新しい縁談
「お嬢さま。起きてくださいまし、朝ですよ」
光が閉じた瞼に差し込んできて、わたしは目を開いた。見えたのは領地の自室の天井。聞こえるのはメイドのハンナの声。
「……おはよう、ハンナ」
「おはようございます、お嬢さま。あら、今日は顔色が良さそうですね」
ハンナが、ベッドから起き上がったわたしを見て嬉しそうに言った。
幼い頃から支えてくれているメイドのハンナ。三十代半ばの彼女は、わたしにとってもう一人の母のような存在だ。
王立学院で開かれた交流パーティから、一週間が過ぎていた。
あの後、わたしは短期休暇を取る兄と一緒に、王都からフィールズ領に戻った。
帰りの馬車の中で、わたしはあの人に借りたハンカチを握りしめたまま、ぼんやりと外を見ていた。
兄はそんなわたしを見ながら、でも何も言わなかった。
すでに用意してくれていた、お湯を含ませた温かいタオルで顔を拭いていると、ハンナが言った。
「そうでした、お嬢さま。ハンカチの洗濯が終わりましたので、あとでお部屋にお持ちしますね」
「ありがとう、助かるわ」
あの人からお借りしたハンカチ。
結局、王都にいた短い間にもう一度あの人に会うことはなかった。
お借りしたハンカチをじっくり見てみたけど、家紋もなければ刺繍もない。それは、仕事で使うような白く実用的なものだった。
王都で暮らしていないわたしが、簡単にその方を見つけられるとは思ってない。
けれど、いつかまた会えたら。その時は、お礼とお借りしたハンカチをお返ししたいと思っている。
「そのハンカチの君は、一体どなたなのでしょうね」
わたしから話を聞いたハンナは、あの人のことを『ハンカチの君』と呼ぶようになった。
「泣いているご令嬢にそっと寄り添うハンカチの君! 月夜の逢瀬。素敵ですね」
うっとりとした顔をするハンナに、わたしはちょっと大衆小説の読みすぎじゃないかしら? と思うが、ハンナは続けて力強く言った。
「お嬢さま、新しい恋に進んでよろしいのですよ!」
「そ、そうねえ……」
ハンナはわたしが子供の頃から側で支えてくれている大切なメイドだ。エドウィンさまの心変わりを、一番怒ってくれたのはハンナだった。
両親も怒ってくれたし心配もしてくれたけど、やっぱり貴族だから。
「さあ、着替えて食堂で朝ごはんにいたしましょう。旦那さまたちもお揃いですよ」
ハンナが、お気に入りのシンプルな紺色のワンピースを準備して言った。
このワンピースは、ドレスよりも着丈が短くて、スカートを膨らませるためのパニエも付けなくていいから、とても動きやすい。
袖口には白いレースと小さなリボンがついていて、母には地味だと言われるけど、とても気に入っている。
ハンナに手伝ってもらって着替えを済ませ、食堂へ行くと、兄と両親がそろって座っていた。
母と話していた兄がわたしに気づいて、ほんの少し口元に笑みを浮かべる。
「おはよう、リディ」
「おはようございます。お父さま、お母さま、お兄さま」
食堂へ配属されている使用人の一人が椅子を引いてくれたので、ワンピースの裾に気をつけながら座ると、朝ごはんがサッと運ばれてきた。
今日はふんわり丸くて白いパン、大きめの腸詰を焼いて輪切りにしたもの、ゆで卵にサラダとフルーツだった。
母がわたしの顔をじっと見て言った。
「リディ、今日は顔色がいいわね」
「そうみたいですわ」
「やっと吹っ切れたのかしら? もうすぐ三ヶ月経つのに、まだメソメソ泣いていたら、みっともないものね。それに、もうリディが元婚約者を気にする必要はないのよ、あんな男は早く忘れてしまいなさい」
「……ええ、わかっていますわ、お母さま」
ズキリと胸が痛む。
母がわたしを気遣っているのはわかる。けれど、エドウィンさまのことを忘れるのは、まだ無理だ。
あの人が言っていたように、きっとまだ、わたしには時間が必要なのだと思う。
「アーサーは、明日には王都の学院寮に戻ってしまうのよね?」
「はい、母上」
「アーサーも、ローレンス家の長男には近づいちゃダメよ、我が家の敵なのだから」
「……わかっていますよ、母上」
母は、エドウィンさまを名前で呼ばなくなった。
婚約解消をしてから知ったことだけど、前からエドウィンさまのことを気に入ってなかったらしい。
婚約を解消してからはあからさまに悪態をつくようになった。
婚約解消したとはいえ、好きだった人の悪口を聞くのは嫌だった。
だけど、それを母に言っても「あなたはもうあんな男を気にしなくていいのよ」と取り合ってもらえない。
「父上、今書いている論文なのだけど……」
「おお。それなら…」
伯爵の父はあまり喋らない。仕事や領地以外のことは、大抵は黙ったままで、母に任せきりだ。
先に食事を終わらせた父と兄は、兄の研究分野について話し始めた。母は使用人にサラダのドレッシングについて尋ねている。
その時、父の家令が焦った顔で一通の手紙を持って食堂へやってきた。
「旦那さま、速便でこちらが……」
差し出された封筒の差出人を見て、父の眉間に皺が寄る。
「グローリア公爵家……?」
封を開いた父が目を開いて固まった。内容が気になったのか、母が手紙を父の手から取り、目を通した。
「リ、リディ……あなた」
「何かしら、お母さま」
わたしが母を見ると、母は赤く高揚した顔で叫んだ。
「グローリア公爵家からの縁談だわ! リディ、あなたグローリア公爵家と知り合いだったの!?」
兄が驚いた顔をしてわたしを見た。
グローリア公爵家といえば王家と血縁関係があり、長く大臣を輩出している家系の一つだったと思う。
そんな家からどうしてわたしに縁談が…?
「落ち着いて、母上。グローリア公爵家なんて、何かの間違いでは? 相手が勘違いしているかも知れないし」
兄が母を宥めようと声をかけるが、興奮している母は止まらない。
「やっぱりローレンス家との婚約は解消して正解だったのよ、こんな素敵な縁談が来るなんて」
「待って、お母さま……わたし、グローリア公爵家にお知り合いなんていないわ」
「何処かで見そめられたのかもしれないわね! 二週間後にうちの領地でお見合いをしたいのですって。早く準備を始めないと」
こうなった母は誰にも止められない。
固まっていた父は、今は苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込んでしまい、わたしと兄は顔を見合わせて母が落ち着くのを待つしかなかった。
◇◇◇
わたしの産まれたフィールズ伯爵家は、国内で使う紙の生産が主力の、貴族の中では中位の家だ。
お金に困ってはいないが、裕福でもない。
伯爵である父は、研究者肌で人と関わるのを苦手としているため、政治には興味がなくて領地から出ることも少ない。
それに対してグローリア公爵家は、建国当時からある由緒正しい公爵家。何代か前には王家の姫が降嫁してきたこともあるらしい。先代の公爵は宰相を務めていたし、今の公爵は外務大臣のはずだ。
そんな家から、なぜフィールズ伯爵家に?
グローリア公爵家とのツテなんて何もないのに?
あの後、王都に戻る予定だった兄は、わたしを心配してお見合いが終わるまで領地に滞在してくれることになった。
交流パーティの時もそうだったけれど、兄には心配ばかりかけていると思う。
父と兄、そしてわたしが困惑したニ週間を過ごしている間、母だけが張り切っていた。
縁談の申し込みが来てから三日目。
母からお見合いの日に着るドレスを選ぶからと、なぜか衣裳室ではなく娯楽室に呼ばれたわたしは、ドレスに興味なんてないはずの父と兄も揃っているのを見て少し驚いた。
どうやら、衣装室は寒いからという理由で、母がわたしのドレスを娯楽室に何着か運ばせたらしい。
「リディをうんと可愛く飾らなくちゃね。マーサ、お見合い用のドレスは、去年の冬に買ったこの緑色のドレスにしましよう」
「奥さま、ドレスは新調した方が良いのではないでしょうか……? このドレスは新年のパーティでお召しになったものですし」
「あら、リディは相手の方に会ったことがないのでしょう? 同じドレスを二回着ているなんて気づかないわよ。季節もだいたい同じだし。いいのよ、これで」
わたしのドレスを選ぶ母と、それを戸惑った顔で手伝うメイド長を見ていた言葉少ない父が、珍しくはっきりと言った。
「おい、ディアドラ。商人を呼べ。オーダーは間に合わないが、リディに新しいドレスを用意する」
母が驚いたような顔をして父に言った。
「でも、このドレスまだ一回しか着てないのよ? サイズもぴったりだし。どうせ相手の方にはわからないのだから良いじゃない」
「それでも新しいドレスを用意するのが常識だ」
父の怒気を含んだ声に、母が子供のように頬を膨らませる。
「わかったわよ……マーサ、商人を呼んでちょうだい。いつものヴィート商店でいいわよね」
「エデュスだ」
父は母を無視してマーサに命じる。
「マーサ、エデュスの商人を呼べ。追加の出張料を払うから、今日すぐに来て欲しいと伝えろ」
「エデュスですって!? 高すぎるわよ、ヴィートでいいじゃない」
母が甲高い声で言うが、父は譲る気配を見せずに言い切った。
「グローリア公爵家の人間が来るんだ。ここで金をケチって、後々のフィールズ家の評判に響いたらどうする。早く行け、マーサ」
父の指示にマーサが飛び上がって部屋を出ていった。
母は納得できないというように父を睨んでいたが、不意にくるりとわたしの方を向いた。
「よかったわねぇ、お父さまが新しいドレスを買ってくれるって」
吐き捨てるような言い方だった。どう反応したらいいかわからず、固まっているわたしに兄が言った。
「リディ、部屋に戻ってなよ。商人が来たら呼ぶから」
「わかりました……ありがとうございます、お父さま」
父親は腕を組み、眉間に皺を寄せたまま少し頷いた。
部屋を出る時、ちらりと家族の方を窺うと、いきり立っている母を兄が静かに宥めていた。