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聖女エリカ(1)

聖女エリカが生きていたのは300年以上前。

民族独立戦争が、激しかった時代である。


本名は、リーゼロッテ、フォン、アイベルンシュタット。

祖父が、ゾンネラントの辺境伯で、父親は辺境伯の次男だった。つまり彼女は、ゾンネラントの貴族だった。


名前が『リーゼロッテ』なら、通常、愛称は『リゼ』か『ロッテ』である。

なのに、なぜ彼女は『エリカ』と呼ばれたのか?

その理由は諸説あって定かではない。

エリカの花が好きだったからとか、早くに亡くした友人の名前だったから、などなど。

真実は今を持って謎である。今まで謎だったのだから、たぶん今後永遠に謎のままであろう。


エリカが『聖女』と呼ばれた理由。

それは彼女が、歴史上最も傑出した、偉大な、至高の

『看護婦』

だったからである。


当時、看護婦の社会的地位は、どん底まで低かった。

そもそもゾンネラントは、徹底した男尊女卑社会。

女は家に閉じこもっていなければならず、人前に出て労働をするというだけで女性はひどく蔑まれた。


その中でも特に、裸や死体に触れ、常に感染症の危険にさらされる看護婦という職業は、最下層の女達がなるものであり、娼婦にすらなる事のできない年増や醜女が仕方なくつく仕事とされていたのである。


そうみなされている看護婦に、若い貴族の娘がなると言いだしたのだ。

家族は大パニックだ。

父親は怒り狂い、母親は泣き叫んだ。一族の名誉を守る為、死んでもらうと伯父は剣を振り回し、乳母は死んでお詫びをすると泣き崩れた。

それでも、エリカの意思は変わらなかった。

「どうしても、看護婦なんぞになると言うなら、この私を倒してから行くがいい!」と祖父は言い、エリカは夢を叶え、祖父は二ヶ月入院した。




15歳だった少女が、家出してまず活動を始めた場所は助産院だった。

当時、妊婦や新生児の死亡率は恐ろしいほどの高さだった。

エリカは、昔からの知人が運営していた助産院で、まず『衛生』という概念を徹底させた。


当時、衛生という概念自体が存在しなかった。

医者は、消毒していない器具を使い回し、他の患者が使ったガーゼや包帯をリサイクルした。

トイレに行った後、手を洗わずに患者の診察をし、死体が間違いなく死んでいるのを確認した後、手も洗わずに、生きた患者の手術をするという状況だった。


そのような医療体制で、よく人類が絶滅しなかったものだと、人類の持つポテンシャルに感心してしまう。


そんな状況の助産院に、エリカは衛生という考え方を持ち込んだ。

つまるところ、掃除、洗濯、手洗い、うがい、消毒を行ったのである。


結果はすぐに出た。助産院での死亡率が激減したのである。


噂は口コミで広がった。あそこの助産師と看護婦は腕が良いと、評判になると、妊婦が助産院に殺到した。


エリカを信頼した母親達は、その後子供が熱を出しても、お腹を壊してもエリカに治療を相談した。


助産院で働きながら、エリカは貧民街や花街での治療も行った。

貧しくて医者に診てもらえない人達の診察と治療を無償で行ったのだ。


その人達の薬代を稼ぐ為、それと自分自身の生活費を稼ぐ為、エリカは化粧水やリップクリーム、石鹸を自作し販売した。


そう、なんと!

エリカ様以前の時代には、石鹸という物が存在しなかったのである!


大貴族や王様は、そもそも一度着た服は二度着ない。

中流階級の人々でさえ、洗濯するのは水オンリー。立ちこめる生乾き臭に対処する為、熱湯に浸けるというのがせいぜいだった。


風呂といえば、桶にはったお湯に浸かるだけ。大多数の人はそれさえせず、濡れた布で体を拭くだけだった。

当然、体臭はすごい事になりそうだが、皆が同じくらい臭かったら、あまり気にしないでも済んだのだろう。一部の意識高い系の人達は、体や服に香水や香油を塗りまくり、更なる公害の発生源と化していたようだ。



実は私も文子だった頃、石鹸を手作りした事がある。

エコだか、リサイクルだか、エスディージーズだかよくわからないが、養護施設の子ども達は心美しきボランティアの人達と一緒に、周期的にそういう地球に優しい活動をしなければならなかったのだ。

もちろん強制ではなかったけど、激しく抵抗するような事でもなかったしね。


その時は、古い油と苛性ソーダを混ぜて石鹸を作った。

苛性ソーダは、強アルカリ性の劇物で、非常に危険な物質なので、その辺に適当に捨てると法律で罰せられてしまう。石鹸を作る時、取り扱うのが結構怖かったのを覚えている。


日本でなら、ドラッグストアで買う事のできる苛性ソーダだが、この世界ではどこにも売っていない。そもそも存在していない。

苛性ソーダは、化学工場で作られる科学の進歩の産物だからだ。

なのでエリカは、苛性ソーダこと水酸化ナトリウムの親戚である炭酸水素ナトリウム、通称『重曹』で代用をした。

重曹もまた、化学工場で作られる科学技術の結晶ではあるが、天然の鉱物を精製して作る事も可能らしい。

エリカがこの世に生み出した石鹸は、服や体の汚れが今までと比べ物にならないほどよく落ち、しかも病気を予防するという事で、飛ぶように売れたという。


他にもエリカは、当時死の病とされていた脚気、壊血病、ペラグラ、ウェルニッケ脳症といった病を食事療法によって解決していった。

カビや放線菌から、全く新しい薬を作り出したりもした。

エリカの看護知識も技術も、神がかっていると評判になった。実際彼女は、誰に教えられたわけでもないのに、注射を打ったり切り傷を縫合したりする事ができたのだという。


家を出て10年が経った頃には、国内だけでなく、西大陸全域に彼女の評判が知れ渡っていたのだそうだ。


そんな彼女の人生が、転換する時が来た。


原因は戦争だった。


民族独立戦争自体は、エリカが生まれる遥か以前から始まっていた。

彼女が青春を過ごした頃は、戦争が終わる直前だった。

『太陽の国』という意味のゾンネラントは落日の時を迎えており、帝国に忠誠を誓っていた貴族達の社会は混乱していた。

当時戦争は、職業軍人によって行われていたが、やがて兵士が足りなくなり、平民が強制的に徴兵された。

それでも足りなくなると、貴族達からも徴兵された。

エリカの実家、アイベルンシュタット家も例外ではなかった。

年の離れた病弱な弟が徴兵された事を知ったエリカは、愛する弟の代わりに戦地へ行く事を決意する。


エリカは衛生兵として出征した。この時エリカは27歳だった。

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