秘密の部屋(1)
結局その日はうまく眠れなかった。
そのうえあまり目覚めのよくない夢を見ていた気がして、アザレアは朝起きた瞬間から疲れていた。夢の記憶は断片的なのにやけに鮮明で、眠った気がしなかった。
アザレアはこの屋敷の薔薇園に立っている。周囲は夕暮れのように薄暗い。実際の薔薇園は腰くらいの高さの低い生垣だが、夢の中では緑の壁のように高くそびえたって、迷路を形成していた。アザレアは誰かに追いかけられてそこに入り込み、出られなくなってしまうのだ。背後から複数人が追ってくる靴音が聞こえている。捕まってはいけない。強い焦燥感を抱えながら足を動かす――ずっと焦っている――緑の迷路は、曲がっても曲がっても続いていく。視界が見えづらくなり、行き止まりに行き当たらないことを必死で祈りながら角を曲がって――薔薇の香りが噎せるほど強い。着ている仕事着のスカートに引っかかった花が落ちて、また新しい枝が生えてくるのを視界の端にとらえ――この迷路が自分を閉じ込めるために、形を変えているに過ぎないと気付く――薔薇の花たちが、懸命に逃げる自分を嘲笑っている――
「あまり顔色がよくなさそうですね」
そのうえ、今日は出勤してすぐこの男に声をかけられていた。
モーリス・ハリントン。
正直どんな態度で接したらいいのかわからず、アザレアはずっと居心地が悪かった。実際に会話してみると、やはり昨日鏡から聞こえてきた声の主は、モーリスに違いなかった。あの会話は、やはり現実だったのだろうか――そうだとしたら、こんな風になんでもなく、ただ仕事先を紹介した責任感からそうしているにすぎないように、アザレアに声をかけるなんて、彼のポーカーフェイスには恐れ入る。
かまをかけてみるべきだろうか?
アザレアは今すぐ問い詰めたい気持ちと、できれば見なかったことにしたい気持ちの間で揺れていた。ちょうどここへ来る途中の馬車で、彼の変身を直視してしまわないように顔を背けていた時のように。そしてたとえ事実だったとしても、彼が渡りの時間に間に合わせるために事情を話さなかったあの時のように、問い詰めたところで納得いく返事をしてくれない気もした。
「ええ、最近、いろいろありまして」
アザレアは無難に返答した。
疲れているのは事実だったし、なんでもないふりをしたかったのも本当だ。
「マチルダに聞きました。いやまったく、この屋敷でそんなことが起こるなんて、私も驚きましたよ。しばらく見ないうちに使用人の質が落ちたのかもしれません。なにしろ入れ替わりも激しいし。大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。自分がいかに少数者なのか、思い知りました」
皮肉っぽく言ってやる。元はと言えばモーリスに魔界に連れてこられたせいでこんな目に遭ったのだから、嫌味のひとつでも言わせてもらいたい。アザレアの返事を聞いて、彼はあからさまに肩を落とした。
「申し訳ない。本当に思い至らなくて。お詫びと言っては何ですが、これをあなたに」
「え?」
モーリスが懐から取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな手鏡だった。
鏡。
反射的にぎくっとする。
「これは……」
「おっと。これは手鏡の形をしていますが、護身用の魔道具です。まあ、お守りみたいなものですよ。私からあなたに渡して変に思われないような小道具を探すのにちょっと骨を折りました。宝石がついているほうが術式を付与しやすいのですが、高価なものを渡したとかで他の方に誤解されると困りますからね」
「護身用?」
「ええ。あなたが危機にさらされた時に一度だけ使用できます。使い捨てなので、使うと壊れてしまいますが」
手渡されたそれをまじまじと眺める。何の変哲もないただの手鏡だ。小ぶりな大きさで、ルーペのようにも見える。余計な装飾は何もない。なめらかに磨かれたシルバーの基材に真円の鏡がはめ込まれていて、持ち手がついている。ポケットに入れておいても違和感がなく、持ち歩くのにちょうどいいサイズだった。覗きこむとアザレアの額のあたりが映った。
「ありがとうございます。どうやって使うんですか?」
「あなたに危害が加えられそうになったら自動で発動するはずです。何か投げつけられるとか、悪意ある第三者が体に触れるとか」
では、以前のように鉢が落ちてくるようなことがあれば守られるようだ。
「ふうん。便利ですね」
「できれば肌身離さず持っておいてください。危機が去るまでは」
その手鏡を念のために裏を向けてポケットに入れながら、アザレアはふと違和感を覚えた。
「危機が、去るまで……ですか?」
「我が君が戻られたら、秩序を取り戻すでしょう。なにしろ今まで散々使用人を馘首してきたのは我が君なのですから。植木の剪定のようにね」
モーリスは困ったように笑った。
なるほど、人事を整理するまで待てということか。
「その……旦那様は、まだ戻ってこないんでしょうか? 昨日、花瓶が割れて大騒ぎになって。あれって、本当だったら割れないんですよね? 魔法で」
「ああ」
モーリスが肩を竦めてみせた。
「私にも何が起こっているのか。昨日もマチルダに突然呼ばれて何かと思えば、花瓶を修復してくれと言われて驚きました。幸いそれくらいなら手伝えます」
「魔法ですか」
ふとアザレアは気になって尋ねた。
「魔族の人は、皆が皆、魔法を使えるわけじゃないんですか?」
そうだ。魔界へ初めて来た時にこの男が変身していたので、当然皆ああいうことをしているのかと思っていたが、思い返せばこの屋敷で働いている人々は、魔法なんか使っていない。自分と同様に、手作業で働いていた。それで余計に差を感じにくかったのだが。
「魔法というのはいわば体系だった学問の一種です。魔族だからといって、全員が使い方を知っているわけじゃない。ただ、自らの持つ魔力を使って、しかるべき法則に従えば発動はするわけだから、細かい原理を知らなくても――蝋燭に火をつけるとか――簡単なものなら、センスだけで扱えることもあります。裏を返せば、複雑な魔法は学ばなければ絶対に使用できない」
「なるほど」
「そして、この屋敷一帯は我が君の領域のため、闖入者が魔法を使うには制限がかかります。自分の領域に敵がいきなり現れて、すべてを破壊しつくしたら困りますよね? この屋敷は我が君の許可がない限り、他者の魔力が干渉することはできない。たとえば、転送魔法の座標にここを指定することは不可能です。我々が馬車でやってきたのもそういう理屈で、首都や、各柱の領地でも同様です」
「へえ……望めば誰もが魔法を学べるんですか?」
「ええ。ただ、各地に教育が行き届いているかというとそうではありません。屋敷の使用人のような労働者階級の場合、よっぽど魔力量が多くないと、そんな機会はないでしょうね」
アザレアが意外そうな顔をしていたからか、モーリスは腕を組んで説明を続ける。
「自らの持つ魔力を使うと、先ほど言いましたね? 魔法の使用者の魔力量が、たとえばコップ一杯ほどしかない場合、魔法を学んだとしても、バケツ一杯の量の魔力が必要な魔法を発動させることはできません。すなわち、自分で扱うことができない魔法を学んでも、研究者にならない限りはあまり意味がないのです。生活の必需品はすでに魔道具として万人に扱えるようになってますし……」
なるほど、向き不向きがあるということのようだ。
それでアザレアはようやく腑に落ちた。
「つまり、魔力量という先天的な素質に恵まれなければ、平民には学ぶ意味がないんですね」
「その通り」
「貴族だったら、素質が無くても学ぶ機会があるんですか」
「そうですね。大抵、教育の一環として」
目の前の男は、確かにいい育ちのように思える。彼は自分の能力に恵まれて叩き上げで出世したというよりは、生まれがそうなのだろうとアザレアは思った。
「魔力量が多いかどうかって、どうやってわかるんですか?」
「簡単な潜在量のテストくらいなら、幼いうちに皆するんですよ。判定薬みたいなものも売られていますし、病院でも受けられます。基本的に、魔力量は持って生まれて変わらないものですから」
「じゃあ、別に私たちみたいな労働者なら、普段生活するうえで人間と魔族に差があるわけじゃないように思えますけど……」
「いえ、あります」
モーリスは食い気味に否定した。
「魔族は魔力の影響を受けます。どんなに微弱でも、また本人の魔力量がほとんどないとしても、魔族であれば、その存在を感知する器官が備わっているはずです。音が鳴っていれば聞くことができるでしょう? それは耳という器官で受け取ることができるからですよね? 人間には魔力を受容する器官はありません。人間は魔力の影響をまったく受けないのです」
「はあ、なるほど……」
影響を受けない、と聞いても、そもそも自身がこの世界に来てから明確に「魔力の影響」を体感したことがなく、いまいちぴんとこない。
「皆さんには、魔力っていうのは、どういう風に感じられるんですか?」
「それこそ音や味のようなものです。目で見えるわけじゃありませんね」
興味深く聞いていたが、ずいぶん長い立ち話になってしまった。
メイがひょっこり現れて、話は終わったかと確認に来て気付く。
「すみません、仕事の邪魔でしたね。ともかく、それは持ち歩いていてください」
そそくさとモーリスが本館に帰っていくのを見送って、アザレアはメイと一緒に厨房に引っ込んだ。朝いちばんの仕事が溜まっており、慌てて取り掛かる。
最初は警戒していたのに、すっかり聞き入ってしまうくらい、モーリスの魔法の話は興味深かった。こんな豪邸で雇われているくらいだから、彼はそれなりの教育を受けた人材なのだろう。
人間は魔力の影響をまったく受けない。
メイが『魔力の影響』で屋敷の人々が見た目の年を取らなくなると言っていた意味がわかった気がした。そもそもアザレアには感じることができない何かが作用しているのだ。
スカートの上からポケットに手をあてる。硬い感触。
鏡。
先日から、身の回りに現れ始めたモチーフに、どこか不安になる。
結局あれが何だったのか、アザレアには説明がつかないままで、メイにもうまく話せなかった。もともと覗き込むほうでもないが、鏡を見るのもできるだけ避けている。だからこそモーリスに差し出されて動揺していた。
消えた鏡。モーリスとマチルダの密会。
釈然としない気持ちを抱えながらも一仕事終えた後、朝食をとりに食堂に入った瞬間、あたりから一斉に刺さるような視線を感じて、アザレアは思わず固まってしまった。
皆から注目されるのがわかる。
昨日までと明らかに雰囲気が違っていて動揺する。使用人たちが、アザレアを見るなりひそひそと顔を突き合わせているのがそこかしこで見える。一体何だろう? 理由がわからず、アザレアはさっと顔を伏せた。
「何なの、この雰囲気。アザレア、隅の方に行こう」
メイも異様な空気を感じ取って、ぴったりとくっついて配膳をすませると、食堂の柱の陰になるようなところにふたりで座って、手早く食事をはじめた。柱で遮られた向かいの机から、他の使用人たちの話し声が聞こえてきた。
「花瓶の話聞いたでしょ? 屋敷が変なのって、あの子が来てからじゃないかって」
その一言で、背中に氷を流し込まれたみたいだった。
「アリスを殴ったんだって。人間なのに」
「そもそも、どうして人間がうちにいるのよ」
囁き声につい耳をすませてしまい、アザレアは驚愕した。
昨日の花瓶の異変が、思わぬ形でアザレアのせいになっていたのだ。あの日から本館には立ち寄ってすらいないのに。
それでか、と合点がいった。モーリスがわざわざ会いに来て、護身用の魔道具だといって自分に何か渡していくなんて、明らかに変だった。本館の様子をいち早く知って、先回りしたのだろう。アザレアに危害が加えられるかもしれない前提で。
急に、動悸がしてきた。息苦しい。改めてポケットの中の手鏡が存在を主張しているような気がした。
何があるというんだろう。モーリスは一体、何を危惧しているのだろう?
皆、どうして私を?
「アザレア。夕食は、私が取りに来るよ。部屋で食べよう。明日の朝も」
小さな声にハッとして隣を見ると、メイが青ざめた顔でスープをすくっていた。その手が震えているのを見て、アザレアはようやく事の深刻さを理解した。
「変だよ。昨日までと全然違う。今日も、できるだけ厨房の奥にいたほうがいいと思う。どこかでマチルダさんに相談しに行ってみるから、アザレアはなるべくひとりで出歩かないようにしてて」
メイの動揺した声を聞きながら、アザレアは黙って頷くことしかできなかった。




