ヘレーネの旅立ち(ヘレーネ視点)
そして翌日です。
私とエミールの為に用意された黒馬車の側に若い女の人が立っていました。
「ママー!」
と言ってエミールが抱きつきます。女性もエミールを力いっぱい抱きしめました。
エミールの母親は、いかにも父が好みそうなタイプの女性でした。繊細で一見儚げな外見ですが、芯は強そうな美人です。スタイルも抜群です。
この期に及んで行き先に変更がきくとは思えませんが、一応、父ではなく私について来るので良いのか?と確認をしました。
「はい。是非ともヘレーネ様について行かせてください」
と、エミールの母親は言いました。
「ヘレーネ様でしたら、誰よりも信頼できますもの。」
私が信頼できるというよりも、父に信頼がおけないのでしょう。
「ヘレーネ様がどんなに素晴らしい方なのか、外を見ればわかりますわ。」
そう言われてきょとんとしてしまいました。意味がよくわかりません。
「はあ・・。」
と曖昧につぶやいて、私は馬車に乗り込みました。
私達の馬車より先に父の馬車が出て行き、続いてオティーリア様達の乗った馬車が出て行きました。
オティーリア様ともいろいろな事があったけれど、もう二度と会う事はないだろう、と思います。別に不幸になればいいとは思っていません。いえ、お母上と弟を失ってもう十分に不幸でしょう。どうか、オティーリア様がこれからは少しでも幸せになられますように。と心の中で祈りました。
そして、これはかなり後になって、新聞記者のデリクさんに聞いた話です。
オティーリア様と三人の伯母達はオティーリア様の従伯母を頼ってシンフィレアに行きました。しかし、その家も天然痘の余波で決して裕福な家ではありませんでした。それでオティーリア様の伯母様達はオティーリア様を騙して娼館に売ったそうです。
あれほど売春婦を忌み嫌い、軽蔑していたオティーリア様が売春婦となってしまったのです。
私はデリクさんに頼んで、シンフィレアで商船の護衛の仕事をしていた父に顛末を伝えました。
事情を知った父はシュテファリーアラントに乗り込み、オティーリア様を買い戻した後、親戚の家に乗り込みオティーリア様の伯母様達からオティーリア様を売った代金を奪い取ったそうです。その後、父はオティーリア様を連れてシンフィレアへ戻りました。
三人の伯母様達は、騒動に怒った従姉妹の夫によって家を追い出されてしまいました。その後、その三人がどうなったかはわからないそうです。
『外を見ればわかる』
と言われた意味がわかりました。
司法省の門をくぐり広場に出ると、そこにずらりとアカデミーの女子生徒達が立っていました。
エリーゼ様派閥の人達に、ベッキー様派閥の人達。それに、どちらでもない、あまり話をした事のない子もいます。あの子達は確か・・ブルーダーシュタットの商人の子供達です。副校長や、先生方もおられました。マナー講師のシュトラウス先生や絵画講師のライゼンハイマー先生達です。
皆、左手でハンカチを持ち目頭を押さえながら、右手で手を振ってくれています。
「ヘレン様ーー!」
と大きな声で叫んだのはミレイ様です。
「どうか、お元気でーーーっ!」
「体に気をつけるんだよーっ!」
ベッキー様もそう叫ばれました。
他のみんなも何か叫んでいます。でも、ミレイ様やベッキー様ほど声が大きくないうえ、皆が同時に叫ぶせいで聞き取れません。
それでも嬉しくて、私は窓の鉄格子から精一杯手を振りました。
「ヘレン。」
喧騒の中でも不思議と、ある声がはっきり聞こえました。だって、この声は一番長く聞いて来たのですから。
エリーゼ様の声でした。
「また会いましょう!」
その声に涙が滲みました。
そうだ。別にこれが永遠の別れなわけじゃない。みんながヴァイスネーヴェルラントに来てくれるかもしれないし、コルネ様のお父様のケースみたいに、いつか恩赦が出るかもしれない。
きっとまた会える。
生きてさえいれば!
馬車はわざとゆっくりと走ってくれているようです。
私は少しずつ遠ざかる友人達にいつまでも手を振っていました。
「お姉様、すごーい。あんなにお友達がいるんだね。」
と、エミールが言いました。
「そうよ。お姉様はデイムだったのだから。」
とエミールの母親が言います。
地位や権力を失ったら、すぐに離れていく人達も世の中にはたくさんいます。だけど、私にはあんなにも私を思ってくれている友達がいる。
その存在は勇気をくれました。
私は大丈夫。
私は頑張れる。
アカデミーの教育と、エーレンフロイト家の教育とで、さまざまな知識を身につける事ができました。読み書き計算、外国語、マナーなどたくさんの事を教えて頂いたのです。農作業の知識と経験だってあります。
ふと、思いました。外国に追放されるのが、八年前だったらどうしようもなかったと。
あの頃は、母国語の読み書きさえできませんでした。友達もいませんでした。
きっとどうしようもない不安を抱え、足手まといになる事を承知で父についていく事しかできなかったでしょう。
アカデミーに行けて良かった。
心からそう思いました。
私は幸せだった。
そして、これからも幸せで居続けてみせる。
あの友人達に恥じない為に。
馬車は走り続け、もう友人達の姿は見えません。それでも、私が生まれ育ったこの王都を目に焼き付けておこう。そう思い私はまっすぐ頭を起こして窓の外を見続けました。
いつまでも。
いつまでも。
馬車はゴトゴトと陸路を進みます。
囚人を運ぶ馬車なので、頑丈ではあるけれど乗り心地はよくありません。
それでも、野辺に咲く花を眺めたり、鳥の声を聞いたり、私達は移り変わる春の景色を楽しみながら道を進みました。
そして馬車は、シュテルンベルク領にたどり着きました。
彼方には雪を頂く美しい山脈が見え、森に川に滝にと、とても美しい領地です。
ここがエーレンフロイト侯爵夫人の故郷で、聖女エリカ様が暮らした土地なのだと思うと感極まるものがありました。
そして、国境の壁が見えて来ました。と言っても、この壁の向こうがすぐヴァイスネーヴェルラントで、集落があるというわけではありません。
壁の向こうは、細い道や切り立った崖などがある荒地です。大陸公路とは名ばかりの細い道が十数キロ続き、それから人口百人足らずの小さな村に着くのだそうです。その村から先がヴァイスネーヴェルラントです。
黒馬車が送ってくれるのは国境の壁までです。貸馬車を借りるお金は無いので、十数キロの道は徒歩で行くしかありません。途中の道では盗賊もですが、クマやオオカミが出る事もあるそうです。
不安な気持ちになりましたが、エミールの前では顔に出さないようにしました。
私達は大きな国境門の前で馬車を降りました。門の近くには食事処が何軒かあり、旅人や商人で賑わっています。
「ヘレーネ様ー!」
聞き覚えのある声がして私は其方の方を振り返りました。
串焼きを手にしたクラリッサさんと、ジョッキに入った何か(たぶんお酒)を飲んでいるアレクサンドラ様がいました。それに女性秘書の方とジークルーネ様が!
「リサさん!それにジークルーネ様!」
「やっと来たなー。待ちくたびれたわー。」
「嘘をつくなルネ。一日しか待ってないでしょう。」
とアレクサンドラ様が言われます。
「景色は良いし酒は美味いし、あたしゃもう数日ここにいても良かったけどね。」
「叔母様はいいんだろうけど、私はこの領地居心地悪いんですけど。」
「だったら、ギルやイザークと一緒に先に行ってりゃ良かったのに。」
「ヘレーネ様が心配で、ルネ様もここで待っててくれたんですよ。」
とクラリッサさんが言います。
「叔父様とギルベルトさんは、ヘレーネ様達が暮らす家の準備の為に先に帰ったんです。ヴァイスネーヴェルラントの王都にもリーリア様の商会が所有している借家があるので。」
「うちに来てくれても良かったんだけどね。部屋余ってるし。」
「叔母様んち、どうせゴミ屋敷でしょ。幼児が住むには向きませんよ。」
「ゴミではない!全て創作の為の大事な資料だ!」
「それが雪崩起こして死にかけたってギルが言ってましたよ。」
「・・・あの、ジークルーネ様もご一緒してくださるんですか?」
と私は聞きました。
「一回顔を見せとかないとうるさそうな肉親がいるのでね。・・ま、それとエリーゼ様に頼まれたし。でも、私はしばらくしたらヒンガリーラントに帰るよ。」
「途中の道に盗賊やクマが出ても、ルネがいてくれりゃ安心だわさ。」
「任せてください。叔母様が囮になって喰われてくれてる間にトドメ刺しますから。」
「ヘレーネ様。ヴァイスネーヴェルラントに行くのに乗る馬車はあちらです。ささ、行きましょう。」
とクラリッサさんが言ってくれます。
国境を越える事に感じていた不安が氷のように溶けて行きました。クラリッサさんにも、ジークルーネ様にもエリーゼ様にも感謝しかありません。
「どうか。お元気で。御多幸をお祈りいたします。」
と司法省の方が言ってくださいました。
「ありがとうございます。ここまでお世話になりました。」
と私は言って、エミール達と一緒に歩き始めました。
「さようなら。」
と私は小さな声でつぶやきました。さようなら、ヒンガリーラント。私の故郷。
そして私は、新しい人生を行く為に進み始めました。
ヘレーネ視点の話は終了です。
ジークルーネはヘレーネを送りに行ったのと、ジークハルトに顔を見せに行っただけで、ちゃんとヒンガリーラントに戻ります。
フットワークの軽いデリクが、レベッカからの手紙を届けに行ったりして、レベッカとヘレーネの交流は今後も続いていきます。
 




