ミリヤムの里帰り(3)(ミリヤム視点)
20分後。ようやく私はテトラおばさんのおしゃべりから解放されて家へ向かう事ができました。馬車はアガパンサス通りを東へと向かいます。
やがてパンの良い匂いが漂って来て、茶色い切妻屋根の店が見えてきました。
馬車が店の前に止まると、店の中から母が飛び出して来ました。
「おかえりなさい、ミリー。」
びっくりしました。どうして私が戻って来る、という事がわかったのでしょう?
そう聞くと
「エリーシャ先生が、訪ねて来て教えてくださったのよ。ミリーがテトラの店の前でテトラと話をしていたって。」
さすがです。エリーシャ先生。
エリーシャ先生は学校で歴史の先生をしています。生まれも育ちもここレートブルクで、私より五歳くらい年上です。
先生のお祖母様は、いつも湖のほとりの小さな家の居間で椅子に座って編み物をしている人でした。なのに何故か、街の情報を全て知っているという不思議な人でした。エリーシャ先生は複数いる孫の中で一番そのお祖母様に似ているようで、テトラおばさんと並ぶ街の情報通です。
ただし、おしゃべりが大好きで誰にでも情報をダダ流しするテトラおばさんと違って、自分が気に入った人にしか情報を流しません。
我が家の事・・というより我が家のパンを先生は好いてくれているので、我が家にはいろいろと情報を流してくれるのです。
私はお母さんにアーベラさんを紹介しました。
「おかえりなさい。」
と言って、店の中からエリーシャ先生が出て来ます。私達の声を聞いて近所の人達も集まって来ました。
「もう出稼ぎから挫折して帰って来たのかい?」
「都会はそんなに辛かったのかい?」
「都会にいい男はいなかったのかい?」
「挫折してません。」
と言って、私は皆さんにもお土産のカメパンを渡しました。
「話が聞きたくて待っていたの。」
と言ってエリーシャ先生が私を店の中に引っ張り込んでくれました。そうしてくれなければ、30分は中に入れなかったでしょう。
普段あまり店番をしない父が店番をしていて、私に一言
「おかえり。」
と言ってくれました。
「王都での生活に馴染めなかったら一ヶ月で戻してやってくれ。ってお父さんが頼んでくれていたんだってね。でも、私王都での生活が楽しいの。親切な人達ばっかりで毎日とっても幸せなの。だから、ずっと王都にいるって、それを報告しに一度戻って来たの。」
そう言うと、お父さんは無表情で
「そうか。」
と言いました。
「さあ、家の中に入って。アーベラさんも。エリーシャ先生も。お茶を淹れるから。」
とお母さんが嬉しそうに言ってくれました。
「その前に荷台のお土産を運んでしまわないと。」
「ミリーさん。私がやっておきますからご家族とゆっくりなさってください。」
とアーベラさんが言ってくれます。
「手伝うわ。」
と言ってエリーシャ先生が腕まくりをしました。結局お父さんとお母さんと五人で中に運び入れました。
「おい!」
楽しい気分を台無しにするような声が聞こえて来ました。
兄の声です。
「何しに戻って来たんだ、おまえ。」
「そんな言い方しないで。この家はミリーの家でもあるのよ。」
とお母さんが言ってくれます。
「『家』は男である俺のものだ。成人した女は出て行くべきだ!」
「ミリー、気にしないで中に入りなさい。」
とお母さんが言ってくれます。
「どうせ奉公先で、何か失敗をして逃げ帰って来たんだろ。このろくでなしが!」
『ろくでなし』はあんたでしょうが!
と思いますが、口論するだけ無駄な相手です。というか兄は弁の立つ人なので口では敵いません。兄は自己弁護とか自己保身とか、要するに言い訳がものすごく上手く、結局私はいつも兄の大声に言い負かされるのです。だから兄の事は無視するのが一番です。
「ミリーは、一時帰省しているだけよ。すぐ王都に戻るそうだから、ひどい事を言わないで。お客様も一緒なのよ。」
と母が言います。
だけど兄は腕を組んだまま言いました。
「戻らなくてもいいぞ。侯爵家には俺が行く。」
「・・・は?」
何を言われたのか、一瞬理解が追いつきませんでした。
「何言ってんの?」
「おまえのような役立たずよりも俺の方が貴族の家で奉公するのに相応しい。俺が行くからおまえは戻らなくていい。おまえにはこのつまらない田舎がお似合いだ。」
この街はつまらない田舎なんかじゃない!
と腹が立ちました。
ここを『つまらない田舎』と思っているのは、兄貴が貴族を怒らせてそれで街の人達の怒りを買ったからでしょう!
そんな兄貴が、王都の大貴族の屋敷で働けるわけがないじゃない。
それに、エーレンフロイトのお屋敷にはブラウンツヴァイクラントから亡命して来たサーシャさん達家族がいるのです。ブラウンツヴァイクラントの難民が嫌いな兄貴が同じ厨房で仲良く働けるわけがありません。
ふざけるな!
と叫んでやろうと思って息を大きく吸い込んでいたら、アーベラさんが兄貴に語りかけました。
「いいですよ。当家は常に新しい持ちレシピを持っている菓子職人を募集しています。ミリヤムさんの家族なら身元もしっかりしています。ぜひ、ミリヤムさんと一緒にお越しください。」
・・・・。
ええっ!
と叫びそうになりました。
兄貴がどれだけお騒がせな無礼者か、テトラおばさんが話すのをアーベラさんも側で聞いていたはずです。それなのに兄貴にこんな事を言うなんて!
「ところで、一つお尋ねしますが、当家にお越しになったらあなたはどういうお菓子をお嬢様の為に作ろうと思っておられますか?」
「ふっ。」
と兄貴は周囲の人間を小馬鹿にするような笑みを浮かべました。
「スフォリアテッラだな。それにアマレッティだ。」
私は聞いた事も見た事も無いお菓子です。お菓子作りの経験と知識において自分は兄より劣っている。という事は認めないわけにはいきません。私は悔しい気持ちで下を向きました。
「なるほど。」
とアーベラさんは抑揚の無い声で言いました。そして続けてこう言いました。
「さっきの話は無かった事にしてください。あなたに当家の菓子職人になるのは無理です。」