを指摘されて、アザレアは慌てて取り繕った。
「すみません。昨日はちょっと、よく眠れなくて」
その理由に思い当たる節があるようで、料理長は同情する声音で、少し体を動かすといいと言って、食堂から地下の倉庫へ荷物運びをアザレアに頼んだ。そこそこの重量だが少しの量だし、もう大抵の使用人は本館に移動し終えた後だから大丈夫だとメイに断って、木箱を持ち上げて移動する。
ひとりでいると、遠慮なく考え事に没頭できた。一晩経ったことで、気持ちの整理もずいぶんついていた。次に彼に会ったら、真っ先にあの指輪を外さなければならない。
地下倉庫はあの姿見の件があってからは、なんとなく恐ろしくてずっと避けていた。ポケットの中のお守りを思い浮かべながら、きっと大丈夫だと胸中で自分に言い聞かせる。荷物を置き、余計なものを見てしまわないようになるべく急いで部屋を出ようとしたところで、ふとポケットの違和感に気付いた。
「…こ…えるか?……」
声がする。
慌ててポケットから手鏡を取り出す。鏡自体には何の変化も無かったが、そこから微かにあの青年の声がして、アザレアは思わず耳を近づけた。
「……聞こえるか?」
「あ、あの、あなたなの?」
「ああ」
時間帯まで約束したわけじゃなかったが、日中に連絡してくると思わなかったので少々焦った。きょろきょろと周りを見渡して、誰もいないのを確認した。
「どうし……」
「悪いが、緊急事態だ。思ったより進行が早い。すぐに指輪を外したいんだが、薔薇園のガゼボまで来れるか? 今そこに繋がってる」
「えっ」
仕事を放り出して薔薇園まで行っていいものか、アザレアは一瞬迷った。だが、緊急事態という言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。一瞬の逡巡ののち、急いで一階に上がると、廊下に誰もいないのを確認して、そっと使用人棟を飛び出した。
「わかった。今使用人棟を出たところ。ガゼボって、あのガゼボよね? 正面にある」
「そうだ。扉を開けておくから、直接来てくれ」
日が昇り始めた朝の薔薇園は、まだ眠っているようだった。いつもの薔薇の香りがよりしっとりとあたりに沈んでいて、幻想的な雰囲気がある。歩きながら、メイに何も言わずに飛び出してきてしまったことに思い至ったものの、もう戻っている時間がなかった。
ガゼボの位置は知っているものの、庭師の人々に見つかるんじゃないかと思うと気が気ではなかった。時折屈みながら、薔薇の生垣の間を縫うように走るうちに、アザレアはすぐ異変に気付いて立ち止まった。
――なんか、動いてない?
見間違いかと思ったが、アザレアがそう思った直後、薔薇の生垣が突然ゆらゆら揺れ始めた。蛇が鎌首をもたげるように、蔓がいくつも生き物のように蠢いている。地を這ってアザレアの方に近寄ってきた。
「な、何これ」
「どうした?」
彼が状況を問うた。
「薔薇が動いてる」
鏡の向こうで舌打ちする音が聞こえた。
「もうそこまで掌握されてるのか。逃げ切れるか?」
「やってみる」
アザレアはじりじりと後ずさりながら、素早くガゼボまでの道を目で探った。数日前に見た、薔薇園に閉じ込められる悪夢を彷彿とさせる。くるりと方向転換すると、まだ動き出していない生垣の間を駆け抜けてガゼボへと走り出した。
蛇がそうするような、地面と蔓とがこすれあって移動する音が後ろから追ってきた。
追いかけられている。
「追いかけてくる!」
「走れ!」
「言われなくても!」
さすがに夢の中のような、背の高い緑の迷路までは形成されなかったが、薔薇の蔓がアザレアを絡めとろうとするのを避けながら進む。振り切る時、纏わりつかれたスカートの生地が裂ける音がしたが、気にしていられない。
ガゼボが近づいてくる。円形の屋根と、白い優美な柱だけでできたその建物の入り口に、まるでだまし絵のようにうっすらと扉が現れて、開いた。
中に、薄暗い秘密の部屋が見える。
「こっちだ!」
彼の声が二重に聞こえ、アザレアは倒れこむように飛び込んだ。その瞬間、部屋の中から手が伸びてきて、アザレアを引っ張り込む。
入ると同時に、バタンと大きな音を立てて扉が閉まった。振り返ると、もう消えていた。
「た、助かった……ありがとう」
「怪我はないか?」
「ええ」
部屋の中は昨日と変わらず、昼間なのに暗かった。昨日点けた燭台のあかりがそのままで、昨日の夜に戻ってきたような気がした。アザレアは急に全力疾走したせいであがった息を整えながら彼を見て、ぎょっとした。
昨日見た時より明らかに悪化している。
たった一晩でこんなに弱ってしまったのかと思うほど、顔色が悪かった。立っているのが不思議なくらい体調が悪そうだ。実際、ちょっとふらついている。押したら倒れそうだ。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
アザレアは彼の腕を掴んで、ソファに座らせようと引っ張った。彼は抵抗しなかった。ソファに座った途端、緊張の糸が切れたのかそのままぐらりと体が傾いだ。
「昨日よりひどいじゃない。こんなになるなんて……」
「流石に、限界が近くてな。早めに来てくれて助かった」
伏せた拍子に長い髪が顔を覆うのを払いもせず、彼がクッションに凭れかかるのを見て、アザレアは目が覚めたような気持ちだった。もう一刻の猶予もない。
「……頼めるか?」
「ええ」
覚悟を決めた。これは、自分にしかできない。




